東の主-1

***

 あずまがピアを見つけることが出来たのは、しろい竜が薄まり始めたときだった。島から着いてきた、小さな竜の一匹が立ちすくむアレイシア目がけすっ飛んでいく。そのアレイシアの向こう、王宮からよたよたと出てきたのが環とピアだ。

 アレイシアは後ずさりし階段を踏み外したまま立っていたが、はっと周りを見回した。そして階段を駆け下り人波の中へ飛び込んでいってしまう。

 あの竜。消えたほうの竜は、昨日落ちてきた竜と似ている。昨日のものよりもずっと濃い。あれが、もしかして。

 東も周りを見回したが、アレイシアの姿は頭のてっぺんさえ見えない。自分も人波の中にいるのだから当然だ。悔しいことに、背がそんなに高くない。

 彼女が、婚約者たる竜と出会ってしまったら。

 ぞっとする。そんなことになったら、あの竜をばらばらにするだけでは足りない。彼女が、獣なんかのものになんか。

 階段の上、崩れ始めた王宮の真ん前の紅い上着の二人が立ち止まった。ピアが環に寄りかかっている。

 ああ、よりによって今。

 東は手を挙げた。環と眼が合う。

 人をかき分け王宮の方へ向かった。反対方向へ行きたい。アレイシアは、今彼女を追う竜に出会っているかもしれないのに。今彼女のところへ飛んでいけるだけの勇気があったら、そもそも彼女には振られなかっただろうか。そうだ。そんな勇気はない。選ぶべきは常に主であるべき。これが正しい。

 人の流れに逆らって、階段下にたどり着いたとき、彼女はピアをほとんど引き摺っていた。

「あ、あの、先生をお願いします。急用ができました」

 環は眼を合わせこそするものの、上ずった声で早口に言い切った。ピアを押しつけて人混みに飛び込んでいく。その先に、きんいろの頭頂が見えた。あおい頭――環と同じ色の頭もその近くにある。東はそちらに身体を向けたが、腕の中のピアがやけに重い。見れば、ピアの瞼は閉じている。土気色の顔、なにより、必要なものを手放し過ぎている。慌てて代わりに掴んだ。

 魔術で身体を固定させている天界人にとって、魔術は呼吸だ。特にピアは、普通の天界人と違い肉体だけはあるものの、その肉体と本体――中身、魂――を結びつけるために存在を固定するための魔術式が桁外れに多い。この生きづらい身体を与え、地上に縛り付けた〝皿〟が、こういうとき憎くてたまらない。

 ピアの代わりに彼女の存在を固定しながら、移動先を探す。前に崩れる王宮、後ろは塊になった人の波だ。人混みの端、建物の縁を辿っていけば、中を通るよりは安全だろう。だが、どこへ行く? 宿泊予定は王宮の関連施設だった。この様子ではそれどころではない。そもそも天界人である自分は入れてもらえないじゃないか。

 見回したところで、見知った顔を見つけた。颯だ。王宮の端を、急ぐふうもなく歩いている。

 眼が合った。

 逃げられる。直感だ。颯は身を翻して走って行ってしまうだろう。

 行くな。待て。それは困る。足では間に合わない。ピアを抱き上げもできないのだ。

 矢、いや、刃物のイメージ。簡単な魔術は目に見える物質を形作ることはまれだ。ただ鋭く刺すもの。そんなようなものを、今まさにこちらへ背を向けた颯へ投げた。自分の身体自身へ命令するよりも簡単だ。呼吸よりもたやすい。ただこの空間にある、魔術の欠片――アレイシアなんかが魔術粒子と呼ぶものに命令するだけ。なにか刺すもの。標的。飛ぶこと。

 仮に当たったとして傷にもならないだろう。硬く、鋭くなるようには指示していない。ただ刺すもの、という指示の感覚がどう出てくるかは分からない。天界人にとって魔術粒子の指示と操作は簡単に過ぎるから、やり過ぎになってしまうことは多い。地上の人間と比べればなおのことだ。

 颯はこちらへ背を向けるために出した右足をそのままに、左足が地面を蹴った。駆け出そうとしていた身体を、反対方向へ無理に捻る動きだ。駆け出した右足を軸にした振り返りは、腰に吊った剣を抜き振り抜く腕の動きもあって、上半身がのけぞるものになる。

