メジャートランキライザー
@himo
第1話 死神・奈良小夜
私は死神。名前は奈良小夜。死神だからって何か特殊な能力があるわけじゃない
。ただ与えられているだけ、神に人間の魂を取り扱うことを。そして痛みを感じない冷徹な心を。今、私の眼下には植物状態の人間がいる。彼女には私が見えている。死に逝く人間の特権だ。彼女の魂は、今、彼女の八十五年の人生の中で最も崇高な世界に近づいている。そんな崇高な世界がどんなか、私は知らない。逝ったことがないから。私が神から与えられた仕事は、この世界で人間の魂を送ることだけ。勿論、崇高な世界に。神が創造したその崇高な世界を知らないから、生きている多くの人間が一生涯心の片隅に少なからず存在する、いや消すことが出来ない問い、死んだらどうなるのか、天国と地獄はあるのか。そんな問も死神である私は答えを持ち合わせていない。そもそも私には気にもならない問題だ。
2011年、今年も既に数人をあの世へと送った。そして今も私の前に八十五歳の女は自宅に居て、布団に寝かされている。寝たきりだから、仙骨部辺りには床擦れがある。だいぶ放って置かれたのだろうそれは、数センチの穴にまで悪化していて風の向きによっては時折、匂いが靡いてくる。これが死臭ってやつなんだろう。死神の仕事は、死に逝く人間を見届け、体から放出された魂を拾い上げ、崇高な世界へと送ること。その遂行の為、彼女の口から呼吸器を外し、濡れた白い布を顔にそっと掛ける。そのせいで呼吸が出来なくなった彼女の目だけを、白い布を下にずらして出してやる。ほとんど植物状態の人間の目がこんなにも勇ましく、そして私を見詰める瞳は、何処までも見開いて私を飲み込もうとしている。しかし彼女に私は倒せない。私は心を持っていないから。そして彼女は最期に認めた。目ん玉を剥きだし、私のことを、「シニガミ」だと唱えた。だから私は死神なのだ。
お日様の光が、障子を通して部屋全体を包み込んでいる温かな部屋。多分、天国はこんな感じなんだろう。そんな幸せな状態の中で、二ミリほどだった彼女の瞳の中央にある瞳孔が、どんどんと広がっていく。ゆっくりと、しかし確実にその円は大きさを増し、八ミリ程まで広がった。それ以上は大きくならなくなる。そのとき、見開いたまま私を凝視し続けたその瞳に、再び光が届くことはない。私は立ち上がり、逝く宛を探して彷徨う彼女の魂を、体へと吸い込む。ゆっくりゆっくりと。そしてすべてを吸いこんでから、その部屋を出て行く。光が多く蔓延る世界は得意ではない。天国に近いと感じた彼女の亡骸が転がるその部屋に居ると、息苦しさを覚える。死神は天国が似合わない。
その日は陽光が燦々と差し込んでいて、部屋の中は蒸し風呂のような朝だった。まだ六時半という時間帯でも陽射しは容赦ない。体全体を覆っている汗がじとっとしていて、気だるさを覚える。布団から出ると、頭を掻きながら着る服を箪笥から選ぶ。このごろは地味目で露出が少ないものを選ぶようにしている。それに着替えてから、ヨーグルトとトーストを焼かずにバターを塗っただけの簡単な朝食を口へと放り込んだ。歯磨きをして、鏡も見ずにファンデーションと薄色の口紅を塗り玄関へと向かった。靴を履いたとき、玄関に取り付けられた小さな鏡に写った自分の姿に、苦笑いしか出ない。そこにいたのが中年の女性にしか見えなかったから。彼女の名前は高島咲枝。短大を卒業して三年になる二十三歳の年頃の女だ。そんな彼女は、社会人としてはまだまだ新米なのに、化粧ばかりか表情までが疲れ切っている。それでも会社に行く為に、ローヒールを履いて部屋を出た。
