第6話 アカセン マリー

そのあと、走りつかれた僕は、街中を流れる川に沿ってある、スーパー裏手の人通りのあまりない道にベンチを見つけ、通行人から見えない川の方に体を向けて座った。目の前には緑色の金網があり、それは一メートル五十センチほどの高さまである。金網の眼は細かく丈夫に出来ている。そのせいで網目に足を引っ掛けて、それを乗り越えて川に入ることが出来ないようになっている。今それを越えようとも思わないし、無理に目の前の難所を越えたところで、その先すぐに三メートルほどのコンクリートの崖になっているから、落っこちたら逃亡どころじゃなくなる。救急車で運ばれて、病室で取り調べを受けるのがオチだ。今頃渡辺は、どうやって警察に僕の逃走を説明しているのだろうかと考えた。通報して逃がしましたでは、やはり幇助罪で捕まるのだろうか。彼も馬鹿ではないから、そこまで真っ正直なことは言わないだろうが、いや、アイツはバカだった。奴なら言いかねない。でも僕もアイツもだいぶ大人にはなったから、そこまでじゃないだろうと考え、ひとりその後の彼の対応を想像した。僕が逃げて数分で、警察三四人が物凄い勢いで彼のアパートのボロボロの階段を上る。一人ぐらいは僕みたいに怯む者もいるだろう。それでも仕事だからと目を瞑って上るんだ。二階突き当たりまで来ると、渡辺邸のこれまたボロい木のドアを外れんばかりに開け放つ。一人か二人は拳銃なんかも構えていたりするかもしれない。そんな中でも渡辺は漫画を読んでいるのだろう。その映像は昨日見たこともあるが、鮮明に浮かぶから間違いないと思う。その光景に拍子抜けした警官の一人が、渡辺に尋ねる。「三山太郎は?」て。それに対して彼は、「ちょっと待って、あと少しで読み終わるから」とか言っちゃうんだろうか。拳銃を構えている奴がいるんだから、そこまではヤツでも無理だな。多分一言で終わらすんだ。「逃げた」「えっ?」警官の一人は、思わずそんなセリフが出てしまったりするだろうな。しかし警察もそれでは帰れないからと、指紋や渡辺の聴取をするよな。そんなとき彼は思うんだ、通報しなければよかったなって。ざまあみろ。

そんなくだらないことを考えていた僕の口角が上がっていたのかは分からないが、視界に入るギリギリのところに、微かに動くモノが微笑ましくこっちを見ていると感じた。それは見てはいけない、とてもおぞましいモノのように思えた。そう思えば思うほど気になっても見ないと決めた。それなのに向こうからジリジリと視界に侵入しようとしていると分かったから堪らず瞼を堅く閉じた。恐ろしく長く感じた時間のあとに、ツンッと鼻をつく臭いに思わず瞼を開いた。「わっ!」僕の驚きに目の前に居たそれが二・三歩後退してからこっちを覗く仕草をした。そこに居たモノ、フリフリのロング丈の元は薄ピンク色のワンピースを着たみすぼらしい老婆。「こ、こんにちは」ニコッとしたまま反応がない彼女は、朝の公園の老人とは違う。いい歳だろうが、聞こえてはいる。仕方なく苦笑いで返すと、「あなた、私のこと知っている?」その問い掛けは寧ろ僕がしたかった。テレビに顔が出ていないとはいえ、事件があった実家とは、歩く距離ではないにせよ目と鼻の先ぐらいの距離だ。情報だけは流れているだろう。父親殺しのあの事件があったのって、千滝町の三山って家らしいよ。そこの息子の太郎って、今度三十の息子が殺ったんだって、みたいな噂話はすぐに流れそうだ。そうなれば写真なんかも出廻って来るかも知れない。「私、怖い?」えっと顔に書いた僕に、怪訝そうに彼女が尋ねた。「だって、あなた顔色青いけど」どうやらひとり想像の中でビビりまくり、顔色まで悪くなったようだ。「そんなことないです」「そう、ならいいけど」でも僕の想像は、この国の国民性を考えれば十二分に起こりうる範囲内だ。「あなたルンペン?」その言葉に思わず自分のことを見た。見たところ、そんなに酷くは思えなかったが、髪の毛なんかはボッサボサで、顔は日焼けしてもいないのに黒ずんでいるのかもしれない。