第3話 三山家の出来事
その日は気持ちが良い朝だった。いつからか閉めなくなった雨戸。もう一つの世界との往来も自由だが、もうあの世界は火星人によって全滅させられてしまったらしいから、誰も来てはくれない。しかしもう一つの世界の住人だと思っていた声の彼は、実はアメリカのCIAだった。つまりはこの世界の住人だ。それでももう一つの世界は存在した。そして彼女は確かにいた。姿は見えなくても、僕のソファよりもローチェストに座り、骨組みだけの机をジッと眺め続けていた価値がわかる彼女と、間違いなく、この空間で同じ時を過ごした。もう二度と感じることが出来なくなってしまったけど。そんな何も来なくなった窓からは、薄手の最初はブルーが鮮明だった、だいぶヨレヨレで黒ずんだカーテンを通り抜けた日差しが差し込んできていた。そのお陰で、僕の瞼は擽られ、気持ちが良い目覚めが出来たのだが、同時に心にチクリと痛みも感じてしまった。目覚まし時計の掻き立てるような音で起こされた朝では、感じることの出来ない切なさなのだろう。時計以外に、僕の携帯電話のもう一つの仕事は、目覚まし時計の役割だったが、このごろはバイトも辞めてしまったから、早く起きる必要性もなくなり、それをセットすることもなくなった。そうなると携帯電話は仕事を半分失ったわけだから、月々の支払いも半分にするべきじゃないだろうかと無意味にイライラしたあと、新しい仕事を探すべきだろうことに思い当った。布団から出ると、洗面所で顔を洗い、もう用を足しても拉致される心配がなくなった二階の便所に入った。洗面所で手を洗うときに久々に鏡に映る自分の顔を見た。手を洗う動作はいつもやっているのに顔を上げればある鏡を見る動作をずっとしていなかったことを不思議に感じながら、頬をつたう一本の線と無精髭が気になった。この線の理由を考えたが思い当たらなかったので洗い流した。それから昨日ジョギングの帰り道で買ったヨーグルトを冷蔵庫で冷やしていたことを思い出し、それを食べようと階段を下った。一階に着くと、一度右の方に目をやった。その突き当たりに婆ちゃんはいるのだろう。久々に挨拶でもしようかと思ったが、面倒に感じ、真っ直ぐ居間に向かった。父親とは話していない。目さえ合わせていないので今は空気以下の関係だ。そんな関係になった父親が居るであろう居間に、空気以下でもビクビクしながら入る入口のドアに手を掛けた。重たさを感じるノブを回して、それをゆっくりと開けた。中へと体を進めるなり目を細めた。そこは夏用の白いカーテンだからだろう。閉めていても十二分に陽光は燦々と轟いていた。カーテンが光を通すばかりか、それを拡散させるから様々な角度から光が届くせいで、この部屋すべてが輝く白一色。白銀の世界だった。今度服を買いに行くときは白色を買おうと、そのとき強く思った。それからここへ来た目的を思い出し、光が射さる窓の対面にあるキッチンへと体を向けた。そこは赤かった。光が散々入り込んだ、僕の目一杯開いた瞳孔のせいだろう。白銀の世界に忽然と現れた赤に、違和感を覚え目を擦った。でもその違和感は、僕だけが感じるモノではないようだ。その赤は、小さな小さな水溜りを作っていた。小さいはずなのに、どんなに大きな湖よりも深さがあると直感した。そこに一歩足を踏み入れた途端、全てが飲み込まれ二度と出ては来られない、それほど深い深い色をしていた。赤い水溜りの畔に転がっていたモノ。仰向けに寝転がり横を向いた顔の頬が水溜りに浸かっている。それは父親だった。赤い水溜りの深さは人を致死へと至らしめるのに十分だったから、彼がもうこの世界にはいないことは察しが付いた。それでも何かを探す思いで、僕は彼を見廻した。置物のような顔。伸びきっている印象を与える手足。肌荒れでもないのに、赤が抜け落ちたせいでカサカサの唇。どれもが、廃墟の中で何年もそこに置き忘れられたモノのように見えた。ただ目だけは、見開かれた目ん玉だけは、今にも躍動しそうにこっちを睨んでいた。何時しかその前に座り込んでいた僕は、彼の視界から消えようと、もう一度立ち上がった。そこにあの人はいた。「こんにちは」いつかの夜、出合った死神が笑い掛けていた。「やっちゃったね」「えっ?」咄嗟に出た言葉に、その意味を探したが、それは彼女が教えてくれた。「あなたが殺したんだよ」今度は言葉さえ出なかった。「嘘だよ」そう答えたのは、二・三回は呼吸したあとだったと思う。「やっぱり覚えてないんだね」「何を?」「一時間前の出来事」「一時間前?僕はまだ眠っていたよ」冷静に答える自分に少し驚かされた。「眠っていたは、意識がなかったってことでしょ」「だからって、寝ていたら人は刺せないよ」それが正論で正解だと思った。「言ったじゃない。あなたには私が見えた。ということはあなたに死が迫っているということを」淡々と話す彼女は、僕との間では大切な連絡事項だったらしい事を今回も伝えてきた。