第7話 ホラ爺さんと乱暴男

一文無しになった僕は路頭に迷った。街を出てもカネがなきゃ何も喰わしてもらえない。日本社会は今、何度も言うが未曽有のデフレなんだから、食品なんかは溢れかえっている。そんな社会に居ても一銭もなきゃ話にならない。当たり前だ、商店にとってカネのないヤツに用はない。相手だって生きて行く為だから仕方がない。頭では分かっていても、腹は鳴る。無意味なことを考えただけで余計に腹が減る。近くにあったコンビニに廃棄された弁当がないかと店の周りを廻ったが、何周目かで店員に不審がられそこを離れた。ルンペンもこの国に居れば死なないと誰かが言っていた気がするが、浮浪者の社会もそれなりに経験が必要なのだろうと、一人頷いた。頷いただけで腹が減る。食べるものがなくて悪さをして、警察にわざと捕まる奴の話を聞いたことがあるが、似た状況下に立つと、三度の飯と寝床付きの刑務所の方がまだマシだと思うのも頷ける。自分は今、悪さをしなくてもすぐにそこに入れるじゃないかと考えたが、その覚悟が出来ず交番前を素通りした。誘惑の多い街中を抜け、その先にあった公園のベンチに腰掛けた。水飲み場を見つけ、それに飛びついた。蛇口を捻れば水はただで飲めるこの国に感謝し、思わず水道口を咥へ出る水を飲み干した。一分以上も飲み続けたが、腹ばかりが重くなり、幾分満足感も得られたが、それも束の間で、ベンチに腰を下ろす頃には、出たゲップが空腹だと知らせた。公園の時計が夜九時半だと言っていた。公園にはたまに酔っぱらいが入ってくるが、少しして出ていく。彼らには帰る場所がある。そして明日もある。勿論生きていれば明日はあるのだが、その明日を生きることを止めても、今は誰ひとりとしてそれに気が付いてくれない自分が、何だか遣る瀬無く感じた。父がいればそれに気が付いてくれただろうと思った。無性に淋しさがこみ上げた。独りという漢字を厭わしくも思った。ただ自殺するとかそういった大胆なモノではなく、何となく、明日一日を無に出来たらと考えた。自殺する人間の心理なんてこんなもんなんじゃないだろうか。してもいない僕が言うのもなんだが。借金があった、失恋した、事業に失敗した、鬱だった、とか残った人間が勝手に決めつけている気がする。芸能人なら、死んだ後に同情した風な顔つきで近づき、興味本位で根掘り葉掘り調べられる。「原因は何だったんでしょ?」なんて神妙な顔つきでコメンテーターやアナウンサーやインタビュアーが親族を追っかけ回す。それには反吐が出るが、数字が取れるからと言われればそれまでだ。ただ本当の原因なんて、本人もはっきりとは言えないんだ。何となく、それが鬱だと言ってしまえば、それまでだけど、今の僕みたいに、明日一日真っ白でいたい、とそんな思いから始まるんじゃないかと勝手に行き着いた。丁度、死神もとり憑いていることだし、と冷笑も付け足した。二年前に友人が自殺した。彼と最後に会ったのは僕だった。正確には分かっていないが、多分僕だ。その日は二人で居酒屋で飲んだ。彼は会社の同期でバリバリと働いていた。当時は二人とも仕事人間で、飲んでいる最中も、ほとんどが仕事話で白熱した。仕事に対する自論を熱く語り、互いに反論してぶつかり合う。当時はそれが楽しいと思っていた。でもその日は彼のノリが余り良くなかった。そのせいでいつもは終電ギリギリで帰っていたのが、十時前に帰路に着いていた。別れ際、彼は、「部屋来いよ、もっと飲もうぜ」しかし、「明日早いし、今日は帰るよ」と断った。正直、その日の彼に面白みを感じなかったから、その誘いを断ったのだ。