第10話 由岐から貰った父の遺品

三十分ほどの時間を河原で潰すことにした。何も考えず、ただボーっと水面を見ていた。犬のスウェットは上がTシャツだったが、少し厚手に出来ていて、ボーっとしているだけでも汗はたらたらと流れ出た。ただ幾分、空には雲が掛かっていたお陰で、日差しが少しだけ柔らかかった。

その後ろに立っていた。ジッと見つめるソレもだいぶ汗を掻き、そのせいなのか、ずっと顔を顰めたままだった。

そろそろ待ち合わせ場所に向かおうと立ち上がり、駅までの道を黙々と歩いた。余計な動作は汗を誘発するだけだとわかっていた。途中、昨日の金網マンションがあった。すぐに三階の昨日開いたドアを見た。その前で金網四個分の中に煙草を咥えた男の顔があった。咥えられたままの煙草は、灰を伴ない重たそうにしていた。それでも彼が金網四個分からはみ出すことはなかった。十分程で駅に着くと、約束の改札口に立った。ここまで悠然と行動していた自分に驚かされたが、それに気が付いた途端、制服姿の駅員にビクッとなった。忽ち周りが気になり、周りも僕を気にする素振りを見せた気がした。落ちつけ落ち着けと念じたとき、改札を出る見慣れた女に目が止まった。妹の由岐だとわかったが、安堵した僕とは対照的に、早々、彼女の顔は強張って見えた。疲れきっているようにも思えた。「何処入る?」僕よりもだいぶソワソワしていた。そう聞いた彼女の眼に入ったのだろう看板を指さし、「あそこで良い?」と言った。そこは見慣れたハンバーガーチェーンだった。スタスタと先を歩く彼女は最初に一瞥しただけで、それ以降全く僕を見なかった。店内に入ると、「お腹空いてるんでしょ?」メニューを眺めながらそう聞かれた。夕食も朝食もしっかり食べていたから、それほどでもないと感じた。それでも、「うん」と答え、あの二人の話はしなかった。彼女は先にセットメニューを頼むと、体を横にずらしたから、一歩前に出たが、笑顔で僕の顔を見る店員に、思わず下を向いたそこに丁度メニューがあった。目に付いたセットを注文し、そのあとは顔を上げることをしなかった。店員が合計金額を言うと、二千円を掴んでいる手が横から伸びてきた。ハンバーガーを受け取ると、妹の後ろを歩き席に着いた。彼女も僕と居ることに気まずさを感じているはずなのに、選んだ席は窓側で外が良く見渡せた。「ここ?」「嫌なの?」「でも……」口籠った兄に、「はい」自分が被っていたキャップ帽を手渡して来た。既に腰掛けていた由岐は、立ち上がるのが面倒だと顔に書いていた。仕方なく、それを深く被り前に座った。彼女は無言でフライドポテトを食べていたから、僕も無言でバーガーを齧った。この店のせいではないのだが、美味しいと感じなかった。だから昔と同じ、食べ物があるから口に運ぶ動作を繰り返した。昨日電話で感じた家族への思いが複雑なモノに感じたが、自業自得だと思った。二人ともバーガーを食べ終わりフライドポテトも残り僅かのところで、彼女が重たそうに口を開いた。「お婆ちゃん、事件のショックで、入院したよ」無言でいるのもなんだと思い、「そうか」と答えた。それを、全く納得がいかないといった顔をしてから、目線を横のポーチに落とし、その中に手を突っ込んだ。「あと、これ」妹が取り出したのは、ロケットのペンダントトップの付いた銀製だろうネックレス。「お父さんの遺品整理してたら、棚の奥からこんなモノが出てきた。専門家に見て貰ったら、骨の粉だって、どうやらお母さんのモノらしい。お父さんもお兄ちゃんもあの女のこと好きらしいから、お兄ちゃんに渡しとく、いらないなら捨てちゃっていいから」そう吐き捨て、それを手渡して来た。手に持った途端に言いようのない重みを感じた。それを掌に置きながら見続けた。「ねぇ?」そう話し掛けられ、妹と一緒に居たことを思い出した。前屈みになった彼女が、「お兄ちゃんが殺したんでしょ?お父さんのこと」幾分声を殺して言ってきた。それに口籠ると、「お兄ちゃん、精神病だから、警察に捕まっても無罪になるんでしょ?少し前に、電車内で痴漢刺し殺して捕まった女の人も、それで無罪になるらしいからね。でも、ズルいね」確かに精神病の犯罪者は無罪になった例が過去に幾つかあった。そして僕も殺された父のお陰で、彼が死ぬ数週間前に、精神分裂症だと診断されていた。