第9話 優香と友香

公園までやって来ると、今回は階段を上ってそこに入った。そこにはさっきのような活気はなく、白々しい目もなくなっていた。今の僕よりも余程裕福なカラスが二羽、ジャングルジムの上でじゃれ合っている横で、ただ一人ブランコを漕ぐ女の子がいた。安心して振り返り、田嶋富士の麓に立って五メートルほどの丘を見上げた。さっきはランドマークの役目をしてくれた木が、微かにその頭を空に出しているのがわかった。しかしあまり注意をしていないと見過ごしてしまいそうなほどだった。その上に登ったときの景色がどんなかを考えた。周りを一週したが、頂きに上がる階段などは見当たらなかった。見た目四十五度ぐらいありそうな急な傾斜を登らなくては、そのてっぺんには行けないようだ。果たして子供たちがここを登れるのかが疑問だった。だからこれを製作した人間は何の目的でここにこの山を作ったのか、その真意を知りたいと思った。はっきりとした答えを本人たちも持ち合わせていない気もした。それだけ無意味にも、危険にも感じたからだ。それでも登りたい衝動に駆られたが、眺めが想像を超えることはなさそうだと思い、止めることにした。それに今一人で遊ぶ女の子に、不審人物と思わせるのも悪い気もしたし、この傾斜を必死で登る姿を誰かに見られたくないとも思った。麓を過ぎ少し奥まったところにあるさっきのベンチに腰掛けて、だいぶ顔を隠した太陽がいなくなるのを待った。赤い光が一人で遊ぶ女の子を照らしていた。見たところ小学二三年生程の背丈で、決して笑っていない。ただ黙々と遊具を駈けずり廻っている印象を受けた。暫くその女の子を見ていた。東の空では現れたばかりの闇がどんどん浸食を始めていた。暗闇は嫌いでも、ここに居れば家々から毀れる灯りや公園の街灯があるから、真っ暗闇になることはない。それならば人の目に付かない夜の方が今の僕には都合がいいのだが、その女の子を見ていたら、段々と陰りゆくお日様にもう少しゆっくりでもいいよと言いたくなった。その子は辺りが完全に暗くなっても帰らない気がした。多分帰れないのだ。理由は何かはわからない。僕みたいに家がないわけではなく、一人なのだろう。家に帰っても一人きりだから、淋しさを誤魔化す為に、ここで必死に遊び回っているのだ。母親が家を出ていってから、同じような経験をした。僕の場合は妹がいた分、彼女よりは幸せだったのかもしれないが、それでもみんなが帰ったあとの公園で遊ぶことほどつまらなく、悲しい気持ちになるモノはない。みんながいればあんなに楽しいブランコもジャングルジムも、ただの鉄の塊でしかなくなる。ひんやりとした鉄の塊。徐に立ち上がると、さっきは絶対に近づけなかった遊具の方に足を向けていた。ブランコ近くまで来ると、女の子は僕の存在に気が付いたのか、体をビックとさせ、こっちを見ていた。その目はどこか怯えていたから、出来るだけニッコリとしてみた。それが彼女をより一層硬直させたと感じ、「ブランコとジャングルジム、どっちが好き?」話し掛けてみた。彼女は表情を強張らせたまま、「ジャングルジム」と小さな声で答えた。「そうか、じゃあお兄ちゃんと一緒だね」三十歳の自分は、まだ一ケタだろうこの子から見たら、お兄ちゃんはどうかとも思ったが、オジサンと言うことには躊躇いを感じた。僕がブランコに来ると、彼女は逃げるようにそれを飛び降り、ジャングルジムを必死に登っていた。この状況になっても尚も遊び続ける彼女は、やはり帰れないのだと悟った。「お兄ちゃん、怖い?」唐突なことを言ったと感じた。それでも、「うぅうん」首を横に振ってくれたこの子に、自然と笑顔が出た。それが良かったのか、さっきまでの緊張した表情はなくなっていた。太陽は既に姿を隠し、見知らぬ人とこうして話すことを、彼女は嫌だと感じているのだろう。それでも僕はジャングルジムに近づき彼女に話し続けた。「お母さんは?」もし自分と同じ、母親がいなかったらとも考えたが、居ないとすれば大概父親だろう。「お仕事」「そっか」僕の家庭が例外だったのだ。「何時帰って来るの?」