第12話 大岡川の殺人鬼、千滝町の親殺し、オートロック破壊の飢えた死神

 夜まで時間があった。待ち合わせのあの公園に今は行けない。会ってしまうかもしれないから。商店街を歩きながら、この街も人間も知り尽くした気がした。合う顔合う顔いつもと同じようで、血が濃くなったと感じ息苦しかった。たった二三日でだ。すれ違う人の名前を誰も知らないのに、飽きたと感じた。さっき一期一会を考え深く浸った自分がむず痒い者に思えたから、電車に乗って隣町へ向かうことにした。その途中で、前に見た顔だと、すぐにわかった女性とすれ違った。彼女は隣の男にべったりと寄り添い、腕を組んでいた。年は二十歳ぐらいだろうか。ミニスカートからスッと伸びた華奢な足は当分水を弾きそうだったから、未成年かもしれない。ハイヒールの底の方が無駄に剥げていた。男の方は僕ぐらい。ただ金は持っている風で、上下合わせて二千円でお釣りが来るような男とは対照的な、何マーニだか忘れたが、僕が一生袖を通せなそうなスーツを着ていた。カネの切れ目が縁の切れ目、この年頃はそれもありだろう。そこにちょっとした切っ掛けがあれば、百年の恋も一瞬で冷めれるのだろう。

電車に乗って隣駅へと来た。今までいた町よりも幾分大きく、駅前のロータリーをバスが我が物顔で行ったり来たりを繰り返していた。勿論同じバスではないのだが、同じ柄だからこっちにしてみれば同一のバスだと錯覚する。それを避けながら、入った商店街もさっきよりも道幅が大きく長かった。「この街、昔来たことある?」自問自答した。はっきりとは覚えていないのだが、ずっと昔に一度だけ来たことがある気がした。夢で見ただけかもしれない、デジャブってヤツ。一人ではなく誰かに手をひかれて。まぁ大した思い出ではない気がしたから、それで終わらせた。そこにあった本屋に入った。青森県のガイドブックを見た。ねぶたは青森市と弘前市、五所川原市で行われていて、規模的には五所川原市が一番小さいようだった。その先を探る為、地図を求め付録のページを広げた。五所川原は津軽半島の入口にある市だった。その先にある半島の何処かを彼女は指していることは明らかだろう。観光客もほとんど来ない行き止まりが大きなヒントだ。津軽海峡線の列車は半島突端の三厩龍浜駅。しかしその先にも永遠と線路は伸び、北海道へと抜けている。これでは半島の先っぽでも、行き止まり感がない。もう一つの列車津軽鉄道線、その列車は中泊という駅で終わっていた。そのすぐ上には十三湖。その風景を想像したとき、彼女がそこを行き止まりだと感じとる気がした。多くの人が恐山、白神山地、青森、弘前を訪れ、津軽海峡を渡って北海道を目指す。その何処にも属さない。人目に余り付かない、終着。ここだ、もしかしたらここが彼女の生まれた町、ふるさとなんじゃないだろうか。「あの歌……」本屋を出ると、すぐ近くにあったネットカフェに飛び込んだ。そこでもう一度、500マイルを検索した。その歌を何度も何度も聴いた。ジンワリとした思いを抱きながら、何度も聴いた。

“次の汽車が駅に着いたら、この街を離れ、遠く。500マイルの見知らぬ街へ、僕は出て行く、500マイル”そんな歌詞で始まるこの歌は、スローテンポのまま永遠と続く。忌野清志郎がどんな思いを込めてこの歌詞を考えたかはわからないが、ローカル線に揺られながら故郷を離れる歌だと思った。“汽車の窓に映った夢よ、帰りたい心抑えて。抑えて、抑えて、抑えて、抑えて、悲しくなるのを抑えて。次の汽車が駅に着いたら、この街を離れ500マイル”単純な歌詞が、素直な悲しみをしんみりと伝えていた。

 ネットカフェを出ると、時刻は二時頃を差し、暑さもピークに達していたが、この商店街は屋根が付いていたので、直射日光が届かず、幾分涼しさを感じられた。頭の中では、忌野清志郎の500マイルが歌詞付きで流れていた。その曲が昔、僕の人生の中でよく口ずさんでいたのが、誰だったかを、たった今思い出せた。子供の手を引いて通り過ぎた初老の女性が、「汽車の窓に映った人よ、帰りたい心抑えて・・・」そう口ずさんでいたから。