でももし僕があの誘いを断って居なければと、散々悩んだ。その半年後、自分が彼と同じ状況に置かれた。彼は死ぬ間際、左遷を言い渡されていたのだ。その状況に立たされたとき、初めて知った彼の苦しみ。それを解ってやれなかった自分を悔やんだ。今になって思えば、彼自身そこまで深く思い詰めていたわけじゃなかったのかもしれない。ただ少しだけ、真っ白になりたくて、無になりたくて、そして試しにやった首吊りで、彼は死んでしまったんだ。少しのはずが、永遠の真っ白になってしまった。そう考えるのも僕自身が楽になりたくて、彼の呪縛から自由になりたいだけなのかもしれない。呪縛などといっても、二年の月日でたまに思い出す程度になってしまったのだが。こんなとき、自分が淋しいと感じるときだけ、ふと思い出す。これは呪縛なんじゃなくて甘えなんだろう。彼に甘えているんだ。

夜空を見上げた。昨夜は雨が降ったようだが、今は降っていない。ただ今にも泣き出しそうな空だ。夜空でも、雨雲は黒々とした色をしていたんだとわかる。「泣きたいのはこっちだよ」ボヤいたあとで、首が疲れたので下を向いた。そこに見えた砂を、渡辺に貰ったスニーカーの底で均した。均しながら何で自分がこうなってしまったのかを考えた。父親が死んだから。殺したのが僕だから。それが本当かどうかなんてどうでもいい。もっと前から歯車は狂っていたんだ。父の首を閉めたとき、それから父親があからさまに僕を毛嫌いしたけど、もっと前だろう。婆ちゃんが呆けて、父親が介護でノイローゼになった。それはそれで大変だったけど、僕は仕事に追われそのことには見て見ぬふりだったから、はっきり言って僕の人生にはそれほど大差のないことだった。会社を辞めた時はもう辞めたいと思ったし、既に歯車は狂ってた。左遷されたときは相当ショックだったけど、半年前の同僚の自殺があったから、僕の心は何処か冷静でいられた。渡辺たちと過ごした学生時代は愉しかったけど、どこか満たされないと感じていた。朝、渡辺と見たテレビの学生時代の友人Aの言っていたことが、今更当たっていたことに気付いた。ただあれが大屋であることはあの後なんとなく思い当ったが、そのことを渡辺には言わなかった。小中高と勉強は嫌でも、学校に行きたくないと思ったことはないし、虐めを受けた記憶もない。強いてあげるなら、小学三年の冬に母親がいなくなったときだろう。家を飛び出した母は、一年後に死んだ。癌を患っていたらしい。「最後にお母さんの顔が見たい」と懇願した僕に、「おまえたちを見捨てた女だぞ。お母さんは」反論できず、最後を見届けることが出来なかった。その時からかもしれない。その時から歯車は狂いだしたんだ。でも母親は僕らを見捨てたんじゃない。止むに止まれぬ事情があったんだ。そうでないと今の僕自身がなくなってしまうから。母はいつも笑顔だった。優しくて僕のわがままを何でも聞き入れてくれた。そんな母が僕らの前からいなくなるなんて考えもしなかった。あの温かな手がずっと傍にあると信じていた。母は言った。「太郎の好きなホットケーキに、ウインナー入れちゃお」僕が、「それじゃあ不味くなる」と怒ると、「お母さんを信じて、絶対においしくするから」そう言っていつものようにニコッとした。それでも不安な僕は、それを口にするまで、母にいじけて見せた。フライパンで焼かれたウインナー入りホットケーキなんて美味しいはずがないと思った。それなのに皿に盛ってケチャップまで掛けた母の失態に言葉を失った。固まる僕の前に運ばれてきたそれを、ケチャップを除け、恐る恐る口へと運んだ。入れた途端に驚いた。ほっぺが落ちたんじゃないかと疑った。