「それも成り立てって感じね」一人話を進める老婆。そんな彼女こそルンペンだろうと、見た目で分かる。それも筋金入りの。「何、ニヤけてるのよ?」僕は思ったことが顔の筋肉に出やすいタイプのようだ。「私はマリー。聞いたことあるでしょ?横浜じゃ結構名の通ったダンサーだから」「あっ」「知っているようね」本で読んだことがある、アカセンマリーの名前を。学生時代暇だったある日、僕は大学の図書館でたまたま見つけた、アカセンという本を何故か読破したことがある。「あっ、はい」「そう、どんな風に知ってるの?」暇じゃなかったら決して読まない内容のモノだった。血気盛んな若者を萎えさせるような内容だったが、時間があったとはいえ最後まで読んでしまった。そこまで分厚いものではなかったが、薄っぺらでもなかった。長編小説一本分ぐらいの量はあった気がする。僕が読破した本の中では未だに最長かもしれない。とにかくその日は、午前で授業が終わってしまい、そこからずっと暇で、渡辺とかも学校に来てなかったから、暇つぶしに読んだら、読むのが遅い僕は夜まで掛かり、最後に図書館を出たぐらいだった。内容は勿論アカセン、売春のことだ。「あっ、名前だけです」「そう、残念」とてもじゃないがアカセンのことは言えない。本によると、戦後から赤線が禁止になるまで、日本の至るところで売春は合法だった。警察が遊郭などの風俗営業が認められている地域を地図上に赤い線で囲んで表示したことから、赤線と呼ばれるようになったと本には書かれていた。因みに赤線は1958年禁止される。その本は、赤線で当時相当数の数をこなした各地の有名娼婦のそれまでの生い立ちと、禁止になったその後のことをインタビュー形式で羅列していた。その一人が彼女だった。横浜の何処かの売春宿にマリーはいた。東京一帯は、当時の売春宿を総称してカフェーと呼んだ。そして誰しもが分かっていても、少しでもカフェっぽく見せる為に、一階にはダンスホールが大概設置されていた。その二階で多くの女性が売春を行っていたらしい。マリーは戦争で恋人を失った。彼は神風特攻隊で若い命をお国の為に捧げた。「天皇万歳!」と敵艦隊に突っ込んで逝った。その後で彼女は言っていた。この国を恨んでいると。彼を失ったショックそのままに赤い線を越えてしまった彼女。自暴自棄のまま、もう二度と誰も愛せないと思ったから、それでいいとそのまま十年以上も越えた線を戻らなかった。そして彼女はインタビューの最後に、どうしてもっと早く赤線を禁止にしてくれなかったんだと締め括っていた。だからこの国を恨んでいると。青春を取り戻すには、私は歳を取り過ぎたと零していた。「あんた、知ってんだね。私が娼婦だったこと?」また顔に出てしまったようだ。「そっか」彼女は明らかに肩を落とした。「学生時代、本で読みました」「むかし、馬鹿みたいに雑誌とかに顔まで出して載ったりもしたからね」「僕が読んだ本には、写真までは載っかっていませんでしたけど」それが気休めにもならないことは分かっていた。「馬鹿だったね。じゃあ、私が赤線をやり始めた切っ掛けとかも読んだんだ?」「恋人の戦死、ですか」「そう」「この国を恨んだことも?」「知ってます。売春を野放しにしたことですよね。もっと早く廃止してくれていたら」「でもその本も相当古いものだよね。よく覚えててくれたね」「十年ぐらい前に読んだんですけど、何でここまで内容覚えているんですかね?」それから浮かんだことをそのまま続けた。「マリーさんたちが、その時代に流されながらも懸命に生きたことに、心打たれたからじゃないですかね」我ながら良いことを言っていると自負した。「違うよ」僕はこういうとき、大概否定される人間である。「そんなに格好いいもんじゃないよ。赤線をやってた十五年間、死んでたもん。ただ抱かれ、舐めて舐められて、入れられて、出されて。どうだってよかった。