駅までは徒歩十数分。夏の太陽がジリジリと咲枝の頭上から降り注ぐ。強力な紫外線が彼女の体から汗を吸い取る。噴き出したそれを、家を出た時から手に持っているタオル地のハンカチで拭き取る。顔を顰めながら駅に着いた頃には、吸い取った汗で幾分厚手の生地の服は飽和状態に陥っていた。七時二十五分発の列車のタイムリミットを告げるベルが、プラットフォームに向かう階段を駆け上がる咲枝の気を揉んだ。そんな時、真横で躓いた拍子に林檎を零した女性がいた。その林檎が咲枝の前に転がっていたが、今の彼女にそれを拾う余裕はない。申し訳ないと思いながらそれを飛び越えると、辿り着いたプラットフォームを駆け抜け、すでに閉まりかけている列車のドアへと滑り込んだ。ギリギリだった。ドア付近に立っていた如何にも中間管理職のサラリーマンは、意味があったのか彼女の為に閉まりかけのドアを押さえてくれていた。息絶え絶えになりながら軽く会釈をすると、ニヤッと笑いかけてきた。すぐに目を逸らすと、今度は吊革に捕まっている老婆が呆れ顔でこっちを見てくるので、それからも逃げるように車両の中へと入り込んだ。全身の毛穴が大胆に広がり汗を噴き出し続けた。その勢いは当分の間収まらないだろうと最悪の状態の中、次の駅に着いた。まだ開け放たれていないドアの外、プラットフォームに並ぶ人の量に恐怖を感じながら、今から雪崩れ込んでくるそれを恨めしく見詰めた。電車は止まると同時にドアが開いて、真横に立っていたオヤジのタックルに軽い呼吸困難に陥りながら、雪崩にあったようになすがまま、それに従うことしか出来ない。
みるみるうちに車内はパンク状態に陥った。次の駅でドアが開いたとき、ドア付近の人間たちは将棋倒しになって、死人が出るんじゃないかと心配になった。が、一・二分後の車内は、それぞれの人間がそれぞれの立ち位置を見つけ、息苦しさはあってもどうにかなっているから不思議だと感心した。次の駅でもプラットフォームには大勢が待ち構えていたが、それを確認できるほどの空間的余裕はなかった。ここでは多くの人間が降りたが、同等かそれ以上の人間が乗り込んできた。一瞬だけできた自分の周りの空間にある空気を独り占めしようと、鼻の穴から出来るだけ大量の酸素を吸い込み、今から襲われる窮屈に備えた。次の駅で私は降りるのだが、ここからが一番長く、辛い五分間の始まりなのだ。ドアが閉まり列車は再び動き出した。人間と人間の間に挟まれ少しの吐き気を我慢しながら、一分ほどでまた車内はどうにか落ち着いたが、相変わらず口の中にはすっぱい液が蔓延している。こんなことは毎朝のことだから馴れてはいるが、良いものではない。少しすると刺さる視線を感じたから、その方を見ると、真横にいた女がニヤニヤと咲枝の顔を覗き込んでいた。なにっ、と顔を作っても、一向にニヤニヤと見ることを止めない女に不気味さを感じ、堪らず目を逸らした。一番害がないだろうと、中刷り広告に目線を置いた。近くの百貨店で近々北海道展が催されるらしく、食べることが生き甲斐の彼女は、暫しそれに心を奪われた。そのお陰かいつしかすっぱい液は止み、朝食をほとんど取っていない咲枝のお腹が珍しく悲鳴をあげた。大勢と体を触れ合いながらも、独りの時間を暫し楽しめたと感じた咲枝の臀部辺りに、突如違和感を覚えた。違和感に確信を持ったとき、彼女の全身の毛穴が一斉に開いた。そこから出されたさっきまで散々放出され続けたものとは全く違う部類の汗の一つが背筋をねっとりと伝っていったとき、咲枝は自分のお尻を掴む者から体を離そうと、限られた空間の中でくねくねと体を捩らせた。周りの人間たちは彼女の取った行動に冷めた目線を少し向け、またそれぞれの世界へ帰ってしまう。自分がおかしな人間なんじゃない。後ろで卑劣な行為に及んでいる下素野郎の頭がおかしいんだ。そう頭の中で訴えたところで、救いの手は来ない。代わりにあるのはゴキブリのようにテカッていそうな、強い生命力を感じる手だけ。彼女の地獄は、今日に始まったことではなかった。
耐え難い苦痛の日々は、ここ1ヶ月間ほぼ毎日味わっていることだ。もう無理だ。もう我慢するのは嫌だ。そのとき臀部を弄っていた手が、少しずつ前に動き始めた。堪らずその手を抑え、払いのけた。その甲斐あって、ゴキブリの手は現れなくなった。やけに物分かりがいいと感心なんかもした。「もう大丈夫だよ。ここを握って」そう声がした後に、咲枝の手を引っ張るモノがあった。咄嗟のことでそれに抵抗する暇はなかった。何か固いモノをギュッと握らされ、堪らずその手を戻した。その声は確かに女性のものだった。手が引かれた方に体を捩った咲枝が見たものは、温かな声を掛けてくれた冷めた手の女性ではなく、青ざめた男の顔だった。