第11話 500マイル

 封筒に手を置いた。すぐに中を見た。十万円入っていた。親の遺産としては少ないと感じたが、今の僕にはありがたい。それで何をしようかと考えた。死神の女が言っていた、七日後に五百マイル北の行き止まりに来いと。その為の移動するカネとも考えたが、それ以上に、あの親子に礼がしたいと思った。店内の壁に掛けられた時計を見た。まもなく一時になろうとしていた。友香が公園に来る時間は五時頃だと、優香は言っていた。あと四時間もある。調べものがあったから、ハンバーガー店を出ると、近くにあったネットカフェに入った。

受付で適当に名前と住所を書き、身分証は忘れたと答えた。カウンターの男性は僕の顔を何度も見ていたが、彼は僕の顔に、ピンとは来なかったようだ。捕まってもすぐに釈放されるからか、僕も先のように下を向くことはなかった。何なく店内に通されると、すぐにインターネットを繋いだ。そこで調べたかった五百マイルという距離を調べる前に、もっとも気になっていたネット上の僕の顔を探した。横浜の父親殺し殺人、そう検索すると一万件以上のヒットがあったことに驚かされた。中には僕以外の過去の事件もあるのだろうと、今度は、横浜で父親を殺した息子、で検索しても、一万件を悠に超えていた。そんな一万件もの大半が旬な僕のモノだろう情報の先頭に見付けた、父親を一刺しで殺した息子の写真の文字、汗ばみ出した人差し指でそこをクリックした。体温が微熱では収まらないほどの上昇を感じ、そのせいで頭がふらつく。写真捜索が終わったらしく、いよいよ顔が出る。画面から目を背けたいと体が懇願している。日本のみならず世界中で見ることが出来る僕の顔写真がまもなく現れる。「あっ」漏れた声とは対照的な結果。画面に僕の顔が出ることはなかった。もう消されたあとだった。人権を守る立場の人たちの力によって、僕の顔写真は抹消されたあとだった。念のために他のモノもクリックしたが、どれも写真そのものが出ることはなかった。それでも僕が逃亡を始めた一日目以降の二三日間は、今は黒いだけの画面に僕の写真は載っていたのだ。いつかの卒業写真ということが多いのだろうが、高校生でも十年以上昔だ。写真を興味本位でパッと見ただけの人間が、十年後のその人間の顔を街で見掛けただけで果たして気が付けるだろうかと思ったが、先日、二人の男に声を掛けられたことを思い出した。興味を持っていれば気付けるものかもしれないと結論付け、五百マイルの距離を調べた。しかしヒットするのは、500マイルという歌。元々はアメリカの歌だったモノを、忌野清志郎が日本語の歌詞を付けて歌った歌らしい。せっかくだからと聴いてみた。その曲に鳥肌が走った。その歌を過去に聞いたことがあった。一度や二度じゃなく、何十回か何百回、とにかく沢山聞いたことがあった。忌野清志郎は結構好きな歌手だから、色々知っている歌はある。CDも何枚か持っている。しかし500マイルという歌はなかった。だから本人が歌っていた映像を見ていても、頭の中には覚えが全くない。しかし僕の心にこの曲は既にあって、それが何故か心に自然と居座り続けていたのだろう。僕自身が全く思い出すことを忘れても、その曲は心に生き続けていた。望郷の念にも似た思いを抱きながら、五百マイルが約八百キロメートルだとわかった。それから横浜から八百キロメートルも北に離れた場所が何処なのかを調べた。それはすぐにわかった。八百キロ以上離れてはいたが、死神という存在が一番安堵できる場所、それは恐山だ。あの時彼女は、七日後に恐山へ来いと言いたかったのだろう。では何故回りくどく、五百マイルと伝えてきたか。それも日本人が馴染みの無い距離単位で。それはゲームだ。人間心理を突いたゲーム。マイルをキロメートルに換算する第一段階を踏ませ、約八百キロだという情報を手に入れる。そして横浜から八百キロ北ということから紙面上かあるいはネット上で地図を広げさせて、そこにある場所が恐山だと導かせる。そこに何の意味がるのか、それは受け取る側である僕に対するインパクトの度合いだ。父親の死体を前に動揺した僕に、七日後恐山に来いでは、インパクトに欠けるだろう。死体を前に恐山では、霊場だけに霊を弔いにでも行くのか程度で終わってしまう。しかし七日後に五百マイル北に来いだったら、マイルを使うことで約1.6キロとわかる人間だったとしても、その瞬間に八百キロだとピンとくる人間はなかなかいないだろう。長々と考えてしまったが、つまりは全くピントを合わさせないことで漠然としたイメージを植え付け。教えられるよりも自ら調べた先にある答えにインパクトのある名前を持ってくることで、何倍もの相乗効果を狙ったのだ。そこまで考えていたであろう死神に厭らしさを覚え、それに気が付いた自らにニヤけた。恐山へ行く道を調べ、明後日の朝一番で行けば辿り着けることがわかった。死神は七日後の何時とまでは言っていなかったから、その日のうちに着けば大丈夫だろうと考え、パソコン画面の時間が既に四時半を回っていたことを見つけ、電源を切った。料金は一晩過ごせる金額よりも高く付いたが、今の僕には気にならなかった。ただ妹から渡された封筒から福沢諭吉一枚を取り出した時、淋しいモノを感じた。一万円を出すことへの抵抗感ではなく、お金が減ってしまうからでもない。このお金の持つ意味を考えたからだ。この十万円は、今の僕には父親そのものなのだ。確かにロケットのペンダントはある。これは父の形見でもあるのだろうが、母の遺骨の粉が入っている以上、母親の形見だという思いが強くなる。そうなると、妹に全てを持っていかれた今、父親はこの十万でしかないのだ。妹を責める気はないから、今後、異議を申し立てるつもりもない。それでもこの後に食事も取るし、親子への感謝もしたい。恐山への電車賃もある。お釣りを受け取ると、封筒には一枚だけを残し、残りの八枚とお釣りの札と玉を後ろのポケットへと入れ、残った一万円札一枚を封筒のまま、前のポケットへと静かに仕舞った。

