引っ越しのあと
診療所に戻って暮葉の様子を早く見たかったが、迷ってピア・スノウの事務所に顔を出した。診療所に戻ったらもう出たくなくなる。ピアの世話になったし、仕事だ。これから働くのだから、人間関係に気を遣うのも良い手だろう。
翼がピアに連れられて事務所を出たのは昼前だ。そのときはちょうど、環の知り合いが大勢、掃除やら準備やらの手伝いに来たところだった。
あれからどうなっただろう。出るときに見たが、建物の中には本当に家具ひとつなく、埃が積もっていた。なにか腹に入れてくれば良かったかもしれない。
大通りからドアを開け中を覗く。出るときは暗くすすけていた室内は白く、明るい。部屋の中央に、やけに大きな机が陣取っている。その奥に器具が立ち並んでいて、そのまた奥にアレイシアの頭が見えた。右側の壁に沿って机が二つ並んでいる。その隙間や、壁という壁が棚に覆われていて、半分ほどが埋まっていた。
一方左側には、他の机と違うつやつやとしたテーブル、ソファーのセットがある。その奥は、斜めに上向きの天井になっている。階段だ。
「おかえりなさい。待って、あと少しで夕食だから」
座ってて。飛んでくる声に従っていいものか。座るって。この明らかに来客用のソファーだろうか。テーブルには紙袋がごろごろ転がっている。ぱんぱんだったり、油染みがあるところから察するに、この中身が夕食なのだろう。
ご馳走になるのは悪い気がする。暮葉は今頃あの甘ったるいアップルパイ漬けにされているというのに。だが、香ばしかったり酸っぱかったりするにおいが腹を鳴らす。
「東たちはあとちょっとで上がってくると思うから」
手持ち無沙汰にしていると、盆にポットを載せたアレイシアが机の間を縫ってやってきた。肩に動物がしがみついている。ぬいぐるみみたいだ。まるまるとした身体、顔、尻尾。おまけのようについている小さな翼はくろく、全身はしろい。
「ああ、このこ? うちが、っていうかピアが飼ってる竜よ。一匹だけ着いて来ちゃって」
カップを押しつけられる。妙なにおいがするお茶だ。緑色で茶色で、ほとんど味がしないお湯なのに、ほのかに酸っぱく、後味が薬に似て苦い。
一匹だけ。そういえば、元の事務所はエイローテではなく、どこか遠い島にあるのだと聞いた。竜。暮葉が不意に呼び出してしまう竜とは感じが違う。暮葉の方の竜、ナディアはもっととげとげしい感じがする。鱗があるし、きらきらしている。アレイシアにしがみつく竜は、どちらかというともちもちしていそうだった。なんとなく猫っぽい。
「こういう竜もいるんですか」
「このこは、ぬいぐるみの真似をしてるだけ。竜はみんなああいうかたちよ。知ってる通りの」
きう。竜は鳴き声らしきものをあげるが、アレイシアは紙袋の中身の確認に夢中だ。
「まったく、誰か一人くらい雇われてくれてもよかったのに」
ぶつぶつ聞こえる文句に答えようがない。なんとなく理由はわかるような気がした。手伝いに来た人たちは皆男性で、翼がちらりと見た、ここに着いたばかりの時点で誰もがアレイシアに下心を抱いているのが丸わかりだった。鼻の下が伸びている者、じっと眼で追う者、良いところを見せようとする者。その彼らを見る東の眼の鋭さといったらなかった。彼に追い払われたのは間違いがないだろう。それをアレイシアに伝えるのは野暮な気がする。
「そのこ、なんていうんですか、名前。かわいいですね」
「無いわよ」
「えっ」
「十匹近くいるんだもの、見分けなんてつかないからしないの。竜は竜よ。それでじゅうぶん」
「名乗ったりはしないんですか。ナディアは、自分から言ってきましたけど」
紙袋の中身を皿に並べていたアレイシアの手が止まった。止まったことはわかるが、紙袋の山の向こうで顔は見えない。竜が、袋から出されたばかりの、恐らくドーナツのにおいを嗅いでぺろぺろ舐め始める。
「それは特別なの。特別な名前だから」
アレイシアの手が竜を叩いた。竜はびくっとして、反射的にドーナツを丸呑みにする。喉に詰まったが、呑んだ。
特別。ナディアが特別だというのは、翼にもなんとなくわかる。
「そうね、レイは竜たらしだから」
ピアだ。テーブルの向こう、アレイシアの数歩後ろに立っている。いつの間に地下室から上がってきていたのだろう。気がつかなかった。
しかも意味がわからない。ナディアが特別だということと、アレイシアが竜に好かれやすいらしいということに繋がりはないように思えた。
「その竜を召喚する。四日後ね」
翼が疑問を口にするより先に、ピアが宣言した。
ピアの決定で仲良く夕食どころではなくなってしまった。アレイシアが猛反対したのだ。だが、ピアと東の間で既に決定事項であるらしかった。アレイシアがいくら声を上げても覆しようがない。
気まずくなって、翼は夕食を辞退した。帰り際に紙袋をふたつ貰うことができたから、よしとする。中身は鶏肉を挟んだパンのようなものだ。
診療所に朱伊の姿はなかった。だが甘く香ばしいにおいがずっしりと二階から落ちてきて、息苦しい。朱伊がまたアップルパイを焼いている。彼が朝から生地の仕込みを始め、リンゴを山ほど剥く様子を見て、翼はかなり引いていた。医者をやっているよりアップルパイを焼いている時間の方が長い。前からそうだったが、過激になっているみたいだった。颯と別れたらしいから、それでだろう。