また元の街へと戻った。さっき心の中とはいえ、あんな暴言を履いた街に戻った。駅を降り、商店街を抜け、暑くても河川敷に向かおうと思った。駅前のハンバーガーショップでセットメニューを二つ買った。冷めてしまうとも思ったが、また街に出るのも億劫だったから買った。一つは死神の女にやるとして、どれが好きだろうかと思案している自分がどこか楽しげだと感じた。そこを出て商店街を歩いていると、ずっと僕のことを見てくる人間がいた。最初はネットで僕の顔を見た人物だろうと尻込みしたけれど、それにしては、やたらと正面から見てくる印象を受けた。街を歩くときは、僕も神経過敏になっているからキョロキョロと色々な人を見ちゃうけど、その人間は百メートルぐらい離れた場所から、僕の存在を気にしていた。なんせその人間は、ずっとずっと前から僕のことを、じっと見ていたという風だったから。百メートルほどの距離があった時点では、その人間は僕とは反対側の壁近くをゆっくりと歩いていたから、その内に目も合わずにすれ違うだろうと考えていた。それが、気がついたら真っ正直にいて、僕一点を凝視し、さっきの何倍の速さで向かってくる。真っ直ぐに見つめられるまま二人の距離はどんどん近づく、50メートル、40メートル、30メートル、20メートル。10メートル、ただ見られていただけだったものが、ここまで来ると、相手の表情もわかってくる。だから薄気味悪い笑みを浮かべていることも。これはヤバいかもしれないと、それに気づいても、もう手遅れ。彼は前方三メートルのところまですでに来ていた。軽やかに歩く彼にとっては、獲物を射程圏内にでも捕らえたといった感じなんだろう。二メートル、一メートル、スレスレまで来て、笑いが歪なモノだと見極めた瞬間、「シュンッ、グサッ」一瞬の出来事だった。夕ごはんはまた買いに来れば良いかと思ったから、ハンバーガーショップの包みを、咄嗟に胸のところに持っていった。彼はナイフを僕に向け、袋に刺さったそれを、握ったまま通りすぎていった。そのせいで、右腕が少し切れて血が一本の線になって浮き出てきたけど、大したことはなかった。そのあと、彼は急に発狂して走り去ってしまった。何故か僕の胸の前、ハンバーガーショップの包みに刺さったナイフを持った右手の全部の指に、バンドエイドがしてあったことをあの一瞬で見つけた。それが印象に残った。

今、自らに降りかかった出来事がどんなにセンセーショナルで鳥肌を立てる体験でも、何処かに心を落とした僕には、それを思い出し怯えることも忘れていた。河川敷に着き、そこで河を眺めながら、また500マイルを口ずさんだ。悲しげな曲調がいけないんだと涙を流す自分は、傷つきやすいロマンチストだと思った。「たろーっ」犬だろうと振り向かなかったが、「タロー、タロー」が段々大きく、何度も呼ばれるものだから振り返った。そこに真新しい自転車に跨った友香が手を振っていた。「友香、ちゃん」心以外で呼び捨ては出来ない。「太郎っ」でも相手は呼び捨てだ。辺りを見渡したが、死神の女の顔はなかった。ホッとして、友香の方を見ながら立ち上がり、歩み寄った。「太郎に買ってもらった自転車、最高だよ」屈託のない笑顔。「あのあと、お母さんに怒られた?」「うん」「ごめんな、余計なことしちゃったな」「そんなことない。お母さんにはニンテンドーDS買ってもらうから、大丈夫」何が大丈夫かはわからないが、彼女にとってはプレゼントが二個も手に入ったよということなのだろう。それにこの笑顔を見れば、大丈夫なことは一目瞭然だった。「自転車、一人で乗れるんだ?」「お父さん」ボソッと言った彼女の一言に、ドキッとした。「お父さんって」「太郎、お父さん」「おいおい」顔を赤らめ下を向いた。それも良いなと、心のどこかで考えていたことなのだろう。「こんにちは」男性の声。「えっ?」顔を上げると、そこには恰幅は良いが優しそうな表情の男性が立っていた。「この人が、友香のお父さん」「そう、なんだ」呆気に取られながらも、「こんにちは」挨拶を返した。「今日ね、友香の誕生日だから」「そっか。お母さんは?」一番気になった。「家で手料理頑張るんだって。お父さんの大好物のハンバーグ作るんだって」「友香も好きだろうが」「うん」入り込む隙間なんてなかったんだ。夫婦二人は離婚したらしいが、お互い嫌いなわけじゃない。少なくとも優香は彼を愛しているのだろう、友香同様に。あのランチョンマットが教えてくれていたじゃないか、家族三人は固まっているんだと。僕に入り込める場所なんて、鼻っからなかったんだ。「あはっはは。そっか良かったな、友香ちゃん」「うん!」

