第二部「国境」

第一章「国境」

不審

 鋭利で直線的なかたちをしているのに、触れるとしなやかで、ずっと触っていたくなった。ざらついているのに肌に刺さる感覚はない。このこそばゆさが、手のひらにずっと残っている。また触りたい。もっと触っていたい。

 あの竜に初めて出会ったのは十二歳の誕生日だった。ちょうど一番上の姉が竜に嫁いでいった、それを見た次の日。眠れなくて、明るくなるのを待って外に出た。

 輪郭のぼやけた、染みのような影がじっと座っていた。朝露のひんやりした、じっとりした、湿った土のにおい、くるぶしを掠める冷たい草の感触。一歩二歩、近付くとわかる。竜だ。まくろい肌の表面が朝日を反射して輝く。

 しろく眩しい朝日を背にした竜は、アレイシアを見て微笑んだ。ずっと待っていたみたいに、その眼が一挙一動を追っているのがわかった。

 恐ろしい。でもこれは恐怖ではない。自分が目にするには尊すぎる。

 手を伸ばしたことは、かたい手触りを感じて気がついた。手のひらがじんわり熱を持つ。手を動かすと、感触は遠のいて行った。竜が身を引いたのだ。アレイシアはただの一歩も踏み出せないまま、竜が朝日の中へ溶けていくさまを見ていた。ほんの小さな、一点の染みが消えて無くなってしまうまで。

 アレイシアには魔術が残された。竜が置き土産に少女の中へ残していった、魔術に必要なあらゆるものは、未だこの身に宿っている。

 取り返されるのを待つか、自ら返すか。

 アレイシアは右の手のひらを握ったり開いたりしていた。思い出すのはずっと昔のことだ。はじまりのこと。この手のひらが十数年前にあの竜に触れたこと。あの感覚も、未だこの手のひらに宿っている。

「大丈夫ですか」

 押し殺した声は向かいに座る翼のものだ。ごとごと、揺れる馬車の荷台で、彼に恋人である暮葉がぴったり寄り添っている。幌だけの荷台は肌寒い。防寒具はあり合わせから引っかけてきた外套だけ、荷台にもこの三人だけだった。

「ちょっとぼうっとしただけ。どこまで話したっけ?」

 左手は広げた地図の片側を持っている。大陸がひとつ、大陸の東側に小島がいくつか描かれた地図だ。アレイシアがピアと東と暮らしていた、ピアの事務所があったのはこの小島のひとつだった。

 この国――イーゼが王国制になったのはこの数十年のことだ。現在大陸は大きく二分されているが、それはイーゼ王国が小国を次々吸収していったことによる。そのために国境は不明瞭で、やっと地図に線が引かれたのが去年からだろうか。

 イーゼ王国が次々小国をまとめあげるから、隣国は戦々恐々としてイーゼ王国の国境を侵し、イーゼ王国もまたそれに対抗するため小国を吸収する。その繰り返しだった。争うことに疲れた両国が手打ちにしたのが、ここ数年の出来事だった。

 アレイシアの故郷も元は小さな国のまた小さな村だが、イーゼ王国に吸収されたと思ったらいつの間にか隣国の領土に含まれていた。

「目的地まで」

 翼が几帳面に答える。暮葉から向けられる眼が心配そうだ。

「そう、ありがとう。大丈夫よ、暮葉さん。昔のことを思い出していただけ。ピア達の目的地が多分、私の故郷だから」

「アレイシアさんの?」

「それって」

「竜が花嫁を選ぶ慣習がある小さな村。ナ――暮葉さんの召喚するあの竜に、会いに行くはず。あそこになら確実にいると思う」

 暮葉の召喚する竜、アレイシアを追いかけてくる婚約者たる竜、幼い日に触れたあの竜の名前は知っていても口にできなかった。竜は竜。それでじゅうぶんじゃないか。

「ピアさんたちは、竜の墜落の原因調査をしているんですよね? あの、天界人って人たちと魔術師団と一緒に」

「そうよ。天界人が出てきているから、竜に直接聞きに行くことは確実。竜も天界人も、魔術で身体をつくっているから繋がりが深いみたい。竜に関することは天界が握っていることが多いの」

「でも、じゃあ、それなら、ナディアじゃなくったって」

「あの竜じゃなきゃ駄目なのよ。あの竜は特別だから。だからわざわざ、天界人が降りてきて会いに行くんでしょう。私の婚約者が、あの竜だって知れたから、根城が知れたのよ」