高い声が聞こえる。声を辿っていくと、青髪の少女が暮葉と笑い合っていた。
おかえりなさい。律儀に会釈する環ーーイオレは昨日の紅い上着を着ておらず、長い青髪をポニーテールにしている。昨日の印象とは違い活動的に見え、おそらくまだ十五、六のはずなのに二十歳をつい最近超えたばかりの暮葉よりずっと落ち着いた空気を纏っていた。
「おかえり。どこ行ってたの?」
「手続きとかいろいろ。魔導師の、先生が面倒を見てくれて」
イオレの名前を言いそうになって、誤魔化す。翼は彼女が生まれたときから知っているから、どうもこの名前で呼ぶのに慣れない。小さいころ呼んでいた呼び名がぽろりと出てきそうだった。
暮葉の顔色は普段通りに戻っている。アップルパイを焼いてばかりいても、朱伊は医者らしい。
イオレの視線で、無意識に暮葉へ手を伸ばしていたことに気がついた。行き先に迷って結局暮葉の頭頂部に行き着く。ぐりぐり、押しつけるように強めに頭を撫でるのは、、この手がどこかまずいところに行かないようにするためだ。
「いたいいたいいたい縮む!」
暮葉は半ば本気の声を出す。彼女はもうちょっとくらい縮んでも、それはそれで可愛いと思う。むしろちょうどいい。手のひらに感じる髪の感覚が昨日の状態を思い出させるが、じんわり伝わってくる温かさは昨日にはなかったものだ。回復している。それが嬉しくて、もう一方の手も動き出しそうだ。
「暮葉さん、ずいぶん良くなったでしょ。お兄さんが心配して出してくれないみたいだけど」
そう! そうなの! イオレの言葉を暮葉が全力で支持する。どさくさに紛れて頭を撫でていていた手を振り払われてしまった。
「あの人、私のこと苦手みたい。私が来たらどこかに行っちゃった」
ねー。暮葉が相づちを打ち、二人はくすくす笑い合う。イオレは髪色こそ違っても、顔立ちは母親そっくりだ。細部に父親の名残がなくはないものの、颯を愛してやまない朱伊にしては意外な事実だった。
「イオレちゃん、颯さんにそっくりなのにね」
暮葉にはイオレで通しているのか。なんとなく恋人に嘘をつくみたいに思えてしまって、後ろめたい。
「そうですか? もしかしたら父を思い出すのかもしれないですね」
イオレは笑顔を愛想笑いに差し替えたみたいだった。
分けてもらった夕食を三人で食べた。ピアがナディアの召還を四日後に予定していることを伝えても、暮葉はきょとんとするばかり、一方イオレは顔を強ばらせて、師匠の元へすっ飛んでいった。
暮葉は颯に苦手意識を持っているが娘のイオレにはそんなこともないみたいだったし、イオレも兄妹同然の翼に対するのと同じ位親しげにしようと努めているみたいだった。ただ、朱伊に対してなのか、母親に対してなのか、苦手意識のようなものを持っているらしいことが気になった。
翌日、仕事の話をすると言っていたピアはそれをイオレに丸投げした。イオレはそれをいつものことだと言い、翼とイオレはピアの取引先を巡った。その道すがら、昨日気にかかっていたことを聞いてみる。
「朱伊って人が嫌いなだけ。暮葉さんはお兄さん好きみたいだし、態度に出すのはどうかと思って」
あっけらかんとした口ぶりのわりに表情は歪んでいる。
「あっちも私を嫌ってるみたいだからいいけど。父さんと同じ色で良かったって思ったの初めて」
青い髪は翼と兄の一族特有のものだ。両親のどちらかが一族の者だと必ず青い髪になる。確かに、他の男の色をした颯など朱伊には見たくも無いものだろう。イオレの口ぶりからすると、嫌いな人間に避けられる理由が、父親のおかげだというのも同じ位嫌らしい。
「イオレもあいつが嫌いなんだ。父親なのに」
「そりゃあね。新しい母親だなんて女の人をとっかえひっかえして。さいってい」
想像したくないのにできてしまった。十代の頃からそうだったのだから、中年になっても変わらないようだ。興味は全くないが、姪っ子がそれで嫌な思いをしているのだから気にはなる。
「まあでも最近は決まった人がいるみたいだけど。暮葉さんにちょっと似てる。天真爛漫で可愛らしい人」
イオレはうつむきかげんにぽつり、ぽつり言う。
「でも酷い嘘つき」
強い口調で吐き捨てた。それがどんな意味なのか、聞こうとする前に、イオレは表情をすげ替えて翼を見上げる。この子はいつの間にこんなことが出来るようになったんだろう。
「アレイシアさんのこと、誤解しないでほしいの」
話が飛んだ。イオレとしては不自然でも話題を逸らしたいのだろう。心配ではあるものの、翼は話を合わせた。
「ああいう状況だったからであって、普段はあんな人じゃないから」
イオレがやけに必死に弁明するからぴんときた。
「尊敬してるんだな」
「そそそそ尊敬だなんて、レイさんは先生のお助手さんで私が勝手に兄弟弟子みたいに思ってるだけで」
顔を真っ赤にして矢継ぎ早に言うものの、結論は変わらない。アレイシアはイオレにとって尊敬に値する人なのだ。
「そっか。じゃああそんな人の下で働けるなんて僕はラッキーだな」
ぐりぐり、青い頭をなで回す。イオレがむくれるのだけは年相応で、微笑ましかった。
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