第2話 三山 太郎の世界
ヘルパーの高梨です。今から皆様が訪れるご家庭、三山邸はなかなか複雑なようです。しかし我々ヘルパーは、ご利用者様の自宅で知り得た事実を、他所で話すことは法律上禁じられています。保守義務ですね。ですからくれぐれも他で話をしてはいけません。よろしくお願い致します。では参りましょう。
わたくし高梨にとって、これが数回目の訪問ですが、なかなか複雑怪奇なご家庭だと訪問する度に感じています。ご利用者様は女性で今年卒寿を迎えられます。目出度いですね。要介護4のこれまたなかなか重度のご利用者様です。認知症が結構進んでいらっしゃいます。だから色々な形でわたくしの訪問を歓迎してくれます。今回も三山家に入りますと、堪らずわたくしは顔を顰めてしまいました。訪問した様々な家庭で散々嗅がれた臭いだから馴れてはいるのですが、これから行わなければならない自分の仕事を考えたことで、そのような顔つきになってしまいましたこと、お許しください。その臭いを廊下で嗅いで既にギョッとしておりましたが、一応挨拶はさせて頂きました。案の定、返答はございません。ご利用者様の部屋からも、勿論、他のご家族からも。ですから恐る恐るご利用者様の部屋を覗くと、やはり彼女は不潔行為に及んでいました。壁に塗られた便を眺めながら、それでも「パンツ交換しましょうね」と穏やかに言っている自分に感服致します。オムツの中に便をして、それが不快だからこのような行為に及ぶのだと、昔教科書で習いましたが、実際の彼女の心理状態などわかりません。新人の頃はそれさえも理解したいと熱く語ったりもしましたが、今は認知症の彼らには、彼らの世界があるのだと諦めております。
おしめの交換も終わり、部屋の壁も便を拭き取り何度も消毒を致しました。しかし鼻に付いた臭いが消えないのは、まだ拭ききれていないのか、あるいは空中を漂っているからなのか、頭にこびり付いた映像が臭いも伴っているのかが分かりません。それでもご利用者様はすっきりとした表情で、いつものように楽しそうに、何も映し出されていないテレビ画面に話しかけていらっしゃいます。それを横目で見ながら、タイムロスをどう補うかを考えました。結論、一つ一つを終わらせるしかないと、いつもの仕事である食事を作るために台所に向かいました。新しめのオープンキッチンはわたくし以外、このごろ誰にも使われていないようだと感じております。冷蔵庫から豆腐と白菜、ネギを取り出し、一人用の鍋に入れて火にかけます。その間にニラ玉を作り、さっきの鍋に出汁を入れ、蓋をしてから煮詰めます。ご飯は小さなお茶碗ぐらいの少量をラップに分けたモノを、冷凍庫から取り出してレンジで温めるだけです。煮立った鍋を少し冷ましてから全てをお膳に乗せ、ご利用者様の前にある掛け布団はないコタツの上に置きます。いつの間にか彼女は、目線をテレビ画面に置いたまま黙り込んでいました。「どうかされましたか?」と訊いても返答はございません。少しの時間をおいて、「温かい内に召し上がってください」のわたくしの声に、ハッと驚いた表情を浮かべておりました。それからゆっくりと、しかしはっきりとした口調で話を始めました。「孫の太郎が、豪いことを仕出かすよ」そこまで話す頃にはご利用者様は、自慢気にわたくしの目を見ておりました。だからわたくしも、いつになく真剣な面もちで彼女と対峙いたしました。そのときの彼女、認知症患者の形相には見えませんでした。心なしか興奮しているようにも感じました。「もう、大変なこと仕出かしたんじゃないですかね」柔らかい口調で答え、箸を彼女の右手へと持たせました。何しろ不潔行為の処理でだいぶ時間が押しておりましたから。実は数日前、ご利用者様の一人息子の三山孝太さんの首に、間違いなく誰かに絞め付けられた跡があったんです。彼はそれを隠す為に青色のスカーフをされていましたが、間違いなくあれは誰かにやられたモノでございます。その犯人は彼女の言う、孝太さんの子供の太郎さんではないかと踏んでおります。わたくしが顔を歪めたのは、ご利用者様のそれ以降の話を耳に入れたときでございます。「孫はこの国のお偉いさん方に狙われているみたいなんだ。でもね、太郎は迎え撃つ気だよ。大統領暗殺なんかも考えてんじゃないのかね?」相変わらず正面からわたくしを凝視している老眼鏡越しの老婆の眼が、微笑みから朦朧に変わったのが分かりました。途中からは彼女の病気が邪魔をしたと悟りましたが、彼女が言った空言は彼女の空事ではないし、彼女のあの目を見れば、真実は一つだと思いました。目の前の認知症患者ともう一人、大きな病気を抱えた人間が、この家にはいるということです。話の展開から二階に棲む住人も、ただならぬ様相を呈しているのだろうと察しが付きました。やっと食事を取り始めたご利用者様は、いつものように何処だかわからない空間を見ながら独り言を始めております。そんな彼女を眺めながら、孫は挨拶が出来ないし、掴み所がない印象から、何かを持っている青年だと常々感じていたのは事実です。
またわたくしヘルパーの高梨は、看護師の免許を有しております。だからご利用者様の褥瘡、所謂床擦れも処置できるのですが、このご家庭のご利用者様のポケット(陥没して抉れた状態)が出来るほど酷く腐った皮膚は、それだけで止まらず肉にまで達していました。ここまでくると皮膚が戻ってもケロイドになってしまいます。放っておかれた証拠ですね。それからは二時間おきに体位を変えないといけなくなりました。それをしないと褥瘡はよくなりません。床擦れぐらいでと小馬鹿にしていると、ほとんど寝たきり状態のご利用者様にとっては、それが命取りになります。人間は実に脆く出来ているものだと、しみじみと感じてしまう瞬間です。しかしわたくしは、この家で週四日二時間しか面倒を看れません。それ以外の時間は息子の孝太さんが看てくれているようです。孫の太郎さんは部屋に閉じこもり、日々何をされているのか不明です。その妹の由岐さんは今まで行っていた美容の専門学校を辞め、次は英語の学校に行くことに決めたらしく、その学費を稼ぐためにバイトに明け暮れ、ほとんど家に寄り付かなくなったみたいです。この家で唯一明るい人間だった彼女がいなくなった穴は大きく、そのせいでこのご家庭では、会話は成立しなくなったようです。その内顔さえ会わさない日々が多くなり、今ではお互い居るのかもわからなくなったと、孝太さんが小言を言っていたことがあります。それでも太郎さんはたまに居間に下りて、そこにご利用者様がいると、自分だけが理解するお互い噛み合わない話しを繰り広げ、適当に満足して部屋へと戻られる姿を、何度か目にしたことがあります。孫はこの接触以外ご利用者様にはノータッチ、ただ彼女からすれば、それだけでも嬉しいのでしょう。今日みたいに孫との話をよく聞かせて頂きます。ただそれだけで推測するのは危険だとは思いますが、このご家庭には何処か儚さというか、脆さを感じてしまいます。勿論わたくしには守秘義務がございますから、このことはくれぐれも余所で話さないでくださいね。お願い致しますよ。それでは本編です。
全国的な新聞は、四十ページからなる。紙面には大事件だったりトピックだったりが載るのだが、昨日が平凡な一日だったなら、数日前の出来事を、昨日の記事とは違う視点で書き連ねる。比べて読めば、一つのことを実にうまく、様々な角度から書いているなあと感心させられる。そんな三面記事が終わると、経済面、国際面、文化や生活、スポーツ面があって、社会面に戻ってテレビ欄で締め括られるわけだが、三十八ページ辺りの社会面に、ほぼ毎日載っているのが、有名人や著名人の死亡欄。大体は八十代から九十代の、死因は癌だったり老衰だったりがほとんどで、目を少し留めるだけで次に行くのだが、ある日の新聞では、そこに有名人歌手の結婚報告が載っていた。遺影ではないのだが、死んだ人間の写真の真横に、そんな結婚の報告を笑顔の写真付きで載っていたものだから、あれっと驚いてしまった。死亡と結婚を並べることに目を剥いたが、よくよく見ると、その横には何処かの小説賞の受賞者のことが書かれていたり、何処かの市の名誉市民賞にスポーツ選手の誰々が選ばれたなどの記事が載っているのだから、どうってことはなかったのだと気が付いた。しかしそのせいで目を止めてしまったばっかりに、有名大学の名誉教授が米寿に当たる八十八で亡くなられたモノを見ながら、その横にあった、遺体は調理師の女性、の文字に目が釘付けになった。神奈川県、大岡川沿いの河川敷で女性の遺体が見つかった事件で、身元不明だった遺体は横浜市の調理師、大田可憐さん(25)だと判明したと小さな記事が伝えていた。文面からして続報なのだろうが、本人としては大事件、その日の一面を飾る大事件だというのに、三十八ページ下の方、3×4センチ内に収められてしまっていた。勿論、八十八歳で亡くなった教授にとっても紙面を飾ることは確実なのだろうが、彼女の場合、それがあまりにも唐突に起こったのであろうことを考えると、同情してしまう自分がいたのかもしれない。その女性のことを僕は知らない。名前は今知ったが、それまではこの世に存在していて、そして殺されてしまったことも知らなかった。だから葬式にも顔を出していない。今だって載っていないから、顔も知らない。知らない女性の記事なのに、その日の僕にはそれが一番の大事件になった。