第8話 上を向け!胸を張れ!

 着いた場所は、公園。昨日のオヤジたちの棲家のような町の小さな公園ではなく、大自然を肌で感じることが出来るものだった。深呼吸をした。しかし、いまだ肺はぜいぜいと音を立てていて、そのせいで吸い込める酸素は微々たるものだった。何度も何度も肺呼吸をした後で、辺りを見渡した。そこに生きる多くの木々たちは好き勝手に枝を伸ばし優雅でさえあったが、いま求めるモノはただ一つ、水だった。それを求めて辺りを彷徨った。数百メートル歩いたところにやっと公衆便所を見付けた。その横に水飲み場を見つけ、あれだけ走って、頭の回路を全部燃やし、脳みそが真っ白い灰になって、もう走れないのに、今、水を前に猛然とダッシュしている自分がこんなにも生命力があったことに驚倒しながら、飛びつき、蛇口を捻り、飛び出した水を鱈腹飲んだ。気管は空気以外の物が入り込もうとすると異物とみなし、咳き込んでまでそれを追い出そうとするが、今の僕の気管は、大量の水をどれだけ流し込んでもそれをすべて受け入れているように感じた。それはカサカサに萎れていた肺胞一個一個に沁み渡り、少しずつその機能を回復しているのが手に取るように感じられたから。砂漠化が進んでいた細胞の大地に水が沁み渡っていった。僕の中に生を感じた瞬間だったが、「ゲッホゲホッ……」水がほんの少し気管に入っただけで、結局顔を赤くして咳き込んだ。それから腰を下ろしたくなってベンチを探したが、あるのは永遠と広がる雑草の生い茂る草原だった。だからその上に大の字になって寝てみた。雨粒が残っていたが、それがヒンヤリで気持ちが良い。よく育った雑草が僕を包みこんでくれたお陰で、目に映るのは空しかなかった。大スクリーンに映るモノは光輝く青と白。ここまで近くに空が見えると、そこを流れる雲を掴めるんじゃないかと錯覚する。それを踏まえていても、ずっとそれだけを目に入れ続けると、やっぱり掴める確信が持てて、空に伸びた手が視界に入って来るが、所詮、無理なことを知らしめられ、僕とのスケールの違いをまざまざと見せ付けられて終わる。もくもくとしている雲が優雅に大空を流れている。何時しか目を瞑り、静かにゆったりと流れていく時間に、アインシュタインの相対性理論はこんなときに思い付いたんだとわかる。時間は長くも短くもなることを体で感じることが出来る、こんな優雅なときに。そんな発見が僕を眠りへと誘った。スヤスヤが、いつしかダラダラに変わる。ガリバーの大男になって、捕らえられた体は寝かされ、肌を小さな槍が突っついてきた。チクチクとする。止めてくれ、で目が覚めた。尚もチクチクがジンワリと沁み出た汗と相まって痒くて仕方がない。腕を掻き毟り、腿を搔いた。顔を掻き、頭も背中も掻いた。堪らず起き上がったが、体全体を気だるさが駆け巡る。既に筋肉痛にでもなったように全身が痛んだ。ヒリヒリは長い間太陽が刺さっていたこともあるが、あそこまで無理して走れば、体にガタを感じるのは仕方がないことだろう。カネもないからと暫く公園を彷徨い、今度は結構近くにあったベンチに座った。平日の昼時は人も疎らでこれだけ大きな公園だと、僕の存在を怪しむ人もいない。肌を刺すような白い目がなかったから、緑たちの光合成で出された酸素をたっぷりと体に取り込むことが出来た。あとは血となり肉となる食物を体内に入れるだけだと気が付く。しかしカネはない。「あっ」一文無しでも食べ物を食える場所があるじゃないか。「スーパーの試食」その時の僕には物凄いヒラメキのように感じた。食物の為だと、あんなに重たかった体も急に軽くなる。何処にスーパーがあるのかはわからなかったが、とりあえずは公園の出口を目指した。

