第5話 渡辺という男

動物園を出て、坂道を下った先に図書館があったことを思い出し、そこを目指した。途中、ずっと上だけを見て歩く人がいた。たまに指を折って数を数えながら考え事をしているのだろうが、そのときも顔はずっと上を向いたまま。その人の目線の先を見ようとするが、そこには何もない気がする。その目線の先、何かにあたる手前の空間に答えを求めるが、そこにも変わったところはない。その内に右手をグーにして左手の手のひらを叩いた。何かいいアイデアでも思い付いたみたいに。それからその人は顔を綻ばせた。もちろん上を向いて。見知らぬ人がただそんな動作をしただけなのに、僕も何故か嬉しくなった。羨ましくも思ったけど。でも実際にその人が何を考えていたのかも、いいアイデアや良いことがあったのかもわからない。ただ僕はその人の動作や表情を見ていただけなのに、こんなにも気持ちは伝わることに気がついたんだ。確かに分かりやすい人だったんだろうけどね。

図書館に着いた僕は、病気の本が詰まった棚を探した。その本がある棚は高さが二メートル、幅が十数メートルもあった。勿論何冊あるかなんて分からない。人間にはこんなにも病気があることにただただ驚いた。その中から、精神病を扱ったものを探した。その場所はすぐに見付け出せたが、精神病だけでもゆうに一メートルを超えていた。僕は全く特別な病気じゃなかったんだと勇気づけられたが、死神が言う、自分以外のもう一人の魂が入り込む病気を探さなくてはいけなくなった。病名が分からない以上、片っ端から見て行くしかない。ストレス、不眠症、神経衰弱、認知症、心身症、躁・鬱、てんかん、自我意識障害、失語、失行、脳動脈硬化、脳性麻痺。恐る恐る自分に合った症状を探した。調べ始めて既に一時間が経っていた。そして統合失調症に付いての症状の箇所を読んでいたとき、死神の言った、人間たちは自分以外のもう一人の魂が入り込む病気を、精神病と名付けたのよね、の言葉を思い出した。人間界で勝手に決められた病名だったんだ。それは当たり前のことなんだけど。それでも病院で貰った薬に効果があった事実から、父親が言った精神分裂症、今は統合失調症に改名されたその症状を読み進めた。精神分裂症という名前の方が馴染みがあるが、おどろおどろしい響きを兼ね備えていると思った。その病気は対外、社会的ストレスから不眠症になり、鬱になって、幻覚が始まる一連の流れがあるらしい。大概の人は幻聴を聞くことが多く、そのスケールはどんどん大きくなるのだそうだ。最初は身内の人間に言われていると感じた悪口も、職場へ移り、その内ヤクザや警察に追われるようになり、国際的組織へと大きく発展していくことが多く、まさに僕そのものだった。家族や職場で悪口が聞こえるようになり、その内には国家組織の刺客が現れ、命を狙われた。そして組織の一員ではないかと、疑った父をも殺そうと手にかけた。それが、CIAが出て来て宇宙人と戦うことになった。最後は死神まで現れた。もはやこの世の世界をも超越していた。それも薬を飲めば四週間ほどで改善し始めることまでが僕そのものだった。「僕は病人だったんだ」そんな言葉がほろりと零れた。そのあとも何冊かの本を読んだが、人間にもう一つの魂が入り込み人を殺すといった症状の記述を、何処にも見付けることは出来なかった。死神が言うように、人間の医学はそこまで到達してはいないということなのだろう。確かに患者を診た医者の判断で精神病の病名を決めているとの記述は、幾つかの本で見付けた。本当の原因は分からなくても、前例で似たような症状があれば、目の前の患者にもその病名を付けてしまう。その中に僕も置かれているのだろう。それに死神が言った通り、鬱などの精神病は、回復期に自殺者が多く出るとの記述もあったが、それの原因がどん底の時は死ぬ気力もなく、薬などが効いて気力が少しでも出て来ると、それが自殺を誘発するなどと書かれていたが、それよりもあの女が言ったように、もう一つの魂が体に入ったからの方が納得がいった。そいつが追い出されるぐらいなら、元々の体の持ち主を道ずれにすることは容易に考えられるから。