「次はケチャップ付きで食べてみて」だからその通りにして、またびっくりした。「おいしい」そう喜ぶ僕に、「でしょ、お母さんは料理の天才なの」「こんなの考え付くなんて、天才だよ」母はしてやったりな顔をしていたけど、それから数年後、彼女は家を出た。何があったのかはもう分からない。ただあの笑顔の裏には深い悲しみがあって、それを誰も、父親も、勿論僕たちも、分かってあげられなかったんじゃないかと、そのことが気に掛かるが、それから何年か後に、コンビニで一人で買い食いするようになったある日、たまたま見つけたアメリカンドッグを一口食べて驚いた。焼くと揚げるの違いはあるけど、あの日母が作ってくれたウインナー入りホットケーキそのものだったから。もしかしたら母が考えたモノをコンビニが改良して売り出したんじゃないかとも考えたが、名前がアメリカンだからすぐにそれはないことはわかった。この料理は母がパクッたことに思い当ると、あんなに自慢げだった母の顔を思い出し、嘘つきだったんだと笑えてきた。小学生時分、それは虐めではなかったと思うが、友達数人と喧嘩して、泣きながら家に帰ったことがあった。そんな僕に、母は寄り添い話しを全部聞いてくれた。そして、「お母さんは太郎のずっと味方だから、誰が何と言ってこようが、太郎の傍に居て一緒に戦うからね」そう言ってくれた。でも彼女は僕の前からいなくなった。当時はそれを責めたけど、それも嘘だったことがおかしくて、「母さんは嘘つきだったんだ」とコンビニで買い食いした当時も笑いながら泣いた。そして今も泣いて笑った、けど中学生の時には買えたアメリカンドッグを、三十歳を前にして買えない情けなさで、結局泣いた。

 「おい青年、何を泣いてる?」その声に顔を上げると、一目でルンペンだとわかる、還暦を迎えたぐらいのオヤジが立っていた。「泣いてなんかいませんよ」分かりやすい嘘をついておいた。「おまえ、新入りか?」「新入り?」「この公園じゃ見かけん顔だなと思って」「新入りってルンペ、あっ」言い掛けて急いで止めたが、「いいよ、ルンペンじゃ」ルンペンのオヤジは笑顔だった。「それ自体、今日が初めてです」「そうか、じゃあこっち来い。そろそろ雨が降るぞ」訝しげに空を見上げた。そう言って歩き出したオヤジの後ろを付いて行った。ベンチのうしろ、木々の間を抜け、着いた先は水道局か何かの機械が収められた建物だった。その軒先にいつか街中で見かけた段ボールハウスが三つほど列をなして建っていた。それにはブルーシートで覆っただけの入口があり、それを手で押さえながらオヤジは器用に中へと入っていた。僕も、一度は躊躇ったが、中から顔を出したオヤジを見つけ、それに倣って中へと足を踏み入れた。何度も段ボールに体をぶつけ、ハウスが壊れるんじゃないかとびくびくしたが、思いのほかそれは丈夫に出来ていた。入って一安心した途端、鼻に付いた臭いに眩暈がしたが、咄嗟に口呼吸に切り替えたことで事なきを得た。「腹減っただろ?」頷くと、「これ食え」手渡されたのはプラスチック容器に入った弁当だった。ただ白いご飯は半分なくなっていて、メインが居座るはずの部分はぽっかりと空白が出来ていた。キャベツの千切りとナスを炒めたものとおしんこが申し訳なさそうに入っていた。キャベツに付いた衣から想像するに、ここには旨そうな揚げ物が入っていたのだろう。何時のモノだろうか、食べて大丈夫かと疑ったが、背中とお腹がくっつく寸前だったから、ほとんど迷わず、それを口へと運んだ。微笑ましいといった表情のオヤジが、「これも食え」かぼちゃを煮たものもくれた。それには粘り気と酢っぱみを感じたが、気が付けたのは、五つのうち四つを腹に納めたあとだった。