「そろそろ」「それは良かったね」「うん」そう頷いて振り向いた彼女も、笑顔になっていた。「ともかっ」少し離れた後方から、そう呼ぶ声が聞こえた。すぐに振り返った女の子は、さっき見せてくれた何百倍もの笑顔でジャングルジムを飛び降り、声がした方に走り出した。何故か僕は直立不動になって、彼女が走っていった方を見た。女の子は十メートルほどの距離を全力で走り、その先に立っている女性目掛けて飛びついた。母親らしき女性は彼女を抱きあげた。互いが喜びを分かち合ったあと、少女を下ろすと、母親は僕の存在に気が付き、軽く頭を垂れた。だから僕もそれに倣った。彼女の眼は昼間散々浴びせられた母親たちのそれとは違っていたことに安堵した。それから二人は手をつないで反対側に歩き出した。「ちょっと!」咄嗟に出た言葉だった。振り返り、「はい?」と彼女は答えた。「あなたこの子の母親でしょ?」説教などする気はなかった。「そうですけど」「心配じゃないんですか?こんなに暗くなるまで公園で遊ばせて」彼女が僕を特別視しなかったことで、僕の中で何処か気を許してしまい、それがこんな形で出てしまった。言いながら後悔した。でも言ってしまった以上、飲み込むことは出来ない。「はぁ」彼女の顔は訝しげだった。「僕みたいに変なヤツに、誘拐でもされたらどうするんですか?」言った傍から顔が赤くなるのがわかった。何を言っているんだと、心で自らに突っ込みを入れた。「あはははっ」彼女は噴き出した。「何もおかしくないですよ」十分おかしいことは自覚していた。「そうだね」そう言った彼女が、子供の手を引きながらスタスタと僕に近づいてきた。そのときの僕は、さっきの女の子のように、表情を強張らせていたことだろう。そして二メートルぐらいまで来ると、「そんなに若いのに、浮浪者?」今から彼女の反撃が始まるんだろうと覚悟した。何も答えられないでいると、「っていうか、あなた、臭いよ」ストレートパンチを喰らった。マリーのモノよりはだいぶ優しかったが。横では女の子が鼻を抓んでいた。さっきはやらなかったくせにと思ったが、言えない。替わりに、「すいません」と答えた。「どうして謝るの?」ここでも後悔した。どうしてこの人に説教をしてしまったのかと。「すいません」「人の心配するよりも、自分の心配した方がいいんじゃない?」「御尤もです」さっきまでの勢いがなくなった僕に、物足りなさを感じたのだろう。軽く溜め息をついた後に、「帰る家、あるの?」「はぁ」曖昧にしか答えられなかった。「きゅるるるるうっ」こんなときに腹が鳴ってしまった。苦笑いで誤魔化す僕に、彼女は笑いながら、「腹も減ってんのか」そう茶化してから、「いいよ、ウチ来な。ロクなもんないけど、腹の足し程度のものはあるから」そう言ってくれた。願ったりかなったりだと思ったが、「いや、良いですよ」首と手まで横に振った。「いいよ。遠慮しなくても。友香とも遊んでくれたみたいだし」そう言って女の子を見た。彼女は僕の方を見ながら笑ってくれていた。だから素直に甘えることにした。女の子を挟んで三人で歩いた。傍から見たら家族のように見えるのだろうと思った時、ここがこの二人にとっては地元で、浮浪者のような男と一緒に歩いていたら悪い噂が立つんじゃないか、もしかしたらこの子は学校で虐めを受けるんじゃないかと、そんなことまでが気になり出した。「どうしたの?そんな後ろ歩いて?」気付けば、僕は二人よりだいぶ後ろを歩いていて、二人が立ち止りこっちを見ていた。「いや、何となく」「気分でも悪い?」「全然」「じゃあ、もっと早く歩きなよ。じゃないと措いてっちゃうよ」彼女たちが大きく、僕が小さいということなんだろう。だから小走りで二人に追い付き、並んで歩いた。