図書館を出る頃には、携帯電話の時刻が六時に差し迫っていたから、渡辺の家に向かうことにした。外に出ると、雨が降っていた。それは突如降り出したのだろう。見ると周りの人間も僕同様に傘がなく、灰色の空を疎ましそうに見上げていた。図書館前で数分待っていたが、ザンザンと降り続き弱まる気配がないと感じたからそこから歩き出し、空の真下でそれに打たれた。雨は一向に弱まることがなかったから、堪らず電気屋の軒先で雨宿りをした。店頭にあった一台のテレビから、「昨日、横浜で起こりました殺人事件で、警察に通報したのが現在も行方不明の長男であることが、警察への取材で分かりました」女性キャスターの話が終わると同時に、横に居た男性キャスターが、「横浜の殺人事件と聴いても、立て続けに起きているので、どの殺人事件だか解らなくなりますね」「そうですね。大岡川での調理師殺害。オートロックを消火器で破壊した会社員殺害。そして今回の事件ですからね」「それにどの事件も、いまだ凶器は見つかっていません。市民の方々は、不安な日々を過ごされていることと思います」雨が弱まる気配がなくても、僕はまた歩き始めた。そこから逃げたかった。少しして全身にシャワーを浴びてから、それを確認するように雨は終息していった。大自然に文句を言うことがどんなに無意味でどんなに小さいと思われても、文句の一つも言いたくなったから、「このやろうっ」とだけ言ってやった。

彼の家に向かう途中で、道端にあるミラーに映った自分の姿を偶然見つけた。この頃トイレに行って手を洗っている時も、頬をつたう線を見つけたあの一度だけで決してじっくりと見ることをしなかった。父親の死を全く実感出来ない自分に、その顔が語りかけて来るような気がした。おまえの父親は、本当の息子の手で殺されたんだと。それを否定できない自分もいることに、薄々は気が付いている己を認めたくなかった。そんな自分の顔をずっと避けてきたのに、こんなところで見てしまった。雨に濡れたその姿は、痩せている上に窶れが加わったせいで、惨めでさえあった。頬はこけ、無精ひげが白茶けた肌と対比して鮮明な黒色で浮き上がっていた。その髭だけが生き生きと躍動し、今の状況を楽しんでいるようだった。そこには既に、声の彼の魂が宿ってしまったようで慄然とした。これが父親を殺した顔と体だ。この体を、今夜、友人の家に泊めても大丈夫だろうかと、ふと思い当った。渡辺のことを学生時代、どう思っていたかを考えた。彼に対しては良い印象しか思い出せなかった。とにかく彼は物静かな僕のことを気にしてくれ、常にチョッカイを出し続けてくれた。ウザいと思うこともあったが、結果的には感謝していた。これなら大丈夫、彼を殺したいと思う要因はないよな、とミラーに映る自分に一度問い掛け、頷くのを確認してから、彼の家を目指した。

電話の案内通り、あと100メートルのところまで辿り着いたが、辺り一帯畑と月極駐車場ばかりで、見渡しが各別によかった。渡辺を信じていないわけではないが、彼に伝えた以上、僕が本日夕方にここを通ることは約束されていた事実だ。それを考えたとき、ここが一番の難関ということになるだろう。夏至が過ぎ去ったとはいえ、この時期はまだまだ日が長く、六時の陽は昼間のような明るさがある。渡辺の住むアパートを含め点在している家々が、全て日当たりに問題なく生活が出来ているだろう。今となっては、敵になってしまった彼の言った火星人の襲来を、もう信じてはいないが、それのお陰で100メートルを走り抜けることはそれほど苦ではないと思えた。「ヨーイ、ドン!」自らで声を出しスタートを切った。左手、畑の向こうに幾分腰が曲がった老夫婦の姿があった。そこに安穏を感じても、その前方、畑とアパートの間の道を、僕が全力で走る道に向かって小走りでくる男に顔を顰める。男は同じ道に入ると僕目掛けやってくる。どんどん向かってくる。あと十メートルほどの距離を置いて、男が僕に全く興味がないことを察し、安堵してお互いをやり過ごした。