 それからオヤジは、何故ルンペンになったのかと、聞いてきたから、会社も辞めて、親元からも離れたから、家もカネもなくてこうなったと答えた。だったら親元へ戻ればいいだろ、そこでちゃんと仕事を見つけて、それから離れればいいと、一応説教染みたことも口にした。だから、もう戻れないとだけ答えておいた。それ以上を話さなかったら、オヤジもそれ以上を聞いてはこなかった。ただ、「人間生きていれば色々あるわな」そう言って、この話題を締めくくっていた。僕の場合はそのいろいろが言えないのだが。そのあと、とにかくオヤジはよく話した。「俺の娘はアメリカ人と結婚して、向こうで幸せに暮らしているんだ」そんな話から始まり、「俺は人生でたった一人の女しか愛さなかった」それが奥さんなのは見当が付いたが、正解かは最後まで分からなかった。その話の中で、合コンの彼女を思い出し、もし今後、誰かと結婚出来たとして、今の二倍年をとって、オヤジぐらいになったとき、自分も同じように一人の女しか愛さなかったと言うのかを考えたが、そのときにならないとわかないことだと諦めた。そのあとは娘の旦那の自慢話ばかりを永遠と聞かされた。FBIに勤めていて、家にはプールがあって、メイドを雇おうかと彼が聞いてきたけど、娘は自分の居場所がなくなるからと断った話。FBIでも娘にはたじたじな話。孫の女の子の瞳はDNAの優劣に反して青色だとか、この前イギリス王室の晩餐会に呼ばれたんだけど、大きな事件を追っている最中だったからと断った話など、だから途中からは話し半分で聞いておいた。大体、孫の眼の色が青いとかいう辺りから。

眠さで朦朧としながら、永遠と続くオヤジの自慢話がこもり歌にしか聞こえなくなったとき、「バサッ」その音に眠気は吹っ飛んだ。音のした方を見ると、青いシートが開いていて、一人の男が僕の時よりも乱暴に侵入してきた。「狭いな」身勝手にも感じる一言を履きながら。確かに二畳ほどのハウスは、男三人には窮屈に感じた。それでも構わずに男は中へ完全に入ると、「ホラ爺さん。なんだ、また新入り連れこんでるのか?どうせ話し相手が欲しいんだろ」その口調からも気性が荒らそうだとわかる。そのとき気が付いた。自分が鼻呼吸していたことに。しかし新しい男の登場で新しい臭いが加わり、結局また口呼吸へと切り替えた。「そうだ、新入りだから色々教えてやらんとな」「相変わらず甘いね。ルンペンで食っていくなら、教えて貰うんじゃなくて、自分からどんどん吸収しなきゃ駄目だ」一番自由人だと思っていたこの世界にも、生きていく為には色々な知恵を身につけなきゃならないことに、さっきのコンビニで感じたとき同様、溜息が出た。「あれ?」そのあとでその乱暴男、過去にDVで家庭崩壊して行き着いた先がここなんだろうと勝手に決め付けた結果、僕の中ではこのあだ名に決まった、その乱暴男が、僕の顔をまじまじと見つめた。その動作に僕は咄嗟に顔を背けていた。「おまえ、あれに似てねえか?ニュースに出ていた男に。テレビには顔が出てなかったけど、ネット上に載ってた男。何の事件だったべな?昨日三丁目公園に炊き出しが出てて、ボランティアの兄ちゃんが見てたそれに、バッチシ顔が載ってたもん」僕は心臓が口から出そうになっていた。それをさっき食べたカボチャのせいにしたかったが、間違いなく乱暴男の発言で、突然引き起こされた恐怖でそうなっている。「そうだ、思い出した!」頭を軟な天井に何度も当てて騒ぎ出し、「間違いねぇ、この男、人殺しだぞ!父親殺しだ。