 数分で着いた先は、築年数はだいぶ絶ってはいるが、渡辺のところよりは遥かに丈夫そうで、ファミリータイプ用の少し広めのアパートだった。そこの102号室が二人の住まいのようだったが、ここまで来て思ったのは、風呂を借りたとして、旦那さんが帰ってきたら、彼女は何と言い訳をするのだろうかということ。勿論疾しいことがあるわけじゃないけど、この女性から想像するに、旦那は強面タイプだろう。人の心配を他所に、少女が鍵を開け先にどうぞと通してくれた。言われるがまま中へと入った。途端に香ったいい匂いに思わず目を閉じてしまった。それを打ち消すように、「臭いから、先風呂入っちゃいな。シャワーで良いでしょ?」ここでも言われるまま、「はい、じゃあお言葉に甘えさせて頂きます」そう言って少女の先導で風呂場へとやって来た。一畳ほどの脱衣所には洗濯機と、その上に下着類が干してあった。それを見ることに罪悪感を持ちながら、一二度それが本当は下着ではないんじゃないかと、チラッと見た自分に嫌悪を感じたから、大急ぎで服を脱ぎ浴室へと入った。シャワーから出たお湯に体を触れさせた途端、どんな秘湯も敵わないぐらい、「ハーッ」ため息が零れた。「服洗ってあげるから、とりあえず元旦那の服着といて」摺りガラスの向こうに見えた人影にドキッとしながら、「いや、そんなの悪いからいいです。臭いし」「だから洗うんだろうが」そう言って彼女は笑っていた。よく笑う人だと思うと、こっちまでおかしく思えてきた。それとこの会話の中でもう一つ知れたことは、幸か不幸か、彼女には今は旦那がいないこと。だから風呂から出た瞬間、それっぽい人が待ち構えているといった心配は無用だということだった。「ありがとうございます」確かに、体を綺麗にした後で、あの臭い服を着ることには抵抗があったから、ここでも言葉に甘えた。風呂場の壁に取り付けられていた、小さな鏡に映った自分の顔が、日焼けしたせいで少しばかり逞しく思えた。そして今回は、この前は恐れていた顔を平然と見ることが出来た。風呂から上がると黒いスウェットが脱衣籠に入れられていて、その上にフカフカのバスタオルが置いてあった。それを使えということなのだろうが、一応承諾を得ようと声を出し掛けたが、少し接しただけでわかった彼女の性格を考え、何も言わずにそれを手に取り、そして顔に当て体全体を拭いた。見た目通りフカフカで埋もれてしまいそうだった。体を拭き終わり髪も拭き終わったとき、干してあった下着類は消えていた。思わず顔を赤くした自分の身分を考えた。脱衣所の横で捨ててもいいような僕の服の為に洗濯機が回っていた。用意してもらった服が着馴れている黒だったことに安堵としながら、スウェットの上を広げ、固まった。それはスウェットの前面に大きな犬がいたから。その上、人間のように振る舞うそれはカラフルだった。僕の予想通り、彼女の元夫はヤンチャ系の人間だ。この手の服を着ていたのだから。抵抗を感じながらもそれに袖を通し、台所の方に顔を出した。「ちょっと大きかったかな?」「このぐらいなら大丈夫です」確かに僕のようにガリガリ男には、借り物だということがバレバレなほど、横にはだいぶ余裕があった。彼女の元夫は、僕と正反対でガタイの良い人だったのだろう。その事実が少しばかり僕の心を酸っぱくさせた。彼女は僕よりも二三歳上だと思ったが、色々な経験を積んでいるだろう結果、経験値で年上だと感じるのかもしれない。こうして近くに立って笑っている顔を見ると、無邪気で年下のようにも感じた。そうなると幾つなのかが気になったが、女性に歳は聞けないと思い、喉から出掛かった質問を飲み込んだ。それを嫌がるように彼女は、「友香、これ運んで」そう言って助けを求め、彼女も子供と共に僕の前から消えた。少し気まずさを感じ、立ち尽くしていると、「ご飯用意出来たから、どうぞ」キッチン隣の畳の部屋から、二メートルほどしかない距離を結構な大声で呼ばれた。円卓に三枚のランチョンマットが均等に置かれ、そこにはお椀や皿の上で湯気が噴き出したご飯やみそ汁、生姜焼きが盛ってあった。「どうぞ」友香の誘いで、一つ空いている座布団の上に座った。心の中では、子供は呼び捨てにした。そして二人に倣って手を合わせると、「いただきます」と同時に齧り付いた。豚肉に沁み込んだショウガ醤油が肉を噛みしめる度に口の中に広がり、それが笑みとなって零れた。ご飯なんかはコンビニのお弁当では感じることがなかった、ホカホカがあった。