二十五歳の若さで、この世を去らねばならない辛さったらないだろう。それも殺害されたのだ。続報だし、日本国民、何千万分の一の女性だから詳しいことは書かれていなかったが、マスコミがというよりも、国民が好きな通り魔という言葉がなかったから、知り合いに殺されたのかもしれない。犯人は捕まっていないようだから、警察も何とも言えないのだろうが。書かれていないことをいいことに、ついでにどんな殺され方をしたのかを考えた。首を絞められたか、あるいは腹を刺されたか。もしかしたらメッタ刺しで、見るに堪えない死に様だったのかもしれない。前に名前だけは聞いたことがあった著名人が、本人がゆうに八十を過ぎ、このごろ死を考える、その度に胸が苦しくなると、切実な思いを素直にぶちまけていた。それに対する最初の感想は、そこまで生きたならもう良いだろう、だった。そして次に、普通はこの手の著名人や有名人は、それでも世間体を気にして、死よりも仕事を選ぶだとか、舞台で死にたいみたいな、格好いいことを言うものだが、その著名人は真っ直ぐに死を見詰め、そして誰も知ることの出来ない死というものを怖いと認めたわけだ。そこに人間味と潔さと、少しの絶望を感じた。何故絶望なのか、その時はわからなかったが、今改めてその人の言葉を思い出す時、長かろうが短かろうが、人間は平等に死ぬのは一回なのだと思いつく。死に方は千差万別でも、命は一個しか持ち合わせていない。だからその一個が燃え尽きれば、命あるモノは必ずその瞬間を経験するわけだ。天国やら地獄やらがあるかは知らないが、死というものが無というのなら、自らの死は経験するようで経験できないのかもしれない。「あっ死ぬ」はあっても、「あっ死んだ」はない。小学校の時、国語の先生が、経験したことは全て過去形だよと言っていたから、それが正解かはわからないが、その先生を尊重するならば、生物は死というモノを経験できないモノなのかもしれない。その経験できるのか出来ないのかもわからない、それでも最期には絶対に味あわなきゃならない。そしてそれが近づくジワジワと感じる経験も、死に値する苦しみ悲しみなんじゃないだろうかと、絶望したわけだ。九十歳になろうが百歳になろうが二百歳になろうが、ただ待つということは、物凄い苦痛なのだろう。そんなことを考えれば、二十五歳で亡くなった女性は、八十で死に備える憂鬱を味わうことなく死ねてよかったのかもと勝手に思ってしまう。「そんなはずがないだろ!私は老いぼれとは違う。もっと生きたかったし、もっと人間の幸せを味わいたかった」そう言われた気がした。まして殺しだ。刺されていたりしたら体的に痛すぎるし、心的に怖すぎるから、僕には想像も付かない苦しみなのだろうが。そんな酷いことを当てもなく一日中考える日があった。勿論誰かに話すわけじゃない。一人頭の中で朝刊を読んだ朝から晩までぐるんぐるんと巡らせて、その日自分が何もしないでいることに気が付かずに、日を跨いでハッとなって終わらせてしまった一日の話だ。
そんな僕に君は、目に見えるモノが全てだって言っていたね。目に見えるモノしか信じないって、そう言っていたよね。悪いのかって。そうは言ってない。ただそれだと君の可能性を狭め、人生の半分を損したことになるだけだ。君にはここから見える世界は、六畳の部屋だけなんだろう。その六畳は細長くて、入口正面には縦が二メートル、横が一メートル半ほどある、それほど大きくもないし決して小さくもない窓がある。窓から入り込むモノが光だけだと思っているんだろうね、君は。雨の日は横殴りに降れば雨粒が、雪の日だって吹雪になれば雪粒が入って来るって。そんな屁理屈を聞きたいんじゃない。せめて春には柔らかな風にのって桜の花びらが紛れ込んでくる、くらいの心遣いが欲しかったね。花粉も一緒に入って来るって、そんなモノは想像しただけでむず痒くなるからやめてくれ。まぁ君程度では、窓から入るモノといったらその程度なんだろうね。でもね、僕のそれからは様々なモノが入り込んで来るんだ。例えば、同じ空間に棲む他の部屋の住人とかね。
僕は今、部屋の入口に立って、その窓の方を見ているんだ。窓の左手前には骨格だけしかない、味気ない、未完成と言われれば信じてしまいそうな木の机。その前には椅子があるんだけど、机とは対照的で赤が印象的なシステムチェア、座り心地が良くて完成度が高いんだ。でももしね、その未完成のような机と何時間座っていても疲れない椅子、どちらか一つだけしかこの部屋の中に置いておけないというなら、僕は迷わず机の方を選ぶだろうね。そう言うと思ったって、偽善者っぽい顔をしているから。あんまりな言われようだね。でもそんなことはないよ。理由は簡単、その机の方がシステムチェアよりも値段が高かったから。有名な建築家が設計したモノらしいから、まぁ材料費よりも設計費が嵩んだ商品なんだろうね。材料が安いのにアイデアが高いなんて、頭が良さそうな商品って感じでしょ。そこが僕と同じ価値があるってことなんだ。周りの人間はそれに気が付かない。いや気付けないんだ。余りにも高くにいると、その高さがわからないからね。それと机を選ぶもう一つの理由、これは前のと比べたら取るに足らない理由なんだけど、それはまだ話さないでおくよ。僕が君のことを信じれるようになるまで内緒にしておくね、ごめんね。話を戻すけど、その机と椅子に対面しているのが、窓の右手前にあるローチェスト。高さが三十センチほどで奥行きもそんなにないんだけど、長さが二メートル近くもあるんだ。そんなに長いモノ、六畳の部屋じゃ邪魔だろうって。確かにそうなんだけど、気に入っているみたいなんだ、僕以外がね。そのローチェストの、部屋と廊下を繋ぐ扉側の上にはテレビが置いてあるんだ。液晶テレビで五十インチもあるんだ。六畳で五十インチは大き過ぎだよね。買うときはデカければデカいだけ良いと思って買ったんだけど、映画を一本観終わる頃には目がちかちかして敵わないんだ。ローチェストが長いから、机横、左手前のソファとも対面しているんだけど、テレビ前にソファ、お決まりだよね。近所のチェーン店で買ったヤツ。名前がラブラブソファだったから思わず飛びついたんだ。安モノだから飛び付けたんだけどね。でも騙されたよ。相手がいなきゃ全然ラブラブじゃなかったね。クッション性が悪い悪趣味な色のソファって改名した方がいい。せめて僕の部屋のヤツだけでもね。その前にお印程度の小さな折りたためるテーブルがあるね。これが大まかな、目に見える僕の部屋の見取り図。そんなにモノがあって、六畳じゃ狭いだろうって。確かに広くはないけど、僕には丁度いいよ。それにこの部屋にはある秘密があるから。それがこの部屋を無限に広くしてくれているから。だからむしろ広いぐらいなんだ。あっ、忘れていたけど、真っ赤なソファの横、入ってすぐに高さが一メートルほどの立て掛けた鏡がある。いっぱいヒビが入っているけどね。そのヒビを入れたのは僕の方からじゃないんだ。あっちの方から入れて来たんだ。それと窓の対面、僕の背中にあるのがクローゼット。その広さは一畳ほどあって、上の段には服が入っているんだけど、下の段には細々したモノが端っこにあるだけで、あとはガランと空いているんだ。その細々したモノたちを何年も陽の目を見せていないから、多分いらないモノなんだろうね。だから実際僕の部屋は七畳あるってことだね。じゃあそろそろ話しちゃおうかな。短時間僕が一方的に話しただけだけど、君の聴く態度を見ていたら信じることが出来たから、この部屋の秘密、僕の秘密を教えてあげる。話したかったんだろうって、話の個所個所で匂わせていたって。そうだったかな。とにかく聞いて。
この窓から入って来るのは、女の人。最初の訪問の時はラブラブソファ、じゃなくてクッション性の悪い真っ赤がドキツイソファに腰を下ろしたのに、やはり座り心地が悪かったらしくすぐに立ち上がって、ローチェストのソファと対面しているテレビの方、入口側じゃなくて、机の対面で立ち止ったんだ。システムチェアは無視して、未完成の机を数秒間見続けてからゆっくりと感触を味わいながら撫でたあと、ローチェストの上にあった雑誌や何時からそこに居座ったのか意味不明なキャラクターのぬいぐるみ、その他諸々の物たちは下へと追いやられ、彼女はそこに悠々と腰を下ろした。だから机を選ぶわけ。また話が逸れたから戻すね。五月とはいえ、その日は結構気温も上がって暑かったのに、薄紫色のハイネックのセーターを着ていた。下はくるぶしまである白を基調にした薄手のロングスカート。花柄がとっても彼女に似合っていた。上と下、何で季節があべこべなんだと尋ねたら、これはあなたの趣味でしょ、と言われてしまうんだろうね。髪は何処までも黒くてセミロングのストレート。おかっぱみたいな髪形。その髪をかき上げたときに見えた薄く小さな耳たぶにはほくろがあった。唇はキラキラしていてとても瑞瑞しい。瞳も髪同様に真っ黒、近くにいると吸い込まれてしまいそうなんだ。でも僕は吸い込まれたことがない。その瞳に見つめられたことがないから。彼女はたまに両方の手のひらを上に向けた状態で膝の上に乗せ、その上には何もないはずなのに、ページを捲るような仕草をするんだ。でも笑っていたりするから、そこには面白い本でもあるんだろうね、きっと。ずっと見つめていた手のひらから、ふと顔を上げるときがある。その時の目も僕のことは見ていない。