 二人を見送った。大きな背中と小さな背中に、何かが吹っ切れた気がした。切れてしまったという方が、僕の中ではピンと来た。日も沈み掛けたからと、ご飯を食べる為に街に出た。このごろ見慣れた商店街を歩いていると、「おいっ」後ろから声を掛けられ、肩を叩かれた。ビクッとなって振り返った。とうとう見つかってしまった、そんな思いでいっぱいだったと思う。「シニガミ?」「ごはん、食べた?」そこに居たのは死神の女だった。「まだ、だけど……」一歩引いた僕に、「じゃあ、一緒に食べ行こう」死神は笑顔で接していた。「ごはん、食べるの?」「当たり前だろ。お腹空くだろうが」膨れた彼女に、「そう、だね」少し照れる自分がいたことに驚いた。「でも普通の人には見えないじゃん」気になったから聞いた。「平気平気。で、何する?」「えっ、うん」先を歩き出した彼女が、僕の手に触れてきた。彼女は先導するように繋いだ手を引っ張った。ひんやりと冷たかったけど、心地の良い冷たさだった。そんな死神の手が、少しすると僕の火照った手の熱が伝わったようで、汗ばむほどになっていた。それが可笑しかった僕がクスッと笑うと、「気持ち悪い」冷めた目でそうバッサリと切り捨てた。「居酒屋行こう」「酒、飲むの?」「当たり前。飲まなきゃ、やってられないの」何なんだと頭を捻りながらも、「いらっしゃいませ」元気な掛け声とともに居酒屋へと入っていた。「何名様ですか?」何名って、とここでも考え込むと、「二名です」笑顔の彼女が言った。「では、どうぞ」女性店員はそう言ったあとに、「二名様、ご案内です」中へ通した。「あれっ?」座っても口を開けたままの僕に、「お飲み物、先よろしいですか?」の声、「生で良い?」死神が聞いてくる。「う、うん」釣られたように返事を返し、「じゃあ、生、二つ」死神がオーダーし、「ありがとうございます」そう答えた店員が、「生ビール、二つ頂きました」と声を張りあげる。何事もなかったように、「何食べる?」メニューを眺めながら、僕にも見ろと進めて来る。「とりあえず、枝豆」「じじくさっ」それがムカついても、今は気になるはずがない。冷えたジョッキに白い蓋がされた生ビールが二つ、運ばれて来ると同時に、枝豆とからあげ、それからポテトの唐揚げと軟骨の唐揚げ、あととんかつ」どんだけ揚げ物好きなんだと突っ込む前に、何か大事なことを言わなきゃいけないのだが、「明日、胃、凭れるよ」「大丈夫、オジサンの胃と一緒にしないで」その反論もムカつくのだが、最もだ。でもそうじゃなくて、「ねぇ?」「何っ?」「枝豆、お待たせしました」これは流石に早い。「食べないの?」「食べるけど……」「とりあえず乾杯しようか?」「まぁ、そうだね」そして何にか分からなくても、乾杯と言ってジョッキを割れんばかりにぶつけたせいで僕のビールが零れる。それをしてやったりの顔で嬉しそうにする彼女。「だからさ」「何よ?」「君は死神で、見えた人は死んじゃうんでしょ?」「そうだね」「ここの店員、みんな見えてんじゃん」「そうだった?」「そうだよ」「じゃあ、みんな死んじゃうんじゃない」「マジで?」一応、驚いておいた。「それかみんな霊感が強いか?」「何それ?初めて聞いた」「何を?」「霊感強い人も、死神って見えるんだ?」「うん」「じゃあ僕も、霊感が強いんじゃない?」「それはない。あなたは霊感の、れ、の字もないもん」確かに今まで、ここ数ヶ月の変わった体験を別にすれば、霊といった類とは全く縁がなかった。まぁ縁なんて欲しくはないが。これで納得がいった訳じゃない。確かに、今の彼女は死神には見えない。「ぷはーぁ」旨そうにジョッキを傾ける。揚げ物をあれだけ頼んでおいて、ほとんどを僕が平らげる。明日の胃もたれを覚悟した。何杯かの酒を飲み、二人とも良い具合に酔っぱらい、店を出た。夜風に当たりながら、先を歩く彼女が、「気持ちが良い」と両手を広げた。「そうだね」僕が答えた。傍から見たら、多分カップルに見えるのだろう。いや、今の時代、友達でも飲みに行くぐらいはするかと、少しばかりつまんなさを感じた。二人とも何を話したわけじゃなく、夜風や星空や街の明かり、行き交う人を全く気にしないご機嫌な酔っぱらいを眺めながら、気付けば公園に来ていた。

彼女は今夜も簡単に、田嶋富士へと登った。頂から、上で引っ張ってあげるからと、既に右手を延ばしていたが、「大丈夫。凄い技思い付いたから」そう返して、山道を斜めに入った。グルグルと田嶋富士を何度も廻りながら、少しづつ標高を上げた。そして五週目ほどで少し息を切らしただけで、僕も彼女のいるテッペンへと辿り着いた。少しバツの悪さも感じたが、「頭いいじゃん!太郎」それで得意げな顔をした自分も、なかなか単純に出来ていたようだ。それと何故か彼女も呼び捨てだった。「僕の名前知ってんだ?」「あの女の子が何度も叫んでたから、覚えちゃった」「そっか、ところであなたの名前は?死神さん」「まだ教えない。教えるのは、最期の時って決まってんだ」「そう、なんだ」この手の話しを、死神はさらりと言ってのけるから敵わない。「今日、あの女の子に会ったでしょ?」やはり見られていた。「たまたまだ。僕も、向こうだって会おうと思ってあそこにいたんじゃない。それに父親と一緒だった」「必至だね」「当たり前だろ。こんなことで、彼女の大切な将来、ないモノにさせて堪るか」「そっか」その反応にドキッとなったが、「大丈夫、何もしないよ」「本当に?」「うん、本当」真っ直ぐに見詰めてきたから、信じれた。「あっ、これ」そう言ってポケットからロケット型のペンダントネックレスを取り出し、僕の首に巻いてくれた。「中身、あなたのお母さんの骨だったよ」「そう」僕がそれしか答えなかったら、彼女もそれで話を切り替えた。「少し前に、あなたみたいに精神障害で捕まった女いたでしょ」「詳しくは知らないけど、電車内で痴漢の男を刺したんだろ?」「そう。でも彼女、無罪なんでしょ?」「僕も妹から聞いたんだけど、そうらしいね」「じゃあ、あなたも警察に捕まっても、無罪になるね」「たぶんね」「あなたも、精神障害ってヤツらしいからね。でも不公平だと思わない?」「何が?」「まぁ、殺したとき心神喪失だった証明は必要みたいだけど、同じ障害でも、人格障害はまず罰せられるんだよ。何人も人殺しても精神障害なら、無罪。人格障害なら、死刑だもん。同じ障害って名前付いてるのに、不公平だね。どっちも生い立ちに原因があることがほとんどなのに。精神障害者は自分の中に他人を作り上げ、自分自身は逃げたんだよ。人格障害者は逃げることなく、自らに降り掛かる災いを全て受け止め、自分に何が起こっても、その痛みを感じないような心を作り上げた。自分で処理したのにね」誰しも熱く語りたくなるような話題でも、彼女が熱くなることはない。終始、遠く、町の夜景の向こうに広がる暗闇を見詰めていた。何処か他人事で、まぁ他人事なんだろうけど。ただ、悲しみだけは、微かだが、感じた気がする。それに僕も、刑法はよくわからないけど、何だか不公平だと思えた。