「でも、死んだのは僕じゃないよ」「あなたに死が迫ると、周りの人間にもその影響が及ぶの。命が騒ぎだすのよ。病気になるとか怪我をするとか、新しい命が誕生したり、逆に今回みたいに死ぬとか。でも今回のケースは、命が騒ぎだしたのは当事者であるあなたみたい。あなたの命は、道連れを求めたのね」どこか楽しげに話す彼女に、「そんなのおかしいよ」僕は平常心を失い掛けていた。「これっ、あなたのお父さん?」モノのように扱う彼女。「・・・・」それが死というものに馴れた死神というモノなのだろう。「死んでほしかったんじゃない?」「そんなことは……」そこで言葉が詰まったのは、首を絞めた一件があったから。その後で父親が言った言葉や態度にも、僕の心は確かに痛みを感じ続けていたから。「あるのね」だから否定出来なかった。「あなたの無意識の住人が引き起こしたの。一時間ほど前、あなたの体は一度起き上がった。それを操縦する無意識の住人によって、お父さんは刺殺された」彼女の言葉以上に、父は心臓辺りを一刺しされているから、彼が正面から刺されていたことに疑問を感じた。「心を許していない人間を、正面から刺すのは無理だよ。父は僕を絶対に近づけたりしない。近づいたら訴えるとまで言っていたんだ。そんな父が、僕に正面から刺されるはずがないよ」そう叫んだ僕は泣いていた。とても悲しかった。その事実を言葉に出して、一層そのことに心が触れてしまったから。「あなたは、精神病だから?」「そう、だけど」「でも、だいぶ良くなっていたんじゃない?」「僕には分からないけど」「本人には分からなくても、あなたの周りの人間にはありありとわかることだったはず。だからお父さんも油断したのね」彼女が初めて人間のような目で、下で目を見開いたままの父親を見ていた。それは不思議な光景だった。冷徹な死神が、唯一見せた弱さにも思えたから。「知ってた?精神病なんて、本当はないんだよ」笑顔で言った彼女が優しく見えたからなのか、この数ヶ月、父に否定され続けた僕が肯定されたと感じたからなのかはわからないが、どこかでホッとする思いがあった。でも、それも次の彼女の言葉によって打ち消されてしまうのだが。「あなたの体には、もう一人の人間がいるってだけ」既に彼女は死神らしく無表情で。「二重人格ってこと?」それを確認した僕の、無意識の時の僕も僕自身だと思っていたのに、「違うよ。まったく別の人間。魂って言った方が良いかな」いつか声の彼が言ったのか、僕の中で分かったことなのか忘れてしまったが、同じ空間の中にはもう一つの世界がある。それは目には見えなくてもそこにあるんだということを、彼女の言葉で思い出した。だからその考えを否定することは出来なかった。僕にはわからなくても、無意識がある以上は、僕の体にもう一人の住人がいてもおかしなことではないから。「普通の人間は、勿論、一人だけで体を所有するのよ。でもあなたみたいに、人間界で言う精神病ってやつになると、隙間が生まれる。それに入り込むの。あなたの体のもう一人の住人みたいに、体を所有出来なかった魂が入り込むの。それには、本当はもう死んでいるのに、それに気が付けない魂も多くいるみたいだけどね。もしかしたら、彼もそれになっちゃうんじゃないかな?」そう言って下の父に向けた目は、相変わらずのモノだった。「でも僕はそれを克服しつつあったんだろ?」それが有効打だと考えたわけではない。だいぶ納得がいっている自らへの問い掛けでもあったと思う。「人間の医学だって証明してるじゃない。精神病の患者の自殺で、最も多いのは治り掛けのときだって。でも根拠は人それぞれで曖昧。本当は医者もわかってないんでしょうね。実に簡単なことなのにね。あなたがその精神病ってヤツを克服してしまったら、あなたの体に既に入り込んだ彼はどうなると思う?」「この体からいなくなる?」「あなたから見れば、そうなるけど。追い出される方の立場からしてみれば」「追い出される?」「そう、棲みかを追われるということなの。一度体に入った魂がそこから出されたら、どうなるか?」その質問の答えを求め、行き着いた閃きに悶絶した。「死ぬということ」それを彼女はさらりと言ってのけた。「あなたがその体を取り返せば、彼は死ぬしかなくなる。一度死んだ人間だったら、もう二度と体を所有することは出来ないからいつかは諦め、私があの世に送るの。でもあなたの体に棲み付いた魂は、元々一つの体をちゃんと用意されてこの世に生まれる予定が、人間の身勝手によって殺されたモノみたい。だから思いも強い。彼もあなたの体から出てしまったら死んでしまうんだから、勿論、二度と体を持てなくなる。だから抵抗しているの。この世に生を受けたいから、生きたいから。あなたを動揺させ、あなたを弱らせて、そしてあなたをその体から追い出すことを企んでいる。でもそれを責めることは、私には出来ない。