 召喚されるような竜には身体がない。召喚する魔術師が身体を構成させるためだ。身体がないからこそ、魔術師が召喚できるとも言える。

 そして身体がないから、どこにいるのかが分からない。どこかには存在しているはずだ。だが人の眼では見えないし、知覚できない。人がそういった竜に会うためには召喚するしかない。

 だが特定の根城を持っているとするなら別だ。

 アレイシアの故郷がなにがしかの竜の根城であることはピアも知っていただろう。だがそれが、『ナディア』だとは知らなかった。暮葉が召喚した竜が、アレイシアの婚約者だったから、暮葉があの竜を『ナディア』と呼んだから、だから知れたのだ。

「私の故郷は、今は隣国の領地内なの。ピア達なら国境を越えられるでしょうけど私たちには無理だから、国境を越える前に追いついて説得するつもり」

 かつて東の激戦区と呼ばれた地域を抜ける前に会うことができるかどうか。

 アレイシアはこの無茶に自身の短い未来をもう賭けてしまった。

「追いつけますか」

「やってできないことなんてない。でしょ」

 馬車が急停車する。幌越しに松明の明かりと人影が見え隠れしている。荷物の向こうで御者の狼狽した話声が聞こえた。

 翼がとっさに暮葉の口を手で塞ぐ。眼はどうするか今すぐ答えを求めている。目的地までまだ距離はあったはずだ。待ち伏せされていたなんて。恐らく魔術師団だろう。

 今更何の用だ。連れていくなら事務所で会ったときに無理矢理連行したはずだ。邪魔ならわざわざ相手なんかせずに早く国境を越えればいい。こちらには国境を越える術がないのだから。

 翼に手のひらを向けて制する。どちらにしろ相手の出方を伺うより他ない。

 幌に手を伸ばしたところで、幌が動いた。外からこちらを覗き見るのは見たくない顔だ。

「捨てられても追いかけてくるとは。大した犬だ」

 薄笑いの浮いた早坂の顔を殴りたくなったが、殴るより先に手首を捕まれた。力任せに引っ張られ、荷台から転げ落ちる。

「追いかけてきてくれるって信じてた。ありがとう、レイ」

 落ちてくる声と、目の前に進み出てきたつま先はピアのものだ。

 暮葉と翼の声が遠い。あの子のことだからすごい大声を出しているはずなのに。そもそもピアの声以外がまるで遠い。

「男も連れていくのよ。彼はその娘に言うことをきかせるのに使える」

 魔術師に指示する様子からは、ピアが無理矢理連れてこられたとは思えない。どうして。自身に言い聞かせていたことが揺らぐ。

「生け贄は手に入れたか。ああ、違った。花嫁か」

 足音がピアのすぐ近くで止まった。彼女のつま先が向きを変える。声はあの天界人だ。

 腹ばいの状態から顔を上げようとして、上から抑えつけられた。後ろ手に縛られる。

「跡を付けないでよ。見つかったら受け取ってもらえない」

 ピアの声は親しげに聞こえる。事務所で会ったときとは態度がまるで違う。ここにおびき寄せるために一芝居打ったとみえる。

「どういうことですか。説明して下さい」

 後ろ手に縛ってきた手――恐らく魔術師団のうちのひとりが、引き立たせようとするのを振り払う。アレイシアは膝立ちになってピアを見上げた。

「ナディアが、無理矢理連れて行った花嫁を受け取るわけがないじゃない。だから花嫁が自分の意思で出てきてくれるようにお膳立てしただけ」

「ひどい! そんなの!」

 暮葉の憤る声が聞こえる。アレイシアにはひどくにぶく聞こえた。いや、にぶいのは胸のうちで、ピアの言ったことがうまく理解できない。頭では理解できる。あの竜が、差し出された獲物を受け取るなんてことはしない。だから竜の目の前へ獲物が自ら飛び込むようにしただけ。それが、竜の婚約者たる自分だっただけのことだ。

「あなた、〝皿〟と魔術師団のために、竜へ私を売ろうっていうの? そういうこと?」

「理解が早くて助かる。その通り。さあて、残りをどうしたのか聞かせてもらうわ。彼女を車に乗せて。出発しましょう」

 魔導師は満足げに息をつく。今度は彼女の声さえ遠く感じる。

 ピアを連れ戻すためにここまで来た。最悪、竜に嫁ぐことになってしまうかもしれなくても。魔術師として尊敬し、守ってくれて、魔術師としても認めてくれて、人としても対等に友達だと言ったピアを守りたかったからだ。