そのあとは警察らしき姿もなく、罠も張られてはいなかった。突き当たったことでゴールだとみなし息を整えてから、着いた場所は木造2階建てのアパートだと確認した。今にも消えてしまいそうな一刻荘の文字に聞いたことがあると思ったが、あれは一刻館で、ここには綺麗な管理人さんなど住んでいないと決めつけた。渡辺の部屋は二階の角部屋だ。階段を上がろうと一歩を踏み出したとき見えたそれに驚愕した。鉄の階段は錆び付き、ところどころに穴があいている。穴が開いていないところも、どうやればここまで薄くなるのか、上っている途中に穴ならまだしも崩れ落ちたらどうしようかと、震度三でも七ぐらいに感じれそうな建物だと思った自分は、結構嫌な奴だと知った。そんな僕が、久々に会う友人をどこまで信じていいのかがまた引っ掛かった。こういうとき、僕は自分だったらどうするのだろうかと考えることが多い。昔の友人から突然電話があって、今夜泊めてくれと頼まれる。それ自体愉快じゃない気がした。もし渡辺にそう頼まれたら、何か適当な嘘をついて断ってしまうかもしれない。でも渡辺は快諾してくれた。快くかはわからないが、受話器越しにはそう感じられた。昔の友人の訪問、彼に何のメリットがあるのだろう。海のモノとも山のモノとも分からないとまでは言わないが、何年も会っていない友人が変貌を遂げていたらどうしようとかは考えないのだろうか。実際に、豹変しているわけだが……。渡辺は確かに何も考えていない男だった。人生においても、当時彼が付き合っていた亜紀子のことにしても、いい加減な男だった。言ってしまえば神経質な僕とは真逆の男なのだから、ここで僕が色々考えたところで、何の考えもない脳天気な男の考えなど分かるはずもないのだ。そもそも考えなどないのだ。昔の友人が泊めてと頼んでくれば、二つ返事で承諾するだけなのだということに思い当った。そんな彼に今から会えることが妙に嬉しく感じた。気が付けば、あれだけ心配した階段を一気に駆け上がり、渡辺の部屋の前まで辿り着いていた。ドアを叩こうと右手を上げたところで、「怖いもの見たさ」その言葉が頭の中に突如現れ、へばり付いた。そうだ、彼にとって今の僕は好奇心の対象でしかない。何もなかったら断るような相手でも、たった今、テレビで話題に上ったヤツからの突然の頼み。しかしその話題は、殺人だ。それも父親殺しの殺人犯として、逃亡中の危険人物。彼だって怖いはずだ。もしかしたら自分も殺されるのではと考えたんじゃないだろうか。それでも、彼は殺人犯となった昔の友人を受け入れた。恐怖よりも好奇心が勝ったということか。「命は大事にしろよ」思はず口からその言葉が出ていた。さっき感じた渡辺に対する警戒心はそのとき優越感へと様変わりしていた。自分がモンスターにでもなった気分だった。そしてそれを楽しんでいると認めざるをえなかった。ただもし、眠る前に彼を憎いと感じたら、すぐにここを出ることだけは己の中だけのルールとして心と体に確認をし、ドアを勢いよく叩いた。「三山か?開いてるから、入れよ」その声と反応に消えていた警戒心が再発した。声だけだが、渡辺が余裕を醸し出していたから。崩れかかった廊下の上で立ち尽くす僕に、「何してんの?そんなところに突っ立てると、目立っちまうぞ。中入れって」そう言って彼からドアを開けてきた。何年かぶりの友人は、幾分大きくなったと感じた。それが彼の言動を司っていると考えると、どれだけ立派になったのかと思った。確かにひと回りふくよかになってはいたが、自分がどんなに小さなモンスターだったのかと嘆きもした。もしかしたら彼は警察官で、手柄を一人占めする為に、僕を受け入れ、そこで手錠を掛けるつもりじゃないだろうか。「そんなところに突っ立ってたら、警察に掴まんぞ」ドアは開いたまま、彼はすでに部屋の中にいて、上下スウェット姿で読み掛けらしい漫画を手に持ち座りこんでいた。「あぁ」もっと大きなものだった。小さな僕にはその輪郭すら見えないほど、肥えただけかもしれないが、大きな存在になっていた。