あんなに雄大だと感じれた公園も、都会の中の一角だと、すぐに出られたことで実感した。出た先は住宅街だったが、幾分マンションやアパートが目立ち、繁華街に近い様相をしていた。少し歩いただけで神様の恵みか大手スーパーの看板が目に入った。一目散に掛け出し、看板の指示通りにスーパーを目指した。数分後、「どんだけ遠くに看板置いたんだよ」ブツブツぼやく僕は、いまだ試食にあり付けていないばかりか、それが存在する建物すら辿り着いていなかった。最初の看板から十数分で、やっとスーパーの入口へとやって来た。今度は食品売り場を目指す。食品売り場には結構な数の奥様たちが買い物を楽しんでいた。最初に見つけた餃子の試食。ほとんど周りなんか見ないで、それに齧り付いた。少し冷めてはいたが、薄皮がはじけた瞬間にジュワッと溢れ出た肉汁に堪らず笑みが零れる。焼き餃子を発明した日本人の偉大さよりも、目の前で僕の為に餃子を焼いてくれたちょっと太めの眼鏡のおばちゃんの方が、よっぽど慈悲愛に満ちたすばらしい人だと感じたのに、少し様子がおかしいと、おばちゃんから目線を外し辺りを見渡すと、周りの白い目がさっきの芝生以上にチクチクと突き刺さっていた。ある者は顔を顰め、鼻を抓んだような仕草をする者もいる。もしかして、そうそのもしかしてだ。夏に何日も風呂に入らず走りまわっている僕は臭いのだ。慌ててそこを抜け、あとの試食には目もくれず、とにかく出口を目指した。外に出て、自分が臭いのに息を止めてたらしい僕は、何度も深呼吸をしていた。

 そこからアパート、マンション幾つかの一軒家の先に公園を見つけた。それは昨日世話になったオヤジたちが棲み付く程の規模だったが、あの公園のようにゴミ箱からゴミが飛び出し、それがそこいらにも散乱しているといった光景はなく、どこか清潔感を感じる一方で淋しさも漂わせていた。繁華街外れではなく住宅街の中にあるからだろう。ブランコにジャングルジム、砂場(しっかりと柵がされ、野良猫などが入り込んで用を足せないようになっている)があった。どこか物足りなさも感じたが、ボール遊びをするスペースを考えたらこのぐらいが丁度いいのかもしれない。公園は周りを四メートル道路がぐるっと一週回っていた。僕が入った方は公園と道路がフラットだったが、向こう側の道は公園から三メートル近く下がっていた。そのせいで十数段の階段を上らないと公園には入れない。そっち側は落下する恐れを軽減する為か、鉄の柵の前に桜らしき木が十数本横に列をなして植えられていた。春には花見客が相当数訪れることだろう。長方形の形をした公園の外れに土を盛り固めたのだろう、芝生に覆われた丘があった。その前には田嶋富士山と書かれた木の看板があった。それから公園の入口に戻って、そこにあった田嶋第一公園という名に納得がいった。その田嶋富士山の奥、階段がある道路側に奥まったスペースがあり、そこにベンチを見つけた。そこはこの公園の死角になっていた。しかし座ってみると公園全体を見渡すことが出来、もし警察がやって来ても、後ろの段差、斜めの石壁に足を引っ掛けて下れば十分逃げられると目論んだ。休むにしても逃げ道を確保した自分が、逃亡することに少し馴れたんだと知った。朝、警察から命からがら逃げ切った足と意志にも相当な自信が持てるようになったと感心しながら、元が何色だったかもわからないほどペンキが剥げたベンチから公園を見ていた。危険は見当たらなかったので、全身から力を抜いた。ダラーと伸びた脚を眺めた。これからどうしようかを考えた。このままヒモジイ生活をしながら、果たして逃亡を続けられるのだろうかが不安になった。ただそんなときに助けてくれる人たちが本当にいることには驚かされたし感謝した。「たくちゃんっ」その声に何時からか閉じていた眼を開けた。目の前には不思議だと顔に書いた四五歳の男の子が、僕の顔をジッと見つめていた。「どうしてこんなところに寝てるの?」だから、「君みたいに寝る家が僕にはないからだよ」意味などわからないだろうと、本当のことを言ってみた。「へぇー」そこに心はなかった。彼にとってはあまり興味をそそられなかったようだ。「たくちゃん、駄目!こっち来なさい」さっきよりも数段大きな声は、少し切羽詰まったモノに聞こえたから、その方に顔を向けた。五メートルほど離れた、田嶋富士山の横にこの子の母親らしき、僕と同年代の女性が立っていた。彼女は僕の視線を肌でヒシヒシと感じながらも、頑なにこっちを見ようとはしなかった。僕の存在を否定しようとしているのだ。