 それなのに、どうして。彼女があれだけ憎しみを募らせてきた〝皿〟と、目の敵にしてきた魔術師団のために、こうも簡単に切り捨ててしまうのか。

 幌の荷台よりずっと丈夫な金属の荷台に乗せられて、向かいにピアが座った。

「颯とイオレがいないのが意外ね。天鈴はどうしたの?」

「大尉たちのことは、あなた達の方がよほど詳しいと思いますけど」

「探したけど捕まらなかったってところ? 颯のほうは・・・・・・翼くんも話す気はない、と。やれやれ」

 ピアは肩をすくめる。

 アレイシアが翼と暮葉だけを連れてピアを追いかけようと決めたのは、ピアが魔術師団と一緒に事務所を去り、東と翼が戻るのを待ってからだった。

 まずは東と話し合ったものの、彼は頑なに事務所から離れることを拒んだ。ピアが必ず戻ると信じて疑っていなかった。ああそうだ、戻ってくる。戻ってくるに決まっている。だがそれをただ待っているだけではいられない。彼女の信頼に報いたい。これまで守ってくれた、ピアを今度は彼女が不服とする場所から連れ出したいのだ。

 東はそれを理解しなかったみたいだった。興味も無い、といった顔で「これまでもそうだったじゃないか」とのたまった。

「東は、待ってるわよ。これまで通りに事務所で」

「ふーん。なんだ。今度こそレイを選ぶと思ったんだけど。イオレは?」

 東は前にも、ふたりのどちらかを選ぼうとして選びきれなかった。アレイシアが一度彼と別れたのもそのときだった。

 ピアにとっては世間話か、話題のひとつに過ぎないらしい。声はわずかに笑ってさえいる。それに応えるのは、アレイシアには癪だった。特に今は。

 どうしてピアは、あれだけ目の敵にしてきた魔術師団と、〝皿〟の天界人と一緒に――おそらく利用されようとしているのに、こんなに普段通りでいるのだろう。いや、普段通りとは少し違うかもしれない。アレイシアの知るピアは、こんなに周りの者の動向なんかを気にしなかった。

 どうして? なぜ? 目的は?

 わざわざこんなところで待ち伏せしていたことも含めて、疑問が頭の中で渦を巻く。

「・・・・・・声を掛けるつもりではいたけど、王宮の研究室にいなかったから」

 慎重に言葉を選んだ。ピアはなにを知ろうとしているのだろう。それがわかれば、目的がわかるかもしれない。

 アレイシアはイオレに協力を請いに行ったが、研究室には人一人おらず、心当たりをしらみつぶしに探すような時間も無かったため、この三人だけで出発することにしたのだった。

「やっぱりね。で、翼くんは、あのお医者さんに話しを通してきたわけ?」

 ピアがにやつく。翼は唇を引き結んで眼を逸らした。暮葉が口を開くものの、何も言えずに閉じる。

 暮葉の兄は過保護だ。国境きわまで来ることを認めるわけがない。だから二人は、朱伊皐月に黙ってついてきたらしい。その上翼は、兄に頼るつもりだったがそちらも会えなかったとも言っていた。

 翼の兄、つまり、イオレの父親だ。翼や颯、朱伊たちの会話の中で度々話題に上るものの、名前さえ呼ばれない人。朱伊皐月が毛嫌いしている男。

 翼と暮葉は、朱伊皐月ではなくその人物を選んだ。その選択がどういった意味を持つのか、アレイシアには知りようもない。翼もそこまでは語ろうとしなかった。

「ふうん。まあ、そうよね。じゃあお礼に私たちの目的地を教えてあげる。旧王国立魔術学校よ。跡地ね。レイとイオレが主席で卒業した学校。周辺は今、国境を挟む緩衝地帯になってるんだけど」

「学校?」

「予想と違ったでしょ? だからここでレイ達を捕まえなくっちゃいけなかったってわけ。あの竜が、昨日からそこであなたを待ち構えている」

 待ち構えている。それで全てわかった。あの竜にとってあの、学校として使われていた城は特別な場所だ。城に伝わっていた伝説――初めて竜が召喚された場所であり、竜が初めて召喚者である女魔術師に恋し喰らった場所。

 翼と暮葉はわからず戸惑いの眼をさまよわせている。ピアは黙り込んで、アレイシアは説明する気になれなかった。


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