多分、彼女も自分の目に入るモノしか信じることが出来ないんだろう。恐い話しかって、そうじゃない。彼女は幽霊じゃないし、僕だって死人じゃない。手にも足にもちゃんと血は通っている。実を言うと、僕は実際の彼女をこの目では見たことがないんだ。ここまで話して止めるのもなんだから話しちゃうけど、ある人から聞いたことなんだ。その女の人の話を。彼の話だけで想像を膨らませたら、いつの間にか彼女はこの部屋に遊びに来るようになったんだ。正確には僕の部屋ではなく、この空間に存在するもう一つの部屋。彼女の話をしてくれた人が教えてくれたんだ。この空間には二つの部屋が存在してるって。だからたまにドッキングすることがあって。そのときに見えない彼女は、この空間に現れ、僕と同じ場所で時を過ごすと、僕は彼女を味わえるんだ。好きなのかって。そんなはずないじゃないか。彼女には相手がいるんだ。その相手がもう一つの部屋の住人。その男のことは興味を持てないから存在を感じないんだけど、この前、その時もドッキングしたんだろうね、既にヒビが入っていた鏡の前にたまたま僕は立っていたんだ。平面だった鏡が、突如奥行きを作り始めた。そこに出来た空間に、長い間笑っている、僕と同じ顔の男が写っていたんだ。余りに長く笑っているから、僕もおかしくなって一緒に笑ったら鏡にどんどんヒビが入って、やがてその男のことを確認出来なくなった。何を言いたいのかって、言っている意味がわからない。そりゃそうだろう。君みたいなレベルでは理解できない話しだろうから。ところで君は誰なの。一向に顔を見せないけど、こっちに居る人なの、それともそっち側の人間なの。
その日は朝から雨が降っていたけど、夕方までには北の方に抜けていたから、僕の住む一帯は雲が少しだけ残ってはいたけど、星を見れるほどに回復していたんだ。六月頭なのに梅雨に入ったってテレビか何かで言っていたけど、まだ迷惑だと感じるほど雨は落っこちて来てはいなかった。今日の雨だってそれほどの量もなく、三日ぶりだというのにいつの間にかいなくなっていった。今年の雨はどうやら気ぃ使い屋さんみたいだね。昼間雨が降った夜は空気が透明で、この季節でもひんやりが肌に当たってくる。その日、僕は長袖のTシャツを着ることにした。色は黒かグレー。クローゼットの上の段が洋服ダンスなのは前に話したよね。その中に見える色は黒かグレー、それと紺。単色だけじゃなく、中にはチェックやストライプのモノもあるけど、どれもクローゼットの暗い印象を拭えるモノは一つもない。夏なんだしもっと明るい色をと気張って買い物に行っても、同じような色をいつも選んでしまうんだ。春は薄いピンクだと雑誌の中刷りで見つければ、それを求めに出掛ける。それでも服屋でそれを手に取る勇気がない。どうにか掴んでもレジまで運ぶことを足が拒む。白色も一応は手にとって鏡に映った自分の体に当ててみるけど、そこに僕がいなくなる。見慣れないせいなんかじゃない。似合う似合わない以前の問題なんだ。なんたって僕がいなくなって、白い色の服だけがそこで風に吹かれているんだから。昔、服の販売員をハウスマヌカンなどと持て囃していた時代、その一人の女が、確か僕が中学生になったばかりの時で、服を初めて一人で買いに行って、何件目かで入った服屋で白だったか黄色だったか、空色辺りのシャツを見ていたら、カツカツと音を立てて歩くそのハウスマヌカンが寄って来た。そして言ったんだ。「お兄さんは、ダーク系の方が絶対に似合うよ。そんなに若いのに、どこか渋みがあるもん」多分褒めてくれたんだと思う。そして正確な目を持っていたんだと思う。でも言われた当人は、ネクラとか、オヤジ顔、地味男みたいに言われたようで、それが心に貼り付いたきり一向に剥がれなくなった。年を取れば取るほど、その言葉が言霊となって大きくなっていった。あれから十五年ぐらいが経ったが、僕の心の中は、このクローゼット同様、ダーク一色に染められてしまったんだ。全てはあのハウスマヌカンの不用意な一言で始まったんだ。僕の暗い人生の第一歩を、あの女に記されたんだ。と言いたいところだけど、彼女のせいでこうなったんじゃない。自分のせいだということぐらい自分でもわかる。でもクローゼットの上段をジッと見ていると、少しはそれも起因しているように思えて来る。それほどここはダークで埋め尽くされている。だから毎日服を選ぶときに悩まない。今日みたいに肌寒い時は半袖長袖の判断ぐらいはするけど、その日の気温が季節に従順であれば、上から取って行けば、その季節に順応したものが取り出せる。世間が衣替えシーズンの時には、下の方から引っ張り出す。あとは洗ったものを上に積み上げて行けば、自然に衣替えは終わっている。引っ張り出すのだって長いか短いか、厚手か薄手かを手の感触で見極める程度だ。まぁどれを選ぼうが似たり寄ったりになる。丸首か、襟はあるか、ボタンはあるか、程度の違いで、すべては黒系なんだから。
服の話だけでシンミリしちゃったけど、付け加えると夏も好きじゃない。想像通りだろう。だから今夜みたいにひんやりしていると落ち着く。そして少し解放感を感じたから、ベランダへ出てみることにした。いつもは何かが入って来るばかりの窓から外に出た。何かが入って来る時は窓が開いていようが閉まっていようがお構いなしに皆入って来るのだが、僕が出るときはどうしてか、それが開いていないと出られないと、閉まった窓で試しにやってみて、顔面を強打して、痺れた鼻の痛みで確認済みだ。当たり前だと考える君には味わえない痛みなんだろうね。でも世の中に当たり前なんてないんだよって、赤く腫れ上がった鼻を前にして説得力もあったもんじゃないだろうけどね。結局閉まっていた窓を開けたんだけど、その途端に風が入って来た。それは目には見えなくても、その存在を万人に認められている彼らに、僕は敬意すら感じていたんだ。でもその時は少し邪魔に感じたから、それを寸断して表へと体を突き出した。暫くは風が仕返しをしてきた。髪の毛はぐしゃぐしゃ、鼻の中まで入って来るから、痛んだ個所がズンズン云ってた。空には、死が間近の真黄色の大きな月が四分の三ほどを削ぎ取られた顔で、痛々しく宙に浮いていた。暫くそれを優越感を感じながら見ていると、みるみるうちに回復して、いつの間にかいつもの血は通わなくても、それが彼らの健康な状態の顔色へと戻ってしまった。ただ削ぎ落された顔の大部分はそのまま、またそれも時間がゆっくり解決してくれるからって、彼はそう言って僕の手の届かない高い所へと移動して行ってしまった。相変わらず吹き荒む風が、どっちが彼らの故郷なのかがわからなくても、目に見える存在のない風にも体温って奴があるらしく、風邪でもひいたのか幾分湿り気を増して、微熱程度にまで体温を上昇させていた。弱みは見せたくないのか、彼らはその後も元気そうにぐるんぐるんと動き回っていた。ずっと外に居たら、風に風邪をうつされるなどというオヤジ顔負けのことを言っても、彼らが笑い出すことはないようだったから(面白くないからだと、あとから気が付いた)それに生ぬるさが気持ちが悪いと思ったから、申し訳ないが部屋へと戻ろうと考えた。それなのに体なのか、心なのか、風なのか、はたまたあっちの世界の仕業なのかはわからないが、僕の体を固めその場に留まらせた。それに抵抗すればするほど、足先から体温が奪われ、関節が停止していくのをシュルシュルと脳みそが感知していった。深く掘った穴に入れられ、上からどんどん土を埋められていくような、どんどん息苦しく、自由が奪われていった。土は腰を越え、胸を越え、首筋にまで到達していた。口の下までやって来て、これ以上埋まったら死んでしまうとそう感じた時、それは止まった。ただ今度は、その土がどんどん固められていくのだ。土だと思っていたものが実はモルタルで、それがいつしか凝固点を越え、もう二度とここから出られなくなってしまったんだ。首の自由もない、動くのは目だけになった時、僕の目に映るのは、初めて見た外からの僕の部屋だった。いつもは見慣れた部屋の中も、こっちから覗き見ると凄く新鮮でこうも違うものかと感心している場合ではなかった。耳鳴り、そう最初は耳鳴り程度のモノが地面すれすれまで埋められた僕の耳に、そこを這うミミズか何かがゆっくりと騒いでいたのが、何時しか地鳴りとなり轟音に変化。洪水がやって来たんだと分かった時、僕の耳に一気に侵入した。そのせいで溺れた感覚に襲われた。遠くでは、また地鳴りが轟いた少しあとに言葉のように聞こえ始めた。「うごごごむご、ごむんごご……」最初はそんなので始まったのに、ミミズだったモノが大蛇となって真横でウオサオし出すと、「ワタシハコロサレタンダむごご……シニガミ 二いのちを奪われたウゴ」そう聞こえたあと、地鳴りは女性の蠢きに変わり、それが僕のすぐうしろから聞こえるようになった。「あの世に連れて来られたんだ。ここは暗くてなんにも見えない。ここは温度がないんだ。だから肌の感覚が全く感じられないんだ。打たれているのか、擽られているのか、焙られているのか、削がれているのか、見えないからわからないよ。ただ感じるのは体に掛かる荷物が重たくて重たくて苦しくて仕方がないんだ。でもそれもおまえが来れば大丈夫。次はおまえの番だよ。死神に殺されるのは」そういった女性の吐く息が首筋に吹き掛けられていた。どうにか動く目だけで、部屋の灯りに邪魔されながら、窓に微かに写る、その女を探した。でもそこに何かが写っていても、それがどんな顔なのかまではわからなかった。本当のことを言うと、見えなくてよかったと思っているし、実際はガラスにあの女の顔は写っていたけれども、僕はそれを知りながら見えないと自分に信じ込ませていたんだと思う。あの真っ赤に腫れ上がった顔を……