そう思えば思うほど彼女は僕に恐怖を抱くのだろう。「お願いだからこっち来てっ」痛々しいほど必死の訴えでも、子供は聞く耳を持たずに、僕にニコッと笑い掛ける。親が感情を出せば出すほど、子供は寧ろ無視を決め込む習性があると、昔、親戚のお姉さんの子供を見ていて感じたことがあった。この子供と同年代ぐらいだったが、彼女は女の子で、何処だったかは忘れたが、確か崖の近くに一人で歩いて行ってしまったんだ。母親は感情むき出しに、危険だから戻って来いを繰り返し叫んだ。しかし彼女は楽しそうにどんどん崖の方に歩いていった。取り乱した母親の横で、「ゆうちゃん、おもちゃ買いに行こう」たった一言、母親よりも数段小さな声で穏やかにそう言った叔父さんの声に、子供は屈託のない笑顔で振り返り、その叔父さんの元に駆け寄ったことを思い出したが、その叔父さんが僕の父親だったかは思い出せない。「たくやっ!」母親の中で、僕は誘拐犯にまでされかねないと感じ、「お母さん、呼んでるよ」座り込んで僕の前の砂を握っていた彼が、それを地面に戻して小さな足でゆっくり立ち上がると、ポケットから飴玉を一つ取り出した。それから一歩僕に近づき、それを手渡して来た。「これ、上げる」だから手のひらで受け取った。そして男の子は、母親の下へ戻って行った。ありがとうと、言うのを忘れてしまった。実際には言えなかった。胸が詰まり、それが言葉を詰まらせた。顔を上げ、田嶋富士山と桜の木の間を見た。そこには母親に抱きあげられた彼が、こっちに顔を向けているのが見えた。だから、ありがとう、と口で書いて手を振った。彼はハニかんだ様に母親に顔を埋めていた。結局母親が僕と目を合わせることはなかったが、彼女は我が子を愛情たっぷりで育てているんだ。羨ましかった。マザコンだと言われても構わない、母親に会いたいと思った。

それから暫くは、ジャングルジムやブランコ、ドッジボールをして騒ぐ子供の姿を見ていた。大声を張り上げ、今という時を楽しんでいた。彼らにだって悩みや考えることは沢山あるのだろうが、それさえも羨ましく思えるほど、屈託のない笑顔で走り回っていた。その横で、親たちはコソコソ話をしては、チラチラとこっちを窺っていた。ここにいては危険人物で通報されると感じ、すぐに公園を出た。今逃げたら彼女たちの思うつぼだとも思ったが、警察に突き出され父親殺しの凶悪犯だと判明すれば、それの方が余程思うつぼだと考えたからだ。しかし近ごろの子供を巻き込んだ凶悪犯罪を考えれば、母親たちが敏感になるのも仕方のないことなのだろう。それに乱暴男が言っていた、ネット上に載っている僕の顔をあの中の誰かが見ていて、あれっ、と気が付くことだって考えられる。もはやこの国で、僕はノウノウと生きていかれない存在になってしまった。小走りで歩きながら、深く溜め息をついた。右手に何かを持っている感触があったから、それを開いた。握り締めていたのは、さっき男の子がくれた飴玉だった。それを舐めた。イチゴ味の飴玉は、本物のイチゴよりも数段笑顔になれる分美味しかった。

住宅街は目立つからと、結局、繁華街へ出た。街へ来ても何人かがチラチラと僕を見ては、コソコソと隣を歩く友人知人に話し掛けていた。今やネット人口は国民の半分に迫るらしいことを考えれば、彼らのコソコソの内容は僕の考えるものと同じかもしれない。父親を殺した逃亡中の犯人。首を竦めた途端、「あのー?」一度は通り過ぎていった、すれ違った二人組の男が、声を掛けてきた。見たところ僕よりも少し若い感じで、昔はヤンチャだった風貌をしていた。「もしかして……」もう一人がそれ以上を言うことを少し躊躇っていた。そのあとで、「おい!」最初に声を掛けてきた男の方に振っていた。声を掛けられた瞬間は、心臓を鷲掴みにでもされたぐらいに怯えた。「何ですか?」眉間にしわを寄せ、不快感を露わにしてみた。普段だってこんな二人を相手にここまでは出来ない。それが今は逃亡者だ。テレビでは父親殺しの息子の話が再三流れていて、ネット上には顔まで載っている。まさしく国民すべてが追跡者だ。しかしだからこその強みがある。