それが人間というモノのエゴだから」頭の中で四次元、いや五次元方程式が解けた思いだった。それが声の彼の正体だったんだ。姿を見たことはなかった彼の正体。その声の彼が数ヶ月間ずっと隙を狙った結果、とうとう僕の体に入り込んだんだ。このごろ声を聞かなくなったのは、僕の無意識の時間に活動していたから。「どうすればいいの?」だからって一方的に責めれない気もした。どこかで彼の不幸に同情していたのだろう。「どうする?彼に体譲る?そしたら、彼喜ぶよ」すぐに言葉に出さなかったが、既に答えは出ていた。「でもこれは、僕の体だ」「その通り。じゃあ戦争ということね」「戦争?」随分とオオゴトなんだということが、どこかで客観視していた僕を目覚めさせた。「僕か彼のどちらかが、根を上げるまでの闘いということだね」「そうだよ」口角を上げ、一度だけ八重歯を見せてから、「でも、決着はそう遠くはないようね」そう言い切った。どうしてそれがわかるの、と訊き掛けたが、彼女が死神だったことを思い出し、言わないでおいた。「死ぬのは、あなただよ」本当は言えなかったのだ。その答えがわかっていたから。彼女とこうして話しているのが無意識ではない僕だったから。死神を認知するのが僕自身だったから。「彼には、私が見えていなかったからね」黙り込む僕に、「私は追い出されるあなたの魂を、拾いに来ただけなの」彼女の言葉が、あの冷たい瞳が釘を刺した。その瞳のせいで僕の体は凍り始めていた。話しは死んだ父を挟んでなされた。それも終わったのだろう。彼女が体をドアの方に持っていき、僕の横を通り過ぎた。今、目を瞑っていたら、もしかしたらその存在にすら気が付けなかったんじゃないかと思えるほど、彼女を透明に近い何かに感じた。横たわる父親の存在が、余りにも重たかったからかもしれない。もしくは、あまりにも衝撃的なことが、次々に解ってしまった重みに、対処出来ない僕がいたからかもしれない。振り向くことも出来ない僕の背中に、「五日後、ここから北に五百マイル行った、誰も訪れることのない行き止まりの前で待ってて。そこがあなたの死ぬ場所みたい。幸せな死に場所」その声は初めて聞く女の声のように感じた。何処か優しい気がした。背中が温かかった。この状況下でも、お日様は平等に光を届けていたから。「彼はまた人を殺す?」最後にそれが気になった。「わからない。ただあなた自身が相手を嫌いじゃなきゃ大丈夫。元々はあなただけの体だもん」そう答えた彼女は、白銀の世界を歩き、それと同化するように消えてしまったのだろう。今、振り向いてももう居ない。初めて出会ったとき、彼女は風と同化して暗黒の世界へと消えて行った。そして今、太陽と同化して白銀の世界へと消えた。この違いが何を意味するかは、今の僕にはいくら頭を捻ったところで、答えに行き着くことはないのだろう。何かの本で読んだ未解決の数学問題のように。それらが何世紀にも及んで数学者を悩ますように、僕に起こった未解決問題に、僕は死ぬまで悩まされ続ける気がした。いつか解けるのか、それさえも分からないし、今の状況下の僕には、その問題の入口にさえ辿り着けてはいないようだったから。
彼女が去ったあと、僕は宙にふわりと浮いていた。それが体なのか魂なのかはわからなかった。動けないのか動かないのかはどうでもよかった。ただ父親の亡骸は重たかったから、目で見ることはしなかった。それから暫くはそのままでいた。そうしていたら、もう一度だけ父親の目を見てみたい衝動に駆られた。もしかしたら生きているかもと考えたわけでも、それを願ったかも定かではない。ただどうしても最後にその目を見たくなった。「おまえが壊れればよかったんだ」「フラッシュバック?」見てすぐに背けた目を瞑った。僕の脳みそからそんな言葉と映像が排出されていた。脳はそれを自分だけで留めておきたくないといった風に吐き出した。それは茶色の重厚感のある花瓶がゆっくりと遠ざかっていく光景。遠ざかっているんじゃない。これは真上から見た景色だ。その花瓶は床に向かって落っこちていたんだ。その中には菊が入っていた。紅色の菊の花が。花瓶が割れるタイミングで、目だけをこの世に残した父親が言ったのだとわかった。おまえが壊れればよかったんだと。僕自身も忘れていた。余りにも昔のこと過ぎて、記憶にも残っていなかった。いや残ってはいたのだろう。ただパンドラの箱として仕舞い続けていたのだ。僕がまだ小学生に上がるか上がらないかの時代、父の事業は今よりも遥かに上手くいっていた。家は今よりも大きかった。父には執事がいて、車が何台かあった。その頃の父の趣味は、骨董品集めだった。