この男は間違いなく、今まで咲枝を苦しめた野蛮人だ。ムカつきはしたが、不思議と怖くはなかった。そんなことよりも、さっき声を掛けてきた女のことの方が気になって、キョロキョロと車内を探したが、咲枝の周りに声を掛けた女性の姿は見つからず、隣に居た少し年配の女性に不審がられ、それ以上探すことを諦めた。痴漢は彼女に顔を見られ罰が悪かったのか、相変わらず真っ青な顔をしていた。そして長かった五分間が終わり、車内に目的の駅到着のアナウンスが流れた。いつしか揺れは収まり、プシューと気の抜けたドアの開閉音が聞こえた。同時に舞い込んできた酸素を多く含んだ空気が開放感をもたらした。この駅で降りる者たちの列に乗り、まだ車内に居座る者たちの間をすり抜けた。痴漢は相変わらず真っ青なまま立ち止まっているが、彼女自身事を荒立てたくはないから、そのまま降りることにした。気弱そうな奴だから、明日からは卑劣な行為は出来なくなるだろうと思った。顔を向き直し、列の前の人の動きに合わせながら、車内からホームを目指した。早く脱出したかった。「ドタンッ」そんな音が車内で地味に轟いた。すでに咲枝はドアから体を半分出している状態だった。「大丈夫ですか?」と悲鳴にも似た響きの声がした。見ると結構混み合った車内でぽっかりと空いた空間、そのサークルの中に倒れている男。その男があの痴漢であることはすぐにわかった。誰かが大声で職員を呼んでいた。ホームではアナウンスが出発を促していたが、ドアは一向に閉まる気配を見せない。咲枝はホームに降りたったが、誰かの「血だ!」に足を止めた。見渡すと皆が同じように歩くことをやめ、車内を覗いていた。周りがざわつく中、駅員が飛んできた。騒ぎが騒ぎを呼び、車内ばかりかプラットフォーム中が揺れていた。「ナイフが腹に刺さってるよ」「殺人事件?」そんな男女の会話が終わるか終わらないかのタイミングで、一人の年配の女性が、咲枝の顔目掛けて指差ししていた。「やったのはこの女だよ!この女が痴漢された腹いせに刺したんだ!」それはさっき車内で不審がっていた女性だった。
今度は咲枝の周りに不自然な空間が広がった。これをミステリーサークルと呼ぶのだろうと、感心している余裕はなかった。多くの目が彼女の体に突き刺さる中、「俺も見た。犯人はこの女だ」追い討ちを掛けるように、見窄らしい服装の杖をついた男が叫んだ。周りにいた人々が咲枝を睨みつけている。人間の目はこんなにも暴力的なんだと、今の今まで気がつきもしなかった。列車は止まったまま、担架に載せられて出てきた男が、まだ生きているのか、それとも死んでしまったのかはわからなかった。「一緒に来て下さい」声に我を取り戻したとき二人の駅員が咲枝の両脇をがっちりと固めていた。言われるがまま彼らに従った。何を言っても仕方がないだろうと思ったし、彼女を取り巻く無数に放たれた矢のような眼差しから早く逃げ出したかったから。着いたところは駅員室の奥にある部屋。そこは確かに彼女をあの無数の矢から守ってくれた。そこで初めて冷静になれた。パイプベッド以外は何もない、四畳半程の白一色の部屋。咲枝が座らされているパイプ椅子だけが黒く異彩を放っていた。恰もそれに座っている者が特別であるかのように。現に彼女から二メートル程離れたところに立っている、一人の駅員の彼女を見る目がそう言っていた。それでもさっきのような痛い目線ではなかった。どこか怯えているようにも見えた。現に咲枝が目線を向ければ、彼はすぐに目を逸らせた。蛇に睨まれた蛙のような目で、僕のことは殺さないでと訴えていた。あれっ、私があの痴漢を刺したの?私は殺人犯なの?知らないよ!だって全く身に覚えないんだもん。彼女の心にそんな思いが沸々と湧きあがってきた。あの堅かったモノは、ナイフ?やっとそれに気付けたとき、時すでに遅いようだった。