それからどうなったかはわからないんだ。気が付いた時には朝で、窓は開いていたけれど、僕はちゃんとクッション性皆無の悪趣味なソファと五十インチのテレビの間にいつものように布団を敷いて寝ていたんだから。折りたたみテーブルはちゃんと仕舞われていたよ。昨夜の出来事が何だったのか考える前に、尿意を催したから部屋を出たんだ。二階のトイレに入ってはいけないよ。入ると便器の中へと押し込まれ、そのまま拉致されて、辺境の地へと売り飛ばされるぞって教えて貰ったから、面倒でもいちいち一階まで走って下りる。漏れそうだと、そんな心配をしたわけではない。早く用を済ませ、早く部屋へと戻りたいだけだ。それなのに一階のトイレのドアを開けて便器と対峙した時、便意だったことに気が付いた。仕方ないから便器へと腰を下ろし、暫くの間その格好を維持した。「何してんだよ?」怒鳴り声が小さな部屋の中で行ったり来たりを繰り返す。それが収まるか収まらないかしているうちに、「汚ねぇな!」今度はそいつが、僕の三半規管をブルブルと震わす。それに目を回し終わると、「どこに隠した?臭いんだよ」一間ほどの空間の中に閉じ込められた僕のことを攻撃してくる。上手く体を動かして避けているつもりでも、ほとんどが僕にぶち当たって来るんだ。でも本当に攻撃を受けているのは、実は僕ではないことを、僕自身薄々は気が付いている。それはこのトイレの扉の向こう。廊下を右に行った突き当たりの部屋に隠れている婆ちゃんへのモノだと思う。堪らず耳を塞いだ。出来る限り耳に入ろうとする侵入者を許さない覚悟で、耳の穴を人差し指で目一杯に塞ぐ。その指が三半規管を突き抜け脳みそにまで届きそうなほどの精一杯でやる。そこまでしても、諦め程度の罵声は届いてしまう。だから、「わーぁ、わーぁ」と騒いでみる。それはどうやら効果覿面で、全く声が届かなくなる。それなのに、暫くすると僕の指バリアを易々と通過する侵入者が現れる。「おまえはクズだ。おまえは人間のクズだ。おまえなんかいなくなっちゃえばいいんだ」そいつは耳なんか通過していない。ダイレクトに僕の脳に侵入しているとわかった。防げない。防ぎようがない。「あーうるさい!」先の何倍もの声で対抗してみる。しかし喉が焼けただけで、笑い声は永遠と続けられる。最初の侵入者もあとからの侵略者も目星は付いている。でも今はまだ戦う時ではないと考え、静かにして出方を窺うことにした。
用が済んだのかも覚えていないほど、朦朧としたまま、廊下へと出た。突き当たりの部屋にも居間にも人がいるのはわかっている。ただどちらも気配を消している。僕の部屋の空間にもう一つある部屋のモノたちは、図々しく何時でも僕の生活へと入って来るのに、ずっと昔からの知り合いのここの住人は、僕の生活に現れようとしてこない。触れても来ない。まぁそれの方が、頭がこんがらなくて良いのかもしれない、と考えるようにしている。でもその朝は、どうしても少しだけでも触れてみようと思ってしまった。僕がゆっくりと足を進めるのは、居間だ。そこには僕のモノよりも座り心地も色合いも遥かに落ち着いていて、フカフカで高級そうなソファがある。そこに腰を掛け、新聞を眺める父の姿があった。そっとだが、暫く見ていたから、彼は僕の存在に気が付いたようだった。それでもどんなに彼の目が泳いでいても、彼の口が目がこっちを向くことはなかった。さっきはあんなにたくさんの攻撃を仕掛けてきた人間が、今は静かに僕の出方を疑っている。恐ろしい存在として認識している。
数ヶ月前までは、僕も君と同じ一般人だった。ここで言う一般人は有名人の対極に位置しない。最初に言ったように、目に見えるモノしか認めなかった。現にそれ以外の存在を感じられないから信じるも信じないも、論じるつもりもなかった。そんなモノ認めようがないものだった。
一年ほど前、僕は結構有名な商社に勤めていた。中国など新興国にプラントを輸出する部所で、昼夜なく働いていた。最初はそれで良かった。遣り甲斐も感じたし昇給昇進、部下が出来れば期待に応えたいと一層努力を怠らなかった。家には終電で帰る。帰ってからも次の日の会議の資料やプレゼンの作成、ろくに睡眠を取れない日々が続いた。それでも気が張っていたからどうにか乗り越えた。乗り越えても乗り越えても、山は続いた。一向に出口なんか見えない。そんな僕にある日突然、出口が見えた。見えたというよりも無理矢理に出された。所謂左遷。「人生すべてを注ぎ込んで来たのにどうして?」どうやら僕を贔屓にしてくれていた部長の、たった一度の失敗の責任を一緒に取らされたようだった。完全に糸が切れた僕に残ったモノは、どうしようもない脱力感と不眠症。出向先は片田舎の繊維工場。そこに毎日決まった時間に出社、決まった時間にレーンに乗って誰とも会話することなく時間がくれば退社。前の職場では考えられないほど規則正しい生活が送れる環境だった。しかし不眠症は一向に良くならず、太陽が沈むと同時に昼間感じていた倦怠感は吹き飛び、次に太陽が顔を出すまで瞼はギンギンに開いていた。遣り甲斐と給料が減っただけ、彼女がいなくなっただけで、相変わらずの万年寝不足は続いた。そんな時、社員数五十人ほどしかいない工場で僕よりはるかに低学歴の社員から、僕に対する悪口が聞こえ始めた。それは寝不足で神経が過敏になっている僕の耳には良く聞こえた。最初は一部の人間だけが言っていたはずの悪口が、工場の従業員全員が堂々と言うようになり、堪らず僕は会社を辞めた。それで僕の人生は終わった。
それから数週間後、大きな大きな鱗雲が大空を覆い尽くそうとしていた。しかしそれでは役不足なのか、青空はほとんど見えていた。太陽はもろともせずにじわじわと地面にビームを放ち続けていた。9月に入り暦の上では秋だというのに雲がどんなに秋をアピールしても、夏たちはお構いなしに空に地上に居座り続けていた。
そんな季節のせいだろうか、僕はもやもやしていた。次に務めた職場はスーパーだった。そこで僕はパートタイマーとして働き始めた。僕の周りも、もやもやがずっと居座っていて、なかなかいなくならなかった。「いなくならないかなー」「あいつ鈍いから気づかないんだよね。誰か言っちゃってよ!辞めろって」堪らず、「ガンッ」立ち上がった僕の顔はとんでもなく恐ろしいものだったのだろう。ものを言う前から社員の矢島さんの顔はビクついていた。「聞こえるようにこそこそ言ってないで、はっきり言えよ!汚ねぇよ。辞めて欲しいなら今すぐに辞めてやるよ!」悪口を言った本人の店長に至っては開いた口が塞がらないようだった。その勢いのまま部屋を出てきた。扉なんかはこれでもかというほど力を込めて締めてやった。そのあとあいつ等が何を話したかは知らない。まぁ僕の悪口を気兼ねなく話したんだろうが。その後も幾つかの職を転々としたが、入った当初から先方に嫌われないように気を使っても、そんなに日を置かずに陰口を言われる。どうも僕は人に好かれないタイプの人間のようだ。高い学歴に一流の商社マンだった過去に対するヤッカミみたいなものなのだろう。元々僕がこんな低レベルの環境が合っているはずがないと思っていた。今回だってどの町にもありそうな小さなスーパーだから辞めてしまってもどうでもいいことだ。
ときは過ぎ、もうそろそろ梅の季節だというのに季節外れの大雪が東京を襲ったときは、このまま梅は蕾のまま、桜に至っては蕾すら付けられず、今年の海水浴は寒さで凍死する人が続出だろうねと思っていたのに、桜もすでに過去のものになった頃、見えないモノを認めるようになった。傍から見れば頭の狂った人間のように思われるのだろうが、それもあまり気にはならないことだった。そしてその存在を認めてから、僕の周りの人間が僕を避ければ避けるほど、目に見えない存在のモノたちが僕を受け入れて行った。世の中は上手く出来ていると、勝手に感心しながら彼らの接触を、僕の方も受け入れた。君らは風が吹けばそれを目ではなく肌で感じるだろ。僕もその目に見えないモノを受け入れると心に決めたときから、ジンワリと感じることが出来るようになったんだ。前に話したよね。僕の部屋と同じ空間を共有する部屋があるって。それを教えてくれた人の話はしたことがなかったね。僕の恋の話を聞かされただけだって。だからあれは恋なんかじゃない。寧ろ愛に近かったのかもしれない。何故過去形かって、もう過去のことだからに決まっているだろ。君は学校で過去形も習わなかったの?因みに何で恋じゃなくて愛だったか知りたいでしょ?だよね。彼女がこの空間に遊びに来てくれたじゃない。僕に会いに来てくれてたんじゃないことぐらいはわかっているよ。僕に会いに来てくれたなら、どんなに彼女が嫌がろうが、絶対にクッション性劣悪な悪趣味ソファをラブラブソファに変えるからね。だから女にモテないんだって、大きなお世話です。そんなことはどうでも良くて、彼女がこの空間で僕と同じ時を過ごした時、彼女は一度として僕の方を見てくれたことはなかったんだけど、それは言ったね、その彼女がある時、この空間のもう一人の住人に、そうだよ、認めたくはないけど多分彼氏ね、その男に服を買ってきたことがあったんだけど、それが何とダーク系だったんだ。