「大丈夫だよ。百当番なんか掛けてないから」そう言ってニヤけた顔に、硬直しながらドアを潜った。部屋に入っても、渡辺は警察官ではなかったようだが、僕をどうするつもりなんだろうかと、そればかりを考えた。マンガを読んでいる彼がこれだけ読ましてと言うから、それを待つ間、部屋中を見渡した。1DK、今いる玄関兼台所は六畳ほどだろう。南側奥に同じ広さの部屋がある。その床には擦り切れた絨毯が敷かれていた。端っこを見るにそこは畳のようだが勿論擦り切れているのだろう。この部屋で彼は座り込んで漫画を読んでいるのだが、絨毯の上には衣類や雑誌が散らばり、食べ終わった容器やペットボトルもいくつも点在していた。それが今の僕には自分の部屋に戻れたようで、安らぎさえ感じた。まだ立っていた僕に、「汚い部屋だけど、空いてるところ探して適当に座ってよ」そう言った彼は、既に漫画へと神経を戻していた。十分程で読み終えた彼が、漫画を部屋に捨て、キッチンへとやって来ると、「おまえびしょびしょじゃんか」今更気が付いた彼もなかなかだが、僕自身も色々と頭を巡らすあまりそれを忘れていた。「風呂入れよ」と言われたが、裸になるイコール無防備になることだと思い当たり断った。借りたタオルで拭いていると、替えの服を持って来てくれたが、それが赤いTシャツだったから、もう乾いたから大丈夫だと適当に言って断った。そんな僕はやはり嫌な奴なのだろう。それから彼がキッチンの椅子に腰を下ろしたので、僕も倣うようにキッチンのテーブルとセットで買ったのだろう安モノの椅子に腰を起こした。対峙した丸みのある彼の顔はニヤニヤとして、どこか浮かれているといった印象を受けた。それが不気味だったが、その答えも、彼が二リットルのペットボトルのお茶をコップに入れて、僕の前の何年もかけて積み重ねたような新聞、広告、雑誌や何に使ったのかクシャクシャのティッシュ、煙草の吸殻で出来上がった地層を簡単にまとめると、出来たスペースにそれを置いてからした、二つ目の質問でわかった。「ペットボトルのお茶に拘りある?」「えっ、ない」「そう、俺はある。やっぱりペットボトルのお茶はおーいお茶、でしょ」と言った彼に、同じコップに入れて利き茶をやっても、まず外すだろうと想像が付いた。試すつもりもないが。それから彼はさっきの表情のまま、「なんで殺しちゃったの?」それは恰も、学生時代だったら、「おまえ、誰のこと好きなの?」そんな軽い会話と同レベルに感じてしまうほどだった。するとこの部屋の雰囲気もあるのだろうが、僕だけ大きいと認識していたヤツが、実はとっても小さく、僕と同じ、取るに足らないような存在だったと感じ、それに落胆さえもする自分がいた。だからではないが、その質問には答えなかった。「何だよ、水くせぇな。通報したりしないからさ」軽い言葉と表情の渡辺を前に、「あぁ」そう答えた。それ以外の言葉が頭に浮かばなかった。「しかし、おまえが殺るとはな。正直、俺も口うるさい親父だから、何度も殺してやろうって考えたけど、実際は殺せなかったね。すげーよ、おまえ」何が凄いのかが、まずわからない。そして親殺しの報道がこの男ではなく、何故僕なのかを疑問に感じた。「俺のことは殺すなよ。警察に売ったりしねぇからさ」そう言った渡辺の立ち上がる動作までもが軽く感じた。学生時代の、「昨日の合コン、おまえあの後どうだったの?」「うん……やったよ」そんな会話が突如頭に浮かんだ。それは渡辺ともう一人と、3対3の飲み会の次の日になされた会話だ。女性陣は一人が可愛くて、あとの二人は可も不可もないといった印象を受けた気がする。勿論、最初は男三人ともが、その一人を奪い合った。でも結局、その一人は渡辺が強引に口説き落としたんだ。それで僕ともう一人が、そう、大屋だ。卒業後に北海道転勤になって以来音信不通になったヤツだ。そのあとの合コンがつまらなく思えたから、がぶがぶ酒を飲んだ。そしたら、誰でもいいから女を抱きたい衝動に駆られて、僕の横に居た眼鏡を掛けた女の子、その子を口説き続けた。