そんな奴、早く追い出した方がいい」そう手を叩き、目を向き出し、声を張り上げた。「水ちゃん、煩いよ」「これが静かにしていられるか?」「もう夜中だ。近所迷惑になるだろ」「なに呑気なこと言ってんだ?」二人には相当な温度差があった。ただ僕はそんな二人の温度差になど気が付けるはずもなく。早くこの場から逃げ出したい一心だった。「この青年が怖いなら、おまえが出て行けばいいだろ」思はずオヤジの顔を見た。「何だ?ホラ爺さん。友達の俺よりも、この人殺しを選ぶのかよ?頭おかしんじゃねぇの?もう呆けたか?」「いいから、自分の部屋戻れ!」と言っても、部屋は段ボール製なのだが。「わかったよ。知らねぇからな。明日朝になって、爺さん殺されてても、燃やしたり埋めたりしないで、そのまま放置するからな。カラスの餌にしてやる」駄々っ子のように、入って来た時よりも乱暴に、乱暴男は出ていった。

男が出て行ったあと、「ありがとうございます」思わず礼を言っていた。そして何も言わずに立ち上がり、その場を去ろうとした。「出て行ってもいいが、おまえはそれで何処に行くんだ?」背中にオヤジの声が聞こえた。「それは分かりませんが、ここに居ては迷惑になるんで」「わしは構わん。出ていくなら朝の方がいい。今日はもう遅い」そう言ってくれたこともあるが、この部屋の天井は一メートルほどしかなかったから、中腰で立ち続けていることが辛かった。だから、「じゃあ明日の朝まで、居させて下さい」そう言って振り返り元の位置に戻ったとき、オヤジの顔は笑っていなかった。当たり前なのだろう。目の前に人殺しがいれば、誰だって笑顔はなくなる。さっきの乱暴男の反応をしないだけでありがたいことだ。それからは、息が詰まりそうな時間が続いた。唾を飲み込むのも躊躇うほど静かなときだった。そして神妙な面持ちで対峙したまま、ジッと僕の顔を見ていたオヤジが、重たい口を開いた。「人を刺すって、どんなだ?」その表情は興味があるといったモノとは違って見えた。僕は何も答えられなかった。「可哀想にな。親父さん。まさか我が子に殺されるなんて考えても見なかったことだろうな。俺はよかったよ。娘一人だから、多分殺されることはないだろう」その口調から、オヤジは俺を責めていると分かった。「わからない。覚えてないんだ」だから幾分ぶっきら棒になったが、あまりに小さな声だったから、オヤジはヘッという顔で右耳を突き出して来た。「だから、覚えてないんだ」声を張り上げてしまった。「覚えてない?」その言葉に、オヤジは元々大きな目をもっと大きく突き出し、驚いたと顔全体で表現した。が、一転目を細め、眉間にしわを寄せた。「ちゃんとしろ!そこはちゃんとしろ。殺したなら最後の最期までちゃんと見届けろ。それをぶっ殺しといて、覚えてないとは何事だ?」「すいません」言われている意味はわからなかったが、オヤジが凄い剣幕で捲くし立てたから、思はず謝った。「謝って済むなら、警察はいらないんだよ」「はぁ」「で、どうきは、動機はなんだ?」「わからない」「わからない?ふざけるな!それが一番腹が立つんだ。わからないで、殺された人間の気持ち考えたことあんのか?おまえのわけのわからないアイデンティティのせいで、親父さんはこの世に居れなくなったんだぞ。殺すなら殺すなりに、ちゃんと理由を伝えてからにしろよ」自分勝手に頭が良いと思っていた僕はどうやら馬鹿だったと、オヤジの言葉でわかった。「気が付いたら、目の前に倒れてて、死んでたんだ」「責任転嫁か?相手が勝手に死んだか、それは自殺だろうが」「本当なんだ。僕、精神病だったからその瞬間が全くないんだ。