竜とアップルパイ

 彼が、というより、彼の知っていた番地まで環が先導したどり着いたのは、大通りから一本跨いだ細い路地沿いの診療所だった。埃ですすけた門構えは暗い。一般的なエイローテの住居だが、看板は一般的な診療所のものだ。休診日と診療時間が記されている。正規ぶっているが違法だろう。

 中には男がひとり。彼はくろい髪をしている。黒縁の眼鏡、眼鏡にかかる前髪、薄汚れた白衣、皺の寄ったシャツ。翼と並ぶと、彼よりも背が低い。未だ手を掴んだままの女性と同じ位だろう。長身とは言いがたい。

「まずは、妹の手を離してもらえますか」

 彼は表情はにこやかに、だが声は驚くほど冷たく、こちらへ向いた。

 ここまで来ていなくなるということはあるまい。もしものときは環もいる。アレイシアは手を離した。

「ご無礼を謝ります。私はアレイシア。環――イオレの魔術の師の助手です。先ほど、そこの彼女が、竜を召喚したことについてお話を」

「アレイシアさん。ものごとには順序があるでしょう。まずは自己紹介からでどうです? お茶でも飲みながら」

 ちょうどアップルパイを焼いたところなんですよ。くろ髪の男は、今度こそ人なつっこく顔をほころばせた。

 調子が狂う。なんだろう、この人。

「はじめまして。朱伊あかい 皐月といいます。まだ、書類上では環の父親ということになっていますね」

「紙の上ではね」

 環の声はとげとげしい。朱伊をきつく睨んでさえいる。本人はそれを気にしたふうもない。つまり、彼は書類上では颯の夫でもあるようだ。まだ。

「あなたがさっきまで腕を掴んでいたのが、妹の暮葉くれはです」

 彼は妹の手首をなでさすって、痣になっていないか、尋ねる声は猫なで声だ。なるほど。そこだけはわかりやすい男だ。翼を徹頭徹尾無視しているのも納得する。

「お兄ちゃん、翼は?」

「えっ?」

 妹に話を振られても無視だ。いびり方がねちっこい。

「いえ、大丈夫です。翼さんはさっき、環に紹介してもらったので」

 朱伊は暮葉の手を引いて、アレイシアを二階へ招いた。足が迷う。

 あの竜を召喚したことは問いただしたい。魔術師としての興味もある。立ち話にしては長くなるだろう。だが、招かれて長居している事態でもない。ピアを、上司を置いてきている。早く戻るべきだ。せめて連絡だけでもしてくるんだった。

 ピアに嫌われてしまう。東に軽蔑されるのはもう今更だ。彼とはそれ位の距離がちょうどいいだろう。

「長居はしません。私が聞きたいのは、竜のことです。暮葉さんが召喚した」

 椅子を勧められたが断った。座った暮葉は首を傾げ、翼を見上げる。その翼は困り顔だ。そして恐るべき事に、本当にアップルパイが運ばれてきた。生地の香ばしさ、熱気、ねっとりとした甘いにおい。朱伊が言った通り焼きたてだ。

