第4話 動物園の象の前にいたおじさん

その日は、朝から携帯が何度も震えていた。そこには懐かしい名前、見覚えのない番号さえあった。こんなに仕事したの初めてだろうと、携帯電話に厭らしく笑った自分を哀れに思った。そしてこんなときだけ興味を持った知り合いに憤慨した。何度目かの震えで見た渡辺の文字に通話ボタンを押した。「おまえ何したんだよ?」彼の第一声から僕は耳を少し離す羽目になった。昔からこの男の声がでかかったことを忘れていた自分も悪かったが、想像を絶する大きさだった。「おい、三山、みやま?」幾分小さくなったと思い、「久しぶり」と答えると、「久しぶりじゃないよ」結局耳を離した。「今夜泊めて」と一応言ってみると、「いいよ」と軽い返事が返って来た。彼は今から仕事だから、夕方六時頃家に戻ると付け加えてきた。

 そのあと、動物園へと迷い混んだ。人の流れに乗ったら、そこに入場していたのだ。確かに子供たちが多い気はしていた。アライグマが見えた時点で気がつくべきだった。公園かな、くらい呑気に考えていた。突然、キリンの臭い口が目の前に現れた。そこに餌をあげる親子の長閑さを目の当たりにして、あれっと気がついた。ここが前によく来た、ただで入れる動物園だったことに。公園じゃないからヤバいと感じた。動物園はとっても不味いところだ。貴方は見たことかあるだろうか、動物園に独りでいる人を。僕は過去に一度だけある。そんな人は可愛そうに見えるし、怪しくも感じる。だからいつか見た独りきりだった女の人を、僕は可哀想だと思ったし、動物園にいる間、動物よりもその人に興味を抱き、ずっと姿を追っていた。だからそのときの記憶が、その女性のボサボサ頭が、ライオンの鬣みたいでおっかなかったで終わったんだ。公園だったらひとりは普通のことだが、やはり動物園は誰かと二人以上で来るべきだ。だから今だってキリンの口が本当に臭いのかを確かめようと、餌をもらおうと長い首を下げたそこに、前のめりになって鼻をクンクンさせた僕のことを、隣にいた、三才ぐらいの男の子が白い歯をこぼした顔で見ているのだ。彼がもし日記を書かされるなら、そして、多分彼に知識があったなら、僕のことを変な人という動物にしてしまうのだろう。その横で母親は、僕の存在自体を嫌だと顔に書いていた。とにかく、こんなところに一人でいては怪しまれると思ったから、早くここから避難しようと考えた。臭いかわからなかっけど、キリンの口から離れ、流れに逆らって今来た道を戻った。そのとき見てしまった、ゾウという片仮名表記の看板。親切に矢印なんかまで付いている。出口を目指していたはずが看板のなすがまま、それに操られて、子供たちが自分の体の何倍もあるそれを可愛いと叫んでいるエリアに来ていた。そして僕も、つぶらな瞳をやっと見つけることが出来た。どんなに大きな体でも、少しでも近くで見ていたい。それに近づかないとあの黒目がわからない。騒ぐ子供を押し退け、柵ギリギリまで近づいた。回りの目は気になったが、来てしまったからとじっと見つめた。暫く見ていたらブーブーだった子供たちはいなくなっていた。