 東の放った「刺すもの」が、剣にはじき返された。どっ、颯が頭から地面に落ちる。

 足止めは成功だ。まさか彼女が魔術に対峙するとは思っていなかったが。

 ピアを引き摺り階段を上って、背負う。存在の固定にかかる魔術粒子のリソースが東にもぎりぎりだ。どこかで落ち着いて術式を組み替えるか、外部に補助術式をくみ上げて繋げる必要がある。魔術に必要なのは気持ちの余裕だ。

 倒れた颯に駆け寄る。彼女はこちらを睨んだ。微かに獣のにおいがする。

「安全な場所に連れて行ってほしい」

「……人にものを頼む態度じゃないな」

 颯は舌打ちをひとつ。だが、東を促して王宮の端を伝い、大通りと大通りの間、細い裏道へ先導した。

「私が連れてこられる場所はこんな所しかないぞ。朱伊の診療所だ」

 知っているだろう。颯の声は淡々としている。

 朱伊皐月。ピアは会ったことがあるらしい、颯の恋人だ。先日立ち聞きしたときには別れたと言っていた。颯と知り合ってから、彼女の身辺を調べたところでは、朱伊皐月は書類上颯の夫であり、環の父親である。そして医者だ。外の人間が診療所など持てるわけもない。彼の診療所は違法なものだ。

「言っておくが、罠にはめたとかそういう訳じゃない。私もできれば連れて行きたくないんだ。だが仕方が無いだろう、その様子じゃあ」

 颯は前を歩きながら、ちらちらとこちらを振り返る。

 彼女は、東と話すときに限ってよそよそしい。上手く操ることができない男を相手にするのは慣れない様だった。東からしても、颯は異性として魅力を感じなかった。確かに美しい女性だ。凛として強かで、底の知れない面もある。だががさつで、他人に対して支配的に思えるところが受け入れられない。できれば顔を合せたくない人間だった。だがピアは彼女のそういうところが好きで友達でいるらしいから、最低限の付き合いで済ませてきた。

 そもそも東は、颯を敵だとさえ思っている。

 ピアは謀略というものに利用され続けてきた。だから、そういうものから彼女を守るのは東の仕事だと、東は信じている。だから颯との距離も関係も、このくらいが適正だ。いや、なれ合いすぎているかもしれない。

「予定が狂ったって?」

「そんなところだ。だが害を及ぼしたりはしない。今も、これからもな」

 本当だろうか。東は鼻を鳴らして聞かなかったことにした。この女は嘘をつく。

 朱伊皐月の診療所には、先客がいた。アレイシアと環だ。そして、人波の中に見えたあおい頭の人間ともうひとり。

 診療所の一階、カーテンを隔てて並んだベッドにピアを横たえた。アレイシアが気をもんで着いてきたが、手伝ってもらうことはない。地上の人間である彼女と、〝皿〟で生まれ育ったピアとでは魔術が噛み合わない。ピアの世話を出来るのは、天界人である東だけだ。

 処置が落ち着くまで出ていて欲しいと伝えると、彼女はおずおずとカーテンの外へ出て行った。環と話す声が聞こえ、二階からは颯が声を荒げているのが聞こえる。

 落ち着いて集中すれば、ピアの存在固定を代わることは慣れた作業だ。だが今日は、これまでに増してピアの消耗が激しいことが気にかかった。

 大規模な魔術を連続使用した直後などは、こういった状態になることがある。だが今回は、そんなもの使っていない。大規模な魔術を使えば必ず残り香があるものだが、それがない。

 ここまで消耗した原因が分からないことが、ひどく気になる。ピアはずっと生かされてきた。〝皿〟に生み出され、普通の天界人とは異なる、身体と中身の合わない生を強いられ地上での役割を与えられ、果たしてきた。その限界。彼女は決して口に出さないが、ずっと恐れてきたことが、来てしまったのだとしたら。

「なんて顔をしてるの」

 はっとした。ピアの声だ。か細いが、ピアの声だった。

「呆気ないなあ……」

 恐ろしいことに、竜の墜落はそれを裏付けている。

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