 薄暗い、灰色の部屋でアップルパイだけがみずみずしい。

「うーんと、ナディアのことはよく分からないんです」

「よく分からない?」

 名前が出てきて頭がかっとなる。あの竜の名前。初めて聞いた。初めて知った。こんなにも無遠慮に、なんでもない、どうでもよいように、口から出てくるだなんて。

 意図せず声はとげとげしくなる。暮葉は縮こまった。

「本当です。どうして召喚できるのかとか、なんでナディアなのかとか、わかるためにこっちに来て」

「そうなんですよ。俺と颯は先にこっちに来てたけど、それはこの子を迎え入れるためだったので」

 朱伊が妹の台詞を引き継いだ。アップルパイを皿に取り分け始める。五人分。食べないと言っているのに。この人は苦手だ。

 颯が環絡みでなにか企んでいるように見えていたのは、こういうことだったのだろうか。この、朱伊 暮葉という女性のため。竜を召喚できる、外の世界の人間のため。

「あの竜を、婚約者だと言っていたのはどういう意味ですか?」

 椅子には座っているが、テーブルからは離れた翼が声を上げる。

「それ! それ私も気になってた! ロマンチック!」

 暮葉ははしゃいだ声を上げるが、アレイシアは言葉に詰まった。傍らに立つ環の視線が痛い。彼女も知らないことだ。ピアと東だけが知っている。

「私の生まれた土地では、竜が花嫁を選ぶ慣習があっただけです」

 山奥の小さな村の、廃れるべき慣習だ。アレイシアの母も姉も叔母も姪も、皆竜に選ばれ嫁いでいって死んだ。竜にとっての婚姻はただの食事、摂取に過ぎない。気に入ったものを丸呑みにして、所有して悦ぶ。

「私は魔術の研究をするために、婚約者の竜から逃げ続けてきました」

 ピアは魔導師の中で最も竜に詳しい。あの〝皿〟から降りてきた、世界の生き字引だ。だから彼女を頼って、彼女は守ってくれた。守り続けてくれる。魔術を志す限りずっと。

「結婚したら、一緒にいたら、駄目なんですか」

 声は環のものだ。

「それができないから、知りたいんです。あなた達が、なぜこの世界にいた竜と繋がりを持っているのか」

 あの竜の仲間なのか。竜が人間を仲間に? 馬鹿らしい。でもこの言葉がしっくりくる。この人たちは、あの竜を私の前に連れてくるためにここにいるのか。それをはっきりさせたい。

「どちらかと言えば、敵です」

「どちらかと言えば?」

 朱伊の言葉に翼が突っかかるが、朱伊は無視した。

「暮葉はナディアが出てくることを制御できない。それがこの子に負担を掛けるので、お引き取り願いたい。出来れば話し合いで。そう、我々は思っていますね」

 出来れば話し合いで。竜が「出てくる」ことを制御できない。

 朱伊の言うことは正しいだろう。閉ざされたこの、一つきりの大陸だけの世界の外側で生まれ育った人間だ。魔術はこの世界の中にしか存在しない。そんな魔術のない世界で生きてきた人間が、魔術の結晶たる竜の、取り扱いなど知るはずがない。

「颯が、ピア・スノウとお近づきになったのはこのためでした。かの魔導師は竜に詳しいと有名だ」

「彼女は、そういう動機を嫌いますけど」

 そうらしいですね。朱伊はアップルパイにフォークを刺した。切り崩し始める。

 この人たち――朱伊と颯、暮葉と翼、そして環――は仲間であるようで、その割には関係に距離がある。この場で一番事態を把握し、操っているのは朱伊だろう。この場にはいないが、彼の言うままに従っているだろう颯、翼と環はどうにか新しい道をつけようとして、どうにもなっていないようだ。そして当事者である暮葉が、最も分かっていない。

 すぐにばらばらになる、危険な集団だ。面倒は避けたい。関わらずにいたいものだ。

「アレイシアさん。俺たちとあなたは手を取り合えると思うんですよ。暮葉がナディアを制御することは、あなたにとってナディアの脅威度を下げることになるでしょ」

「それは、あの竜をあなた方が利用しなければの話しです」

 現実的じゃない。竜は魔術の結晶――厳密には異なるが――、特に外から来た、魔術を持たない彼らにしてみれば何でも可能にできる力だ。

「へえ、そうですか。まあ考えてみて下さい。お互い悪い話じゃない。予定とは違いますけど」

 それにほら、医者がいると便利でしょう。

 朱伊はぽんぽんと言葉を並べ立てる。軽薄なのでもない。物静かな、落ち着いた男だ。地味な男。次から次へ、用意していた言葉の中で最適解を選び出してくる。怖い。気味の悪い男だ。軽薄に見えて言葉の少ない東とは正反対に思えた。


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