「ねぇ」暗い話題を替えたかったのかもしれない僕が、遠い目のままの彼女に話し掛けた。「ここから500マイルにある場所。中泊でしょ?」何も答えない。「津軽鉄道の終点」彼女は何の反応も示さない。「次の汽車が駅に着いたら、この街を離れ、遠く」500マイルの歌詞の一フレーズ目を歌ってみる。彼女は動かない。「500マイルの見知らぬ街へ、僕は出て行く、500マイル……」だから完全に覚えてしまった歌詞を歌い続けた。単純な歌詞だったから覚えられたのだろうが、「汽車の窓に映った夢よ、帰りたい心抑えて。抑えて、抑えて、抑えて、抑えて、悲しくなるのを抑えて」彼女は動かない。潤んだ瞳を隠す素振りも見せない。「次の汽車が駅に着いたら、この街を離れ500マイル」流れ落ちてもそのまま、最後まで動くことはなかった。

 それからこんな話もした。「自殺した人間の魂は拾ったことはある?」「ないよ」この話には、彼女は淡々ではあるが乗っかって来た。「こんなに自殺する人多いのに?」「うん」「じゃあ、殺人ばっかり?」「そうだね。あっ、ひとつだけ老衰のお婆ちゃんがいたな。でも、どうして?」久々に彼女が顔を向けてきた。「いや、二年前に友達が自殺したんだけど、僕が生前の彼と会った、最後の人間なんだ」興味がないのか、彼女は既に前を見ている。それでも僕は話を止めない。「二人で、居酒屋で飲んだ帰り道。彼は自分の部屋でもっと飲もうと誘ってきたんだ。でも当時、僕は仕事人間だったから、次の日を考えて帰ったんだ。その夜に彼は、自宅のドアノブにネクタイ引っ掛けて、首吊った。その彼、今はどうしているかなって思ったから」突然、彼女は吹き出した。「何かおかしなこと言った?」いくら死神でも吹き出すことではない気がしたから。「人間って幸せだよね。死んだ人間のことまで心配出来るんだから。彼は死んだだけ、無になったの。それが彼の望みだったんだし。だから何にもないよ。彼は自殺して、そして完全に無になったってだけだよ」「そんなもんか、じゃあ、僕を恨んだりしてないんだ」「自意識過剰だね」彼女はまた笑った。「確かに自意識過剰だね」今回は一緒に笑えた。その通りだったし、正直、最初に抱いていた自分に対する嫌悪感はだいぶ薄れ、このごろは自分の生活に追われるばかりで、彼のことを思い出すことも少なくなっていた。ただ無になった彼に、少しがっかりした。恨んでいてほしかったんじゃない。男と女じゃないから、フラれただ、傷つけられただがあるわけじゃない。何となくでも覚えていてほしかった。でもそれが彼女の言う自分勝手と言うことなのだろう。それでも、一つ引っ掛かった。「魂がなきゃ、君は何を拾うの?死神の仕事は何?」「死を見届けるだけ。そして死ななければいけない人の手助けをするだけ。だから自分はあっちの世界へといったことがない。だから天国があるのかも地獄があるのかも知らない。でも魂はないから、本当はあっちの世界なんてないかもね」死神という存在を、無意味に感じた。

もっと俗っぽい、人間っぽい話をした。「あなたの、お母さんは元気なの?」「私は死神だから、あなたが言った通り、独りぼっちだよ」「そうなんだ」「うん」「でも、500マイル、思い出の曲なんでしょ?」「むかし、凄い昔にね、誰かが歌ってくれた曲なんだ」「遠い津軽半島の地で?」「……」「あの歌を聞きながら、ひとり、東京に出て来たんだね。戻りたい気持ちを押さえて」「ばっかみたいだね、あの頃はまだ弱かったんだね」彼女が、ほころび始めた気がした。ほぐれたと言ってもいいのかもしれない。「弱さじゃないよ。優しさだよ」それを一層広げたいと思った。「何それ、優しさ?」混乱した彼女が立ち上がる。「そう優しさ。人間誰しも持っている、誰かを思いやる心だったり、自分を哀れむ気持ちだったり」そんな彼女に分からせたかったのかはわからない。「でも残念」彼女が、いつもの死神に豹変することはなかった。「何が残念なの?」「そういうの、全て捨てたから、もう持ってないから、何にも感じない」立ち上がった彼女は、田嶋富士の頂、九メートルほどの円周を軽快に歩き始めた。「そうか」本当にないのかもしれない。悲しみや愛おしさ、喜び、そして憎しみさえも。表面上では感じることはあっても、彼女は本当の感情を持ちわせていないのかもしれない。本当の死神なら、そんなモノを持つ必要なんてないんだろうし。「ねぇ?」「何?」「死神なら、いつでも僕のこと見付けられるでしょ?」「うん」立ち止った彼女は、顔を見せて頷いた。「じゃあ、僕逃げるから、君から逃げるから、見付け出してよ」「いいよ」彼女は既に前だけを見て、そして歩いていた。「明日中にね。もし見つけられたら、津軽半島、一緒に行こう」そう言った僕は、彼女がいつもするように坂道を一気に駆け降りた。不思議と転ぶ気がしなかったから、転ばなかった。公園を出るときに、一度だけ彼女の方を見た。まだ頂を歩く彼女が、こっちを見ることはなかった。