そこまで思い出してしまったと感じた僕の体は、自由を取り戻していた。最初に入口のドアへと振り返ってみた。勿論そこに彼女の姿はなかった。そして再び、光に目を細める羽目となった。足元には赤がまだあった。そっちの方はさっき感じた重みのせいで消えることはなかった。凶器となっただろう包丁かナイフを探そうと、父と血だまりを避けて奥へ進んだ。既に確認した父親の刺し口や亡骸の周辺に、それは見当たらなかった。食器棚にも、その手前にあるダイニングテーブルにも。ただその上に既に焼かれたトースト二枚とグラスに入った牛乳、卵焼きが無駄になることを、作った人々と牛と鶏に申し訳なく感じた。シンク横に刃渡り二十センチほどの包丁があったが、そこに赤色はなかった。既に洗っているなら赤いわけもないのだが。ただこの包丁が、父親を刺し殺した凶器かもしれないと考えると、とてもじゃないが触ることなど出来なかった。指紋が残るとか、そんなちゃちな考えからではなく、もっと仰々しい思い、父親を人間として尊敬していたという思いからだ。シンクの中の蛇口を捻った。そこからは水が流れ出た。その透明を羨ましく感じ、両手を洗った。それだけでは気が済まなくなり、何度も何度も石鹸で洗った。表皮から脂が完全に抜けカサカサし出しても、その行為を止めることが出来なかった。それからまた父親の前、血だまりを挟んだ対岸に戻った。そこが落ち着くわけじゃない。もし父が生き返ったら、そう考えた時、ゾッとした自分がいた。刺される気がしたから。父親を殺した確信があるわけではないが、死神の言う僕の姿のままのもう一人の人間が殺ったことなら、生き返った父は迷うことなく、目の前に居た息子のことを刺すだろう。シンク横のあの包丁を使って。
父の前で目線には入らないように座った僕の背中には、相変わらずの温かさがあった。たださっきと明らかに違ったモノを、そこから感じた。それは微かな空気の震え。何かがいる。それに確信が持てたのは、震えが微量の吐息を運んで来たときだった。恐る恐る、ゆっくりと振り返った僕が見つけたモノ。それは白色がさっきよりも少しだけ落ち着いたからなのだろう。そのとき初めて知ったのだ、ずっと傍観者がいたことを。父親がこんなことになって、僕が死神と話をして、凶器を探す僕のことを、ずっと傍観していた人間がいた。十六畳ほどの居間のほぼ中央に、テレビのある窓側に向けられた落ち着いた色のソファ。それが僕に背を向けた状態で置かれている。そこに隠れるように、深く座り込んでいて、最初は部屋の色々な物に同化しているといった印象を受けても、彼女の心の慄きが、震えとなって、吐く息となって、汗となって、漏れ出していた。「婆ちゃん?」僕の声に、「十億円入ったから、太郎に全部上げようね」か細く震えた声から、全てを見ていなくても、大体の状況は把握しているようだった。そしてその言葉が呆けているからなのか、それとも諂いなのかは分からない。ただ、今年卒寿のお祝いの彼女が、孫の僕に命乞いをしているのだろうと感じた。本当に僕が父さんを殺したのか、とは老化から来るものではない震えを見ていたら聞くことが出来なかった。間違いなく彼女は、唯一ここに生き残った僕に震えているのだから。認知症の彼女が、認知症であるように装っていた。表情は強ばり、決して僕や父の方を見ることはなかった。それが痛々しくさえあった。「大丈夫だよ、婆ちゃん。あなたは何も見ていないから。ボケてるから、何も証明出来ないんだから」婆ちゃんは頷いていた。ガタガタ丸まった背中を震わせながら、必死に頷いていた。そんな彼女を安心させたかったわけもあるだろうし、父親を発見し、死神がこの部屋を出たときから、段々と大きくなる錘が僕の体に圧し掛かった息苦しさもあるのだが、居間の入口にあるファックス機能併用の電話機の受話器を握り、ダイアルを三つ押した。二回聞こえた呼び出し音のあとに、「はい、百当番です」それは女性の声だった。「どうなさいました?」その声に、これが現実なんだと思い知らされた。「父親が、殺されました」だから目の前の事実を伝えた。「殺人事件ですか?」「だと思います」「犯人は?」「わかりません」「犯人はもう逃げたんですか?」「わかりません。ここに居ないのか、居るのかも」「あなたは今、危険な状態ですか?」「それは平気だと思います?この体を傷つけたら、どっちも痛いでしょうから」「どういう意味ですか?」慌てて受話器を下ろした。そのとき微かだが、彼の存在を感じてしまった気がした。何かをし終えるとしてしまう、父親の方に目を向ける仕草。そこに見付けた生に、背筋をすっと冷たいモノが流れた。その一粒の汗が今の僕のすべてを支配していた。どんな大きな湖よりも深いと感じた水溜りが、一段と深くそして大きくなり、少し前まで棲家としていた父の体を貪り、増殖し続ける血だまりは今や地球全てを飲み込もうとしていた。笑っていた。膝ががくがくと大笑いしていた。「おかしくなんかねぇよ」そう叫んでも、ソファでビックとなるだけで、膝は一層大きくがくがくと笑っていて、そのせいで立っていることも出来なくなり、堪らず尻餅をついた。