今まで進んで食べなかったサラダやヒジキの煮た物も、どれも口の中に入れる度に幸せを感じた。お腹も落ち着き、湯気の向こうに僕を見る二人の笑顔を見つけ、こんなにはしたなく貪ったことが恥ずかしかったが、二人の顔がそうは言っていなかったことで安心し、また料理を堪能した。ただふと目線を落とした時、母親の皿に僕の半分以下のおかずしか盛っていなかったことに申し訳なさを感じ、そこで目線が止まってしまった。「ごめんなさい。僕が図々しく食事頂いたせいで」「違う違う、気にしないで。私ダイエット中だから。それに作った料理をそこまで美味しそうに食べて貰えたら、それが一番うれしいことだよ」何日振りかにあり付けた大満足の食事に、自然と笑みが零れた。食欲という三大欲の一つを大いにみたされたこともあるが、この親子の温もりが何よりの御馳走だったんだと気が付いた。お礼にもならないだろうが皿を洗った。その途中、「じゃぁ甘えちゃおうかな」そう言って娘と二人風呂場の方へ向かった。「私たちお風呂入るけど、覗くなよ」「覗くなよ」友香までも母親と同じ顔でそう言って笑った。何かを想像した気もするが、顔にそれを出していない自信はあったのに、「覗きません」二人にそう言われ、顔が火照ってしまった。ただ長いは失礼だと考え皿を洗い終えたら、あの公園にでも戻ろうと考えていた。それに真夜中の訪問者のこともある。この二人には決して危害を加えさせないし、その自信もある。今日会ったばかりのこの二人を、とても大切だと思えるから。ただそうは言っても、二人にとって僕は、どこの馬の骨ともわからない男だ。突然公園に居て説教をし出して、臭くて腹が減っていた浮浪者だ。彼女たちは僕の情報をそれしか知らない。多分事件のことも。そんなヤツにここまでしてくれたんだ。「世の中も捨てたもんじゃないな」久々に皿洗いをしながら、そんな言葉を口ずさんだ。最後の一枚も洗い終え、それから少しの時間のあと、二人が風呂から上がったようだった。最初に友香が元気よくドアを開けて出てきた。「気持ちよかった?」「うん」大きく頷いた。数分後、髪をタオルで乱暴に拭く母が出てきた。やはりスウェット上下で派手な犬がピースしていた。ただお揃いなことに少しドキドキした。「ありがとう、助かった」「いえ、このぐらい」そう言って僕の横を通り過ぎたとき、フワッとシャンプーの良い匂いがした。冷蔵庫を開け缶ビールを取り出すと、僕に飲むかと勧めてきた。「いえ、飲めないんで」嘘をついて断った。飲んでしまったらここに居座ってしまうことは、火を見るより明らかだと考えたからだ。「そうなんだ」少し残念そうな顔をした彼女はプッシュッと缶の口を開け、旨そうに一口を飲み干した。嘘を言ったことを後悔した。それから円卓に行き、宿題をしているだろう友香の頭を撫でたあと、僕の部屋よりは小さい液晶テレビを付け、ドライヤーで髪を乾かし始めた。赤の他人の自分がいても、常に自然体で畏まらない二人に愛着すら覚えた。そんな二人をキッチンに立ち、眺めながら揺らぐ心を固めた。どうしたの座らないのと、彼女が言おうと振り返った瞬間、「今日はありがとうございました。僕はそろそろ失礼します」「何処行くの?宛あるの?」答えに詰まると、「ずっと居られるのは困るけど、二三日だったら居ていいよ」横ではテレビには目もくれずに宿題をしていた友香が、顔を上げ頷いてくれた。はいっ、と答えてはいけない。先にも考えたように、色々な事情からここは断固断らなくてはならない。「いや、大丈夫で。僕男ですから、何処だって寝れます」「いいよ、遠慮しないで」そこでも友香までがまた鉛筆を持った手を止め、頷いた。「でも……」「大丈夫、一緒に寝ろなんて言わないから」「あ、当たり前です」「当たり前と言われると、何か、傷つく」「そういう意味じゃなくて」「じゃあ決まりね」「えっ?」「あたしと友香、奥の部屋で寝るから」「その部屋のドア、鍵閉まります?」「どんな心配?」「僕も一応は男です」「そう言い切られると、ちょっと引く」「そういうことじゃなくて……夜中に変身しちゃったら、困るんで」そこまで聞いた彼女が、腹を抱えて笑っていた。