 外に出ると先よりは多少気温が下がったのだろうが、相変わらずの蒸し暑さにどっと疲れを覚えた。肩を落とし背中を丸め、ゆっくり歩きたいと思った。でもそれをすると喰われてしまうと誰かが言ったので、今日も胸を張って空を見た。そんな気分じゃないよと日差しに顔を顰めた。百メートルほど歩いたところで、まだ男は立っていた。金網の向こうで。ずっとそこに居たのかちょくちょく廊下に出ているのかは知らないが、僕が前を通るとき、男は外で煙草を咥えている。見た目は僕よりも若い、水商売風だった。夜働き、この時間、いつもは眠っているのだろう。しかし昨日出ていった同棲中の彼女が戻らないから、眠れずに金網の前に顔を出すのだ。目が合い、男は部屋へと戻った。どうしてよく目が合うのかと辺りを見たら、ほとんどの人間が下を向いていたことに気が付いた。顔を上げていればひそひそ話されないのは、顔が合わないからというのも大きな要因のようだ。

商店街を出ると、公園までの道は住宅街ではなく河川敷を歩いた方が幾分涼しいだろうと考え、そっちへ向かった。川沿いに着き、最初は微かに聞こえる水の流れる音に涼しさを感じた。しかしここは海まで間もなくの流れが穏やかで、水も澄んでいない下流付近だ。だから水温さえ高い。それに気が付いたとき、自分が歩く先に橋げたの下一ヶ所以外は日影が全くないという現実に、感じた以上の汗を体が放出していた。やっと見えた田嶋富士の頂に立つ、小さな木を右手前方に見付けた。十分かそこいらで着いたが、派手な犬入りのシャツが汗でぐっしょりになっていた。公園の階段を上りながら、見えてきたジャングルジムとブランコの方に目をやった。そこには公園に着くだいぶ前から叫び声を轟かせる子供たちの、活発に動き回る姿があった。そしてその親たちの夢中で話す笑い声も、子供たちに負けないぐらいけたたましかった。まさにそこは田嶋野外ステージと化していたが、僕の登場で親たちのトーンだけが、数人がこっちに向けた目線と同時に小さくなった。気にすることなく友香の姿を探したが、数少ない遊具にもドッジボールらしきことをやっている子供たちの中にもなく、桜の木の下で涼んでいる中にも姿はなかった。僕がいつものベンチに向かう途中、真上にあったスピーカーから、遠き山に日が落ちて、の歌が流れてきた。それを合図に、散々子供をほったらかしていた親たちが、自分の子供だけを呼び寄せると、挨拶をほどほどに公園から出て行った。数人の子供と母親が二人だけ残っていた。すると昨日三人で歩いていった方から友香の姿が現れた。ホッとしながら彼女の姿を目で追った。公園に入るなり、二人の女の子が彼女に話し掛け、三人で砂遊びを始めた。そのほのぼのとした光景を見詰めたが、彼女は遊ぶことに夢中で、僕の存在には全く気が付いていないようだった。しかし十分程で一人の女の子が、「もう帰らなきゃ」と立ち上がりさっさと立ち去った。すると二人の母親も自分の子供のところへと向かった。ブランコで遊んでいた男の子へと向かった母親が公園を出ると、その男の子と一緒に遊んでいた子たち数人も帰って行った。友香と一緒だった女の子へと向かった母親が友香に何かを話し掛けると、こっちを一瞥した。それに釣られ彼女もこっちを見ると、「あっ」と立ち上がり、僕に向けて手を振った。友達の母親が友香に何かを話し掛けると、彼女は、うんと聞こえそうなぐらいに大きく頷き、友達の子に手を振りながらこっちへと向かってきた。その親子が公園を出ると、ここには友香と僕しかいなくなった。走って来る彼女を見ながら、今出て行った友達の母親は、友香が僕のことを知らなかったとしても、このまま彼女一人をここに置き去りにしたのだろうかと気になった。「いたんだ」そう言って笑った表情が本当に嬉しそうに見えたから、僕も気になることを忘れ笑顔で迎えた。「待ってたよ」そう言うと、「そっか」と彼女は微笑んでいた。そのあとブランコやジャングルジムはもう飽きたと言った彼女と、これから何して遊ぶかを考えた。「この田嶋富士、登ったことある?」と尋ねると「あるよ」と興味なさそうな回答が返ってきた。「よく登れたね」それでも驚いて見せると、「うん」少しは興味が上がったと感じたが、「上からの眺めどうだった?」と聞くと、「大したことない」結局、僕以上に彼女がこの田嶋富士に興味を抱くことはなかった。まぁほぼ毎日この公園に来て、この小さな丘をいつも目に入れていれば、つまらないモノにしか見えなくなるだろうと察した。「じゃあ、美味しいモノでも食べに行く?」と言うと、一瞬で笑顔になったが、「太郎、お金ないじゃん」何故か呼び捨て、「大丈夫、任せなさい」と答えると、「でも、お母さんがいないから」と言った。だから、「じゃあ、お母さんが来たら、三人で美味しいもの食べに行こう」と提案すると、「うん」ここでも大きく頷いた。「何が食べたい?」「そうだな、ハンバーグ!」子供らしい発想だ。「せっかくだから、もっと高いもの食べに行こう」と言うと、ハンバーグは一番高級品だと頬っぺたを膨らませていたから、そうだねと宥めた。ハンバーグが一番の贅沢だと言った彼女に図々しくも同情してしまった僕は、「じゃあ、友香は欲しいものあるか?」すると、「自転車」と元気よく答えた。「じゃあ、お母さん来るまでまだ時間あるから、それ買いに行こう」「いいの?」訝しげに覗き込んで来た。「いいよ」と笑顔で言うと、「やった」と元気よく飛び跳ね。僕の手を引っ張り出した。