改めて見えた父は、既に目さえも力が入ってはいなかった。生憎だが、父親はもう手遅れだ。大きな錘を背負っていても、まだ歩くことが出来る自分だけは、ここから逃げなくてはいけないと強く思った。婆ちゃんは間もなくやってくる警察に保護してもらうとして、僕はとにかく逃げようと玄関へと走った。上手くスニーカーを履けないでいると、程なくして遠くの方からサイレンが聞こえ始めたと思ったら、みるみるうちに耳を塞ぎたくなるほどの大音量になった。爆音は僕の三半規管を震わせ、心拍数を急激に上昇させた。もしかしたら僕だけ、僕だけにこのサイレン轟いているのかも。玄関から逃げるのは危険だと感じ、スニーカーを投げ捨てキッチン横の勝手口を目指した。誰が親父を殺したのかの答を導き出すことは、今の僕には難問だと感じた。再びキッチンを通りぬけたとき、もう父の方を見るのは止めにした。代わりにダイニングテーブルの上にあった、冷めて何の温かみもなくなったトーストを掴んだ。あっ、ヨーグルトと思ったが、それは諦めることにした。勝手口のドアを開け、そこにあった草履を履いて外に出た。目の前のフェンスを乗り越え、隣近所の吹田さん宅の庭を抜けて道に出た。すぐに辺りを確認したが、あんなに煩かったはずのパトカーはまだ見えなかった。それでも立ち止まらずに微かに聞こえるサイレンがする方の反対に走り出した。見慣れた近所の道には、すでに野次馬が外に出ていてキョロキョロとしていたが、何となく見覚えがあるだろう僕のことは、チラッと確認しただけで終わった。それで丁度よかった。草履は殺された親父の物だろう。親子だけあって走りやすかった。百メートルほどでT字路に突き当った。そこは一方通行。勿論歩行者には関係ないが、サイレンが幾分大きくなったせいか、矢印の方向に走った。
走りながら、あの女が本当の死神だったかを考えた。彼女との話の間、僕は彼女の目を見続けていた。最初はその瞳の黒に、自分が本当に彼女に見えているのかを疑ったから、それを確認したいだけだった。そしてそこに映っているのが、本当に僕なのかを確かめた。そのあとも暫く見ていると、いつしかそこに映る僕自身のことよりも、その黒のひんやりとした冷たさに浸っていた。始めの方はその冷たさも堪えうることが出来たはずなのに、黒は余りにも冷たくて、隣り合う白までが凍え僕も凍えそうだった。それでももし白眼が何かの切掛けで活気づき、僕と共に黒眼に攻め入ったとして、果たして黒が融けることはあるのだろうかと。しかし答えはやる前からわかっていた。黒は決して解けることはない。その黒を目の当たりにした人間なら、誰しもわかることだ。富士の頂に居座る万年雪のように、そこに変わることなく居続けられるモノ。それこそが死神である彼女の、死神たる由縁なのだ。それに気が付いてしまった時、僕は堪らず彼女の目から逃げ出した。そこに映し出された僕までも、心身が冷やされ、息苦しいとさえ感じていたから。だから彼女は死神なのだ。
その事実に慄きながらも、今飛び出して来た家に残る婆ちゃんのことが気になった。やはり家族で、あんな酷い目に合わせてしまったんだから気になった。婆ちゃんのその後を心配していたはずなのに、僕の頭の中に忽然と作文が浮かんだ。それは昔、僕が書いたモノだ。
僕はお爺ちゃんのことが好きです。家族の一員としてちゃんと好きだ。ただ一緒に住むのはあまり嬉しくない。僕が住む家の一階には、居間があって台所があって玄関とトイレとお風呂を挟んだ先、畳の部屋にお爺ちゃんとお婆ちゃんがいる。お爺ちゃんは一日中座り込んでテレビを見ている。たまに大声を出す。とくに夜中に。あと夕暮れ時も夕日が眩しいのかドタバタと暴れていることもある。こないだなんかは勝手に出歩いてしまい、お母さんまで頭がおかしくなったように怒っていた。二時間後にお巡りさんが、家から遠く離れた川沿いで見つけた。お爺ちゃんは認知症という病気らしい。頭の中でカイジュウが暴れているんだとお母さんは説明してくれたけど、いまいちよく分からない。バカになったのかと聞くと、そうではないと言っていた。ただお爺ちゃんを見ていると大きな赤ちゃんのようだと思った。ご飯を零し、おしめをして、夜中に泣いているみたいに吠えるんだから、やっぱり大きな赤ちゃんだ。でもやっぱり一緒に住むのは、赤ちゃんのように可愛く思えないから嫌だと思う。
爺ちゃんがまだ生きていたとき、小学生の時に書いた作文だ。題名が、大好きな爺ちゃんになっているのに、文面がちっとも好きだと伝えていない辺りに、僕の馬鹿さ加減を感じた。ただその認知症という病名が今更引っ掛かった。それはどうして認知症という名なのかということ。認知が出来ない症状の病気なら、不認知症というのが正解ではないだろうか。でもそんな疑問を誰かに聞くつもりもない。どうせ聞いても解りっこないし、人にあまり興味がない僕にとって、そのうち気にもならなくなる問題だろうから。ただ爺ちゃんの認知症のせいで、母親はノイローゼになったことは知っている。そんな母親を父親は見て見ない振りをしていたことも。そんなことを遂何日か前に見付けた作文で考えたことを、こんなときに思い出した。