私は車内に残り、胸を刺されて殺された男の魂を吸い込んだ。ゆっくりゆっくりと全身に吸い込んだ。窓の外では若い女が、様々な人間たちに囲まれ目線を刺されていた。駅員が大慌てで車内へと入って来るのと同時に、私はプラットフォームへと降りた。右足がコンクリートの感触を捕らえた時、真横に真っ直ぐな視線を感じた。振り向いた先には女がいた。三十歳前後の彼女は、私の隣のドアから降りたようだった。その出たところで立ち止りジッとこっちを見ていたが、その目は決して強いモノではなかった。だからまた正面に向き直って、若い女が囲まれている輪の一番後ろで、それを傍観した。その後ろをさっきの三十路の女が、チラチラと見ながら通り過ぎっていた。何かを言いたげな目は、明らかに私が見えているのだろう。その女が改札への階段を下り始めたから、私は駅員に両脇を抱えられた女と並行して歩き出した。若い女とは私が階段を下るところで別れた。彼女には私が見えないらしく、下を向いたままプラットフォームをトボトボと歩いていった。三十路の女が改札を出たのを確認し、出来るだけ距離を保ってそのあとに続いた。彼女には私が見えるのだ。死神の私が。三分程歩くと、十階ほどの建物の中に彼女は消えていった。先にも伝えたが、死神でも特殊な能力はない。だから地道に事を遂行するだけ。建物内は気持ちが良い吹き抜けで、私の苦手な光がよく届く。白がメインの壁がそれを反射する。外を歩くだけでも体が溶けそうだというのに、建物の中までこれでは、先が思いやられる。どんな状況下でも、与えられた任務は素早く的確に行わなければならない。三台のエレベーター前には何十人の人間がいた。彼らは私に気が付くことなく、光る数字を一斉に見上げている。その光景は後ろから見ていると少しばかりおかしい。そんな中に三十路の彼女はいる。その時の彼女も例外なく数字を見上げていた。三十路がおばさんだとは思わない。ただ私が操っている体は、人間では二十代前半。さっき捕らえられた女と同年代だ。そんな姿の人間からすれば、三十路は一歩先を行く年代なのだ。三台のエレベーターがほぼ同時に、皆が待ち構える一階へと辿り着く。彼女は左のそれに乗り込んだ。そこに乗ろうとも考えたが、一番前の右端に彼女の顔があったから、深追いすることを諦めた。彼女を乗せたそれのドアがゆっくりと閉まった。そこで初めて、既に溜まった何十人がする数字を見上げる動作に倣った。左端のそれを凝視したが、全ての階に止まるようだった。仕方なく振り返り、人々の流れに逆らって私は表へと出た。今回の任務遂行が暗礁に乗り上げる危険はあったが、諦めは肝心だ。そのビルの真向いは、それほど大きくはない公園になっていた。何本か木があり、その下で直射日光の恐怖から逃れたが、照り返しが容赦なく襲い掛かって来て、敵わないと思った。昼時になり、大量の人間がビルから外へと放出していたが、彼女の顔はなかった。どうやら、お弁当か朝立ち寄ったかもしれないコンビニで昼食を買い込んだようだ。煙草を一箱吸い終わりペットボトルのお茶を何本か飲み終わる頃には、太陽の光もだいぶ落ち着き出したが、気温は相変わらず三十度代を指し続けていると、目の前に設置されたデジタル温度計が教えてくれた。
午後五時を過ぎ、数人がビルから出て来るのが見えた。しかしその顔はどれも求めているモノではなかった。午後六時になった頃、私が求めて止まない顔がゆっくりと出てきた。彼女は相変わらず下を向いていて、皆が数人でおしゃべりをしながら出て来ている中、ひとりきりだった。その光景に私は笑みが毀れた。彼女は社内にそれほど親しい同僚がいないと思えたからだ。仕事以外の話、例えば朝あった出来事などを話す相手がいないということだ。胸を撫で下ろした私は、彼女から遅れること十数メートルほど後ろを歩いた。この手のタイプはまっすぐ家に帰るだろう。駅舎の入口まで来ると、彼女の動作が一度止まった。その顔が、来た道を通り過ぎた先にある交番を見ていることはすぐに分かった。それから二三歩ゆっくりと横に歩いたが、また立ち止り辺りを見渡していた。すぐに体を売店の脇へと入れた。彼女には私が見える。そして彼女は交番へと重たい足取りで入って行った。私は久々に心臓の高鳴りを感じた。死神でもそういった感情はときにあるのだ。しかしすぐに出てきたことで、箱の中に警官がいなかったことを察した。そこで私は大きく息を吐いた。