その男も僕と同じ趣味なのか、同じ地味な顔なのかと思ったら、そうじゃなかった。そいつ、「こんな爺臭いヤツ着れるか」って投げ捨てたらしいんだ。彼女はそれを拾い上げると、「何でこの色を選んだんだろう?」って頭を捻った。それでもその服を眺めながらニコッとしたんだ。最後のは作っただろうって、良いだろ、思い出を自分なりに着色したって、大まかに間違ってはいないんだから。ともかく、それこそが彼女が心の肌で僕を感じてくれた証拠で、愛だと思うんだ。ある人の、「彼女来たぞ」の声を聞くと、僕はゆっくりと目を瞑るんだ。そこで彼女を感じてから、ふんわりと包まれて夢み心地のまま目を開く。目を開いてしまうのはもしかしたら、彼女が見えるんじゃないかって思うから。でも見えたことはない。勿論がっかりはするけど、どこか心が晴れ晴れして来るんだ。晴れが好きってわけじゃないのに、晴れ晴れした心は気持ちが良いものなんだ。しかしその服の事件以来、彼女はパッタリと姿を現さなくなった。嫌われちゃったんだろうね。僕じゃない、この空間のもう一人の住人が。でもそれは、同時に僕の失恋も意味していたんだ。やっぱり好きだったんじゃないかって。ああそうだよ、好きだったよ。認めるから静かにしてって、何も言ってないか。そして何時しか僕に色々教えてくれた友好的だった彼の声も聞こえなくなった。代わりに僕を罵声したりするやつが現れたんだ。最初の彼は、多分、もう一つの世界の住人なんだろうね。そして空間の中を自由に行き来出来る、空間トラベラーってやつなんだと思う。そんな彼は、僕に色々なことを教えてくれた。当時僕は商社を退き、バイトでレジ打ちをしていたんだけどね。彼がこっそり耳打ちをしてくれたんだ。店長が何時も君の悪口を他の従業員に言いふらしているよって。最初は信じられなかった。その店長、凄く人当たりが良かったから。でもあまりに彼がそう言ってくるから「じゃあ聞かせろ」って言ったら、直接その悪口を聞けるようにしてくれたんだ。その時はショックだったよ、頭が変になりそうだった。その内に従業員みんなが僕に聞こえるように堂々と悪口を言うようになった。だから僕はみんなの望み通り、その店を辞めてやったんだ。家に帰っても家族までが僕の悪口を言うようになったよって、彼は少し悲しそうな声で教えてくれた。彼だけが僕の不幸を悲しんでくれた。彼だけが僕の味方だったんだ。それなのに、そんな彼までが、僕の前から姿を消した。だから出来れば、君だけは僕の傍に居て欲しい。新しい奴は話なんか聞いてくれないから、代わりに君に話をしているんだよ。君が聞いているのかいないのかは全くわからない。君は何の反応も僕に返してはくれないからね。でも僕の肌が教えてくれるんだ。君はいつも傍に居て、僕の話に突っ込みを入れてくれるって。だからこれからもよろしく頼むよ。君がいないと、何時も命令口調で威張り腐っているあの男のせいで、病んで精神病にでもなってしまいそうだから。
そんなおっかない男の言うことを、僕は真面目に聞くようにしている。彼は昔の空間トラベラーの人のように友好的ではなかった。でも彼は僕の周りの人間が僕に向ける悪口の類の話よりも、もっと大きな危機を察知して教えてくれた。「ある組織からの刺客が、おまえの命を頂戴しに来る」いつものように気に食わないソファに寝転がり、漫画を読んでいた。このごろは窓からの侵入者はめっきりいなくなった。油断大敵だってことはわかっていたんだけど、そんなときに聞かされたから、天地が引っ繰り返るぐらい驚いたし、血管に大量の血が流れ込んだせいで全身がわなわなとしていた。少し前に新聞で僕よりも若い女性が多分刺されて殺されたときに、命の期限が迫っている恐怖を考えた。でも突然だったらその苦しみはない分、一瞬が余りに辛いだけでその前の悩みはなくて良いんじゃないかと、一人勝手に合点がいったことがあった。しかし今、自らが立たされた状況は、死を待つ怖さを味わいながら、殺される恐怖も身に刻む。そして刺客に見降ろされながら死んで逝く。全てを耐えられないと悟った自分が、全てを迎えなければならなくなった。なんて暢気に分析など出来ない。「どうして、どうして僕が狙われるの?」「運命だ」それ以上の言葉が出ない。声の彼は、「おまえから仕掛ければ良い。相手はおまえが攻撃を仕掛けてこようなどとは、全く考えていないことだ」と言い張った。震えはいつしか止んでいた。さっき感じた心臓を握り潰されたような痛みが、今はなくなっていることが不思議だった。恐さがない。ないと言ったらウソだが、面倒だと感じた。どうでもいいように感じた。死ぬことがそんなにも怖いことじゃないようにも思えた。別に勇者になったわけじゃない。誰かの為に戦うなど考えられないことだから。でもどうしても、その刺客は僕を殺しに来るようだ。だったらやろうかと思った。死ぬぐらいなら殺してやろうと思った。ただ何時なのかは、彼もまだわからないと言っていた。それから一二時間、ボーっとした。すると呑気な僕を急かせる声がした。「今夜来る!奴は今夜来る。だから用意しておけ」面倒でも、やはり死ぬのは嫌だから、立ち上がって骨だけの机の横に立て掛けた金属バットを右手に掴んだ。昼も夜もあの窓の雨戸を閉め切っていたから、今が夜なのか昼なのかがわからない。だから今夜がどのくらいでやって来るのかも知らない。部屋には掛け時計も置き時計もない。でも携帯電話があれば問題はない。僕のそれはほとんど鳴らないから、仕事は専ら時計代わりだ。その携帯電話が、いつもはある、手を伸ばしたソファ付近で見つからない。だからテレビをつけて今が午後二時二十六分だと知る。「今夜って、何時?」彼が僕の質問に答えることはまずない。「腹減ったね。あなたは?」色々教えてくれるが、一方通行。相手は会話を楽しもうなんて、これっぽっちも考えていないようだ。仕方がないから芸能人のどろどろの不倫話だったり、八十歳代の女性が殺されて、その孫の行方がいまだ掴めていないだの、政治家は国民の生活よりも相変わらず足の引っ張り合いしか出来ないなどのニュースをダラダラと見ていた。そして政治家に久々に怒りをぶつけた自分が、この国に何も出来ない小さな人間どころか、今では彼の話では国家組織の一つらしいところから命まで狙われるようになってしまった。政治家のせいにばかりしていたが、この国が駄目になったのは僕がいけないんじゃないだろうかという気がして、そんな自分が国家組織の刺客に命を狙われるのは仕方のないことだと納得がいった。それでも命を狙う奴らが幕末の志士たちのように、この国を愛する故の暗殺ならまだしも、自分たちの利益の為だけにこの命奪われることには得心がいかなかった。そんな自分が置かれている立場に少しの満足と大きな不安と、その何万倍の戦慄が一気に湧き起こり、それがあっという間に内も外も、とにかく全身を埋め尽くした。「何を呑気にテレビなんぞ見てるんだ?」「そうだね、どうしよう?」「やられる前にやればいい」テレビを消して家具類に挟まれたスペースを行ったり来たりした。「どうしよう、どうしよう」行ったり来たりを何十回か繰り返して疲れたから、この行ったり来たりを最後に止めようと思った。その最後で、床を踏ん付けた足の裏に違和感を覚えた。何か固いものを踏んだようだ。「何だ?」そこにあった服を除けてみた。出てきたのは何時履いたかわからない靴下、それも除けたところに何日振りかで携帯電話を見つけた。「あった」とは言っても、声に出すほどそれを探し求めていたわけではない。たまたま少し前に時間を知りたい衝動に駆られただけ。実際見つからなくても、僕の人生にそれほどの支障をきたさない。あとから、なくなって支障をきたすモノを探す方が困難なことに気が付いた。せっかくだから画面を見ようとしたが、充電切れしていた。充電器を求めたが、すぐには見つかりそうもなかった。改めてみた自分の部屋が、こんなにも散らかっていたことに、言葉を失った。それはもの取りにでもあったような有り様。服はそこいらに散らかり黒海を形成していた。カップラーメン、コンビニ弁当の空箱、ペットボトルに菓子の空き袋。ゴミというゴミがここ彼処に捨てられていた。カップラーメンの残り汁なんかはチーズのように滑らかに、臭いまでもそれに倣っていた。その光景を目の当たりにしても、たまたま見たコンセントに充電器がささりっ放しだったから、問題は解決し、部屋は散らかったまま、いつの間にかまた寝転がっていた。しかし流石に今夜の決戦を思うと、足が竦んだ。時間が気になり、今度は居場所を知っている携帯の電源を入れた。まだ充電中だったからさし込んだまま時計を見た。「もう五時か、えっ?」着信アリの文字が画面上を踊っていた。久々に見たその言葉にすぐに理解出来なかった。幾つかボタンを押して、その相手の番号が出たが誰だかはわからず、気にもならないから、そのままにした。どうせ電話で、僕の悪口を一方的に言って切られるのがオチだろう。だから折り返して掛けることはしなかった。部屋を片付けることと一緒で面倒だとも思った。午後五時と言えば、今夜という時間帯に突入したんじゃないだろうかと考えた。呼吸の乱れを感じ、息苦しさを感じた。仕方なく、雨戸を何日振りかに開けることにした。