最初は嫌がっていたけど、あまりの僕のしつこさに、「飲むなら良いよ」って言ってくれて、それで二人きりで次の店に行った。確か大屋はそれで帰ったと思うけど、忘れた。渡辺もその可愛い女の子と夜の街に消えて行った。右手を振り上げて、ガッツポーズなんかかましていた気がする。二人で入った次の店が、バーみたいなところで薄暗い上に半個室になっていたから、抑えきれなくなった僕は、一杯目が終わるか終らないかで無理やりキスをした。その勢いのままホテルに連れ込もうとした。可愛い女の子には出来ないくせに、そんなに可愛くなければ、何をしても許されるって思っていたんだろう。最低だ。お酒の力もあったのだろうが、どっちにしたって、最低だ。そして硬直した彼女を抱いた。服なんか剥ぎ取るようにした。下着なんかは外すこともせず、ズラしただけだった。とにかく貪った。それはまさに、強姦。彼女の体が硬直していた。それが一層僕を興奮させた。それでもいざ入れようとしたとき、辛うじて見れた彼女の目に、涙がいっぱい溜っていた。声を殺していても、唇が微かに震えていた。その姿に僕は一瞬にして萎えてしまった。そして、彼女に、「ごめん」と謝った。そのあとのことは覚えていない。それほど強くもない酒を飲み過ぎたせいで、頭が割れんばかりに痛かったことだけは覚えている。それに次の日が最低な一日だったことも。朝まで一緒に居たか、僕だけだったか、謝ったあとはずっと天井だけを見上げていたから、そこが暗かったことしか思い出せない。そこは草臥れた幾つかの間接照明が取り付けられていたが、どれも床や壁やベッドを照らすだけで、一つとして天井自らを照らしているモノはなかった。そのせいで見つめる先がずっと暗いことは分かっていた。その夜はそれが丁度よかった。それが朝になって、部屋から見えた明け方の街は、昨日の夜の騒ぎがウソみたいに死んでいた。そこのラブホテルはスリガラスの窓が付いていて、それを自在に開けることが出来た。死んだ街に放たれた下種どもの反吐が、死臭のように街を蔓延っていた。昨晩、まさに僕がその真っ只中に居た。そんな自分を隠したくて、窓を閉め、鍵を掛けた。それからまた天井を見上げた。汚れた街にも平等に陽光は射し、それがこの部屋にも入り込んでいた。そのせいで部屋が浮き上がって見えた。壁一面の鏡に疎ましさを感じた。ところどころに置かれた証明がウザかった。一人で占領している無駄に大きなベッドのクッションがどんなに良いものでも、価値を感じなかった。無意味なベッド上の間接照明調節パネルを一瞥した。ジャグジー風呂が厭らしいモノとしか思えなかった。ただベッドに寝転がって始めて見せた天井の姿が、何処よりも白い色をしていた。そこだけが息苦しさを解き放ってくれた。夜の顔しか考えないこの部屋のモノたちと、同じ存在でしかない自分に、優しく接してくれた。それが昨晩、無理矢理抱いた女の子の柔らかく真っ白い乳房のようだと感じた。夜には決して染まれない。汚れたモノに染まろうとすると自らを傷つけてしまう女の子のようだと、そう思えてならなかった。そして傷つけたのが自分なんだと、己を心底恥じた。そんな朝を過ごした午後に、学校で渡辺に聞かれたときの質問のようだと思った。あの時も今と全く同じで、口の中が酸っぱくなった。当時は二日酔いのせいだと思っていた。そう思うようにしたのかもしれない。僕にとってはちっとも軽い話じゃなかったのに、この男は軽い話なんだと決めつけて聞いて来たんだ。でもあの時もこの男のことを責めることは出来なかった。一晩明けるまでは、彼女の透明な涙を見るまでは、明け方の街を見付けるまでは、この男と同様、やれればいいとしか考えてなかったんだから。携帯電話の番号もアドレスも聞けなかった。だから連絡手段がない以上、二度と彼女と会うこともない。その儚さが僕の中で一層美しいモノに魅せているのかもしれない。それでもそのあと何人かの女性と付き合っても、その人たちの中に、壊れやすい、白い肌や乳房、心を、見つけることは出来なかった。