気が付いたら、もう目の前には親父の亡骸があって。そしてその前には死神が立ってて殺っちゃったね、て言われたんだ」「シニガミ、何の話だ?」間違いなくオヤジの顔は怪しんでいた。「とにかく目の前には死神の女がいて、僕が父を殺してしまった事実を伝えて来たんだ」相変わらず怪訝そうなオヤジは、僕の顔をジッと覗き込んでいた。「パンパンパン……」唐突にブルーシートを叩く音がすると思ったら、数秒後に無数のそれが段ボールハウスを楽器のように叩き始めた。雨が降り出したと分かった。「あなたには妻と娘がいます」「いないよ」「いいから最後まで聞いて、質問に答えろ」意味はわからなくても頷き、そのあとのオヤジの無意味にも感じる話を聞いた。ただ自慢話ではなかったから幾分興味が持てた。「あなたには妻と娘がいます。あるとき妻が死んでしまいます。あなたはとても悲しみ、娘と二人抱き合って泣きました。そして葬式の日、悲しみに打ちひしがれているあなたの前に、美しい女性が現れました。聞くと彼女は遠い遠い親族であることがわかります。あなたはその女性に一瞬で恋に落ちます。数日後、あなたは娘を殺してしまいます。さて何故?」「何の話?僕が言うのもなんだけど、その男酷いね」「質問に答えろ。何で娘を殺した?」「えっ、邪魔になったから」酷いことを言っていると思ったが、それしか浮かばなかった。オヤジに最低だなとでも言われるのだろうと覚悟した。「おまえは、父親を殺してないよ」「へぇ」意外な言葉が返って来た。「だから、おまえはお父さんを殺してなどいない。自信を持て!日本中みんながおまえを殺人者扱いしても、それを信じるな。この世に居るのかいないのかわからんけど、死神も信じるな。たとえタイプでもな。信じるのは己だけ。どんなに周りが野次ろうが、おまえだけは信じてやれ。己は人殺しではないと、信じてやれ」体がすっと軽くなる思いだった。頭の中でずっと蠢いていた得体の知れない何が融けていくようなに感じた。そのあとで、僕がその質問に何と答えていたら、僕が親父を殺したことになったのかと聞いたが、教えてはくれなかった。ただ、「誰かがその答えを言った瞬間、これだと気が付く」そう言っただけで、またあの笑顔に戻っていた。安心した僕が、それだけで信じていいのと発言したときだけは、少しギョッとした顔をしていた。それとこのオヤジのことを好いていると感じた自分は、この人を傷つけたくない衝動に駆られ、「やっぱり出て行く」と天井に当たらないよう首を捻って立ち上がった。「外は雨だ。今日ぐらいはゆっくり休め。明日からまた、逃亡の日々だ。俺のことを信じれるなら、ここで休め」「はぃ」だからまた堅い地面に腰を下ろした。ただ夜になると豹変したらどうするんだと、少し回りくどい言い方になってしまったが、伝えると、「そのときは、俺がおまえの首を圧し折る」と言って薄笑いした首筋が、とても還暦が過ぎていると感じさせないほど逞しく、本当に殺されそうだと、僕は苦笑いで返していた。実際は還暦を過ぎているかも確認してはないのだが。その夜は決して綺麗ではないし、やっぱり臭い段ボールハウスの中で、安い酒を飲まされ気を失った。雨は相変わらず音を奏で続けていたが、悪いものでもなかったから居心地はまあまあだった。擦り切れたシートの上に寝転がった。ところどころに草が飛び出していて、その近くに顔があったのだろう、気を失っていても、土の匂いがした。草の呼吸が聞こえた。ペラペラのシート一枚で繋がった大地がひんやりとしているのに、温かく感じた。