この作文を書いたすぐ後に、母親はいなくなった。今みたいに暑い夏の日だった。丸々三年間何の文句も言わずに忽然と消えた。それから二十年、あのとき何もしなかった旦那は、今、妻の存在をどれほど大きく感じていることだろうと思う。美容の専門学校に入学して、半年と持たずに英会話の学校にすればよかったと後悔している娘。大学まで出して30間近で定職にも就けない息子。そして爺ちゃんが死に、同じボケを発症した姑があの家には残った。母がいなくなったのは、僕が小学三年生のときだった。家に帰るとスーパーの安売り広告の裏に書かれた、一枚の手紙を見付けた。そこには丁寧にわかりやすい大きな字で、ごめんなさいと記されていた。その一言だけだった。たった一言だけで、彼女は家族の前から姿を消した。
考えることをやめたのと同時に、走ることにも疲れ足を止めた。そして団地の中にある小さな公園に身を隠した。しかし今は昼間だ。多くの子供連れのお母さんたちの中に、一人ぽつんとベンチに座る僕は否応なく目立っていった。すぐにその場から離れた。団地の中、棟と棟の間で出来るだけ人通りの少ない通路を選びながら、携帯電話を開いた。こんなとき匿ってくれそうな友人を探してみたが、すぐにら行まで到達してしまった。僕に仲のいい奴などいないことは最初からわかっていたはずなのに、そんな自分が少し可哀想だと感じた。「あっ、アキラ」幼馴染の名前は出ても、名字が何だったか全く思い出せない。そもそも幼馴染だと思っている明が、いつの友達だったのかさえ思い出せない。そしてわ行、渡辺隆之。隆之だ!僕には大学時代、唯一仲良くなれた奴がいたじゃないか。僕とは正反対で明るく、誰からも好かれたけど、軽さゆえ警戒もされた。そのノリとまあまあの見た目で、結構女にもモテた。疲れ切った団地の建物を眺めながら自分の置かれている立場も忘れ、ニヤけながら携帯の発信ボタンを押した。十回ほどのコールのあとに聞こえたのは女の声。「ただいま電話に……」留守番電話の機械音だ。こんなときに限ってどうして出ないんだと苛ついた。身勝手だと分かっていてもイラつき、落胆しながら見た団地の薄汚れた壁が、より一層僕の心を暗くした。さっきまで眩しかった西日が、気がつけばだいぶ落ち着き、真っ赤な顔で団地の壁に吸い込まれていった。あんなに汚ないと感じたものが、夕日を纏うと幻想的でさえあった。
辺りが薄暗くなると、寂しさと同時に空腹感を覚えた。こんな時は三大欲の一つ食欲が優先するらしく、堪らずジーパンのポケットに手を突っ込んだ。何枚かの小銭と一枚の紙切れの感触があった。その紙切れがお札であること、出来れば万札であることを願いながら、それを指でしっかりと挟むと、勢い良くポケットから引き抜いた。「あっ」この時思わず漏れた言葉が何を意味していたのかは分からないが、目に飛び込んできたそれは間違いなくお札だった。野口英世、この人が歴史上凄い人であることは重々わかっていたが、この人が幾らの人だったかがすぐには思い出せなかった。勿論、数秒後には千円札だと答えは出た。玉は五百円玉一枚に百円玉二枚、十円玉四枚と一円玉二枚。合計千七百四十二円、これが逃亡を始めた僕の有り金だ。何も持たずに飛び出した割には結構高額だと思ったが、それではすぐに底が着いてしまうと考えると、先が真っ暗になった。そもそも何で僕は逃げてるんだ。そんな疑問が頭をよぎった。何から逃げてるのかは、警察なのだろうが。じゃあ何で逃げてるのか。それは父親を包丁で刺し殺したから。僕が父親を殺したんだよな。しかしその瞬間を思い出せない。父親を刺した瞬間を全く思い出せない。それを死神だという女が教えてくれた。僕の無意識のときのこの体の住人が刺し殺したと。でも僕は拒否をしなかった。彼女はこうも教えてくれた。僕の心にも殺したいという思いがないと、もう一人の住人はこの体を動かすことは出来ないと。だから僕は逃げている。警察から逃げているのだ。父親を殺したこの体の、今は所有者なのだから。