そう思っていないと、心と体は別なんだって思っていないと、自分が消えそうだったから。だからあの時代、私は懸命になんか生きてなかった、寧ろ死んでたよ。そしてその後、雑誌や本に載る前も、そして載った後も、自暴自棄だったんだ」「自暴自棄は赤線時代じゃないんですか?」「勿論、その時代もそうだったけど、まだ若い分未来を悲観しなかった。考えてなかっただけだろうけど。でもいざ赤線が終わったとき、当時既に三十代前半だった。だから赤線が廃止になる前に、客なんてほとんど取れていなかったから、赤線さえも干される寸前だったんだけどね。実際に終わってみると、自分には何も残っていたいことに気が付いた。焦ったね、結婚も出来ていなかったしね」二人が話す真上で、太陽が今日最高の高度に到達していた。そのせいでジリジリと肌が焼ける音が煩くて、マリーさんの話がたまに途切れた。「そんなときにある出版社の人が声を掛けてくれたの。赤線の思い出を雑誌に載せないかって。最初は断ったよ。ずっと嫌だと思っていたことを、全国の人に大々的に公表するなんて考えられなかったし。でもその編集者の人が、現代の弛み出した若者の性に対して、マリーさんの性に対する思いを訴えて欲しいんですだって。娼婦だった私なんかが云う言葉に何の重みもないじゃないかって言ったら、娼婦だから重みがあるんです。時代に翻弄された娼婦の人生だから力があるんですって、力説されて思わず引き受けちゃった」だから必死で聞いた。たらたらと汗が目に沁みても、「その人の言った通り、反響があったんですね?」本を読破しただけあって、彼女の話には興味があったから。「そう。驚いたわ。ファンレターまで届くんだから。それも大量に。でも、それで勘違いしちゃったのね。私の生き方は間違っていなかったって思っちゃったの」「そう思って、良いじゃないですか?」過去の過ちをプラスに変えた彼女に対する称賛のつもりだったが、「送られてきたファンレターは冷やかしやゲスい内容のモノばかりだったわ」再び暗い表情になった。「でも、その中に熱烈に応援してくれる人がいたの」彼女の表情が明るさを取り戻した。「彼は当時大学を卒業したばかりの若造。そんな彼が私に会いたいって、何通も手紙を送って来た。最初はからかわれていると思ったし、年も若いからヤリたいだけだろうと思って流してたの。それでもあまりにしつこいから、いい加減にしろっ、冷やかしはやめろって書いて手紙を送ったの。そしたら彼、顔写真付きで身長や出身、事細かな生い立ちまで書いた手紙送って来た。驚いたし、涙が出た。だから会うことにしたの。正直、戦争で散った初恋の人にも何処となく似ていたしね」そんな太陽の下、キラキラと輝く川が眩しかった。「それで会ってどうだったんですか?」「実直を絵に描いたような青年だった。何度かデートを重ねても手さえも握って来なかった。だから興味が冷めちゃったんだって思ったの。そしたら彼、結婚して下さいって突然言ってきた。今でも覚えてる。山下公園、氷川丸の前だった」そのときの彼女も、この川のように輝いていたんだろう。「やったじゃないですか」「うん。とうとう春が来たって、青春が来たって思った」「はい」「でもそれも、長くは続かなかった。彼は両親にも会わせてくれたの。本当は会いたくなんかなかったんだけどね」「娼婦だったこと言っちゃたんですか?」でも太陽の陽光がなかったら、この川はどう見えるのだろう。「いいえ。言ってないよ。最初彼の家に行って、母親が驚いていたわ」「何にです?」「年の差よ。今でこそ、姉さん女房が当たり前だけど、当時としては珍しかった。一回りも離れていては当然だけどね」川幅が五メートルほどの川は、綺麗な小川ではないのだろう。「それで諦めたんですか?」「でもストレートパンチはそのあとに待っていたの。娼婦のことは本にも載せてしまっていたから、おいおいは話そうと思ってたの。後戻りできない結婚後か出産後に。その辺が三十路を越えた女のしたたかさね。