 彼女の先導で駅近くのスーパーへとやって来ると、通い馴れているのか、すぐに自転車売り場の前に辿り着いた。「スムーズに来れたね」と言うと、「何度もお母さんと来てるもん」と言った。「どれが欲しいの?」と聞くと、「どれでもいいの?」と子供なりに恐縮していた。頷く僕を見るなり、「じゃあ、これ!」既に決めていたようだった。三万円台の金額に、子供の恐縮度合いの低さに苦笑いを浮かべながら、「わかった」と答えた。恐山までは二万円ぐらいだから大丈夫だと腹を括った。しかしすぐに友香は浮かない表情に変わった。どうしたのという顔をすると、「でも、お母さんが今度の誕生日に、これ買ってあげるって言ってたんだ」それは一万円台後半の自転車だった。そこに二人のお互いに対する気遣いを感じた。「友香、そろそろ誕生日なの?」「うん。明日」「じゃあ、すぐだ」「うん」いつからか誕生日というモノを待ち遠しいと思わなくなった。あと何年かしたら、来て欲しくないと感じるのだろう。一番は歳を取ることが嫌なのだが、もし自分に幸せな家庭があれば、自分の誕生日をお祝いしてくれる笑顔があれば、誕生日も目の前でそれを待ち焦がれる少女のように、自分にとっては特別な記念日なんだと、もう一度感じることが出来るんじゃないだろうかと思えた。だから、その思いを一緒に味わいたいと感じたから、「よっしっ、じゃあ、友香が一番欲しかった自転車、買っちゃおう」「良いの?」「うん。お母さんには他に欲しい物を買ってもらえばいいじゃん」「うん」会計を済ませ、友香の誕生日である明日届くように配達を頼むと、大きく腕を振ってスキップをしながら手を繋いできた彼女に付き合いながらスーパーを出た。辺りはだいぶ暗がりに変わっていた。時刻は七時になろうとしていた。「ヤバい、お母さん、公園に迎え来ちゃうね」僕が気が付くと、「そうだ」嬉しさでそのことをすっかり忘れていた彼女の顔が青ざめたが、一番欲しかった物を手に入れた喜びですぐにそれは打ち消されたようで、結局スキップで公園まで向かった。公園まであと少しのところで「友香っ」悲痛な母の叫び声に、流石に二人で青くなった。走って向かうと、さっき最後に別れた母親もそこにいた。「お母さん」友香は叫び、僕の手を離すと一目散に母へと走った。辿り着くなり、「何処行ってたの?」いつもの母じゃなかったことで、抱き付けなかった彼女が固まった。「良かった、じゃあ私は」そう言って友達の母親は、僕にも一礼して家へと戻っていた。優香の怒りはまだ収まってはおらず、その矛先は僕へと向いていた。「ごめんなさい」頭を下げながら近づくと、「確かに、この子と遊んでやってくれとは頼みましたが、でも私が迎えに来るこの時間に公園を離れたら、私が心配することぐらいわからなかった?」敬語が混じっていたことで、怒りは相当なものだと悟った。「ごめんなさい」「謝って済むことじゃない」「はい」「もういいです」フンッと背を向けた。「ごめんなさい」友香も謝っていた。「で、何処行ってたの?」怒りは少し収まったと感じた友香が、「スーパー」そう答え、「今夜、太郎がハンバーグ食べに連れてってくれるって」そう付け加えた。その通りなのだが、何故か気まずく感じた。「スーパー行って、何したの?」二人が買ったモノを何も持っていなかったことで不審がった。「自転車」声を張り上げた友香とは対照的に、僕は気まずさが頂点に達していた。「自転車?」友香の言った言葉が聞こえなかったはずはない。母はもう怒っていないと思い込み、嬉しさを前面に出していたのだから。「うん」「自転車は、お母さんが明日の誕生日に買ってあげるって約束したじゃない?」友香がまた固まった。「ごめんなさい。誕生日だと聞いたもので、何かを買ってあげたくて。お母さんには他に欲しいモノを買ってもらえばいいって、僕が言ったんです」正直に伝えた。「幾らの自転車、買ったの?」友香を見ながら、僕に聞いていることは明らかだった。「確か……」金額ははっきり覚えていた。「確か……」「だから、いくら?」「三万円です」彼女の威圧感に屈し、思わず答えていた。それでも少しだけ誤魔化しも入れた自分が小さく感じた。「同情してんの?」相変わらず友香を見ながらだったが、「貧乏者に、ホドコシのつもり?」怒りに震えた目が僕に向けられ、僕を捕らえた。その目は微かに光っていた。「そんなつもりは?」目を丸くして否定したが、「貧乏でも頑張って生きてるの。人様に迷惑掛けないように生きてんの。ウチで一泊したからって、他人のあなたに同情されるいわれはない」そして友香の手を強く掴むと、僕に背を向け、昨日は三人並んで歩いた道を昨日の何倍もの速さで、二人だけで歩いていった。友香は何度もこっちを振り向いていたが、彼女に今の母親を宥める術がないことぐらい、大人の僕はわかっていた。どんどん小さくなる二人の背中、いつしか振り返る友香の顔さえわからなくなる。そして二人は僕の前から去って行った。今晩のハンバーグもなくなった。