「気をつけろ」彼の忠告を聞き入れ、バットの握り、それを開けた。最初は二センチ程の隙間を作りそこから外を覗いた。今夜というにはまだだいぶ明るかった。ホッとして全てを開けはなった。気持ちが良いと感じても、見上げた空に愕然とした。大量の雲が層をなして東の空を覆い尽していた。それが今はまだ明るさの残る西の空まで蔓延り出した時、この世は暗黒の世界へと変わり果てる。それがまさに決戦の訪れを象徴しているなら、僕に勝ち目はないんじゃないかと気が付いた。東の空に立ち込めていた雲が何段も層を創る度に、そこから出てきた雨がねばねばと地上を溶かし始めていた。だから東の大地に生を感じれないのだ。「もしかしたら、ここがもう一つの世界」そう、前の彼が言っていたこの世と空間を共にするもう一つの世が、とうとうこの世界を飲み込み始めたと確信した。今の彼が答えてくれることはない。そこに住んでいたはずの彼女が去り、僕と空間を共有した男もいなくなり、そして空間トラベラーの彼も僕の前に現れなくなった。あの時のように目を閉じても、彼女の温もりを感じることはない。多分、もう彼女はどこにもいないのだ。あっちの世界のどこを探しても、同じ空間に居た彼女たちばかりか、そこに居た全ての住人はいなくなったのだ。殺されてしまったのだ。何モノかに全てを飲み込まれてしまったのだ。だから感じれないのだ。生き物の息遣いを、あの雲の下に融け出した大地に生を感じることが出来ないのだ。頬を伝うモノが何を意味しているのかを考えた。今、僕の目から噴き出る熱いモノ。涙だってことは知っている。ただそれを押しだした、この感情が何なのかを知りたかった。唇が震える。それを抑えようと噛んでも、涙と同じで抑えが効かない。恐くて泣いたことはある。悔しくて泣いたこともある。ただこの涙も過去に一度だけ流したことがあった。それは母親が死んだ時、世界で一番僕を愛してくれた母親を喪った時に、流した涙と同じ味がした。「来るぞ!」「駄目だ。今の僕に勝ち目はない」そう言った声までが震えていた。「僕も殺られるよ。生きていたってしょうがない」「駄目だ。殺れ」「無理だよ!」彼に当たっても仕方がないことだってわかっている。わかっていても、どうしていいのか分からない。「ヤツはもう、すぐそこまで来ている」絶望が僕の心を奪っていった。心を奪われ体だけでは身動きが取れない。「やっぱり僕には無理だよ」「諦めるな」それは僕の、いつだったか忘れてしまったけど、だいぶ前に突き指をした右足中指が,そう訴えてきた。彼はそう伝心して来ると、小さな身体ををゆっくりと動かし始めた。心のない僕に必死で伝心しながら、ちっちゃい身を一生懸命に動かしていった。すると伝心が伝わったのか隣の人差し指が、薬指が「よっしっ」と、中指同様体をくねくねと震わせたのだ。それはどんどん波及し、いつしか右足全体へと広がっていた。それが勝手にその場で足踏みをし出した。「玄関前までやってきたぞ」ケツが動き、腰が動き、左足もどんどんと赤みを増し、今か今かと彼らの全ての運動機能が稼働するのを待っていた。それが指の先まで伝わる頃には、足が勝手に体をドアの方へと向けさせた。そして左手には何時しかバットが握り締められ、右手は強く拳を握っていた。あんなにも強張っていた表情は強固なモノへと変貌し、動くことを忘れていた心臓が、ドックンドックンと音を立てて血を体中に走らせた。先まで小さくなっていた僕が、今は闘志をみなぎらせている。自信が沸々と沸き起こる。腕たて伏せを数万回やり、筋肉がもりもりになったわけでも、空手の、か、の字程度を収得したわけでもない。何もしていないから何も変わっていない。ただ心が変わっただけのことだ。それだけで、恐怖や悲しみが、勇気や闘志に変わったのだ。自らの心一つでこうも違うものかと、そのときの僕には感じる暇などなかった。
ただ、そこからが長く感じた。グリップを握る手にじんわりと汗が溜まる。心を落ち着かせようと、静かに目を閉じた。相手が十三段の階段を上るのが、見えなくても聞こえなくても、ズンズンと伝わってきた。あと三段、そう心に響かせた時、「あと二段だ」彼の声が聞こえた。僕はバットを左側上段に構える。右手はドアノブを握った。今、全身に轟く音が、相手の足音なのか自分の心臓音なのかはわからない。「奴は階段を上り切った。もう三歩で来るぞ。だから残り一歩で飛び出せ、宣戦布告。今だっ、行けー」「バターン。バキッ!」物凄い衝撃が、バットから電流となって両手を通過し、それが足先までじんわりと伝わった。雷に撃たれた時はこんなもんじゃ済まないのだろうが、その経験がない僕にとっては、今バットのグリップを握ったまま、体で受け止めた衝撃に驚き過ぎたのか、電気を帯びた両手が自分の物なのかがわからない。ただ硬直した体をどうすることも出来なかった。「いない」「逃げられた?」「この一瞬で?」「相手はプロだ」いまだ握ったままのバットは、向かいの白い壁、高さ二メートルほどのところにめり込んでいた。暫くして、握ったままだったグリップからやっと手を放せた。ビリビリはまだ収まらないし、当分続きそうだと思った。「何事だ?」わかっているくせに、父親のそんな声が一階から聞こえた。迎え入れたのはおまえだろうが、と思っても声には出さなかった。だから代わりに黙っていた。「凄い音がしたぞ?」そう言った彼が、階段を上り始めた。面倒だと感じた。「やつも刺客だよ」声の彼の言葉に、それは好都合だと思った。この状況を説明しなくて済むから。いつかはやらなきゃならないなら、この際、ここでけりをつけよう。バットは壁に食い込んでいたが、今は重力に従い廊下に転がっていた。それを拾う暇はあるのだろうが、腕は痺れたきり自由が効かない。やつは丸腰な気がしたから、それを拾わないで迎え撃つことにした。六十歳を過ぎた男だ。年が半分の僕が負けるはずがない。音の数からあと五段でやつは階段の上に現れる。そこから、今、僕が立っている場所まで、距離にして三メートルほどだろう。どうやって迎え打つか。待ち構えるか、向かっていくか。その間にも「何したんだ?」強い口調と共に、階段を上りきっていた。とうとう来てしまった。ここでは待ち構えよう。下を向き、出来る限り相手の姿を認識しないようにした。相手は父親である前に、僕の命を狙う敵なんだ。射程圏内に入った瞬間を狙う。「おい?」真ん前まで来たヤツに、罪悪感などなさそうだ。不思議と僕も冷静だったし冷徹だった。血がなくなったんじゃないかと疑りもした。だから、殺る。簡単なことだ。手の感覚を確める。閉じたり開いたりしてみる。痺れは治まっている。大丈夫だ。もうできる。「黙ってないで、何か言え!」ゆっくりと両手を上げていく。それをただ見つめる。相手が何を言おうと、一言も耳に入っては来なかった。両手が相手の首に着いたとき、相手が怒っていたことを知った。それがすごく嫌だった。それを止めさせようと、両手で相手の首を絞めた。ぎゅっと握ってみると、丁度いい太さだと思った。相手は凄く驚いた表情をしていた。手で僕の腕を叩いたあとに、掴んできた。抵抗するヤツも、結構力入っていたみたいだから痛かったんだろうけど、僕も必死だったみたいで全くそれを感じなかった。あとから見てみたら、爪で引っ掛かれたみたいで結構血が出ていた。でも相手の抵抗もそこまでで、顔がみるみる内に赤くなって、先の怒っていた顔がバケモノでも見たみたいなモノに変わっていた。顔の血管が蛇のように浮き上がり、それがゆっくりと伝って首の方までやって来た。彼の首の中でのた打ち回る蛇は、今や僕の手まで呑み込もうとしていた。慄いたから、蛇が僕の手に上がってこないように、一層力を込めて握った。その内、目ん玉が上を向き始めたと思ったら、白い目を剥いていた。あと少しで死ぬなとわかった。僕の手と彼の首の間でジュワッとざわめく汗が、どっちから出たものかはわからなかった。口から液体が流れ出てきた。僕は咄嗟に手を放していた。無意識だったと思うけど、わからない。終始夢中だったから。「ゲホッゲホッ!」って父親は膝に手を当てて咳き込んでいた。手をもう放しているのに、顔が真っ赤だった。相当苦しかったんだろうと思う。結局、僕は殺せなかった。突然の事だったから失敗したんだ。もっと入念に計画していれば、その分、心の準備も出来たはずだ。少し経っても、まだ苦しそうにゲホゲホしている、赤い顔の父親から、蛇のように見えた浮き出た血管は消えていた。武器じゃなかったから殺りきれなかったんだ。手から伝わる体温だったり、塞き止められた血が行き場をなくし破裂しそうな感覚だったり、互いから涌き出た汗だったり、苦しむ表情、最期の時を知らせる体液が、僕の決心を駄目にしたんだ。それらを前に、数分間耐え抜くのはキツ過ぎる。ナイフだ。ナイフを使ってサクッてな具合に、簡単に終わらせればいいんだ。一瞬で仕留めれば、相手の息の根を止めるなんて簡単だ。殺れる前に殺るしかないんだ。いつかの新聞に載っていた25歳の薬剤師は、何箇所刺されて息絶えたのだろうか。やはり一箇所で、それで終わらせてやるべきだ。一箇所、二箇所刺されたあとで、まだ意識があったら、全身を走る痛みよりも、いまだ翳されたナイフにたじろぐ方が大きいに違いない。逃げれない恐怖が、足を震えさせても、それにさえ気がつくことは出来ないのだ。既に自分の体にそれは刺されていて、滲み出た血にも言い様のない恐さを体感するのだろう。