立ち上がった彼が向かったのは冷蔵庫、そこでもぞもぞと何かを取り出してから、戻ってくる間考えたことが、こんなにも苦々しいモノだと、相変わらず緩んだ表情をしている渡辺には知る由もないことだろう。「ビール、飲むだろ?」そう言って第三のビール350ミリ缶を手渡して来た。「ありがとう」彼はすぐにそれを開け、そんな安いモノでも旨そうに喉を鳴らしていた。「あのさ……」僕は渡された缶ビールを、地層がなくなったテーブルの上に置いた。二口ほどで半分以上を空けていそうな彼が、飲むことを一度止めて、どうしたと言いたげに顔を向けた。一度は話すことを躊躇ったが、そのときの彼の顔が軽さを感じないものだったから、話すことにした。「あのさ、学生時代に大屋と三人で、光本文化女子の女の子たちと合コンしたじゃん。渡辺は三人の中で一番かわいい女持ち帰って、大屋は帰っちゃって、俺は残った二人の眼鏡を掛けた女持ち帰ったことあったじゃん」自分で言った持ち帰りという言葉にもガッカリを感じた。ビールの続きを飲むことを忘れたように渡辺はキョトンとしていたが、思い出したように三口目を豪快に飲んだ彼が、「プハッ」と余計な一言の後に、「学生時代、合コン何回やったと思ってんだ?いちいちどんな女だったかなんて覚えてねぇよ。それに可愛い女は大概俺が持ち帰りしただろうが」最後は自慢で締め括り、勝手に会話を終わらせた彼は、四口で一缶を飲み干し、冷蔵庫へと二缶目を取りに行った。ただ憎めないのが、戻って来きた彼が、当たり前のように二缶目を僕に手渡すあたりだ。彼は僕がまだ一缶目も口を開けていないことさえも気が付かないのか、気にもならないのかは分からないが、とにかく、無言で置いて自分は満面の笑みで二缶目も豪快に飲み始めている。全く不思議な男だし、どんなに僕の中で卑猥な存在にしようとも、結局は彼の生き方そのものが、軽さは否めないにせよ、僕よりも余程品があるのだろう。一見矛盾した表現のようでも、僕の中では十分納得がいっていた。だから一缶目のビールを音を立てて開けると、まだ飲んでなかったのかよ、の彼の目を気にすることなくグビグビと飲んだ。そして僕の中ではまだ終わらない話しをした。「次の日に、食堂でおまえがカツカレー食いながら、昨日やったか?っていつもの軽いノリで聞いてきたとき、俺はおまえに当たり前じゃん、て答えた」「あのな、だからどの合コンだよ?」渡辺が顔を顰めても、「でも本当は、あれ嘘なんだ」僕は話し続けた。「だからな、光本の女となんて相当な回数合コンしたし、相当数持ち帰ったぞ」「本当はやれなかったんだ」真実を伝えたかった。「どの女の話だよ?」「黒ぶちの眼鏡かけていたんだけど、外すと目がとっても綺麗な女の子だよ」「よく覚えてねぇけど、でも何で嘘ついたの?今更別に良いんだけど」「わからん。でもあの時は、やれなかったって言うことが、格好悪い気もしたし、おまえが興醒めしそうな気もしたから」「確かに当時だったら、興醒めしてたかもな。でも何で急にその話ししたんだ?」「わかんねぇ。ただ今でも、あの女の子のことを思い出すんだ。目が綺麗とか言ったけど、正直顔がどんなだったかも覚えてないんだけど、そのあとあんなに綺麗な、顔とか性格とかじゃなくて、人として綺麗な女に会ってないなって思ってね」「おまえの出合った女なんて、たかが知れてんじゃん」真実を彼女の為に話したのかはわからないが、やはりこの男は軽いだけの下種野郎だということだけはわかった。そんな世渡り上手だと思われていた男も、本当は不器用だったりするのだ。太めにはなったがそのルックスとノリで結構いい思いをしたんだろうし、卒業後は大手の広告代理店に就職していた。人生を謳歌しながら順調に歩んでいた男が、歌唄いたいって突如会社辞めてアメリカに渡った。それが今から五年前で、それから一年後、ヒッピーになって戻って来た。でも本当は突如じゃなかった。会社を辞めるだいぶ前に、彼の中では大手広告代理店を辞めることは決めていたのだろうが、そのときも久々にみんなで集まった飲み会の席で、「みんなの前で発表があります」と言い出し、「会社辞めて、アメリカに行って、歌唄いになって帰ってきます」この男は自分のことだって、どんなに一大事でも軽いノリで言っていた。