これで気がねなく見ることが出来ると思ったのに、「兄ちゃんも、ゾウ好きか?」そう話掛けてくる男がいた。どうやら彼も独りきりのようだった。世間では脂の乗った年頃とでも表現するのだろう。その人は競馬が趣味といった印象を持った。働き盛りでもそんなにカネは持っていなくて、言ってしまえばその日暮らしの生活を送っている。たまに大金が入れば、彼にとっての大金は1万円で、腹が減っていようが構わずに全額を馬券にぶち込む。黒ずんだハンチング帽が動かぬ証拠だ。それと耳の間に赤ペンでも差していたら完璧だったのだが。今日も近くの場外馬券場ですべてすって、ここへ来た。最初はタダだから独りで来て、回りの目がどんなに白かろうが、気にならない。いや、初めは気にしていたのかもしれない。だからゾウが好きなんだ。こいつだけは、彼が独りだろうが、ずっと黒い目で見てくれる。つぶらな瞳が寂しい彼に勇気をくれる。彼はゾウを好きになったから回りの白い目も気にならなくなったんだ。「おい、聞いてんのか?」「あっ、なんか言いました?」「言ったよ」「すいません」「なぁ、俺に興味ないだろ?」それに対しての答えは、二つ。大有りだということ。それと、話し掛けてきたのはハンチングだし、ここでキレられる意味合いがわからないこと。「動物園のゾウはな…」構いなしに彼は話し始めていた。「…ここに連れてこられた小さい頃からずっと、片足を鎖で繋がれて、杭で逃げないようにされるんだ。最初はそれを外そうと頑張る。何度も何度も鎖を外そうと頑張るんだ。でも外れない。何度やっても外れないから、その内にゾウは外すことを諦めてしまう。外れっこないってな」それはサーカスのゾウの話だろと、わかっても口には出さないでおいた。「やがてゾウは大人になる。それなのに脚につけられた鎖と杭は同じまま、大人になった彼なら、その鎖と杭は簡単に外せるものなのに、彼は外そうとはしない。もう外せないと諦めてしまっているんだろうな」だから、知ってるって。めちゃくちゃ有名な話だよ。「ある時、なんときなしに、昔の癖でひょいっと杭を引っ張ったら、抜けたんだ」オイオイ、その先があったなんて聞いてないし、そのオチじゃ教訓にも何にもならないじゃないか、と突っ込みたかった。「ゾウはやったって思った。そして逃げようと、あの巨体をゆらゆら揺らして走り出した。それでも柵が、彼の行く手を阻んだ。結局、ゾウは諦めるしかなかったんだ」確かに動物園のゾウの話だと納得した。「この話の教訓、わかるか?」彼は嬉しそうに聞いてきた。「えっ?その話の途中までなら……」まごつく僕に、「違う、俺が話した最後までの教訓だよ」ハンチングは明らかに厭らしい笑いを浮かべた。彼はわかっていて、この話をしたのだ。からかわれているようで腹がたったけど、何故か真剣に動物園のゾウの話の教訓を考えた。「諦めが肝心だ?」「ブーッだな」「じゃあ、念には念を入れろ?」浮かんだことをすぐに口から出した。「ブーッ」「じゃあ、何ですか?」「知りたいか?」「はい」「どうしようかな?じゃあ、1万円で手打ってやる」「はっ、カネ取るんですか?」「当たり前だろうが」「じゃあ教えくれなくていいです」本当は答えなんかないのだ。「気になんないのか?」気後れした表情の彼が聞いてきた。「なりませんよ。そんなインチキ話」「負け惜しみだな」「どうせ1万円手にいれたら、全部競馬につぎ込むんでしょ?」「なんでわかった?」形勢逆転。今度は彼がギョッとしていた。「知りたいですか?」「うんうん」「じゃあ1万円」だから厭らしく笑ってやった。「おいおい、カネ取んのか?」「当たり前です」「解ったよ。じゃあさっきの教訓教えてやるよ」彼は胸を張って、これから凄いことを言いますと顔に描いた。「ぬか喜びはやめた方がいいだ」「何ですか、それ?それが教訓、ですか?」ある意味魂消た。「そうだよ。だからゾウの瞳があんに悲しそうに見えるんだ」「それ、自分で考えたでしょ?」「おう。悪いか?」「だから詰めが甘いんです。競馬だって一緒です。意表ついて大穴狙ったって、そこにちゃんとした根拠がなきゃ、カネをどぶに捨ててるのと一緒です」だいぶ上からモノを言ってしまったが、「君は神様か?」彼の目はキラキラだった。「そんなわけないでしょ。死神はとり憑いてますが」「何でも見えるんだな。俺はどうすれば勝てる?」「そんなのわかりませんよ」「喜ばせておいて、何だよ」輝いていた彼の目が一瞬にしてしょぼくれた。「勝手に喜んだんでしょうが、まぁ競馬やめればいいんじゃないですか」その言動にムキになってしまった。「そんなこと出来るか?やめられないから、困ってるんだろうが」拗ねたまま、会話に飽きた彼がまたゾウに目を向けた。「あっ、さっきの話」「なんの話だ?」「だから、動物園のゾウの話ですよ」「それがどうした?」「やっぱり一緒じゃないですか?」「何が?」再び彼が僕を見た。勿論、尊敬の眼差しはもうない。「サーカスのゾウと一緒、出来ないと諦めたらそれで終わり。人生には何度も苦難が押し寄せます。最初は自分で無理だと諦めていたことが、ちょっとした拍子で出来た。しかし次に柵という誰が見ても不可能だと決めつけたことで、ゾウはそれ以上の結果を求めることを諦めた」自慢げに話した僕に、「そっか、それに流されてやらなかったなら、最初からやらないのと一緒」単純なハンチングはそれに乗っかった。「そうです。固定観念で不可能だと決めつけないで、やってみろってことですよ。まさにあなたのように、競馬をやめられないと決めつけないで、意志を強く持てってことです」ほくそ笑んだ僕に、「なるほどな」ハンチングは頷いたが、「だから、競馬やめて、真面目に働きましょう」そのあとは苦笑いしたまま、またゾウの方に顔を向けて、「頑張って見るかな」そう言って今度は目ん玉に魂を込め、つぶらな瞳を見つめた。そのあと、トイレと走っていた彼が戻ってくる保証はなかったが、これでやっと静かにゾウが見れると思い、暫くその巨体と対照的な目を見比べた。周りは気にならなかった。「青年、君も相当なゾウ好きだな」ハンチングは戻ったようだった。「ほれっ」そう言った彼は、二本持っている缶コーヒーの一本を手渡して来た。「いいんですか?」「あぁ。授業料だ」「ありがとうございます」それからも二人並んでゾウを見た。その後ハンチングが話し掛けて来ることはなかったから、彼がいるのかいないのかも分からなくなった。するとゾウの方が、もういいだろとそんな目で体をのそのそと奥へとやったから、ハッとなって隣を見た。彼はまだそこに居て、ゾウの動作一つ一つを輝く目で見ていた。「珈琲御馳走様でした」「おう」「じゃあ、僕そろそろ行きます」「そっか」彼は口だけを動かしただけで微動だにしなかった。柵から離れて振り返り、ゾウとハンチングを見た。彼はその風景に溶け込んでいた。その後ろ姿にもう一度頭を下げたあとで飲んだ珈琲は甘口で美味しかった。

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