国民の大半は凶悪犯に恐れを感じているはずだ。逆の立場になれば、僕が街で凶悪犯だと確信を持てても、声を掛けることなど出来るはずがない。そんなことをして自分が殺されたらどうしようと考えるのが、どんなに僕が小心者でも、普通の人間なら考えることだろう。丁度、凶器も見つかっていないようなことをニュースは伝えていた。報道は僕にとってマイナスのことばかりではないようだ。みんな僕を恐れている。その曲がった自信が、今や表情を形成していた。「い、いや、何でも……」そこまで言い掛けて、彼らは振り返り行ってしまった。早歩きしながら話し掛けてきた方が、もう一人に突っ込みを入れていたが、間違いなく彼自身も僕に怖気づいていた。そのあとも数人がチラチラ見てきたが、こういうときこそ胸を張れ。自信に満ちた人間は疑われにくいのだ。大学時代の心理学の授業で習ったことを思い出し、それを実際にやってみた。経済学部だった僕は、資本主義さえもろくに説明が出来ないのに、そんなことがふと思い出せたことが、顔を綻ばせた。それが功を奏したようで、街を歩く何人かが僕をチラッとは見ても、コソコソと話すことはしなくなった。胸を張って上ばかり見ていたら、この商店街は屋根がないから建物の全貌がよく見えた。一階は商店になっていて、二階以上が住居といったものが多く見受けられた。どの建物も年季が入っていて、築年数は結構長いだろうと想像出来た。今は高層マンションが何処の駅前にも建てられているが、駅前再開発という統制が行われていない昔からある商店街のこれらの建物は、昭和の終わりバブル期以前に建てられたのだろう。だから僕が生まれたぐらいに立てられたものも多くあるはずだ。自分がビルだったらこんなに色褪せてしまうのかと愕然としたが、相手はビルだ。そういえばバブル景気とかいう日本経済最高の時代が昭和の終わりから平成に跨ってあったが、僕らの年代はそれが弾けたのが小学校の時だったから、ほとんど恩恵を受けた気がしない。どうしてそれが弾けたのかもよく解っていない。経済学部出身だが、このことも知らないのだ。ただテレビで連日連夜映像が流れていたジュリアナ東京に行けば、女のパンティーがいっぱい見れたことは知っていた。当時は中学に上がったばかりの果敢な時期だ。勿論のこと、学校ではそのことが話題になったが、行きたくてもそれが何処にあるのか分からずに、高校生になる頃には憧れのディスコも閉店していた。見上げていた色褪せた中に、異彩を放つ建物を見付けた。一階には焼き鳥が自慢らしい居酒屋と韓国食材を取り扱っている店が入っていて、その上は四階まで住居なのだが、売店の上に見える共同の廊下部分が金網で囲まれているのだ。それは昨日マリーと見た川の前にあった鉄の柵ように綺麗なものではなく、もっと目が大きくて錆び付いていて元の色なんかも分からない。変わったところといえばそれだけなのだが、僕にはそれが異彩を放っていると感じた。何故かそれに魅せられ、暫し見ていた。すると三階の廊下の一番奥のドアが勢いよく開いた。そこに焦点を合わせると、女が飛び出し廊下を走り抜けて行った。そのあとで男が続いたが、彼は走っていた廊下の途中で僕と目が合うと、瞬時に足を止めた。そして走ったそこをゆっくりと戻り、開けっ放しのドアを閉め部屋へと消えた。逃げた女が一階裏手から商店街へと入ると、目を抑えながら駅の方へと走り抜けて行った。一瞬の出来事だった。

そのとき、ポケットで久々に震えを感じた。そんなことで一瞬怯み掛けると、途端にすれ違う、僕を追う者たちは牙を剥き出す。堪らずすぐ横の小道に入り、小走りしながら携帯電話を開いた。そこに表示されていたのは、妹の由佳だった。顔が綻んだ自分を以外だと感じながら、通話を押した。