「いや、笑い事じゃなくて……」苦笑いの僕に、「わかった、じゃあ、つっかえ棒でもしておくよ」「絶対ですよ!お願いします」「じゃあ決まりね」結局、泊めてもらうことになった。ビールも貰った。言い訳がましいが、彼女が飲み相手を求めていたからだ。そこで初めて自己紹介をした。自己紹介と言っても、名前を言い合っただけ。彼女の名前は、岸谷優香。僕の太郎という名前に、「随分在り来たりだね」と生まれて初めて、名前で噴き出された。その理由が、余りに見た目通りの名前だったからと言っていたが、太郎という名前は今までに何人か知人にいたけれども、誰も僕に似た顔も姿の奴もいなかった。僕が出会ってきた太郎は、どちらかと言えば太めの人が多かったし、結構オシャレで人気もあった。思い当ったのは二人だけなのだが、そんな二人とも、僕にはそう映った。彼女は僕にそれ以上、質問をしては来なかった。彼女も自分のことはほとんど話さなかった。友香の学校のことが話題の大半を占めた。彼女には申し訳ないと心底思っていて、そのことを初対面の僕に言われカッチンときたらしい。それから友香は自分よりも料理が上手なこと。散々自慢された友香も満更でもなさそうに宿題を続けていた。途中、友香のペンが止まっていたから、「どれどれ?」とノートを覗き込んだ。それは図形の面積を求める問題。彼女は見た目よりも幾分上で小学四年生だった。久々過ぎて一瞬ためらったが、「こことここを掛ければいいんだよ」その言葉に、先に反応したのは優香だった。(勿論、心の中だけでの呼び捨て)「凄いね、私なんか数字見るだけで、眩暈してくるよ」そう感心していた顔が、微かに赤くなっていた。見ると缶ビールを六本も空けていた。そりゃ赤くもなるだろうし、飲み過ぎだと、言おうか言うまいか悩んでいると、「今日は飲みすぎちゃったな」自分自身で空いた缶を眺めながら、そう零した。僕がいたことで少しは彼女も愉しく感じ、そのせいで酒が進んだのだと考えることにして、少しだけ恩返しが出来たと決めつけた。

 そんな部屋を外から見つめるソレが、じーっと102号室のドアを見詰め爪を噛む。それから数分経ってもそこに立ち、落ち着かない態度で、「何だよ、まだ出て来ない。泊る気か?あの男の何処が良いのかね、ただの変態やろうじゃんか?」そういって深爪になった爪を尚も噛んだ。

 それから二時間ほどして友香と優香は、「おやすみなさい」「おやすみ」奥の部屋へと消えて行った。僕は居間兼食堂の和室に布団を敷いてもらった。電気を消してその上に寝転がった。大地に寝るのも良いものだったが、何日ぶりかの布団はやはり格別だった。すぐに寝つけると思ったが、やはり今夜は眠ってはいけない気がした。だから目を開け、天井を見続けた。そこにはさっきまで蛍光灯の白い光を出していた照明が、結構な場所を取って吊るされていた。目が慣れ始めると、暗がりでしかなかった天井が木目模様だったことを知った。昔、よく婆ちゃんの部屋に入った。そこは家で唯一の和室で、そこに行けばお菓子が沢山あった。母親が居なくなった僕たちに婆ちゃんはとても優しくしてくれた。そしてボケている印象しかない爺ちゃんを心から愛していた。それが夫婦だし、家族だと思いたかった。何年後かに婆ちゃんが認知症になってから、和室には行かなくなった。もう何年もあの部屋に入っていない。ずっと見続けていた木目の模様だった節の部分が、何時しか目玉に見えてきた。それが僕をじっと睨み付けているように感じた。恰もそこにアイツがいるような、いつ、僕の体を乗っ取ってやろうかと狙っているような目で睨んでいると感じた。いつ動き出すかもわからない、一色即発といった目でジーッと見詰めてきた。おまえが寝た瞬間、俺はおまえを食べる。そして隣で眠る二人をも。目の下に、そう言って笑った口まで現れた。奴は天井を少しずつ感染しながら勢力を広げている。「やめろっ!」叫んでいた。「何、どうしたの?」その声で飛び起きたのだろう、目を丸くした優香がドアから顔を出した。「ご、ごめんなさい。変な夢、見ちゃって」「そう、大丈夫?」「大丈夫です。