母親はすぐに承諾は出来なくても、とりあえずお付き合いは許可してくれた」「それの何処が、ストレートパンチなんですか?」「トイレに立ったとき、ドアを出たところに彼のお父さんが立ってたの。この先わかるでしょ?」「むかしのお客さんだった?」「その通り。私はあなたを何度も何度も抱いたことがある。私はあなたのファンだったから。だから息子もあなたに惚れるのは分かる。でもあなたと息子の結婚は、絶対に許可できません。ごめんなさい。そう言って土下座された」都会に流れる小さな川はそれに染められ、通る人々にこう呼ばれるのだろう、どぶ川と。「何も言い返せなかったし、確かに彼のことを考えたら、自分が身を引くべきなんだろうって、頭では分かっていた。それでも女の部分だけでそれを強引に押し通そうとしてたの。でもそれは違うなって思った。未来ある若者の人生を奪ってはいけないって。それにいつか彼が夢から覚めたとき、その先が一番怖かった。だから結局私から身を引いた。彼は最後まで、いやだって、言ってくれた。でも私から、冷めた、の一言で終わらせたの」本人が汚れているんじゃない、周りが出す水が汚れているんだ。そのせいでこの川は汚れて見えるんだ。ここに住む人たちのせいで、どぶ川にされたんだ。「それで私の人生終わったの。そうじゃない、そうじゃないわ。元から始まりっこなかったのよ。過去の汚れは消せないもの」言葉がなかったから、川を見ていた。「それからは違法でも、コソコソと赤線続けたの。結局私にはそれしか残ってなかった。それで生きて行くしかなかった。流石に歳食い過ぎて、モノ好きや昔のよしみで私を買ってくれてた客も段々いなくなったとき、私は警察に捕まった。もう五十近かった。捕まえた警察も私に同情するぐらいだった。でも捕まった私は幸せな方、仲間は沢山死んだの。エイズとか性病で。当たり前だよね。穴に次から次へと色々な異物、突っ込むんだもんね」いつしか空に沸いた雲が、あれだけ強力な日差しを遮っていた。その瞬間に、僕は本当の川の姿を見てしまった。それは想像通り、どぶ川だった。「ごめんなさいね。詰まらない話、永遠と聞かせちゃったわね」「いいえ、聞けて良かったです」「なら良かったけど」それからマリーさんは年輪が無数に刻まれた顔を僕に近づけた。「どうしたんですか?」「あなた、随分やつれているわね。何か心配ごとでもあるの?それとも何かから逃げているの?」「そんなんじゃないですよ、ただちょっと寝不足で」「だったら少し眠れば、雲も出て来て日陰も多くなったから、ここでも眠れるでしょ」「でも……」「私なら大丈夫。あなたが居ようが居まいが、昼間はここで汚いこの川を眺めながら過ごすのが好きなの」「それなら、お言葉に甘えちゃっていいですか?」「どうぞ」雲が多く出てきてはいたが日陰を作ってくれるだけで、雨は伴っていなかった。だから少しだけ横になろうと、そのベンチに横たわった。近くにフリフリのロング丈、薄ピンク色のワンピースが似合う老婆の存在にホッとなり、そこで眠ってしまった。どれほど眠ったのかはわからないが、いつからか雲は消え、ギラギラの太陽を煙たい感じて起き上がった僕は、ひっくり返った状態のジーパンのポケットを見つけた。スリにあっていた。そにあったはずの三百円ほどの小銭は一枚も残っていなかった。辺りを見渡したが、元は薄ピンクのフリフリワンピースは消えていた。「やられた」そう零し、ニタニタした。アカセンマリーにやられたんだとすぐにわかった。だからいつか、彼女の本を出して印税で稼いでやろうと企んだ。太陽がギラギラでもだいぶ西へと傾いた分、目の前の川に今日の光はもう届かない。そんな川は彼女の目にどう映っているのか、僕が出す本の最後に書き加えたいと思ったが、今頃あの三百円で牛丼を食っている女に聞いても、旨い旨いしか返っては来ないだろうと諦めた。

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