何故か頭の中は冴え渡り、「どうして?なぜこんなことをするのか」だったり、「もうやめて、許してよ」とか、「痛いよ!もう十分だよ」と訴え、目は見開き、冷めきった目、あるいは血走った目に向けて、弱々しい表情を演出して、一世一代の演技で訴え掛けるのだ。それが命乞いというものなのだろう。自分をそこまで傷付けた相手に、助けてと子犬のような目で。それでも止めることなく、体から血が飛び出ていて青色になった顔を歪める小さな相手を刺し続ける。魂が抜け出ても尚、刺し続けるのだ。そんな人間の顔は笑っているのだろうか、それとも、泣いているのだろうか。どちらでもなく、無表情。全く血の通わない顔で、さっきの父親とは対極の表情で殺人をやり抜くのだろう。そして僕は、そんな全く血の通わない顔をしていたのだろことに気がついたとき、両手が震えた。やっと全身を立ち上がらせた父親が、固まった表情で、口を開いたまま 、声にならない声で訴えていた。人殺し、人殺し、と訴えていた。顔はこっちを向いたまま、後退りしていた。そして階段に着いたとたん、勢いよく下りていった。やってしまった、やってしまった、と思った。ただどこかで、次は殺り抜こう と決心していた。部屋に戻り、鍵をしめた。報復を恐れたからじゃない、と思う。とにかく鍵をしめ、振り返りドアに凭れ掛かった。体全部から力がスーッと抜けていった。力がないから立っていられなくなり、足からへなへなと崩れ落ちた。いまだ感触が残る手のひらに、目を落とした。まだ震えていた。ぶるぶる震えていた。どれほどの時が流れたのだろう。心底疲れを感じ、瞼が重たくなり始め、もう開けることも出来ないやと諦められたとき、寝むれたようだった。
風が顔に掛かったことで気がついた。風と一緒に入ってきた光に、開いたばかりの目を細めた。よく眠れたのか、すっきりとした感覚があった。手足を目一杯に伸ばしてから閉じかけていた瞼を開いた。どうやら窓を開けたまま寝てしまったみたいだ。向こうの世界からの侵入者はなかったが、そこから見えた世界は、あっちに飲み込まれずに済んだ様だった。物凄く腹が減っていることに気がついた。 昨日の午後から何も口にしていなかった。何かを買いに行くにしても、一度一階を通らないとならない。どうしようかと思案していると、「コンコン」とドアを叩くモノがいた。その音が、やたらと現実を思い出させた。おまえは昨日父親を殺しかけたんだと言っていた。「太郎、一緒に出掛けよう」その父親の声だった。「うん」小さく返事を返した。いつもなら、「どこに?」と聞くところなのだろうが、その朝はそうしなかった。「下で待ってるから、用意出来たら来てくれ」という声のあと、昨日の夜の何倍もの時間をかけ階段を下りていく音が聞こえた。用意といってもダーク系からダーク系へと着替えるだけだった。ただ心の用意には、時間が掛かった。十分ほどして心を決め、階段を恐る恐る下った。どんな顔をしようかと考えた。敵とはいえ、休戦中は紳士に振る舞うべきだろう。お待たせ、多分、そんな言葉だったのだろうが、青色の薄手のスカーフをしていた父親の首に残っていた痕を見付けてしまったせいで、その辺の記憶がない。「ではよろしくお願いします」その言葉に我を取り戻した。それは僕に向けられた言葉ではない。婆ちゃんを世話してくれている、ヘルパーの高梨さんに向けてだ。
そんな高梨さんが来てくれる日の二時間、婆ちゃんを世話している父親にとっては唯一の自由時間だ。しかしその日、前の晩に父を襲った不幸に対処する為に、その大切な時間を息子に費やさなければならないことに、不満だと顔に書いた父が外へと出て行った。僕も外に出ると、玄関前に止められた父親のセダンの車に乗り込む。ドアを閉めた途端に感じる不穏さが、息苦しかった。そこにはさっきまで穏やかに会話をしていた父親の姿はなかった。しかしそれだけで、その後の車内に別段変わったことはなかった。父親はずっと無言のままハンドルを握っていた。昨夜のように怯えたような顔はしていなかった。寧ろムスッと、怒っているようにも見えた。多分彼の頭の中では、僕を生んでしまったことを前以上に後悔しているのだろう。このまま事故を装い殺されることもありうるかもしれない。昨晩はおまえの攻撃に耐えたんだから、今日は私が攻撃を仕掛ける日だ、と言われれば納得がいく気がした。そんな心配を他所に、車は十分かそこいらで目的地に着いたようだった。ただ父親が車から降りる際ジャブ程度の攻撃を仕掛けられた。「いいか、おまえがもし精神病じゃなかったら、俺はおまえを訴えるからな!」訴えられたら勝てない気がした。彼がある組織の刺客であることを、僕は証明するモノを持ってはいなかったから。それもいいんじゃない、と心のどこかから聞こえた。連れてこられたのは、父親の組織ではなく、病院だった。抵抗感なくその中へと足を進めた。心のどこかでほっとする思いもあった。何故なのかは、そのときの僕にはわからなかった。通された部屋には、白衣を着た男がいた。彼は優しく話しかけてきた。いくつかの質問をされ、正直に答えた。よく僕の話を聴いてくれる人だった。ウンウンと頷いてくれた。空間トラベラーの彼の話をその彼は知っていたようだし、どこか信頼できそうだと感じた。そこまで知っていると、やはり組織の長なのかとも考えたが、彼は違うと言っていた。僕との話が終わると、彼は次に父親と、結構長い時間をかけて話をしていた。「油断するな」声が聞こえたから、「彼は悪い人じゃない」と返すと、「表向き、いい印象を与えるやつほど気を付けた方がいいんだ」声はそう諭してきた。僕は声の彼と会話をしながら、一人の女性を見ていた。別段かわいいと感じたわけじゃなかった。見たといっても時間にすれば、二・三秒のことだ。僕が彼女を見たのは、彼女の方が僕を見てきたから。見られている感覚に顔を上げたら、そこにいたのがマスクをしたその女性だった。医療事務の人なのだろう。別に彼女が僕に惚れているなどと思い上がった訳じゃない。むしろその逆で、鼻毛なんかが飛び出していたんじゃないかと思って鼻を触ってみたら、無性に、自分の顔は凄く笑えるおかしなモノなんじゃないだろうかと気になり出した。そう思ったら恥ずかしくて堪らなくなったんだ。既に彼女の方は他の人と話を始めていたんだけど、どっちにしたって久々に女性と目を合わせたせいか、彼女のことが気になった。それでも開いたドアから父親が出てきたから、僕は彼を見たんだ。彼は僕の前に立って、そして見下ろしながら、「行くぞ、バケモノ」そう吐き捨てた。それに反応したのは僕じゃなく、マスクの彼女だった。物凄い強い目で父を睨み付けていたんだ。すごく嬉しかったけど、父はそれに気付かずに出て行ったから、そのあとに続いて僕も出た。
帰りの車の中で、「おまえは精神分裂症だ。だからって俺は昨日のおまえの醜態を許した訳じゃない。いいか、病気が治るまで、俺には絶対に近づくな」僕を指し示した指を何度も何度も縦に振り、全身を震わせながら怒りを露わにした彼がそう忠告してきた。その眼差しに態度に僕はただただ頷いた。恐かったのかと聞かれればそうではない気がした。今までだって散々悪口を言われてはいたし出ていけとも言われた。ただ昨日の夜が父には余りに驚きのことだったのだろう。ムカついたとかそんな思いもなかった。今回は出ていけとも言われていない。父親の傍に行かなければいいのだ。余程いい条件だと思った。それなのに心臓辺りが痛んだ。実際のそれが痛んだんじゃない。心ってやつがあるなら、それがシンシンと音をたてたから痛かったんだと思う。静かに、僕でも耳を澄ませても聞き取れないほど、それほど小さな声で泣いていた。
それから三週間ほどは、父親との間に別段変わったことはなかった。声の彼が敵だと言っていた白衣の男、まぁ医者だよね、その人に言われた通り一日三回の薬は飲み続けた。声がそれは洗脳薬だと煩かったが、構わず飲んだ。部屋は相変わらず、足の踏み場もなかったが、それが逆に落ち着いた。父親とは全く会話をしていない。同じ部屋に一緒にいることもない。声の彼の言うことは、薬以外のことでは従っている。