すいません」そう話すと、安心したように彼女はドアを閉めた。すぐに天井を見た。そこには木目があった。これのせいで思はず声を出してしまった自分が、やはり精神病なんだと思った。それでも目を瞑らずに、テレビの方に体を向けた。ホラー映画で、消したテレビ画面に突然砂嵐が現れそのあとに映し出された井戸からお化けが出て来て、それを見ていた人間が呪い殺された映像を思い出し思わず体を背けた。仰向けになった僕の前には、またあの木目の天井が現れた。その目に、体ならおまえにくれてやるから、殺すなら僕までにしてくれ、そう願った。「起きろ」覗き込む顔があった。「わっ!」飛び起きると、それは友香の小さな顔だった。

「おはよう」「おはよう」朝から元気な友香に、こっちまでが朝が得意だった気がしてきた。キッチンの方から、ジュージューとシャキシャキとザーザーと、とにかく色々な音が聞こえ、見ると優香がキッチンと格闘中だった。僕を起こした友香も既に母親の隣に並び、フライパンを振っていた。「おはようございます」「おはよう、よく眠れた?」「はい」「昨日叫んだときはどうしたかと思ったけど、あのあとは悪夢見ることなく、眠れたんだね?」「はい、大丈夫でした」そう言った彼女が笑っているのが、顔を見ないでもわかった。そんな二人が無事だったことに胸を撫で下ろした。それでも奴が僕を乗っ取る危険が絶対に起こらない保証などなかったはずなのに、この家に泊った自分が残酷な男だと痛感した。そして父親殺しで警察に追われている身であるという事実を、隠し続けている自分が嫌だった。「あの……」「もう少しで出来るから、待ってて」「あっはい」僕は、今話題の父親殺しで指名手配中の息子なんです、などと言うつもりなのかと、自分に問い掛けた。「今、なんか言い掛けた?」「いや、何でもないです」「そう」残酷でもこのまま伝えないで、二人の前を去ることに決めた。言わなかったのは、伝える事実が物凄いからだけではなかった。それはホラ爺さんの言った、自分を信じろ、の一言。ただ奴が体の中にいる以上、僕は無関係ですと言えるわけではないが、その一言があったから、僕という人間を否定したくなかったから、彼女たちに伝えることを止めた。勿論、一番の思いは、もう会えないにしろ、彼女たちに僕という人間を少しでも良い思い出として残して欲しかったから。自分勝手でも、そうしたかった。でももし、警察に捕まって、ニュースで僕の顔と名前が流れれば、彼女たちは絶望を感じてしまうのだろうことに思い当り、怖気を震った。それ以上考えたくなかったから、体を布団から追い出しそれを畳んで端に置いた。「ありがとう、ついでに横のテーブル中央持って来て」包丁を持って立っていた彼女が言った。思はずギョッとしながら、「は、はい」大急ぎで言われた通りにした。友香が馴れた手つきでランチョンマットと皿を並べると、フライパンを持った優香がその上に卵焼き、ウインナーを置いた。昨日は感じなかった、同じ柄のランチョンマット三枚がまだ新しく、遠くない過去に幸せな三人家族の食卓があったのだろう風景が目に浮かんだ。サラダとパンと牛乳もいつの間にか並んでいた。「うまそう」そして三人、手を合わせてから、朝食を取った。逃走して知った当たり前の幸せに二人の笑顔が重なり、この瞬間を噛みしめながら少し焼き過ぎのトーストを齧った。気が付けば二人はもう食事を終えていて、各々がそれぞれの用意をしていた。「皿洗っときます」「いいよ、帰って来て洗うから」奥の部屋に消えていた彼女が答えた。「それぐらいやらせて下さい」シンクに皿を運んでいた僕に、わざわざ出てきた優香が、「じゃあお願い」そう言って微笑んだ。皿を洗い終わると、二人も用意を終え、「電気よし、ガスよし、水道よし」友香が最後の点検をしていた。「ごめん、今日はその服で過ごして」「あっ、はい」そう言って苦笑いをしながら、千円札を手渡して来た。「これで、お昼食べて」手のひらを前に突き出し両手で横に振った。「いいですいいです」「また腹鳴るよ」ニヤけた彼女に、「今日、妹と会うことになっているんです。