周りの人間たちは、「やりたい事ならトコトンやるべきだよ」と彼の背中を押していた。でも僕は反対したんだ。周りの人間も、彼さえも、「おまえは何時も考え過ぎ、堅過ぎんだよ」そう笑われた。その通りなのだろうが、それが渡辺じゃなく他の人間だったら、多分僕もみんなと同様の反応が出来たんだと思う。でもそのときは渡辺だったから、僕は最後まで反対し続けたんだ。結局止めることが出来なかったし、そのせいで見送りにも行かなかったら、どこか不穏になったきり、音信不通のまま今日まで時が流れた。昔を思い出したら、今、あの彼女が幸せになれたのかが気になった。嫌なことを嫌だと言えない彼女は、あのあと無事だったのだろうか。僕みたいな馬鹿な男にまた泣かされたんじゃないだろうか、もしかしたら彼女の涙の透明さにも気が付けないほどの底辺中の底辺の男に引っ掛かって、ズタボロにされたんじゃないか。そう考えると怖くなって、今すぐ行って護ってやりたくなったけど、何処に行っていいかもわからなくて、もし分かったとしても彼女が覚えているはずもないし、万が一覚えていても、彼女の中で僕は傷つけられただけの最低の男なんだろう。会う資格もないと堂々巡りを繰り返した。「いい飲みっぷりだね」渡辺を追い越す勢いで二缶目を空にした。それからも暫くは彼女で頭がいっぱいだった。いくら考えても行き着く先で、彼女は不幸になっていた。でもそれは僕のせいなんだと、数回目の堂々巡りで気が付いた。彼女と僕の思い出が相手にとって不幸せであったように、彼女を泣かせてしまった僕にとっても、彼女との思い出は幸せなモノではないのだから、いくら考えたところで、二人の間に成立しなかった幸せを思い描くことなんて不可能なんだと気が付いた。ただ彼女にだけは幸せになっていて欲しかった。そんな僕の心を読んだわけじゃないだろうが、「おまえが惚れた、やり損ねた彼女、幸せになれただろうな」どうしてと書いた俺の顔に答えるように、「同じ年だろうから今年三十だろ。結婚して子供もいるだろ。おまえが何故やれなかったかはさておき、俺がワンナイトラブで抱いた女たちみたいに軽くはない女だ。普通の幸せ手に入れて、一般的な家庭築けているだろ」そこに説得力を感じたが、「まあ実際、そのとき俺が相手だったなら、彼女が無事だったかの保証はないけどな」この男は結局、嫌なヤツで終わる。まぁそういう方程式を自らの中に作り上げているんだろけど。それから二人せせら笑ったあとに、安モノのビールを何本か飲んで、彼が、「こんなもんしかないけど」とカップラーメンを作ってくれたけど、久々に飲み過ぎた僕はそれに手を付けることなく、いつしか眠ってしまっていた。そのあとも彼はひとりでビールを飲み、夜のニュースでやっていた父親の殺害事件を伝え、その息子が警察に通報したあとに姿を消した、というニュースを結構長い時間見入っていた。たまに横で眠る僕の顔を覗き込みながら、そして結局伸びきったカップラーメンを二つ平らげてから、彼も自らの部屋でスペースを探して床に着いた。

 「よく寝てたな」その声に起こされた。ハッとなった。渡辺が無事なことに安堵し、携帯電話と思い、ポケットへと手を突っ込むと、「十時だよ、朝の」察した彼が、全開に開いた窓の前で座ったまま外を眺めながら答えた。昨夜はいつの間にか眠ってしまったようだった。確かキッチンのテーブルの椅子で寝てしまった気がするが、起きた時は、部屋に居て、厚手のタウルケットまで掛かっていて、お陰で汗だくだった。それでも蒸し風呂のような室内でも、僕は結構長く眠っていたようだ。こんなにモノが散らばった部屋でも、うまい事やれば大の男二人ぐらいは横になれるものなんだと感心したが、すぐに掃除をした方が賢いことに気付いても、自らの部屋を思い出し言えないと思った。渡辺が見ていたのは窓の外ではなかった。