 「何故、そんな余計なことをした?」「それは、ホラ爺さんが心配だったからだろ」「うそつけっ。どうせ情報流して、カネ貰ったんだろ?」「そ、そりゃ、カネは少しは貰ったけど、でも本当に爺さんの命守る為だろうが」「この青年は誰のことも殺してはいないし、誰も殺したりはしない。おまえこそ、人の不幸をカネにするのは止めろ。俺ら浮浪モノは、存在だけでも人様に汚いだ、臭いだ、で迷惑掛けてんだ。だからその分、心は綺麗にしとかなきゃいけないんだ」「山のように缶集めして、微々たる小銭っきゃ貰えねぇじゃねぇか。綺麗事じゃ飯は食えないんだよ」「ホラ、青年。起きろ」「何起こしてんだよ?」「警察来るんだろ?早く逃がしてやらないと」「ふざけんなよ!コイツに逃げられたら、一銭も入ってこねぇじゃねぇか」「まだそんなことを言ってるのか?」「青年、早く起きろ!早く逃げないと捕まっちまうぞ。無実を証明するんだろ?だったら早く起きろ」その言葉に飛び起きた。「馬鹿野郎!起きちまったじゃねぇか」実際、僕を起こしてくれたのは乱暴男だった。勿論、彼は無意識だったのだろうが、乱暴さ故に、この段ボールハウスに入るなり、早々に僕の足を踏んづけたのだ。「ボーっとしてないで、ここから早く出ろ!」「殺されちまえ、ホラ吹き爺っ」そう吐き捨て、男は出ていった。

 「何で、僕なんかの為に?」「わからん。わからんが、おまえのこと結構好きになったからな」ブルーシートを開け、一度外を見た後に、「実は俺には息子もいてな。大体、おまえと同じ年ぐらいだな。おまえと違うのは、地位も名誉もあることぐらいだな」嫌みでも、勝手に温かさを感じた僕が、「昨日はいないって?」驚いた顔をすると、「親子の縁を、切られたんだ。だから、邪魔したくないから、いないって言うことにしている」そう答えたときだけが、唯一見せた彼の弱さだったと、あとで気が付いた。「でも、なんで今は?」「あっ、そうだな」そう言ったオヤジが、先に外に出ると、「もう来やがった。あんな馬鹿の言うこと信じるかね」実際ここに居るんだから、乱暴男は嘘をついてはいないのだが、オヤジは顔だけを中へと入れ、「いいか、俺がリヤカーであいつ等の気を引くから、その隙に逃げろ!躊躇うな、全力で走れ!」「でも……」「心配するな。俺はどうにでもなる。そんなことより聞いてたんだろ、さっきの会話?」「はぃ」「ごめんな。許してやってな。あれはあれで悪い奴じゃないんだ。カネには汚いけどな。でも俺に話してしまう辺りバカだけど、憎めないんだ。だからアイツと友達なんだ。おまえにもそんな友達いるか?」「はいっ」「そうか。それなら、おまえの人生間違ってない。よしっ行くぞ!達者でな」そしていつもの笑顔のまま、勢いよく出ていった。すぐに外に出ると、オヤジの走っていた、右とは反対の左へと体を向けた。「いたぞ!逃がすな」ビクッとなって振り返ると、オヤジの目論見通り、三人の警官がオヤジを包囲していた。リヤカーの荷台に掛かっていた布を一人の警官が剥ぎ取ると、「空き缶?」「残念でした」そう言ってオヤジはチャラけて見せた。「オジサンッ」堪らず叫んだ。「バカッ早く逃げろ」「オジサンは?」「俺は大丈夫。おまえは己を信じ突き進め!」「うんっ」大きく頷くと、申し訳なくても今は逃げようと体を向き直し走り出した、が、そこには一人の警官が立っていた。してやったりの顔つきで待ち構えていた。万事休す。肩を落とし、観念し掛けたとき、「お巡りさん、ここにはどうやって行ったらいいんだ?俺は田舎もんだから」突如現れた乱暴男が、僕と仁王立ちしていた警官の間に割って入り、彼に話し掛けた。「退けっ!」