 「余計なことしちゃったね」肩を落とす僕の背後で、そんな女の声が聞こえた。振り返ると、そこには誰もいない。咄嗟に死神だと悟る。「ここからの眺めは、なかなかね」そう言われて上を見上げる。田嶋富士のテッペン、目印のあの木の前に遠くを見ている女が立っていた。「こんばんは」今度は僕の顔を見て云われたから、「こんばんは」と返した。小さな声になってしまったが、彼女に気にした様子はなかった。「上がってきなよ」今の心境であの急勾配を登る自信はないから、無視して、富士山の麓を抜けてベンチに座った。「おいおい」何故か彼女は楽しそうだ。「泣いてるの?」死神にしては少しだけ感情が籠っていると感じた。「泣いてなんかいない」そう答えると、「惚れたんだ?あの子持ちに」「そういうのじゃない。それにその言い方やめろよ」「でも、好きだったんでしょ?」「あの親子はすごく良くしてくれたから、だからお礼のつもりだった」顔を上げると、死神の姿は消えていた。「あなたは、女心もわからなければ、親心もわかってないね」もしかしてとベンチから立ち上がっても見えない。正面まで走ると、そこに死神は座っていた。暗がりの中でも、どうしたのという顔をしているとわかったから、「見えなくなったと思ったのに」そう零してベンチに戻ろうとした。「そうだよね。あなたにとって、死神である私が見えなくなれば、命、繋がるもんね」その通りだから、「うん」と頷いた。彼女が悲しんでいると感じたが、微かに届く街灯のせいだろうと思うことにした。やっぱりテッペンからの景色が見たい衝動に駆られたから、目の前に壁のようにそそり立つ田嶋富士へ向かった。三歩目までは登ったが、四歩目の足を進めた瞬間、重力がいつもの何倍にもなって襲い掛かってきた。堪らず体の向きを変え、勾配を下った。「あはははっ、情けない」彼女は僕に人差し指の先端を向けながら、馬鹿にした笑いをした。それに腹が立ったから、数メートル後ろに下がると、猛然とダッシュして再度チャレンジをした。その力を利用して、壁を一気に駆け上がった。あと一歩のところまで来たときに、さっきの重力が襲い掛かってくる。駄目だと体を反転させようとした瞬間、彼女が僕の手を掴んだ。それでも彼女が僕の体重を支えられるはずもなく、「うわーっ」僕の体がどんどん頂上から遠退く。踏ん張ったのだろう彼女の体も、宙へと引っ張り出される。「キャーッ」死神らしくない、女の子のように悲鳴を上げ、僕と共に奈落へと落ちていった。急勾配を下りながら彼女を抱き寄せた。勿論、そのときは無意識だった。着いたのは砂利の上。芝生の田嶋富士を一気に転がり落ちていた。体の節々に痛みを感じた。気が付いた彼女が「あっ」と零し、急いで僕から体を離した。「ごめん」咄嗟に謝った。「謝らなくって良いよ。死神に感情はないから」あっちを向いている彼女が言った。「そっか」それから互いに顔を合わせないまま、少し続いた沈黙のあと、「どうやって登ったの?」僕がそれを打ち消した。「普通に」そう答えた彼女は立ち上がり、ほとんど助走も付けずに一歩一歩を着実にテッペン目掛け踏みしめていた。彼女のロング丈の白いスカートが、そこから滑り落ちたら間違いなく捲れるぞと、心配と期待の入り混じった思いで見届けた。人の心配と期待を他所に、あっという間に彼女の体は頂にあった。優香には感じた罪悪感を、彼女には感じなかった。死神だからかと、一人納得をした。そして頂上で振り返ると、「ねっ」自慢げにではなく、僕を勇気づけるように、そう言った。それで出来る気がしたから、彼女のやり方に倣って登ることにした。山の麓で一度深呼吸をすると、「よっしっ」気合を入れてそれに立ち向かった。一歩一歩足を振り下ろす度に大地を足の裏全体で掴み取り、それを力一杯突き出した。そして頂上の一歩前まで来たとき、今回も重力が僕の背中を引っ張った。堪らず彼女が手を差し出したがそれは掴まずに、膝を曲げて状態を低くし重心を下げ、山の表面、頂きの地面に飛び付いた。そこからも力は抜けなかった。両手で芝生を掴み捥げれば、他を掴みどうにか頂きへと体を押し入れた。彼女が背中を引っ張り上げてくれた。そして僕は頂きに立った。彼女が悠々と登れた坂道を僕は額に汗して、彼女の力も借りてどうにか登り切った。

 そこからの眺め、最初に登りたいと感じたときに(一人で登れていたらの話)登っていたら、多分この眺望にがっかりしていたのだろう。でも今は友香が興味を削いでくれていたから期待が半減していた分、そこからのマンションやアパートや一軒家、街灯、商店の灯りが静かな中にしんみりといたから、綺麗だと思えた。そしてその先の暗闇が一層手前の住宅街の明かりを際立たせていた。あの親子の今を、僕はもう知ることが出来ない。せめて明かりだけでもと思ったが、一階だったことを思い出し、見えるはずないと決めつけ、街の夜景から目を外した。「あれじゃない?」横に立って、同じようにそこからの眺めを見ていた彼女が言った。「何が?」「だからあなたが探している、明かり、多分あれだよ」彼女が知っているはずがない。でも彼女は死神だ。ひょっとすると、「どれ?」思わず訊いていた。「あそこのコインランドリーって書かれた看板の下に見える街灯の横、同じ大きさの光が縦に並んだ二つの光の下」確かにアパートの一階のようだった。彼女の言うことに真実味を感じ、「本当だ、あった」素直に受け入れ喜んだ。それでもわかっている、彼女は死神でも、あの二人の住む家の灯りを、この明かりの中から見付けられるはずがないことを。そして彼女は死神でも、僕に優しさをくれたことを。満足がいった僕は、立っていることに疲れてその場に座り込んだ。そこからでも街の明かりはまだ見ることが出来たが、さっき彼女が教えてくれた二人の家の明かりは、この高さでは確認することは出来なかった。それでよかった。