それから階段を一段一段上る彼女に付き合い、列車に乗って三駅行った駅で降り、そこから何分かの帰宅に付き合った。多くの人間が帰宅する時間帯らしく、大勢が彼女と私の周りを歩いていた。皆誰にも興味がなさそうに見えた。私も彼女以外に興味はなかった。途中で、朝もしかしたら昼食を買ったかもしれないコンビニに彼女は立ち寄った。出てきた手に持っていた袋は、夕食だろう小さな容器が入っていた。私はそれを勝手にパスタだと決めつけた。そう考えながら再び歩き出した彼女の後ろを歩きながら、少し腹が減ったと思ったが、仕事を終わらせてからゆっくりとそれを取ろうと考えた。メニューはホワイトソースのパスタに決めた。そして着いた先は、オートロック式の単身用のマンションだった。それに鍵を差し込んだ彼女が、その中へと消えていった。私には何の能力もない。マンションを見上げ、ベランダは反対側にあることを察し、そっちへと回り込んだ。そこには縦に七列、横に五列の窓があった。そのいくつかの灯りは元々点いていた。そして今まさに点いたのが、縦が下から四番目、横が右から三番目の窓の灯りだった。再び入口へと戻ると、あとは只管待った。数分後にスーツを着た男がやってきた。彼もこのマンションの住人のようだった。彼女がしたように鍵をカギ穴にさし、ガラスのドアが開くのを待っていた。私はマンション入り口の前にある木陰で待ち続けた。そこは街の街灯さえ邪魔をしないから、とても居心地がよかった。そのあとも数人の単身者らしき人物が同じ動作を繰り返した。通りを歩く人もほとんど無くなり、一時間近く人の出入りがなくなった。「今ね」小さく呟いていても、それで私は気合を入れた。
マンション入口の青みがかった蛍光灯でさえ今の私には眩しく感じた。ドア横にあった消火器を手に取ると、それを躊躇うことなく、ガラス製のドアにぶつけてみた。「ゴーン」そんな衝撃音と共に、両手に伝わった振動が全身を駆け巡り、眩暈にふら付いたが、すぐに体制を整えると、両足を肩幅の倍ぐらいに左右上下に開くと、再びそれを叩きつけた。「ゴーン、ゴーン……」何度も何度も叩きつけた。掌から血が滲み出ていた。死神の血も赤いことを私は知っている。何回目かの時、眩暈が蔓延しトランス状態になっていた。「ゴーンゴーン・・バリッ」一ヶ所にヒビが入った音がした。尚もそれをぶつけた。「バリンッ、バッリ、ザバーン」ドアは粉砕され、それを祝うかのようにベルが鳴り響いた。消火器を投げ捨て、八歩歩いてエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まるときに見えた消火器は、ジェット噴射しながら体を悶え苦しんでいた。私はそれを優しく見つめ、四階のボタンを押した。三秒後にドアが開くと、左へ曲がった。相変わらず防犯ブザーが鳴り響いていた。すぐに一つ目のドアがあった。二つ目三つ目と数え、その前を通り過ぎると、火災報知機の赤いボタンを圧し込んだ。そこからもベルの高音が奏でられた。来た道を三歩戻り、一度は通り過ぎた、三番目のドアの前で止まった。「四階の三番目」ひとり記憶と照合し、笑みを零した。403号室のインターフォンを押した「ピンポーン」ベルが勢いを増して鳴り響く中、その音は呑気で物足りなさを感じた。「はい」聞こえた声だけで、三十路の彼女だとわかった。一度も声を聞いたことがないはずなのに、そうだと脳みそが震えた。どうやら私にはちょっとした能力が備わっていたようだ。タイミング良く一番目と四番目の住人が飛び出し、何事かと騒いで私の後ろを走り抜けていった。「逃げて、火事っ火事っ」だから私はそう騒いで、すぐに彼女のインターフォンの画面から消え伏せた。五秒ほどして、「ガチャ」鍵が開き、ドアがゆっくりと空き始めた。「いま……」ドアすぐ横に身を置いていた私の血が滲み出た右手が、彼女のドアノブを掴んだ。それに抵抗する力が室内から加わったが、「遅いよ」私の右足が既にドア内へと侵入していた。最後のドアは開いた。そこに立ち尽くす彼女の、お化けでも見てしまったような表情は、明らかに死神が見えていた。「私が見えるんだね」彼女の目が大きく震える度に、私の口角が引き上げられた。