「おにいちゃん?」その一声が可笑しいと思った。向こうが兄の携帯電話に電話をしておいて、誰ですかと聞いているようなものだ。しかし今の状況を考えれば、その一声は納得がいくのだが。それ以上に感じたことは、妹は自らが兄に電話を掛けておいて、その兄が出たことで、驚き以上に怯えていると感じた。親殺しの兄、その響きは本人の僕でさえ鳥肌が立つ。まして親族の妹にしてみれば、より一層そう感じてしまうのは仕方がないことだ。「あぁ」第一声だけでそこまで勘繰った自分が、一番、三山太郎という己自身を恐れているということなのだろう。「元気?大丈夫?」その質問に僕以上に彼女自身が答えを求めていなかったのか。すぐに次の質問をした。「今、どこに居るの?」本題へ入ったと感じた。何も答えなかった。「一度会えないかな?会って話がしたい」受け入れるべきか否か、答えに迷った。その返答は流されることなく、電話越しに無言が流れた。それを嫌がるように、「ちゃんと食べてる?お金とかないんじゃない?」彼女にしては頭を使った攻め方だと感じる以上に、久々の家族の温もりだと感じる方が、僕の心の多くを占めた。「明日、桜木町の駅前のスタバに、昼の十二時、来れる?」話は勝手に進んでも、彼女が僕の心を掴んだと悟られた以上、彼女に軍配は上がっていた。「じゃあ、明日ね。必ず来てね。待ってるから」そして電話は一方的に切れた。結果、僕は、あぁ、だけしか言葉を発することなく、良いように妹に攻め込まれて完敗した。電話を切ってから考えた。何故負けたのかを考えた。断る理由が何かなかったのかを考えた。食事にありつけて、家族の愛を感じて、もう逃げるのに疲れたから。ただ愛を感じたのは自分だけのような気もしていた。父親がいなくなって、母親はもう死んでいて、婆ちゃんと妹だけになって、そうなってしまったのが自分のせいだとして、そこに負い目を感じた結果、例えば明日結果的に妹に裏切られて捕まっても、彼女を責たりは出来ない。全ては自業自得だと思えた。でもそれならば、今は何故必死に逃げ回っているのか、そのことの方が僕の中で答えを探し出せていないことに気が付いた。ただどんなに逃げていても、テレビなんかで父親の事件が報道され、周りの人間のちょっとした変化だったりが、己の置かれている状況をひしひしと伝え、それが僕をギュッギュッと絞め上げていくんだと解ったが、それも自殺した友人の時のように、時が過ぎれば痛まなくなるのかもしれないとも思えた。背中に視線を感じ辺りをキョロキョロしたが、僕が立つテナント募集中の張り紙がされているビルの、二軒隣りの餃子屋の女将さんに睨まれて終わった。そのあとも携帯電話を握ったままガードレールに寄り掛かっている僕は、結局自分自身を模索し続けているんだと思った。ここまで必死で逃げる自分は、本当は何を求めて逃げ続けているのかを。もしかしたら求めているんじゃないかもしれない。真実から逃げているだけ、孤独という真実から逃れたいだけなのかもしれないと思えてきた。考え過ぎたのか、頭が混乱し、もう何も考えたくなくなったから、とうにへとへとな足を前へと進め、繁華街ではない方へと歩き出した。目的地なんかあるはずもない。歩き続けることに意味なんかないのだ。ただそれも考えたくないから歩くと決めた。

暫く行くと川沿いに出た。そこは公園と違って女たちの井戸端会議などはなく、ジョギングをする人や、キャッチボールをする人、それぞれが何かに夢中になっていて、僕の存在になど気にも留めていなかった。川辺まで行って、草の上に座り込んだ。そこから永遠と流れる河を見た。だいぶ海が近いせいで流れはのんびりで水は濁っていた。これでも減ったのだろうゴミが、川岸には多く漂着していた。懐かしい匂いがした。それは小学生に上がる前で今の家に引っ越してくる前、僕ら家族がまだそろっていた頃、海の近くに住んでいた。だからよく海に行った。誰と行ったとか、そこでどんな遊びをしたのかは覚えてはいないが、家の近くの海岸が遊泳禁止だったから、河口付近でいつも泳いだ。そこは海のモノでも川のモノでもない特有の匂いを持っていた。夏になると川の河口付近に来る度、何時もこの匂いがしてくるからいつも思い出す、昔よく泳いだ河口付近のことを。それが楽しい思い出なのかも思い出せない。雲が朝見た時と違って小さく散らばって空に浮いていた。そこに出来始めた影を見つけ、太陽が西へとだいぶ進んだことを知った。時間は気にならなかった。今の僕にそれは無限にあると思えるから。