 風が気持ちよく、二人の間をすり抜けて行った。相変わらず立ったままの彼女が、「そのペンダントネックレス、どうしたの?形見でしょ?」見上げたときに見えた彼女の顔は、冷めきった表情だった。「どうして知っているの?」彼女は死神だからと答える代わりに、口角をキューッと吊り上げ八重歯を覗かせた。夜風に当たって幾分冷やされた僕の体は、背筋に一滴の汗が滴り落ちたことで、一瞬にして冷え固められた。腰を下ろした彼女が、僕と同じ目線になる。天使と悪魔の顔を持ち合わせる女は、一瞬にしてそれを入れ替える。それを彼女が意識してやっているのか、無意識なのかはわからない。僕は真横にある彼女の顔を、今はもう見れないでいる。恐れていた。さっきまで二人でいる時間が楽しいとさえ感じたはずが、今は体が微かな震えとなってそれを伝えている。「そのペンダント見せて」見せたくなかった。見せてしまったら二度と返ってこない気がした。「大丈夫だよ。骨を食べる趣味ないから」彼女は何でもお見通しなんだとわかった。「はやく」今はまだ柔らかく云ったこの言葉が、彼女の豹変のバロメーターを計る物差しのように思えた。このあと何度か繰り出される、はやく、に込める彼女の感情のバロメーター。そう踏んでいたのに、「貸して」口調は優しいまま、彼女が僕の首からそれを剥ぎ取っていた。残った首筋がひんやりとした。彼女の爪が僕の皮を剥ぎ取ったのか、これが死神の体温ということなのかの判断をしかねた。その首筋を、僕のモノでも、すぐに触る気にはなれなかった。「この骨の粉、綺麗だね」僕は彼女の方を見ることができない。さっきは綺麗でも、淋しさという人間の儚い感情に触れながら眺めた街の明かりが、今はぼやけ、綺麗だとも思わない。淋しさも全く感じない。ただ生命の危機だけを痛々しいほどに噛みしめなければならなかった。「あなたには夫と娘がいます。あるとき夫が死んでしまいます。あなたはとても悲しみ、娘と二人抱き合って泣きました。そして葬式の日、悲しみに打ちひしがれているあなたの前に、美しい男性が現れました。聞くと彼は遠い遠い親族であることがわかりました。あなたはその男性に一瞬で恋に落ちてしまいます。数日後、あなたは娘を殺してしまいます。さて何故?」あの質問が、崩れかけた生命の危機に突如現れ、喉を通り、口から出ていた。どうやら頭の中で思考回路がショートしたときに、この質問が出るらしい。僕自身が壊れたと自らが悟ると、それを回避する為の咄嗟に取る行動のように。ペンダントを見ていただろう彼女が、「何それ?」そこまでは余りに一般的な反応に、心底ホッとした。「何故だと思う?」出来るだけ優しく問い掛けた。それは彼女から出される回答も優しいモノを期待したかったから。彼女はポツリと言った。「娘の葬式で、また会えるから」頭をかち割られた。その衝撃が電流となって体の中を流れ、いつしか汗ばんでいた体の至るところで、電流と汗とがぶつかりショートした。その痛みで体を悶えた。「何だったのその質問?正解は何?」興味津々といった風だった。「正解はない」「なーんだ。答え損じゃん」オヤジが言っていたことを、今ありありと実感した。ショートを繰り返した肌で、痛いほどわかった。あの時、もし僕が彼女と同じ回答をしていたら、オヤジはすぐに僕をあの段ボールハウスから追い出していたのだろう。警察に突き出すことだって厭わなかったかもしれない。大切なはずの娘を、惚れた男とのたった一度きりの再会の為に殺したと答えた彼女。僕は痛感した。彼女は、本物の死神だということを。

 そんな二人を公園の入り口から、見つめるソレ。「何なんだよ?君がいけないんだからね。もう殺っちゃうからね。覚悟してね」ひとり地団太を踏み、爪を噛む動作は、ソレが心を乱したときに、平常心を取繕う手段のようだ。しかし唯一の手段なのだろう、指先と爪の間から、ぽたぽたと血が滴り落ちていた。

 「このペンダント、貸して」立ち上がっていた彼女は、既に自分の首にそれを巻いていた。駄目なんて言えない。死神に、返せ、なんて言えないと思った。「調べてあげるよ。これが本当にあなたのお母さんの骨かどうかを」「いいよ」「遠慮しなくていいよ。だってお父さんが持っていたモノを、妹が持ってきただけでしょ?」「専門家に見せたって言ってた」「あなたと兄弟の縁を切るような女だよ。あなたにあげようと思っていたモノに、わざわざ専門家にカネ払って、調べさせるはずないじゃない」彼女の言ったことは最もだった。だから納得がいったのに、「それでも、そんな妹でも、あなたよりは血の通った心を持っている」そう言った自分が今どこに居るのか見失い、どうしてそう言えたのかもわからなかった。妹を悪く言われたことに何故か少し腹が立ったが、それ以上に、例え二日後に恐山で命を取られるとしても、彼女に屈したくない思いが突如目覚めた。死神に命以外で負けたくはないと、己の心が叫んでいた。「私に温かみのある血なんて通っていない。だから、私は死神なの」そして彼女は、空へと羽ばたくように、急勾配を疾走した。砂利の地面に着くと、背を向けたまま立ち止った。「だからあたしは痛みを感じない」そう言った背中が笑っていた。そしていつからか死神の右手に握られたナイフが、微かな光の中でもそれをかき集め、無理矢理に反射していた。その光る先端を、自らの左手のひらに持っていくと、何の躊躇いもなく斬り付けた。飛び出した血を眺めた彼女は振り向き、声を出して笑った。暗闇の中で白く光る顔を一瞥させてから向き直り、公園の富士山と正反対、闇の方へと歩いていった。そして彼女は今回も暗闇の中へと、黒へと消えて行った。