商店街を歩いていると金網マンションがあったので、その前で立ち止った。四個分の網目、同じ場所に同じ顔があった。煙草を銜えたままの光景に、時間が戻ったと感じた。しかしさっき見た女の子の、スラッと伸びた足先にあったハイヒールの剥げた底を思い出し、それはないと分かった。今回は彼が気が付くまでそこに立って、そして金網マンションの三階を見続けた。彼はとっくに気が付いている。僕がここに立って彼を見続けていることも、彼女がもう戻っては来ないことも。頭で分かっていても心が理解出来ないのだ。彼女を求めるから、化粧映えしない顔を水を弾く体を。彼が買ってあげたハイヒールがもう替え時でも、それを誤魔化して先延ばしにしてしまった自分を悔やんでも仕方がないと、頭が言っても、心が愛はカネじゃないと綺麗事を言う。やっぱり魂はあるんだ。頭の中じゃないし、体のどこにあるわけでもない、でも魂はあるんだ。そうじゃないと、僕に入り込んでいる彼も可哀想だからね。そんな僕に、金網の男は両手を広げ天を仰ぎ、僕に微笑んでから部屋へと戻っていた。彼が消えちゃったあとで、僕も微笑んでみせた。

それから電車に乗った。電車に乗って、昼間何しに来たのかも思い出せない街で降り立った。それからさっきも歩いた商店街の終点を目指した。昼間は途中で引き返してしまったから、今回は終点まで行こうと決めた。終電間近のこの時間は、店もほとんど閉まり、酔っぱらいと若者がちらほらいるだけで閑散としているが、たまに聞こえる彼らの雄叫びが耳障りだと感じた。店から段々とマンションやアパート、一軒家へと景色が変わった頃、アーケードの屋根は何時しかなくなっていた。もう少し歩いて道の突き当たり、そこに神社があった。その参道の階段を上った。一段一段上る度に、光が遠のく。また一段、暗闇が近づく。それでも僕は足を止めない。もう暗闇が怖くないの、と誰かが言った。だから、「怖くないよ」そう答えた。嘘だねと言うから、「本当にもう怖くないんだ」と答えた。そっか、彼は悲しそうに、言った。階段を上り切ると、眼下だけに届く光を見降ろした。それから木々が生い茂る中を、本堂の方に歩いた。さっきまで真っ暗だと感じたはずが、月明かりが眩しいと思えるほど、本堂までの参道の道を照らしていた。それに反射して怪しく光る石畳の上を歩いていると、彼が、ここへ何しに来たの、と尋ねてきた。だから、「すべてを下ろしに来たんだよ」と言った。ふーん、彼は答えると、そのあとに話し掛けて来ることはなかった。

本堂の前に着くと、一先ず手を合わせた。それから賽銭を数枚入れてから、首に手を持っていった。外れたネックレスチェーンには、ロケット型のペンダントトップが輝いていた。それを賽銭箱の中へと放り投げた。「カラン、カラッカラン」カネでは奏でられない音を立てながら、それは賽銭箱の中へと流れていった。それからもう一度手を合わせた。そして、今、来た道をゆっくりと戻った。決して振り返らずに、ゆっくりと階段を下った。喪っていた街の明かりが、怖くなかったと聞いてきたから、その質問ならさっきも彼にされたと返した。そしてアーケードを歩きながら、あの歌を口ずさんだ。「汽車の窓に映った人よ、帰りたい心抑えて」だいぶ老けて見えた。まだ小学生だね、友香と同じ年ぐらいかな。やっぱり、生きていたんだね。違うよ。僕もその歌詞で合っていると思っていたんだ。あなたが何度も何度もそう歌って、僕に聴かせたから。でも違った。正解は、「汽車の窓に映った夢よ、だよ。あなたは汽車の窓に、夢じゃなく人を映した。誰を映したの?誰でもいいね。さようなら、母さん」

僕がそこを去ってから少しあと、暗闇の中に月明かりも陰り始め、光ることを止めた石畳を走り抜ける影、「誰もいないぞ」先に本堂に着いた男が辺りを見渡すと、もう一人が、「間違いなく反応はこの辺りから出ています」そう言ってノートパソコンを覗く。「ここだ。ここから反応出ています」「ここって、賽銭箱じゃねぇか?」「でも、ここで間違いないです」「やられたな」賽銭箱を覗きながらそうボヤき、もう一人がパソコン画面を閉じた。