焦った警官が乱暴男の体を除けようとしても、彼は、「警官は市民の話に耳を傾けてくれないんだ」「あとでにしろ」そして背中に見えた右手で、早く行けと手を振った。その背中に一礼して、横にあった細い道を抜け、四メートル道路を左に曲がると、あとは息の続く限り一心不乱に走った。十数メートル後ろで、二人の警官がおっかない形相で追い掛けて来ていた。「待ちなさいッ!」一人がそう叫んでも、その顔に怯んでも止まる気はさらさらない。逃げるしかないのだ。オヤジや乱暴男の思いを無駄にしたくなかった。その考えが自分勝手でも、今は逃げようと思った。何処を走っているかなんてわからない。ただ住宅街ということだけは、朦朧とし始めた眼でも確認が出来た。井戸端会議中のお母さん方、真新しいランドセルに背負われているように見える、小さな黄色い帽子の小学生。腰の曲がった婆ちゃんが、僕を不審そうに見ていたのに、横を通り抜けるとき、「がんばれ」と確かにそう聞こえた。空耳だったのかもしれないが、そのお陰で幾分足が軽くなった気がした。だからまだまだ走れそうだと、少し距離が開いた警官に笑顔を送った。それでも少しすると、額に汗が吹き出し、それが口に流れてしょっぱいし、纏わり付いた黒のTシャツが疎ましかった。頭の中は体以上に爆発を繰り返しているらしく、とにかく猛烈に熱かった。そのせいで思考回路が焼き付くのがわかった。だからどんどんいろんなものがぼやけていったし、わからなくなった。こんなに苦しいのに何故走っているのかもわからなくなった。ただ止まろうとすると誰かが走れと、背中を押している感じがした。後ろで、「止まらんと、撃つぞっ」と苦しそうな怒鳴り声が聞こえれば、死にたくないし、逃げる理由がわからなくなったから、両手を上げて降参しようと思うと、とにかく逃げろ、と誰かが言った。前方からパトカーが迫ってくる光景には度肝を抜かれ、誰かが背中を強く押しても、頭の中ではエンドロールが流れ始めた。それなのに体が勝手に右を向き、そこにあった車両は到底通れない細い道へと誘導された。だからまだ走ろうと思った。やっぱりへとへとで、肺はカラカラ、肺胞なんかは干乾びて新しい酸素を体に吸収出来なくなったせいで、住宅街で高山病になった。さっきまで鉛のように感じた足が、今はもう感覚もない。大火事になった頭の中で、残った回路を探した。天高く掲げられた左手はあっても、そこからの音声はなかった。リヤカーの前でニヤけるオヤジが、何がしたいのかはわからなかった。ただそれらが僕の体を押しているのは何となくわかった。息絶え絶えに走っても、Uターンしたパトカーが何時からか真後ろに来ていて、「無駄な抵抗は止めて止まりなさい」とマイクを通して言われると、もう苦しいから諦めようと思ったのに、たまたま見つかった音声回路が、こう言った。己だけには負けるな、と、それを何度も何度も大火事の中で聴かされた。根を上げたはずの体が吠えだし、全く感覚のない足が勝手にピッチを上げた。目の前に階段が現れ、それを死にもの狂いで駆け上がり、木々の間、獣道を何ヵ所かの枝に引っ掛かれながらも疾走し続けた。頭の中は燃えるモノがなくなったのか鎮火していた。だから真っ白で何も考えられない。ただ足を、只管足を前に出し続けた。幾つもの住宅街、幾つもの商店街を走り抜け、奴らの姿が見えなくなっても、それでも足を、只管前へと出し続けた。残った最後の回路が言ったから、己に勝てと言ったから。己に勝ちたいと、脳を通らなくても体が反射して全身にそれを伝えた。そして僕は奴らから逃げきった。

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