座っていることも出来ないほど、全身の力という力が抜け出た僕はその場に寝そべった。そして現れた空がどんなに星を輝かせ綺麗なモノだったとしても、血がべっとりと付着したナイフの赤い光の方が、綺麗だったと言わなければいけないと感じた。さっきは殺されても勝ちたいと感じた彼女が、今は化け物でしかなく、そんなモノに僕なんかが勝てるはずもなく、そう考えたことさえ分不相応だったと身に沁みた。ハンバーグを食べ損ねたせいで、夕食を何も口にしていなかったが、腹が減ったとも感じなかった。どんなに腹が減ったとしても、この抜け殻のような体を無理矢理に起こしてまで、食べに行く気力がそもそもなかった。恐怖心で固まった心に浮かんだのは、友香は今夜、何を食べたのだろうというものだった。こんなときに僕が笑顔で夜空を見れたのは、優香は怒り過ぎたことへの反省の意味も込め、ハンバーグをあのキッチンで二人並んで作ったのだろと確信したから。最後に友香は笑顔になれたのだろうと思えたから。もしかしたらあの親子のことだから、僕の分も作って待っていてくれているかもしれない。気が付けば上半身が起き上がっていたが、そこから二人の光が確認出来なかったから、結局寝転がった。そして夜空を見上げながら、眠りに着いた。これが僕が経験した最初で最後の野宿になったことを、このときも、そしてこの先も、気が付くこともなければ気に留めることもない。

 瞼を焼き付けるような光に目が覚めた。チクチクが全身を駆け巡った。喉がカラカラだった。遠くにぼやけたラクダのふたこぶが見えた。ここは砂漠だと納得したが、下からもヒリヒリ感じるここは大きなオーブントースターの中かもしれないと思った。まだ夢の中かと疑った。だが下からのチクチクが何かを考え、それを我慢できずに起き上がった。それから辺りを見渡したが、眼下に見えた数人の顔がこっちを見て固まる光景があった。どうやら砂漠でもオーブントースターの中でもないようだ。僕の上に薄手のモーフが掛けられていた。誰が掛けたんだ、と起き上がりもう一度辺りを見渡しが、やはりあるのは数個の驚きの顔だけだった。目の前に青い葉っぱを付けた木がいた。それを見つけ、昨日、田嶋富士の頂に寝そべったまま眠ってしまったことを思い出し、下にあった驚きの表情たちに起こった事態を把握した。ウオサオしたが、それよりも僕に掛かっていたモーフは、誰が掛けたモノなのかが気になった。もしかして優香、とも思ったが、頭に浮かぶのは薄ら笑いの死神の女の顔だった。汗びっしょりの体で身震いをした。よくそれを見てみると、端っこに黒いマジックで書かれた文字があった。そこに書かれていたのは、「田中旅館?」だった。その瞬間、最有力だった優香はなくなった。たとえ貧乏でも、彼女が余所様のモノを勝手に持ち帰るはずがないから。自ら掌を斬りつけたあとに、あの女はここへとやって来て、そして寝入る僕の上にモーフを掛けたということだろう。全く掴めない彼女に、やはり行き着くのは怯える心だった。

 「太郎っ?」遠くの方から僕の名を呼ぶ声が聞こえた。それが二人だったこと、聴き覚えがあったこと、昨日置いてきぼりにされたときに二人が歩いて行った方向からだったことで、優香と友香だと思った。案の定、彼女たちは僕の名前を呼びながら、不思議がる近所の人たちに挨拶しては、太郎っ太郎っと叫び、ハンバーグらしきモノを持った友香と優香、二人手を繋いで公園内へと入ってきた。聴いている方は、名前からしても犬か何かを探しているのだろうと思っていると直感した。零れんばかりの笑みを浮かべたはずの僕が、たった今、咄嗟に体を隠した。昨日置いて行かれたから拗ねているんじゃない。あの包はハンバーグだと思うと突如腹が減ったと思ったし、あの笑顔をもう一度僕に向けて欲しい。そう懇願しても、それを蝕むモノがいた。真っ直ぐのところに笑顔があった。恐る恐る覗いたとき、二人は背を向けていた。友香は相変わらず、太郎と叫んでいた。ここだよと手を上げたくても、二人の背後には死神がいる。僕に気が付くのは、やはり死神。彼女が背を向けたままの二人に、突如ナイフを振り上げた。昨日よりも強力だよと、それは目を覆いたくなるほどの光を放つ。「あっ」そう発した僕の声に、優香が振り返った。彼女は辺りを見渡していたが、あの女の方には目もくれない。死神が見えていないのだろうと胸を撫で下ろした。もし見えていたら、それは慄然とした事実が待っているということだ。だから優香が見えた反応をしなかったことに、一先ずの安心を得た。あの女を見つけてしまった瞬間、死の宣告が待っている。死神は既にナイフを仕舞っていて、笑顔でこっちを見ていることが恐ろしくても、彼女が段々と視界に大きくなっていくのをたじろいでも、二人へと危害がいかないことで安堵した。「田嶋富士の上だ」友香がこんなときに閃きを口にした。僕は何時でも向かえるように、上半身を少し起こした。女が友香の方を睨む。それを悟ったように優香が、「もう学校に遅れちゃうよ。またあとで探そう」そう言って、友香を諭した。昨日怒られただけあって、彼女も渋々ではあるがそれに従った。小さく頷き、二人は僕に気が付くことなく、公園を出て行った。ホッとした。ホッとしたのに、ジンワリと目頭が熱くなった。「びっくりした?」真っ赤に燃えた太陽を遮ったのは、いとも簡単にこの山を昇り降りする、死神の顔だった。「このモーフ、どうしたの?」「何で私だってわかったの?」そう言った彼女の顔が、少しだけ可愛く感じた自分が、あまり好きじゃなかった。「ねぇ、五百マイル北の場所はわかった?」「あぁ」「何処どこ?」立ったままの彼女は、はしゃいでいた。「恐山だろ?死神の故郷みたいなもんだからね」「ちがうっ!」そう怒った顔が、昨日の夜に散々僕を怖がらせたモノとはだいぶ違っていた。どこか可愛げで、頬っぺたを膨らませた口から、ぷんぷん、といった疑似語が聞こえてきそうだった。ただここでぷんぷんと、本当に言われたら興醒めなのだが。「違うよ」「違うの?結構自信あったんだけどな」「じゃあ何処?」「もっと静かで、冷やかしの観光客なんて全然来ない。ねぶたはまあまあ近くの街でやってるけど、一番小さいかな。とにかく綺麗なところだよ」「それだけじゃわからないよ」「じゃあ夜まで時間あげるから、考えて。もし当たったら、そこに行かなくて良いよ」「行かなくても良いの?」「うん」「もしかして、死ななくて良いってこと?」「でもあなたには私が見えているんでしょ?」今更嘘は付けないから、頷いた。「そのときにペンダント返すね。あっ、もし夜にここに居なかったら、あの二人どうなるか知らないよ」「あの二人は関係ないだろ」ニンマリとした死神を睨み付けた。「関係ないよ。でももしかして二人のうちどちらかは、私のこと見えるかもしれないじゃない」「僕は絶対にここに来る。だから安心して。あの二人に危害は加えないでくれ」「本当に好きなんだね」「好きとかじゃないよ。赤の他人だから、そう言われたから、だから関係ない人を巻き込みたくはないから」「わかったわよ。あなたが約束守る以上、傷つけないようにする」一瞬、顔を出した死神をも、今の僕には恐れをなすモノではなかった。あの二人を守りたい一心だった。家族に愛されない僕が、全くの赤の他人にここまで大切に思われているんだ。そんな人たちを守りたい。その思いだけだった。それでも彼女は死神だ。「それと会っても駄目」「二人にかい?」「そう」「どうして?」「私が一人になっちゃうじゃない」僕は鼻で笑ってから、「だって、死神だろ。元々孤独なんだろ?」何でといった表情を向けた。ただ昼間の彼女には死神としての力が半減するようで、言動全てが普通の女の子のようだった。「そうよ、私はずっと孤独、ずっとずっと孤独」「だったら……」そこで言葉が詰まったのは、今感じた思いが、まやかしだったと思い知らされたから。顔スレスレまで近づいた彼女に、表情なんて存在しない。「会ったら、死んじゃうよ。あの二人死んじゃうから」死神に表情はない。僕よりも遥かに小さな体を僕の上へと覆い被せると、さっきまで燦々と降り注いでいた太陽の光を全て遮り、その真下で小さくなった僕に夜の到来を痛感させた。彼女が大好きな闇の世界を。「じゃあ、夜ね」僕に光が戻ると同時に、彼女の体は、既に山の下にあって、そう笑顔で言って、そしていなくなった。その背中はずっと消えることなく、どんどんと小さくなるだけだった。彼女と夜の再開をすることを考えたとき、生きた心地を感じられない。それでも来なくてはいけない。あの二人に不幸を味合わせたくはない。