 その夜は一晩中彷徨った。警察に職務質問されたら、ありがとう、と言えたかもしれない。助けてくれてありがとう。僕と云う存在を認めてくれてありがとう、と云えたかもしれない。でもそんなときに限って誰も気が付かない。街を行き交う酔っぱらいもネット世代のはずの若者たちも、自分たちが騒ぎまわるだけで、僕には興味も示さない。僕はここに居るよ。ネット上に写真まで載っていたじゃないか。興味があったから載っけたんだろ。そして興味があるから見たんだろ。父親を殺した息子の顔を見たいから見たんじゃないのか。そうだよな、それだけだよな。もし興味があるとするならば、父親を殺したか殺さないか、殺したなら何故か、それだけだよな。でもそれもネット上の写真が消され、僕が捕まるかマスコミが飽きた時点で全て終わる。食卓で少しは話題に上ったはずの僕の存在なんて、誰も思い出さなくなる。親殺しなんて、一年を通せば何件も起こる。そして来年になれば、来年の親殺しの事件が世間を騒がせる。僕の騒ぎと同様に、僕の事件は思い出されもしないのに。そうだよ、世の中は、僕が日々何を考え、どんなことに悩んで、どんなことに傷つき、どんなことに喜ぶのか、そんなモノに興味はない。世界の誰も興味ないよな。仕方がないね。僕の口癖だね、仕方がないは。でも彼だったらわかるのかもしれない。僕の体を欲している彼だったら、僕の気持ち、わかるのかもしれない。教えてくれるなら、儚さを教えてくれるなら。仕方がないじゃない、そういうモノでしかないんだ、人間はって。バカな僕に教えてくれるなら、僕は体を君に捧げられるよ。「教えてやるよ」「えっ?」今までみたいなんかじゃない。声の彼は間違いなく、いる。どこかは云わなくてもわかるだろう。そうだよ、僕の体の中だ。この中に居る彼が、間違いなく僕に話し掛けてきた。気のせいなんかじゃない。まやかしでもない。「おまえは俺からは逃げられないんだ。死ぬこと以外で、俺から逃れることは不可能なんだよ」ガクガクするよ。足がガクガクで立っていられない。「怖いんだろ?俺のことが、そして暗闇が」「怖いよ、こわい」「目の前、見てみなよ」「くらい」「そうだ、真っ暗闇だ。おまえはこの先、ずっと暗闇の世界を彷徨うことしか出来ないんだ」「本当に暗いよ」「人は光を持ってても、他人のことしか照らすことが出来ない。自分自身に光を当てても、肝試しでやるだろ、自分の顔に光当てるやつ。そうするとどうなるか?それはお化けになっちゃうんだ。おまえみたいに自らに光を当てることばかりを考えてきたヤツは、お化けになっちゃうんだよ。誰もおまえを照らしてはくれないよ。お化けなんて怖いもん。だから誰かがおまえに光を当ててくれることはもうない。これは仕方がないじゃない。自業自得、現実の話、それ以上でもそれ以下でもない」「どうすればいいの?」「解決策は一つだけだ」「死ぬこと?だろ」「そう、おまえが死ねば、俺から解放される、暗闇からも解放されるんだ」

 彼の声が聞こえなくなったのは、東の空が赤みを出し始めたから。歓楽街の出されたばかりの生ごみの温かさで、真夏に暖を取っていた。「退いて、何でこんなところで寝てんだよ」ゴミ収集車の若者が、僕の体を無理矢理に起こした。彼のなすがままに委ねたら、真横のコンクリートの上に捨てられた。この野郎と思っても、やり返す度胸も気力もない。心の奥底で静かにそう思うだけ。少し経って、やっと暗闇がいなくなって、ホッと出来たのに、僕の真上を怪訝そうな顔が数個だけ通り過ぎる。でも大半は無視。ただ真上を行ったり来たり。邪魔だけど、こんな人間に関わりたくないといった風に、僕の真上を僕の存在そのものを否定した人々が通り過ぎて行く。明るくても暗くて同じじゃないか。暗闇が怖いんじゃないんだ。誰にも気が付かれないのが怖いんだ。明かりが当たっているのに、みんなに見えているのに、誰も僕だと認識しなくなるのが怖いんだ。だから歩いた。ふらふらしながら歩いた。僕がふらつく度に、近くを歩いていた人間が、サッと避ける。まだ見えている。彼らはまだ、僕のことを認識している。よかった。