「いらっしゃいませ」どんよりとした心でも、欲は体を支配する。いつの間にか牛丼屋の店内にいた。日本経済は今未曽有のデフレを産み、そこから這い出せないでいる。それが市民生活を直撃し、安いが一番の社会を造り上げてしまった。その良い例がこの牛丼屋なのだろうと論評しても、今はこの破格が有り難かった。今日初めての食事、特盛りをペロリと平らげた。自分にもまだこんな食欲があったのかと驚いたが、有り金を考えると今判明したことが虚しかった。まだ食べれそうな気もしたが、すぐに会計を済ませて外に出た。先日、梅雨が明けたとテレビが言っていたが、数日間は雨が続いた。毎年のことだが。今夜は雨を落としてきてはいない空でも、そこに星はなかった。今年の梅雨入り時は物静かだったと感じたのに、結果的に最後は多くの粒を例年よりも長い期間、地面へ叩きつけて去っていった。散々歩いたせいで、夜でも汗が吹き出し体中を滑っていた。空気中には無数の水気が居座っているせいで、僕の体から出た汗は行き場がない。それなのに次から次へと汗が体から飛び出すモノだから、行き場をなくした汗たちのせいで、体がぐったりと重たさを感じる。仕方なく立ち止り、歩道のアスファルトの上、力なくしゃがみ込んだ。「これからどうしよう?」その横を大勢が通り過ぎて行く。辺りはすっかり暗闇になっていたが、下品にも感じる街のネオンと街灯が、暗闇の夜を別のモノへと変えていた。それは人間の、動物としての本能を鈍らせているのだろう。「大丈夫ですか?」少しの時間の後、そんな暖かい声に顔を上げた。見ると四五十台の女性が、僕の真上から覗き込んでいた。「あっ、」それ以上言葉が出ないまま、急いで立ち上がった。女性は怪訝そうな顔で立ち去った。こんな僕に優しくしてくれたのに申し訳なく、すでにいなくなった方に頭を下げた。これからどうしようかと途方に暮れた。有り金を考えると、今夜は野宿になることを覚悟した。三十年近く生きてきたが、野宿をした覚えがない。学校で行かされたキャンプでも、テントの中他の人間のいびきを聞きながら一睡もしないまま朝を迎えた。僕には信じられないことだった。鍵も付いていない、布切れ一枚だけで囲われた所で気を失うことなど考えられない。そんな僕が布切れさえもない、すべて剥き出しの所で寝なければならない。ネオン街を歩きながらある看板に目が止まった。それはネットカフェの看板。夜の九時以降朝の八時まで980円の文字が躍っていた。残りのカネを考えると野宿をするべきなのはわかっている。そう考えているはずが、足は勝手にネットカフェに進んでいた。「いらっしゃいませ」ここでもその一言にハッとなりながらも、書くように言われた名前や住所は適当に書いておいた。提示を求められた身分証は持っていないことを伝えると、次回の提示を約束するだけで事なきを得た。個室タイプの部屋を頼むと、言われた番号の部屋へと脇目も振らずに向かった。下と上がパックリと開いた目隠し程度の華奢なドアを開けると、一畳程の空間に二十インチ代のテレビとその前にキーボード、そして黒色のソファーが部屋の真ん中に居座っていた。そこに腰を下ろすとすぐにテレビを付けた。いつもは楽しみな料理ランキングの番組もその日は見る気も起きなかった。すぐにチャンネルを替えたが、お笑い番組も全く笑えない。どの番組もニュースは流れてなく、今は詰まらないだけのバラエティーがどこもかしこもやっていた。仕方なくパソコンを開きインターネットを繋いだ。すぐに目に飛び込んできた、横浜市内の民家で男性が胸を刺されて死んでいるのが発見されるの文字。決して大きな字ではなく、羅列された箇条書きの一文でしかなかったが、わかっていたはずの父親の死を、他人から聞かされたことで初めて現実なんだと確信を得た瞬間だった。今はその一文しか目には映らなかったから、すぐにそれをクリックした。マウスを持つ手が震えているせいでなかなか上手くいかず、何度目かでやっと画面は変わった。そこにも淡々とした文字が、何の熱も伝えることなく羅列されていたが、先程と同じような文面の最後に、通報したはずの息子の行方知れずの文字で、大量の熱が体内から放出しているのがわかった。
「ドンッ」堅いモノを叩く乾いた音。その音が鈍く小さな部屋に蔓延る。止まっていたはずの汗が吹き出た。恐る恐る入口を見たがそこに変化はなく、「ドンッ」再び聞こえた音がドアではなく隣のヤツが壁にぶつかった音だったことに胸を撫で下ろした。時刻は零時半、既に日が替わっていた。パソコンを弄りながら、父の事件をもう見たいと思わなかったから、興味が持てなくてもプロ野球やサッカーの画面を見ている途中、突如睡魔に襲われ、なすがままに眠ってしまった。あんな事件のあとで心も体もへとへとになっているせいか、叩き起こされたことに不快感を感じた。それから掌を広げ、それを眺めた。今の自分は自分だろうか、三山太郎なのだろうかを確認するようにそれを眺めた。死神が言っていた、無意識の時にこの体を乗っ取る声の彼の存在。彼はまだ現れてはないようだった。ただ疲れたからといって眠ってしまったら、彼が現れ僕の体を動かし、隣の部屋へと飛び込み、そこに居る見ず知らずの人間を殺してしまうかもしれない。それを考えると呑気に寝てなどいられない。無意識の僕も、それを制止するとも思えないからだ。その後は何度も気を失い掛けながら、突如轟く、何度目かの「ドンッ」の音に顔を顰め、その度に自分がまだいるかを確認し、隣の人間から音があったことで生存を確認出来、胸を撫で下ろし、夜中の番組が永遠と流れるテレビ画面を見続けた。四時になって、朝ですとテレビが言ったから、ドリンクバーへ行って熱い珈琲を注いだ。それを部屋へと持って帰りブラックで飲んだ。いつもならミルクだけは入れるのだが、こんなときはブラックの苦みが口の中でも胃の中でも存在感をわらわらと感じれることに、少しの快感を覚えた。