人生において意味を持っていないだろう時間、終わることを知らない無駄な時間。商社に働いていた頃はとにかく時間に追われていた。一日何時間あっても足りない気がしていた。時計など気にしない生活がしてみたいと、当時付き合っていた彼女と旅行に出かけてもだらだらとは過ごせずに、時間を気にしながら観光をしていた。時間に追われる生活が染みつき、寧ろそれに安心していたんだ。今みたいな生活になることを心のどこかで恐れ、でもそんな日は絶対に来ないと考えていたのだろう。そういえば当時の彼女は僕と別れた後、どうなったのだろうか。四年間も付き合ったのに中身が薄かったのか、あまり多くを思い出せない。僕は仕事に追われ、彼女の求めることのほとんどに答えてやれなかった。実際、それに嫌気を感じた彼女から別れようと言ってきたのだ。僕の中では、彼女と結婚するのだろうと考えていから、別れを切り出されたときは魂消た。でもそんな表情一つも見せずに、承諾をした。もしかしたら彼女もあの時、胸を衝かれたんじゃないだろうか。僕が嫌だと言って、あわよくば結婚まで切り出して来るんじゃないかと考えていたのかもしれない。彼女が最後に言った。「この四年間、無駄だったね」同級生だった彼女とは二十代前半の時を共にした。確かに人生において一番楽しい時だし、一般的に、女にとって一番輝いている時期なのだろう。その全てを僕に注いだのに、結果別れてしまっては、彼女がそう感じるのも最もだ。僕がそれを実感したのは、それから三四年経ったときだった。それは左遷が決まった瞬間、こんなにも時間を費やしたのに、有効な時間を過ごしていると信じて疑ってなかったのに、その全てが無駄だったとわかったときだった。あくせく働いても、結果次第で時間は無駄になるものだったと、当時彼女と分かち合いたい気もしていた。身勝手だろうが、会いたいとも思った。裏を返せば、今無駄だと感じるこの時間が、あとになって何か意味をなすのかもと思えてきたが、彼女に申し訳なくも思えた。そして今彼女がどうなっているのかが気になり出した。こんなときだから気になった。それを確かめる術はないのだし、その内彼女のことを考えなくなり、またその内ふと思い出したように考えるのだろうと思う。西の空が赤みを帯びてきた。今日一日がそこに吸収されていく。今日を生きたことに意味があろうが無かろうが、お日様はそれを持って西の空へと突き進んでいく。良くも悪くも皆に平等に消えていく。

 西の空から太陽が消えたら、河は闇になる。近頃闇を怖いと感じるようになった。そこに何かがあるのか、ないのかが不透明過ぎるからだろう。立ち上がり辺りを見渡した、川岸はそれと並行して走るアスファルトの歩道よりも幾分下にあるから、突如そこに警官が出てきたら、逃げ切れる自信がない。河に入るのは今から闇が訪れるということもあるが、何より僕がカナヅチだということに問題があるから、そこを泳いでもまず逃げれない。やはりここは危険だろうと歩道に出て歩き出したが、周りの土地よりも幾分高くなっていて見渡しもいい、裏を返せば周りからもそこを歩く人間はよく見えるということだ。結局川岸を歩いた。歩きながらどこに向かおうかと考えた。今夜は流石に野宿だろう。五分ほど歩くと、河には橋が掛かっていて、その下を歩くとき、向こう岸の橋げたの下に段ボールハウスが見えた。今夜もお世話になっちゃおうかと真上の橋の袂を目指し体を回転させた。橋を渡り始めてすぐ、僕の足が止まった。オヤジや乱暴男は僕を助ける為に、今日、取り調べを受けたのだろう。それは間違いなく僕のせいでだ。これ以上、他人に迷惑を掛けるべきではない。そう考え、元の岸に戻ると、また川岸を歩き始めた。それからもう少し歩くと、右手奥に田嶋富士の頭が微かに見えた。その上にはそれほど大きくはない。木が一本植わっていた。朝は麓にいたから見えなかったのか、木の存在に気付けなかった。それを目印に川岸から小高い歩道を横切り、住宅街へと足を踏み入れた。

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