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 漢字を書くのは久しぶりだった。アルファベットを書くのも得意だった訳じゃない。というか、字を書くこと自体が得意じゃない。その上ペン先が尖りすぎていてざらざらした紙に引っかかって書きにくい。だからそんなに睨まないで欲しい。

 翼はテーブルを挟んだ向かい側と、左隣からの無言の圧力に掌が汗ばむのを感じた。

 異人――公には異邦人と呼ぶらしい――の居住をはじめとする身分証発行に至るまでの申請に、役所まで連れて来てくれたのはピア・スノウだ。彼女は翼の左隣で、用意された椅子に座りもせず、出された茶に手を付けることもなく、じっとこちらの手元を眼で追っている。テーブルの向かいに座る職員の女性は気まずい空気から早く脱したいらしい。書き切った書類をまとめて片付け始めたのが視界の端に見えた。これが最後の一枚だ。

 がらんとした会議室に三人だけ。ペンが紙を削るごりごりした音、たまに廊下を歩く足音が鈍く聞こえる。

 朱伊の診療所から、街の中心に鎮座する王宮を挟んだ反対側の、大きな街道が細まる程遠くにある直方体の建物の一室だ。ピア・スノウの説明によれば議会だったが、職員の説明では大議場だ。

 王宮があり王族が存在しているが政治は王政と民主制を足して割った印象だった。分厚いテキストで説明されたものの、よく分からなかった。ここは日本で言うところの国会議事堂みたいなところで、国会のことを一般には議会と呼ぶらしい。議会と王宮の関係は良くないだろうことは分かった。あと、なんとなく日本っぽい感じがする。気味が悪い。

 そもそも、この世界に来たときの第一印象はなんとも言えない気持ち悪さだった。魔術という便利な技術がありながら、全く別の世界だという衝撃や目新しさを感じない。西欧風な世界でありながら、どこか日本の臭いめいたものを肌で感じる。その違和感が、生暖かい風のように肌を舐めるみたいで気持ちが悪い。

 そんな気持ち悪さを、暮葉が感じているのかは分からなかった。というのも、この世界に入ってから暮葉は体調があまり良くなく、今まで使わずに済んでいた薬を次から次へと使わざるを得なかった。だから彼女も、このなんとも形容しがたい感覚を感じていても口には出せなかっただろう。感じていたとして、彼女がそれを説明できるかはまた別の問題のような気もする。

 王宮に竜が墜落した翌日。あれから体調を崩した暮葉は、朱伊のところで寝ている。翼と暮葉のアパートの手配は颯が済ませているはずだったのに遅れていて、このままだと朱伊の診療所で居候する羽目になる。死んでも嫌だ。

 あら? 書類を確認していた職員が声を上げる。字の大きさを間違えて欄に入りきらず、続きを小さな字で書いていた時だった。集中しなければインクが滲んで読めなくなってしまいそうだ。はっとして顔を上げると、硬直した表情の職員と眼が合って、すぐ逸らされた。

「申し訳ありません。確認することがありますので、少々お待ち戴けますか」

「嫌よ」

 ピアの間髪入れない返答は不機嫌に固まっている。彼女の紅い上着と反対に、職員の顔はみるみる青ざめた。

「忙しいの。わかるでしょ。もう身分証の仮発行だけでいいから、早くしてくれる」

 職員は口をぱくぱくさせた。反論があるが、声にできないのだろう。翼には王宮魔導師がどれ程偉いのかもよく分からないが、この待遇を見る限りピアの一言で職員の首を飛ばすことくらいは簡単そうだ。

「まだなにか必要ならまた今度にして。彼、うちの連絡員だから」

 そうですか。職員は顔を引きつらせ、書きかけだった書類をひったくって立ち上がった。翼もつられて立ち上がる。そのまま会議室を出て、来た順路を逆に案内され、あっという間に議場から追い出されてしまった。