そこでカネ借りるんで、大丈夫です」「あ、そうなんだ」そう零した彼女は、意外そうな顔をしていた。その真意は、当てがあったのかよというモノではないことはすぐにわかった。「そっか。友香、公園に五時前に行っているだろうから、良かったら私が迎えに行くまで、遊んでやって」妹の存在を知っても、彼女の中では今夜も、僕がこの家族に世話になることは想定内なのだ。玄関に二人は仲良く並ぶと、靴を履き、「私たち先出掛けるから、これ鍵ね」そう言って優香が鍵を手渡して来た。「出掛けるとき、戸締り忘れないでね」その横で愉しそうに友香がそう言った。「はい」思わず受け取り、そう答えた。二人が出掛けたあとも、静まり返った室内で呆気に取られていた。それでも、一日でそこまで信じて貰えたんだと笑みが溢れ出た。

時計を見ると、朝の八時を少し回ったところだった。すぐに出掛けようかとも考えたが、約束の十二時までにはだいぶ時間があるからと、友香がわざわざ点検で消したテレビの電源を入れた。朝の顔だろうキャスターたちが昨日以前のニュースを伝え、喜ばしいニュースでは笑顔を作り、傷ましいニュースではそれにあった表情に変えていた。数日が経ったお陰なのか、そんなに大きな取り扱いじゃない父のニュースが流れたときは、キャスターも意見を求められたコメンテーターも、後者の顔を作り、「とにかく、長男は公に顔を出し、真実を語って欲しいですね」と尤もなことを口にしていた。チャンネルを変えると、そこでも国民が聞き慣れた父親のニュースの続報を伝え、次のチャンネルでも不思議なモノで、同じ表情で同じニュースを伝えていた。この時間、テレビを付けている全国民が、僕の捜索をしていると思うと、固まった表情を作り直すのが大変だった。ただ、聴き入ってしまったのが、「この長男が事件に巻き込まれてることも考えられます。一日も早く、彼が見つかることを願います」それに頷いた。間違いなくその通りだと思った。僕は奴に巻き込まれたのだ。僕の体を乗っ取り、父親を殺した。まさに被害者なのだ。でもそれを警察に行って、それが真実なんですと伝えたところで、彼らが信じるはずもなく、薄ら笑いを浮かべられて終わるのだろうと思った。こんなことにならなければ、僕だってそんなヤツが目の前に現れればそうするだろうから。

テレビの内容も主婦向けになり、画面には痛々しい表情がなくなり、退屈な時間ですと教えてくれた。テレビ横にあった置き時計が十時を指していた。携帯電話を取り出すと何も映らなくなっていた。部屋を見渡したが、充電器は見当たらなかった。申し訳ないと思いながら、そこに誰もいないとわかっていても、一度ノックしてから隣の部屋のドアをそっと開けた。薄ピンクのカーテンがメルヘンを感じても、昨日脱衣所から消えたモノがここに干されていた光景に、違うピンクのイメージが浮かんだ。だから出来るだけ下に目を向けながら探し物が何だったかを考え、充電器だと思い出せた。白い箪笥の上にも細々の赤やピンクのモノがあったが、いちいち何なのかを確認するのも失礼だと思い、その横の下にあったコンセントの前に置いてあった携帯充電器を見付け、それを持ってすぐに部屋を出た。それから一時間ぐらいダラダラとテレビを眺めた。もう充分だろうとコンセントから携帯電話を引っこ抜き、元の場所へと戻した。テレビ以外何も付けた覚えはなかったが、「電気よし、ガスよし、水道よし」友香の最後の点検を真似して外に出た。ドアの前に立って、さっき受け取った鍵はポケットに入れたことを思い出し、出てきたそれでドアの鍵を閉めた。鍵はドア下にあった新聞受けから室内へと落とした。歩き出してから、カネが一銭もないことを思い出し、「約束の駅まで行けない」ことに気が付いた。仕方なく妹に電話を掛け、カネが一銭もないから電車に乗れないことを伝えた。だから僕が今いる最寄りの駅で会うことにして貰った。電話を切ったときに見えた時刻は、十一時十分だった。誰かの視線が刺さった気がして、ぐるっと見渡したが人影はなかった

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