「実は俺はCIAなんだ 」それにも驚いたが、「我々は今、とてつもない大きな敵と戦わなくてはならなくなった。その相手は、テロでも中国でもない」「じゃあどこ?日本?」「小さい」「どこなの?」「とにかくドデカイ。規模もスケールも」「解体したはずのソビエト?ア、アメリカ?」それだって十分スケールのデカさを感じれたが、彼が言い放ったその答えは、一般人だったら鼻で笑って聞き流すことなんだろうが、僕は度肝を抜かれただ唖然とするばかりだった。「火星だよ」遥かにバカデカかった。僕はそのとき、ローチェストに座って、そこで本を読む動作だけをしていたんだ。彼女にまた会えるなどと、おこがましい考えがあったからじゃない。弔いだよ。彼女に対する弔い。そんなときに飛び込んで来たニュースだった。「火星人が相手?意味がわからないよ」「そりゃあそうだろ。我々だって、まだ事態を飲み込みきれてないんだから」「そもそも火星に生命体ってあるの?」「ある」「でもまだアメーバほどの単細胞微生物だろ?」「確かに彼らは単細胞生物のようだが、体は地球人の二倍もあるんだ」「二倍?でも、単細胞なら簡単にやっつけられるんだろ?」「それが、彼らは独自の進化を遂げ発達した、単細胞なのに複雑怪奇」「でも発達したのに、単細胞なわけ?」「そうだ。見た目だって単細胞だけあって、単色で足や手や顔といった区別がない」「そんなモノ、人類の科学でもって簡単にやっつけられるだろ?」「彼らの体は単細胞のまま発達したんだ」「何が言いたいの?」「単刀直入に言ってしまえば、我々の攻撃は全く効かない」「どうして?ミサイルは?」「無駄だ。体に飲み込んで爆発して粉々になっても、彼らのぐしょぐしょに飛び散ったはずの体は細胞分裂をするだけ、つまり数が増えるだけなんだ」頭の中で彼らの姿を想像した。小学校の理科の授業の時に顕微鏡で見たアメーバ。それが大きくなっただけのモノ。手触りはスライムみたいだろうか。ねばねばでどろどろ。足がない以上、二足歩行はしなくても単細胞なのに直立で体を擦りながら前へ進む。もののけ姫に出てきそうな生き物だろう。「原子爆弾は?ウラン、プルトニウム、現に今だって日本を苦しめてるじゃないか?」「無駄だ。寧ろこっちが被爆して、多くの犠牲者を出すだけだ」「攻めてくるの?」「あぁ」「いつ?」「少なくとも1ヶ月後だ」「どうするのさ?」「俺がなんでこんな話をしたかわかるか?」「わかるはずないだろ」「そもそもなんで数ヶ月前からおまえを監視していたか、わかるか?」「だから、わかりっこないし……数ヶ月前からって、あの空間トラベラーもあなただったの?」「そうさ」知らなかった。「とにかくだ、我々CIAがわざわざ君を監視し続けたのは、君に資質があるのかを見極めるためだったんだ」それも知らなかった。「晴れて君はその才能を認められたわけだ」「どういうこと?」「火星人と戦ってもらう」「何言ってるの?無理だよ」頭の中だけで想像した結果、導き出された火星人の姿、それは触覚のない大きなナメクジのような化け物。それと僕は戦わされる羽目になった。「究極の単細胞をやっつけられるのは君しかいないんだ。地球を救えるのは、もう君しかいないんだ」頭の中に何色もなかった。多分白さえ存在しなかったと思う。生命に関わること以外の全ての回路にモノが詰まったような、そのせいで脳梗塞にでもなったような、現に意識は遠退いているし、そうなると生命に関わる回路までが詰まったことになるわけだ。息をするのもやっとだったから。「驚くのはわかるが、それが真実なんだ。だから君は今日から体を鍛えてほしい。作戦は我々が立てるから」でも一番驚かされたのは、彼がCIAだったこと。そして僕を今まで監視していたのが二人ではなく、ずっと同じ彼だったということだ。知りたかったのは、空間トラベラーじゃなかったということは、空間を共にしていたもう一つの世界が、本当にあるのかということ。そして彼女は本当に居て、ここに会いに来てくれていたのかということ。知りたかったけれど、CIAの彼に、それを尋ねることはしなかった。答えてくれないだろうと思ったし、彼は今、火星人との決戦に備え、僕が遂行する作戦を考えることの邪魔をしたくなかったから。でも答えは聞かなくてもわかっている。僕は彼女のことを、感じたんだ。視覚ではなく、聴覚でもない。味覚でも臭覚でも感触でもない。霊を感じる第六感とかでもなく。もっと崇高な、研ぎ澄まされた人間にしか辿り着けない感覚で、彼女のことを感じることが出来たんだ。それが嘘であるはずがないと言い切れる僕には自信があった。だから彼に聞く必要がなかったんだ。
それから毎日走った。走ること自体何年ぶりだったから、最初は辛かった。スローペースでも一キロも走らないで歩く始末だった。でもCIAが、「人類の明日は君次第だ」なんてことを言うものだから、頑張るしかないと、毎日毎日走っている。政治家を始め、皆が忘れかけている我が日本の侍魂を人類の歴史に記す為、この命を捧げようと走り続けている。一週間ほどで、走ることになれた時、周りを見る余裕が生まれた。公園のジョギング六キロコースを走るとき、新緑が幾分落ち着いた季節でも、草木はまだまだ緑が優しい色をしている。桜が散っても、ツツジや五月が枯れても、雨露に輝くアジサイが生命力をくれる。少しだが自信が沸き上がった僕の横を、鼻を圧し折らんばかりに猛スピードで追い抜く者たちがいる。地球の明日は、僕なんかよりもこの人たちに託した方が良いんじゃないかと気が付くが、CIAに認められた男なんだと自らを奮い立たせ、今抜き去った者たちを一気に追い抜く。追い抜いてすぐにジョギングコースを少し外れたところにある、標高十メートル程の高台のテッペンまで走って、そこで一人両手を掲げてジャンプする。それだけで一人勝ったと思い込める。でもこれこそが単細胞火星人に勝つ為に僕を選んだ理由なんじゃないかと、根拠にもならないことを考えニヤけながら家に帰る。こうやって毎日走って、自然を肌で感じる季節の偉大さを知れた今、この緑の地球を守らなきゃと強く思う。それが出来るのは僕しかいないんだと有頂天になって、ジョギングコースを二周ほど走って足がつる。そんな僕もジョギングを初めて二週間ほどが過ぎたとき、沖縄の方では梅雨が明けたとニュースでやっていたその夜、彼女に会った。関東では梅雨が最後の力を振り絞って暴威を振うものだから、毎日雨が降った。梅雨なんだから当たり前なのだが、とにかく毎日雨がよく降った。走り出した当初は曇りがちでも晴れる日もあり、日差しが強い時期だから、青空の日は目を瞑っても瞼を突き抜ける光が苦手だった。しかしそれになれると雨というものがこんなにも疎ましいモノだったことに気が付く。髪はべっとりと引っ付いてくるし、服はずぶ濡れにされる。そんな日でも一日に二回走る。昼と夜。朝はあまり得意じゃないから勘弁してもらっている。誰かに許しを乞うたわけではないが。日差しに慣れても、夜走る方が好きだ。昼は木々や花々の生き生きとした色を愛でられるから気持ちが良い。しかし夜の雄大さには敵わない。プラネタリウムまでは見えなくても、都会でも北斗七星ぐらいは確認出来る。遥か彼方から何万光年も昔に放たれた光を、この地上に届けている星にロマンを感じる、一方で真上を通過していくジェット機の光と音のハーモニーも、僕には心地良く感じれる。
そんな夜に六キロのジョギングコースを三周ほど走り終わると、自分の中だけでゴールと決めている小高い丘のテッペンを目指しラストスーパーとをする。その前に立ちはだかるのは五十段ほどの木の階段。最初は気合を入れて登るのだが、半分も行かないところで歩きたい衝動に駆られ、半分を過ぎると腿が上がることを拒み出す。三分の二上ると肺が酷く乾燥したと訴えるが、それでも大概が、心の満足感獲得の意志の強さに、体たちは屈する。しかしその夜は風が強かった。ビュービューと音がするほど、彼らは存在感たっぷりだった。そのせいにするつもりはないが、四十段ほどで体が勝ち、僕の足は止まってしまった。そんな日もあると心を慰め、一段一段を噛みしめるようにゴールまで歩く。あと七段、五段、そろそろゴールだと顔を上げた先に、既にゴールに立つ女がいた。彼女を見つけた瞬間、僕はその場で立ち止った。階段をあと二段残して。夏だというのに薄い色のトレンチコートを着て、それでも寒そうに見えた。雨は止んでいた。確かに風が強く吹いていた夜だったが、その人は僕の前にあまりに突然現れたと感じた。恰も少し前の突風が、彼女をここへと運んで来たようにも思えるほど。暫く見つめてしまった僕に、彼女は僕を見もせず言った。「私のこと見えるの?」不思議なことを言う人だった。でもCIAが僕を認め、近々火星人と闘わなくてはならない僕にとっては、寧ろ普通の生物の部類に属するのだろうが。「うん」正直に答えた。すると彼女は何かを分からせたいのか、口角を吊りあげて、「私は死神」「今度は死神か」そのとき感じた率直な感想がそのまま口から出ていた。国家組織の刺客にCIAに宇宙人、そして行き着く先が死神。「驚かないんだね。信じてないだけか」「信じてるよ。なんせ僕の周りには色々な生物が押し寄せて来るからね」ヘッと言いたげな彼女の顔が、初めて僕に向けられた。それが嬉しかったわけではないのだが、まもなく僕が火星人と闘わなくてはいけないことを、多分口外してはいけないのだろうが、初対面の彼女に話した。何故か彼女は信じることが出来る印象を受けたから。その話の後、彼女はキョとんとした表情をして、「大変な任務を任されたんだね」と口だけで笑ってみせた。しかしすぐにその笑いを止めると、真っ直ぐな眼差しで僕の動きを止めた。「でも、戦うこと出来ないかもね。私の姿見ちゃったんだから、決戦を前に、あなた死んじゃうんだもん」僕はどうしてって顔をしていたんだろうね。「私は死神だから、死者か死に近い人間にしか見ることが出来ない、死神だから」そう答えて最初みたいに遠くの方を見ていた。ただ僕の好きな星空を見てはいないようだった。目線の角度以上に、その人の目はキラキラと輝く星を見ている目じゃなかった。とっても冷たい目をしていたから。前に父の首を絞めた直後に考えた、人を殺す人間の表情を考えたときに出てきたモノに似ていた。全く血の通わない。恐ろしいというよりも、人を悲しくさせる、そんな目を彼女は持っていた。そして僕の前からいなくなった。また強く風が吹き荒み、思はず顔を背けて目を覆った。次に瞼を開けたときに、丘の頂上は開いていて、彼女の姿は消えていた。死神は消えていた。
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