勿論、精神鑑定があって犯行時に心神喪失だったことが大前提なのだが。その事実に今更気が付いたこと以上に、ズルいという言葉が心に響いていた。彼女は弱った僕を確認すると、彼女自身押さえていたのだろう感情が堰を切ったように飛び出した。「私は許さないから、精神がどんなに病んでても、お父さんを刺し殺したのは、お兄ちゃんの、その手だから」追い打ちを掛け、僕はまんまとそれに嵌まった。頭の中がぐるんぐるんと回転を始めて渦をなし、いつしかその渦さえも歪んでぼやけ始め、意識が遠のいていく。目を剥きだし、固まったまま頭を垂れた。「あなたには夫と娘がいます。あるとき夫が死んでしまいます。あなたはとても悲しみ、娘と二人抱き合って泣きました。そして葬式の日、悲しみに打ちひしがれているあなたの前に、美しい男性が現れました。聞くと彼は遠い遠い親族であることがわかりました。あなたはその男性に一瞬で恋に落ちてしまいます。数日後、あなたは娘を殺してしまいます。さて何故?」オヤジにされた質問が渦の中に突如現れた。それが喉を通り、口から出ていた。「何言ってるの?開き直った?自分が殺したって開き直ったの?」「質問に答えろ。何で娘を殺した?」幾分トーンが上がった兄に、妹はたじろいだ。「何なの?……邪魔になったからじゃないの」僕と同じ答えが返って来た。自分が答えたときは最低なことを言ったと思っていたが、他人から言われるのを聞くと、ごく一般的なモノだと感じた。だったらあの時、ホラ吹き爺さんに何と言っていたら、彼は僕が父親を殺していたと判断したのかがわからないが、たったこれだけの質問で僕を信じ切って元気付けてくれた、己を信じろ、の言葉が足元からゆらゆらと揺らぎ始めたのを、今の僕はどうすることも出来なかった。「父親殺しを私に擦り付けようとしてない?無駄だよ。私はお兄ちゃんみたいにいつも家に閉じこもっていなかったから。既に学校に居て、証人もいっぱいいるからね」煩い女だと思った。「たとえ、無罪で出て来ても、私とお兄ちゃんは赤の他人だから。遺産は私が貰う。あの家も。それとこれはお兄ちゃんの取り分。これで頑張って逃げ続ければ」言いたいことを全部伝えたのだろう。小さな封筒をポテトがまだ残っていたトレーの上に置き、彼女はいまだ放心状態の兄を置き去りにして、席を立った。そして遠くを眺めながら、「もう二度と会わないから、ばいばい」帽子を取り上げ席を離れ、出口へと向かった。最後まで振り返ることなく、妹は店を出て行った。ショックだった。勿論彼女には悪いことをしたと思う。僕のせいで近所や友人から白い目で見られているのだろうから。由岐自身、確かに相当苦しめられていた。家に居てもマスコミのインターフォン攻撃に、野次馬の罵声、ゴミの雨。お陰で三山家のそれほど大きくもない庭は、小さなゴミ処理場と化している。親切にもゴミ捨て場の看板まで建てられる始末だ。学校に行っても、何人かの友人はあなたとは関係ないことなんだから元気出して、と勇気づけてくれるが、それも口先だけ。周りの白い目に堪えられなくなると、元気づけてくれた彼女たちも段々と自分に近づかなくなる。誰とも話さなくても、ジロジロと目だけは五月蠅い日々を過ごしている。被害者であり加害者である親族は、言いようのない痛みを一人背負わされているのだ。それを誰にぶつけることも出来ない。今、目の前に居た、加害者であろう兄以外、誰にも。

 外に出た妹の、最後の背中を見ていた。すぐに見えなくなった。呆気ないほどすぐに。暫くはそのままでいた。ゆっくりと何かを確認しようとしたが、何を確認したいのかがわからない。己を信じることは、出来そうもない。今更そんなことに気が付いた。己が、僕自身の精神というのなら信じることは出来ても、自分の体、ということになると話は違う。この体に居るもう一人、彼を信じることは出来ない。でもそれを精神病として医学が証明してくれた以上、僕自身は護られる。体が拘束されることはない。捕まってもたいした問題ではないのだ。妹にズルイと言われたが、その通りだ、僕はズルイ人間なのだ。となると、やはり問題はこの体の彼のことだろう。しかし死神は言っていた。負けるのは僕だと、この体を追い出されるのは僕だと、死ぬのは、僕だと。

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