 それから辿り着いたアパート。102号室、岸谷優香・友香と書かれた表札。手書きだったことに今気が付いた。ゆっくりと手を伸ばす。インターフォンへと手を伸ばす。良いよね。僕と一緒に不幸になっても、死神に命、とられちゃっても良いよね。そう言ったら彼女たちは頷いてくれる。あの屈託のない友香の笑顔が、優香の冷やかした表情が、最後は良いよって言ってくれる。「パパ」「えっ?」「ガシャ」玄関のドアが開く。「まだ私は認めてないからね」優香は怒っていても、口調で笑っているとわかる。「わかったよ。ゆっくりと時間を掛けて。俺は認められるよう、毎日頑張るから」「早く行こうよ、パパ」友香が手を引っ張っているのだろう。「でもそのパパっていう響き、やっぱりいいな」恰幅の良い男のハニカんだ顔に、「バカね」優香も自然と笑みが零れる。間一髪だった。咄嗟に101号室の前を走り抜け、建物の隙間へ体を押しこんだ。だから優香が何かを感じ振り返ったことも、僕には知る由もない。アパートとアパートの建物の間、そこは僕みたいに薄っぺらの人間じゃないと、入れなかったに違いないほどの隙間しかない。立場が逆で僕がパパって手を引っ張られて、バカねって言われているのを、恰幅の良いおまえはこの隙間で隠れて聞くことも出来ないんだ。おまえが僕の立場だったらバレちまうんだ。でも僕だから隠れられて、バレずに済んだんだ。どうして僕はこうなるんだ。どうしてこんな隙間に隠れることが出きたんだ。一昨日僕が泊った部屋に、昨日はヤツが泊ったんだ。どうして離婚した男がこのタイミングで戻って来たんだ。よりを戻したんだよ。不幸過ぎるだろ、僕って人間は可哀想過ぎるだろ。こんな体がどうして欲しいんだよ。君はどうしてこの不幸を欲するんだよ。わからないよ。二十センチ程の隙間の世界。なかなか居心地がいいと思えた。それでもそこにずっといたいはずもなく、彼らが進んでいった反対へと歩き出した。「太郎」優しく言ってくれたのだろうけど、ちっとも優しくなんか感じられない。だから背中のまま立ち止った僕の手に、「これ洗濯しておいたシャツ。臭いのは取れたと思うから」結局冷やかした彼女でも、手渡されたときに触れた手には温かみがあった。「この前は酷いこと言ってごめんなさい。自転車ありがとう。それと余計な事だろうけど、身内いるんだから、今はそこ頼りな。元気でね。さよなら」そのあとは段々と小さくなる足音しか聞こえなかったけど、僕は一度も振り返っていないから、相手が誰だったのか知ることが出来なかった。涙が流れたのは、また500マイルを口ずさんでいたから。

 もともと僕はこの街が好きじゃなかった。どうしてか、辿り着いてしまっただけだ。警官に追われ、逃げた挙句に流れ着いたんだ。そこからほとんど動いていないのに、馬鹿な警察どもは僕を見つけられない。早く見つけろ、馬鹿野郎。と心で叫び、人の家のフェンスに拾った鉄の棒当てながら歩いたら、「うるせぇ!」と怒鳴られ、謝りながら逃げた。河川敷に腰を下ろして静かな河を眺め、直射日光に目を細めても、真夏の太陽の下でも暑いと感じなかった。上流であんなに澄んでいた水が、下流ではどうしてここまで濁るのかもどうでもよかった。多分誰にとってもどうでもいいことなのだろうと思って少しニヤけた。まだ何処かで自分は大丈夫だと思えた気がしたのに、「どうして父さんを殺したの?」と云っても彼は答えないから、それが重荷になった。結局僕のせいなんだろうし、警察で無罪になっても、妹は、世間は、親殺しのレッテルをおでこに垂れ下げて貼り付けたまま、僕という人間をその紙きれだけの存在にするのだろう。精神病で無罪になっても、世間の誰も、僕を無罪だとは思わないじゃないか。死神が言った通り、この体を乗っ取る男の仕業ですと医学的に認められても、人々は僕の眼を見て、手を見て、恐れを感じるじゃないか。さっきまでは世間から自分が消されることを恐れた僕が、今は世間に居続けることに恐れをなしている。矛盾していると思われても仕方がないけど、矛盾などしていない。僕そのモノを見てくれていないじゃないか。僕という人間を全く見てくれていないじゃないか。そんなことよりも、そんなことよりも、どうして父は僕らに嘘をついたんだ。母親が家を出てから一年後に、どうして母さんは死んだって嘘を僕らに着いたんだ。もしかしたら彼女が再婚をしたから。だから僕らにとっての母親はもう居ないという意味だったの。それとも僕が泣いていたから、ずっと泣いていたから。お母さんに会いたいって、ずっとずっと泣いていたからだね。父さんは淋しかったんだ。今の僕のように、それでも彼は育ててくれた。父さんに会いたい。それはおかしいね。あのとき僕は父の首を絞めたんだから。どうしてそうしたんだろうか。父さんが苦しがって血管が浮き出ても絞め続けた。口から唾液みたいのが出たから、それが手に着いて投げ出しただけだ。あの瞬間は間違いなく、僕は父親を殺そうとした。でもそのときだって、彼は僕を誘導し、巧みに殺意を起こさせたんじゃないか。いや違う。僕自身が抱いていたものなんだ。元々心の奥底に抱いていたものなんだ。今は後悔している。父親を失ったことを後悔している。死ぬ前に気が付きたかった。彼を殺してしまう前に気が付きたかった。ごめんなさい。

 立ち上がり僕があとにした河川敷で、今朝方男の水死体が上がった。僕がいつも見ている河から上がった水死体の指には、バンドエイドが巻き付いていた。しかし彼は水が汚いから、だから死んだわけではなかった。胸には刺し傷があって、それが致命傷になって死んだのだ。そんな彼を大きなどぶ川は優しく包み、彼を岸へと運んだんだ。