「さよなら、私の名前」「グサッ」「ウッ」同時に漏れた彼女の吐息。「私の名前、素敵でしょ」彼女の体から力が抜けていき、私に圧し掛かってきた。それが疎ましかったから後ろへと倒し、彼女が閉めたがったドアを閉めてやった。相変わらずベルの轟音は轟いていた。幸運にも私が見える人間はいなかった。誰もいなくなった廊下から非常口に出た。一階では警備会社の車が建物に横付けされているのが見えた。何人かが私を追い越すようにその階段を走り下りていく。自分だけが助かりたいと、追い抜いていった。「彼らもこの世界に必要ないのでは?」神に問い掛けても答えが貰えなかったことで、彼らが命拾いしたのだとわかった。一階では大勢が慌てふためいていた。大家らしき女性が何があったのかと、顎に手を当て目を丸くしていた。その横を素通りした。任務を無事完了した私は晴れ晴れとしていた。腕時計に目をやると、日が変わってから既に三十分が過ぎていた。
夜風が気持ちよかったから少し歩きたくなった。歩く先に小高い丘が見えた。そのてっぺんの向こうに幾つかの星が見えただけで、あとは何もなかった。それでもそこには何かが待っている気がした。それが私にとって良いものなのか、悪いものなのかは分からない。ただ新しいモノであることは確かな気がした。今までに経験したことがない、それが私を強く引き付けるモノであることは間違いなかった。だからその丘を目指した。高さにすれば十数メートル、どおってことのない丘だ。高くある必要はなかった。別に夜景を楽しみたいわけでもない。そこで深呼吸をしたいわけでもない。肺を綺麗にしたいなどこれっぽっちも思っていない。体なんって所詮借り物だ。操れる間だけ動いてくれればいい。近くまで歩いて行くと、高さのない木が丘の麓を一周していた。その間を抜けて丘に登った。木を越えればあとは芝生だけで遮るものはなかった。一分程で辿り着いたてっぺんで、さっきまで抱いていた想いが何だったか分からなくなった。私が登った反対側に、木の階段があった。それが一層、私を悲しませた。それでもそこに座って暫くそこいらを見渡した。少し背が高くなった人間の背丈程度の高さから、それほど広くない世界を見た。向こうから走ってくるモノがあった。それが段々大きくなって私に向かって来ていた。逃げようかどうしようかと考えている間に、それは階段のすぐ下まで来ていた。ただ驚きだったのは、そこまで近づいても尚、彼が私の方を見ないことだった。彼は一段一段を噛みしめながら、私のいる高みを目指した。五十段もないだろう階段を必死で登り、この頂上を目指していた。半分を過ぎたころに彼の全身を流れる汗が迸るのが見えた。もう十段あがったときには荒い息遣いが耳に届いた。そしてあと数段を残したところで、彼の鼓動が聞こえた。同時に顔を上げた彼の目が、私を見つけた。「あなた、私が見えるんだね?」「うん」「可哀想。私が見える人は、まもなく死ぬということなんだ」「どうしてさ?」彼は尋ねてきた。「私は死神だから。死神が見える人間はまもなく死ぬって決まりなの」「今度は死神か?」ウンザリと言った目をした。「死神が目の前に現れても驚かないんだ?」「あぁ」その会話で驚かされたのは、どうやら私の方だった。しかしすぐに気持ちを立て直すと、「でもあなたが驚こうが驚かなかろうが、信じようが信じまいが、死神を見てしまった人は、近いうち死んでしまう」「じゃあ仕方がないね。でももう少し待って欲しいんだ。近い将来、僕はこの地球を宇宙人から救わないとならない。僕がいなくなると、人間はみんな火星人に殺されてしまうんだよ。だからそれまでは待っていて欲しい」頭のいかれた奴なのだろうが、彼は自らの言葉に、微塵の嘘もないと言った風に話して来た。「それは私が決めたことじゃない。あなたは私の姿が見えてしまった時点で、神はあなたをこの世から消し去る道を選んだの」そう言って私は、彼の目をじっと見つめた。そこに映る月を見つけ、今日が満月だと知った。そして私は彼の前から一瞬で消えた。
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