彼が見ていたのは窓の手前の床に直に置かれていたテレビ、あと数日で映らなくなるブラウン管のテレビだった。そのせいで緊急事態だと言わんばかりに、画面の上下には、そろそろ映らなくなるぞと、告知が永遠と連なりけたたましかった。しかし僕が気にする箇所はそこではなかった。画面中央に見慣れた家が写っていた。でも表札が写し出されるまで、まだ脳は眠っていたのだろう、自分の家だと気が付きもしなかった。もしかしたらこの二日間で免疫みたいなものが出来上がったのかもしれない。ただ今は、一人ではなく友人と二人で見ている状況、そんなときに映った三山の文字にギョッとした。彼だって初めて知ったニュースじゃない。昨日僕が来る前から知っていたモノだ。それは分かっていても、いざ突き付けられると、気まずさが先行してしまう。その気まずさが通り過ぎた後のことを想像すると、ゾッとなる。しかし彼は既に、その先の手を打っていた。僕の知らない間に打っていた。テレビでは顔が写らなくても、声を変えられても、インタビューに答えるのは隣の小林のおばちゃんであることは、僕が小学生に上がる前からの付き合いだからすぐに分かった。「ハキハキしてて、いい子だったよ。親を殺すなんて恐ろしいこと出来るはずないよ」その言葉に少しの勇気を貰えたのに、学生時代の友人A、それが誰だかは分からなかったが、そいつが、「いつもどこか上の空で、何を考えているのか掴めないヤツだった。アイツなら、いつかこういったことやるような気がしてたね。うん」それには思はず拳を握った。そのあとのコメンテーターが、分かったような口ぶりで僕の二面性を決めつけ、後者の人間の意見に比重を置いて話を進めていた。そんなイライラする顔がポツリと消えると、渡辺がリモコンのボタンを押したからだと横を見てわかった。彼は自ら消した後も、その湾曲している画面を見ながら、そこには焦点を合わせることなく、「通報した」ボソッと漏らした。テレビが付いていたら、確かに聞き取れなかったぐらいの呟きだった。「あと数分で、警察が来る。逃げるなら今だ」いつしか目線は、年季が入っただいぶすり減った絨毯へと向けられていた。彼と何年振りかに再会した。正直、最初は会いに来なければよかったと思った。でも今は会えてよかったと思っている。不思議と驚きはなかった。寧ろ当たり前だと思った。咄嗟に逃げる方を選んだ。だから大急ぎで起き上がると、すぐに玄関へと向かった。「ありがと」背中のまま草履を履いた。立ったままでも履けたが、座って履いた。「好きな靴履いてけ」そんな声が聞こえた。「草履は逃亡に不向きだ」「いいのか?」振り返ると、「いいよ。警察には盗まれたって言っとくから」彼も僕を見て、口元だけで笑った。「サンキュ」「でも大きさどうだ?」の彼の心配に、試す前から、「大丈夫」と答えた。僕は知っていたから、渡辺の足のサイズが26.5で僕が26、そのぐらいの違いは大した問題じゃなないことを。だから青色のアディダスのスニーカーに足を入れた。ほぼピッタリだった。何で彼の靴のサイズを知ったかは覚えていない。ただ昔から僕はこの男のファンだったことだけは、今回のことでしっかりと思い出せた。一度だけ、草履を見た。心で、さよならと言って目を逸らした。立ち上がりドアを開けそれを閉めるとき、遠くで聞き慣れた音がした。「またな」最後は神妙な面持ちの彼に、もしかしたら僕を受け入れたときから、彼の心境はこの表情と同じだったんじゃないだろうかと考え、胸が詰まった。一度閉めたドアをもう一度開け、「ありがと」その言葉しか僕は彼に言えなかった。ドアを閉め、下を向いた。錆び付いてだいぶ弱っている鉄が見えた。今の僕には感傷に浸る暇はないと、近づくサイレンが教えてくれた。そんな階段を勢いよく降りると、眺めのいい百メートル走をした。走りながら辺りを見渡したが、自分で通報した時よりは遠くの方で赤灯が見えた。幾分余裕を持って道を選べたが、やはり赤灯から離れる道を進んだ

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