五時になり、まだ退出しなければならない時間まで余裕はあったが、どんなにムカつく相手でも、他人の命を守るのは人間の義務だろうと考え、ネットカフェを出ることにした。会計でなけなしのカネを払い、外に出た。静まり返った商店街を抜け出し、緑が多く集まる緑地へと入った。既に日は開け今日も暑い日になるのだろう空の色をしていた。この時間帯は一番過ごし易い。空気は澄み、何処となくひんやりと感じれる。老人たちが多く散歩をしているのも頷ける。この緑地は昔に数回訪れたことがある。自宅からも歩いて来れる距離だ。一時間かそこいら掛かるから、まず歩いてくることはないだろうが。ただそんな近くにあの惨劇があった家があるんだと他人事のように考えながら、周りを呑気に歩き回っている人々を羨ましいと思った。これが他人事だったらどんなに良かったか知れない。まぁ、こんなことでも起こらなければ、今までの日常が良いモノだったなって、気が付くことも出来ないのだろうが。周囲が百メートルほどの、どの公園にもありそうな池の畔にあるベンチに腰を下ろした。池では外来種のブラックバスでも狙っているのか、釣りをしている男性が数人いた。僕は釣りを人生で二回だけやったことがある。でももうやりたいとも思わない。釣りは短気な人ほど向いていると聞いたことがあるが、あれは嘘だと思うし、多くの人がそう思っているはずだ。釣りを広めたいと考えた釣り船を持っている人か、釣り道具の店をやっている人が、冗談で言ったことが勝手にひとり歩きして広まったんだろうと思っている。間違っていても、そのインパクトが人々の興味を引いたのだろう。現に僕の過去二回の釣りは釣り好きの友人に誘われたのだが、どちらも僕を誘う殺し文句は、「短気な人間ほど、釣りには向いているんだ」だった。でも釣りの最中はずっと竿を下ろし手持無沙汰を感じ、それを上げたり下ろしたり繰り返してしまう。そんな時友人は決まって、「上げたり下げたりしたら釣れるモノも釣れない。我慢して、浮きがピョンピョンって引くのを只管待てって」それの何処が、釣りが短気に向いているかが分からない。もしかしたら短気を長気にする為の修行として釣りは良いということから、フィッシングは短気に向いているという誤解が生じてしまったのかもしれないと、勝手に結論付けておいた。この緑地で、周りのゆったりに何処か癒されたのか、眠気が襲ってきたから、それの為すがまま目を閉じた。
「あのネットに載ってた親殺しと同じ顔じゃない?」「そうだよ、こいつが犯人だもん」その会話が頭の中でされたのか、周りを歩く人間がしたのかわからないが、そう耳元に響いたのとほぼ同時に、既に空に蔓延り出したギラギラの太陽光の仕業で、体中に噴き出した汗を不快に感じ目を覚ました。手で汗を拭いキョロキョロしながら体を起こした。どうやら頭の中でなされた会話のようだ。ゆっくり呼吸してから、また周りを見た。三人掛けだろうベンチは二つ連なってある。僕が座るもう一つに婆ちゃんよりも幾分年上、もしかしたら百歳を迎えたかもしれない爺さんがひとり座っていた。ひなたぼっこ、その言葉がぴったりと当て嵌まる光景だった。「この公園には良く来るんですか?」人見知りの僕が話し掛けた。しかし反応はなかった。聞こえていないと判断し、「こんにちは」さっきの数倍の大声で爺さんに体を寄せて言った。するとニコニコな顔で、「こんにちは」と答えがあった。「ここには良く来るんですか?」同じように声を張り上げた。「はい」畏まったような返事が返って来た。暑過ぎてそうでもない気もしたが、「気持ちが良い朝ですね?」と訊くと、「はい」と言い、「お近くなんですか?」と尋ねると、「はい」と答えがある。「歩いて来たんですか?」「はい」「歩いて何分かかるんですか?」「はい」「歩くのは健康に良いですもんね?」「はい」「失礼ですが、お幾つなんですか?」「はい」「お若いですね?」「はい」「火星人はいますかね?」「はい」「僕もしかしたら、父親を殺してしまったかもしれないんです」「はい」「でも僕は殺してないですよね?父のこと」「はい」「おじいちゃんもいつまでもお元気で」「はい」無意味な時間を過ごした気もしたが、何処かほっこりと心に力を貰えた、今もひなたぼっこを続けている爺さんに頭を下げ、歩き出した。
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