父と娘

***

 街がざわついている。夜になってから降り始めた雨がその雨音を少し強めたせいかもしれない。どうにも落ち着けなかった。榊麻耶の尋問が気になるのか、娘が心配だからなのか、娘のためにその母親を死地へ送り出したからなのか。本当はどれなのかわかっているから、流風は一人きりの部屋の中を行ったり来たりしていた。

 こんなはずじゃなかった。娘を昇進させてやりたかった。それだけだったのに、娘は才能を軍に利用されて、止めようとしたときには手遅れだ。カレンと一緒なら自分だってまともな人間になれると思っていたのに、逆戻りしている。

 ドアが乱暴に叩かれる。異人部隊かと思い開けた先にいたのはずぶ濡れのカレンだった。腹に血の染みがある。

「カレン、血が」

「逃げて!」

 まっすぐ胸に飛び込んできたカレンを受け止める。こちらを見上げる彼女の顔は必死そのものだ。

「榊麻耶が、みんなが巻き込まれた原因は大尉の身勝手だって」

 榊麻耶の言いそうなことだ。異人部隊に颯をリンチにさせるつもりだろう。

「メイズは信じたのか」

「いなかったの。でもみんなは信じたみたい」

 部隊の尋問室には盗聴器が仕込まれている。カレンの聞いたことはその場にいた全員が聞いたとみて間違いない。

「みんな彼女を探してる。あなたも」

 榊麻耶を釣る作戦にも尋問にも立ち会いを禁止された。それに大人しく従っていれば信頼は揺るがないと思っていたのに。一度疑念を挟んでしまったらもう取り返しがつかないなんてことは、今回ばかりは例外だと思いたかった。随分甘ったれたものだ。

「落ち着け。逃げたら弁明の余地がない。カレン、その血は? どうした?」

 染みはさほど大きくない。カレンの血ではなさそうだが、戦闘員でもない彼女に血が付く状況はただごとではない。

「どうして中に入れてくれないの?」

 カレンに急に突き飛ばされてよろける。なにを急に言い出したのか。

「おかしいじゃない! 恋人が血を付けて雨の中ずぶ濡れで危険を知らせに来たのに、玄関先に突っ立ってるなんて!」

 カレン。なだめすかすものの、彼女は耳を貸さない。こういう所のある子だが、辛抱強く言って聞かせれば落ち着く。しかし彼女はきいきいまくし立てた。

「私、殺したの! 榊麻耶を殺した! 銃を忘れてきちゃったの、あなたにもらった銃なのに!」

 血の気が引いた。カレンが、カレンが人を殺してしまうなんて。

「だから一緒に逃げてよ! 一人じゃ無理!」

「待て、待て! 逃げるのはまずい」

 なんで! カレンは顔を涙でぐちゃぐちゃにして叫んだ。

 メイズなら彼女の話を信じただろう。一度逃げて、しかも仇かもしれない男に泣きついた後でなければ。そもそもこのアパートは部隊に監視されている。今の部隊ならカレンの共犯を確実視しているはずだ。

「僕にやれと言われたと言えばいい。逃げるのは僕一人だ」

「私も行く」

「駄目だ。万が一捕まったら二人とも殺される」

「構わない。あなたと一緒なら」

 カレンの眼には迷いがない。流風は迷っていた。その迷いこそが答えだ。



***

 母を尾行したのは信頼したかったからだ。信頼するための後押しが、もう一歩欲しかった。それなのに、それなのに。

 気づけばイオレはそればかり考えていた。それどころではないのに。母が楽しみにしていると言って浮かべた笑みの薄気味悪さが、全身血まみれなのに不快どころか上機嫌みたいだった気味悪さが、眼が合ったのにまるで気にされなかったときの恐ろしさが肌に張り付いてはがれない。

 こんなことでは駄目だ。しっかりしなければ。折角実験計画が上手くいっているのだ。母なんかのせいにしないで早く決断すべきだったのだ。

「じき到着です」

 軍の魔術師部隊の一人が言う。馬車には他に数人の魔術師が乗っているが、皆眼を閉じている。

 礼を言って、見直していた書面をまとめる。実験の行程は膨大だ。だからこそこれを実行できる機会を生かさなければ。

 幌の隙間から朝焼けに煙る町が見える。国境に最も近い最後の町へはもう少しだ。

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