「あの、連絡員というのは」

 早足に議場へ来た道を戻るピアを追いかけ、尋ねる。ピアを見て、というか紅い上着を見て、道行く人波が自然に割れていく。

「そのままの意味よ。伝言とか書類とか、うちと取引先を行ったり来たりするの」

 今朝の、「じゃあ行こうか」以来のこちらに向けた言葉だったが、聞けば返してくれるらしい。意外だった。

「それはかなり重要な仕事なんじゃないですか?」

 そういえばこの世界には電話やパソコンといったものがない。連絡を取り合うのに人の脚を使うしかないというのは、魔術があるのに非効率だ。しかも昨日会ったばかりの他人に任せられる仕事ではないように思える。連絡手段がそれしかないのだから、内容は重要なものも含まれるに違いない。

「だって手っ取り早いじゃない。私はこの街に事務所を構えるのに連絡員が必要だし、あなたにも仕事が必要でしょ」

 その通りだ。竜の制御に協力してくれるというアレイシアと、暮葉は一緒にいる時間が長くなる。ピアの元で働けば、その場に居合わせることも多いだろう。別に悪くない。むしろ願ったり叶ったりだ。

 だが、兄に頼んで軍の異人部隊に加えてもらうつもりでいた。部隊に入れば颯とは違った網を持てるはずだし、なにより兄の動向がいち早く分かる。

「うちの連絡員だけじゃあ不満だっていうのね」

「うちは仕事をこなしてくれれば何してたっていいのよ。その最低のお兄さん

の話、また聞かせて」

 ピアは能面のような笑顔を貼り付けて、翼の腕を叩いた。

 翼は兄が嫌いだ。幼い頃から。理由を挙げればきりがない最低の男。颯がいながら女を取っ替え引っ替えし、十代半ばで娘が生まれてからは、娘だけを連れて逃げ出した。

「なんだ、入れ違いか」

 十年以上ぶりに会った兄は上機嫌で新しい煙草を咥えた。中年にさしかかっているからか、記憶の中よりもずっと喰えないやつになっているみたいだ。

「隠すのが面倒だから言っとく。さっき颯が来てた」

 それで機嫌がいいのか。こちらに来ても会わないことにしたのはこいつが言い出したくせに、それを自身の都合で破った颯をいびるのはさぞ楽しかっただろう。

「なんで」

「それから、お前の就職は無くなった。楽しみにしてたんだけどなあ、仕方ない」

 言葉とは逆の表情で咥えた煙草を上下する。あの煙草は颯の好きな日本製のものだ。わざわざ手土産に持ってきたものを、兄は奪い取って戦利品にしたのだろう。しかもこいつは煙草を持ってきたのが翼だと分かっていて見せびらかしているのだ。頭に血が昇るが、翼は態度に出すまいと必死に止めた。兄にいいように弄ばれるのは我慢ならない。

「理由は言えないぞ。口止めされてる。それが条件だから」

 条件。こいつと颯は取引をしたのか。しかもその取引に、兄のカードとして自身の就職が使われていたとみて間違いない。助ようとして足を引っ張るだなんて。

「そんな顔で睨むな。感動的な兄弟の再会だ」

 感動的。翼は軽蔑をめいっぱい含めて吐き捨てた。兄が娘を連れて颯を置き去りに世界を逃亡したことを理解できたのは最近のことだ。それでも置き去りにされた颯を間近で見てきて抱いた兄に対する嫌悪や憎悪や恨み辛みなどが消えたわけではない。

「まあ颯がお前に対して過保護すぎるのは同情する。僕だってイオレに同じことをするから」

 まったくどうでもいい。こいつの同情なんか一円の価値もない上に欲しくも無い。

「可愛い弟のために、ひと肌脱いでやる。ひとつだけ頼みをきく。部隊の参加はだめだぞ。颯にも言うな」

 意外な申し出に、かなり驚いた。兄はそれを見てやけに満足げに煙草に火を点ける。

 だが、兄への頼み事は保留にした。無理難題を突きつけてやりたいが、すぐに思いつかなかったからだ。

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