その事実を聞かされたのは、街を歩いているときに、話し掛けてきた婆さんによってだった。最初、婆さんは道を訪ねてきた。「市立病院に行くには、どこへ向かえばいいですか?」その答えは、市立病院だろとは、本当に困っていそうな婆さんを前に言えなかったが、自分もここは不馴れな土地であることを伝えた。婆さんは困った表情のまま動かなくなった。助けを求めようと辺りを見渡しても、こんなときだけ誰も僕のことを見ない。「お巡りさんに訊いた方が早いかね?」「そうですね」ここは丸投げで切り抜けようと考えた。「お巡りさんっ」腰が曲がった体勢で、何処からそんな大声が出るのかと感心している場合ではない。「ちょっとっちょっと」婆さんを覆い隠すように、彼女が声を張り上げた方を塞ぎ、「どうして焦る、悪さでもしたか?」その問い掛けには反応しないまま、体を捻った。そこには確かに、コスプレではなさそうな警官の衣装を着た男が歩いていた。「お巡りさん、パトロール中だから、僕が案内しますよ」「でも不慣れなんだろ?」厭らしく笑うその顔が憎らしくても、「でも、市立病院は今行って来たばかりだから分かります」無理矢理話を進め、もう一度警官の方を見た。幸い、婆さんの大声も二十メートルほど離れた彼に届く前に、間を歩く大勢の雑音が掻き消してくれたようだった。「お巡りさん」婆さんがまた声を張り上げる。流石に周りの人間も足を止め、こちらを見る。「私立病院はこっちです」婆さんの手を強引に引き、警官や不審そうに僕らを見る周りから逃げるように、近くの路地を曲がった。「大丈夫ですか?」一人のサラリーマン風の男が、親切にも声を掛けてきた。どうやらさっきの光景を見て、付いて来たようだった。「大丈夫ですよ」苦笑いでそう答えた僕の体を避け、婆ちゃんと面と向かうと、「何かされたんですか?」と僕を牽制する。婆ちゃんがチラッとこっちを見たあとに、「大丈夫じゃ、この若者とはちょっとした知り合いだから」「そうなんですか?」拍子抜けと顔に書いた彼が、僕の顔を一度覗くと何も言わずに立ち去った。「僕で遊んでます?」薄笑いを浮かべた僕に、婆さんはニヤリで返した。それから彼女が手に持っていた手書きの地図を見つけ、雑な印象から合っているのかも不安になったが、それを借りて、彼女の手を引きながら市立病院を目指した。五分ほどで着いたそこは、薄汚れた白の壁が印象的だった。「着きましたよ」「案外近かったな」そうボヤく婆さん。別れ際に、ありがとうと言った婆さんが、「この町は今、悪魔たちが流れ着いているから気を付けた方が良い。それも三人もね。ご存じだろ?今、日本中を騒がせている殺し屋。大岡川の殺人鬼、千滝町の親殺し、オートロック破壊の飢えた死神。今朝方、川で上がった死体、三人のうちどれかが殺されたんだと、私は踏んでんだよ。負けたんだろうね、悪魔の決戦に。どうやら、弱いモノからどんどん消されていくみたいだから」と嬉しそうに教えくれた。「どうして、そう思うんです?」見透かされている気がした。「殺されたの、うちの宿の客だったんだよ。二週間ぐらい居たんだけど、死んじまったからカネ回収出来なくて、こっちは商売あがったりだよ」彼女にも死神を見た気がした。「そうですね」それだけ言って立ち去ろうとすると、「うちの宿、田中旅館っていうんだ。良かったら今度、泊りに来なよ。あんたなら大歓迎、安くしとくからさ」「あっ、はい」後退りしながら頭を下げた。別れてからだいぶ歩いた先で一度だけ振り返ったが、相変わらず彼女は片頬に笑みを浮かべ、こっちを凝視していた。婆さんの話を聞いていたら、昨日の夕方、河川敷で、僕があげた自転車に乗った友香と話しをしているのを見かけた死神は、そのときあの河川敷で何をしていたのかを想像して鳥肌が廻った。でもそれも僕の為だったような気もした。だから申し訳ないと思った、彼女になのかバンドエイドの彼になのかは導き出せなかったのだが。それと、調理師の二十五歳の大岡川で殺された女性に「良かったね」と言った。今回殺された男がその犯人だなんて、あの怪しい婆ちゃんの言葉だけだから根拠もなければ証拠もない。僕の知らないもう一つの事件の犯人は、飢えた死神と名付けられていたから、心の中で死神の女だと確信した。良かったと言ったのは、事件が重なったことで調理師の女性は新聞の三十八ページ3×4のスペースではなく、紙面も飾りかねないからなのだが。紙面飾ったからって、死ぬ痛みや恐怖が減るわけもないのだから、甚だ失礼な言葉だと、顔も知らない彼女に謝った。

訝しげな婆ちゃんと別れたあとも、何時間も彷徨った。暗闇の足音を伝える東の空も気にならない。西の赤い夕陽を綺麗だとも感じない。今日という日が僕にとって、意味をなしたのかってことも、不安にもならない。

 夜になった。やっぱり暗闇が怖いと思った。「見付けられたね」「うふふっ」彼女は笑うだけ。「ずっとここに居たんだ」「うん」「探さないんだね?」「淋しかった?」「別に」「戻って来ることわかってたから、探しに行っちゃたら、行き違ったとき、悲しい思いさせちゃうでしょ」「でも死神なら、一発で居場所わかるんだろ?」「わかりっこないよ。私は何の力も持たない死神だもん。神様に嫌われた死神だもん」「神様が嫌う死神っているんだ?」「稀だけどね」彼女は昨夜座っていた場所から一ミリも動いていないんじゃないかと思った。その横に座って、星空の下で無意味な会話をまたした。

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