 「くさーい」「えっ?」下で聞こえた声に反応し、堪らず体を嗅いだが、臭いに馴れた鼻に、嗅ぎ分ける能力など残っていない。見るとまだ小学生に上がらない男の子が、犬の糞らしきものを木の枝で突っついていた。「臭いよ」それを隣に居る女の子が怒るのだが、それでも寄り添うように横に居る。こんなに小さな子供でも、好きって感情があって、傍にいたいって思いが、臭さをも上回るのだ。優香に言われた、あなた臭い、の言葉をどこか懐かしいと感じた。それと同時にあることに気が付き困惑もした。死神である彼女は、絶対に臭い僕に、一度も臭いと言ってきたことがない。その素振りも見せない。そして臭いはずの僕と会いたがる。「優香に対する思いは、嫉妬?」不思議な感じがした。彼女は死神だ。「死神が人間に恋をする?」マンガじゃあるまいし、有り得ないことだ。それ以上を考えると頭がまた変になりそうだと思い、何時間かぶりに坂を恐る恐る下り始めた。が、途中から勢いが増し、それをどうすることも出来ず、砂利に着いたと同時に前へつんのめった。「痛ってー」膝を擦り剝き、スウェットズボンは捲れ上がり、血が出ていた。痛みに耐えながら、実は散々我慢していたトイレへと滑り込んだ。用を足し手を洗った時、公衆便所にしては珍しく鏡が付いていたので、それを覗いた。そこに映るのは、まさにルンペンそのままだった。首筋に血はなかった。取り敢えずは顔を何度も手で洗ったが、たった一日で年季が入った汚れは、水だけの手洗いでは限界があった。風呂にも入りたかったが、何処に行くにしてもまずは服を替えたかった。あんなにカラフルだった犬は、今は見るに堪えないモノになっていた。駅前まで行けばスーパーがあるし、商店街には服屋も幾つかあった。安物なら百円ショップでもTシャツぐらいなら手に入る。でも結局は駅前に行かなきゃどうしようもないか。何かを買うときの癖でカネを持っているかを確かめる。まして昨日は遺産という大金が手に入った。ポケットに五万三千五百二円が入っていた。昨日の出費はネットカフェと友香への誕生日プレゼントの自転車。今日が彼女の誕生日だ。「あれっ、ネットカフェが千円ちょっとで、自転車が三万五千……一万円足りない!」大騒ぎで体中を叩いた。「そうだ」そして前ポケットに入っていたぐちゃぐちゃになってしまった茶封筒の中から、もう一万円札を見つけ、胸を撫で下ろした。この一万円は特別なモノだと決めたからだ。

駅に向かう為に公園を出た。通り過ぎる人ほとんどがジロジロと白眼を向けてきた。いつかの凶悪犯を見付けたときのような眼よりも、もっと蔑んだモノのように感じた。どっちも良いモノではないし、今すれ違ったときにジロジロと見てきた人の中に、もしかしたら父親殺しの犯人かもと思った人間がいないとも限らない。臭い上に汚い身なりでも、今日も顔を上げ胸を張って歩いた。捕まった方が楽なんじゃないの。誰かが耳元で囁いた。その声の主がこの体に居座ったヤツだったかもわからない。気のせいかもわからない。でもそれがもっともな意見だとも思ったが、捕まることはしたくない。自分に降り掛かっている世界が、何なのかを解明するまでは捕まるわけにはいかない。たとえ死ぬとしても、捕まるわけにはいかない。奴の思い通りにはさせない。死ぬとしても、最後まで悪あがきをするんだ。この体が奴だけのモノになるとしても、簡単に手放したくない。塞ぎ掛けていた体を奮い立たせるようにもう一度起こすと、胸を大袈裟だと感じるぐらいまで張り、顔は幾分上を向くぐらいに突き上げた。その勢いのまま駅前まで突進した。途中金網四個分の男の顔はなかった。二人がどうなったのだろうかが気になった。何となく、罪悪感も感じた。駅前にあった服屋に入った。最初に見つけた商品よりもデカデカと金額が書かれた藁半紙の方が目立つ、どっちが売り物かもわからないが、間違いなく安い服屋なのは確かで、黒いTシャツとトランクスのパンツとズボンを買った。おばちゃん店員が嫌そうな顔をしてレジを打っていたが、ここまで安い物を売ってくれる上、彼女も臭さに堪えているのだから、文句は言えないと我慢した。そのまま店のトイレへと駆け込み着替えた。汚れた借り物の服はコインランドリーで洗おうと、一旦袋へと詰め込んで店を出た。体は綺麗じゃなくても、服を替えただけでだいぶ綺麗になれた気がしたし、確認は出来なくても臭いもだいぶ収まっただろうと察した。それでも服だけ綺麗にすると、体そのものを洗いたい衝動に駆られる。ここに来るまでに銭湯があったことを思い出し、コインランドリーはあの親子の家の近くにあったが、それは危険だと感じ、近場にないかを街を歩いて探した。

三十分程彷徨って、結局銭湯の隣にそれを見つけた。洗濯物を洗濯機の中へ入れ、蓋をしてコインを入れた。掲示された三十五分の間に風呂に入ろうと、銭湯の門を潜った。入って気が付いたが、脱衣所で買ったばかりの服を脱ぎながら、平日は夕方からしかやっていなくて、土日だけが午前中からやっていると、元はクリーム色がだいぶ黒ずんだ壁紙に貼られた営業時間の案内の張り紙が教えてくれた。そして今日が土曜日だったことを知った。休日とはいえ、午前十時半ごろに街の銭湯がこんなにも賑わっていたことに驚いた。それ以上に体を洗った後に出た泡が、真っ黒だったことに目を剥いた。流石に湯船には髪も洗い全てを綺麗さっぱりしてから浸かった。いつもこうするべきだろうと、普段はいい加減に済ませていた公衆でのエチケットの大切さをこんなとき実感した。何処の銭湯も、壁には富士があると思っていたが、ここにそれはなかった。代わりにあるのが立派な松の木だった。時間を掛けて体を洗い、ゆっくりと湯船に浸かったことで、脱衣所で気が付いた時刻は十一時をゆうに超えていた。洗濯はとっくに終わっている時間だと思い、急いで服を着て、時間がなくても瓶の牛乳を一気に飲み干してから、ランドリーへと走った。休みの日はここも人気スポットになるらしく、十台用意された洗濯機はフル稼働で働いていた。洗濯済みの服の塊が二つ、店の籠に入れられて中央のテーブルの上に放置されていたが、そこに派手な犬はいなかった。待ちの客の姿はなかったが、時間を二十分以上過ぎているのに、僕の洗濯物はまだ洗濯機の中だった。服の趣味から、どうやら勝手に出されることを免れたようだ。

 乾燥機にも入れ、すぐに返せる状態にはしたが、どう返せばいいのか頭を捻った。直接家の前に持っていこうとも考えたが、運悪く今日は土曜日、家に居る可能性がある以上は気軽に近づけない。宅急便と思ったが住所がわからない。公園に置いておくという手もどうかと思い、ほとんど情報を持たないまま宅配会社に駆け込んだ。「いらっしゃいませ」そこまでは笑顔で迎えてくれたが、住所がわからないと伝えると、怪訝そうな顔に変わった。場所はわかるからと、この辺一帯の地図を見せてくれるよう懇願した。持って来てくれた地図は、本屋で市販されているモノだった。ページを捲り、公園を探した。勿論、田嶋第一公園だ。23ページにそれを見つけると、頭の中で三人で歩いた映像を思い浮かべながら地図上を歩いた。対応してくれている女性職員の顔が、不可思議そうに僕を見ている。多分ニヤけているのかもと口元を締め、地図を進めた。「ここだ、ここです」すると、どれどれと僕の指が示した場所を覗き込み、「今から住所言うから、その用紙のここに書いて下さい」彼女も僕の前に置かれた用紙の上を指で示した。「はい」「神奈川県、横浜市、緑区、……」同じ横浜市内に住んでいるのに、ここに住む人々も公園も店も、町そのものも全く知らなかった。確かに僕は閉じこもりだったが、活発に動いていた時代も、商社マン時代も、自宅と学校周辺や職場、取引先周辺だけをぐるぐるしていただけで、この世界のほんの一粒の世界しか見ていないし、ほんの一握りの人間としか出合えていないんだと、改めて感じさせられた。一期一会、その言葉の意味は人それぞれで受け止め方が違うようで、今まで何人かの熱い人間に一期一会を語られたが、僕の頭に残ったのはたった一つだ。今のその人と会うのは今が最後、次にもし会えたとして、それはそのときのその人なんだ、という考え方。聞いたときは何を言っているんだと思ったが、段々とわかる気がしてきた。でもまだ辿り着いていない。一人の人間をもっと深く知れるまで辿り着けない気がしている。「お客さん?おきゃくさん」カウンター越しに見詰める女性職員に、「あっ、すいません」頭を下げる。考えごとをすると、他人の言葉が耳に全く入って来ないことが良くある。名前の欄に岸谷優香と書き入れ、代金を払いそこを出た。これであの二人とも会うことはないだろう。それから腹が減っていることに気が付き、ラーメン屋でどぎついトンコツを食べ、食後すぐにトイレへと駆け込んだ。

 「おまえ、呑気だよ」今日も僕の後ろにはソレが居て、「そろそろいっちゃうよ。もうやっちゃうからね」ぼそぼそと言葉を漏らす。せせら笑って、指先に巻かれたものがバンドエイドでも、噛み続けた。

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