〔黒の幕間〕2

――10年前/座標軸:ナナシ


 紅葉のような手、という言い回しを彼が知ったのは、この国に来て数カ月、暫く和語の勉強を重ねてからのことだった。

 しかし、それを、実感を持って目にし、触れたのは……


「兄ちゃん、あっち! きれいだよ!」

 彼の前を子どもが駈けて行く。

 子どもの足取りは、彼が思った以上に力強く、早い。

 彼も、幼子に連れられるかのように、紅葉で綺麗に色づいた公園のその奥へと向かう。赤と黄色に包まれた、団地の傍のその人工の森の中へ。幼子は、さらにその奥へと向かおうとしている。


 彼が追いつくと、先行していた子どもは地面に屈んでいた。土の上一杯に散らばる赤や黄色の色鮮やかな落葉を、一枚ずつ丁寧にその手で拾い、持ち上げては眺め、持ち上げては眺め、と繰り返している。その中から、お気に入りと思しきものだけを、その小さな手の中へと残しているようだ。

 葉っぱを持ち上げるその手のあまりの小ささに、まるで人間のミニチュアみたいだ、と妙に乾いた感想を抱く。そうしながら彼は子どものもとへとやってきて、自分の大きな手を彼女の頭の上にポン、と置いた。

 それに驚いて上を向いたナミが、しかし一呼吸置くと、

「兄ちゃん、これ、きれい!」

 と、その手に残した数枚の葉っぱを彼にさし出す。そして、上を向いたままの彼女が、そのまま視線をキョロキョロと彼の周囲へ動かしていることに、彼は気がついた。

「兄ちゃんのまわり、きいろとあかで、いっぱいだよ」

「ナミの周りも、いっぱいだね」

 見下ろすと、同じように地面の葉っぱを背にした彼女が、彼の視界を占めていた。

 自然と零れる笑み。子どもの柔らかさ、温かさが妙に恋しくなって、彼はさし出されたままの子どもの小さな手と、その中の葉っぱを、自分の大きいだけの不器用な両手で柔らかく包む。ふむ、やはり、小さい。

「よし、ナミ。肩車しようか」

「うん!」

 にっこりと嬉しそうに笑う子どもの顔を見るか見ないかのうちに、彼は素早く小さな体を拾い上げて、軽々と彼女を両肩に座らせて安定させる。

 いつもよりもずっと高い位置でナミがひとしきりはしゃいだ後。彼女は、手の中に集めていたお気に入りの葉っぱを落としてしまっていたことに気がついたようだった。

「ナナシ兄ちゃん。はっぱ、おとしちゃったよ」

「ナミ。上を向いてごらん」

 そう彼女に告げた彼の顔は、ちょっとだけ自慢気であったことだろう。そう彼が自覚する前に、「え?」という小さく愛らしい疑問符が頭の上から漏れてくる。彼はゆっくりと人工の森の中の、赤や金の落葉のカーペットの上を歩きながら、1本の低木の傍へと近づく。頭上の彼女がキャッキャとはしゃいだ声を上げている……

「ほら、ナミ。近くで見てごらん」

「ここにも、はっぱさんがいるー」

 屈託のない、幼児の声。樹上に鈴なりに揺れる葉っぱに、子どもは嬉しそうだ。


 いつもの部屋の、コンクリートがむき出しの灰色の壁が嫌でいやでイヤで、堪らなかった。その色は、この伸びやかな小さな子どもには全然似合わない、そう思っていた。だから彼はこの日、用心に用心を重ねて、この子を外に連れ出した。


 そしてこうして歩いてみれば、それは思った以上に彼女に喜びをもたらしていた。あの息詰まる団地の中の一室、灰色一色の部屋から一転してのこの鮮やかな色合い。やはり、この子には外の方が良く似合う。

 彼もまた、暫し時を忘れた。

 何も考えずに、彼はその手の届く中の一枚に、自分の手を伸ばす。プツン。一つだけ。綺麗な紅色に染まった楓の葉を木からちぎる。

「……あ……」

 頭上で、小さな声がした。ポツリ、と。

「ナミ?」

 温かい子どもの体温が少し違う空気を纏ったことに、彼も気づいた。

「……ダメなの……」

「え?」

「……はっぱさん、しんじゃうの、ダメなの……」

 彼は、ことばに詰まる。特に何とも思わずに、木から葉をちぎっただけだった。彼女にあげてもいい、というくらいは考えていたかもしれないが。

「はっぱさんがお母さまとはなれちゃうの、よくないの」

 押し殺した声が、彼の頭上から漏れてくる。


 そういえば。魔女の文化的解釈としては、大地に根を張る樹木は基本的に母親としての意味合いを付与されて語られることがあるのだと、その昔調べた内容を彼は思い出していた。ナミの視点、あるいは魔女文化の解釈からすれば、樹木は母、そこから芽吹く葉っぱは子ども、といった見立てなのだろう。

 そして、樹上にあれば生きている葉が、ちぎられてしまえば死んでしまうことも、彼女は知っている。いや、彼女の属する文化が、そう定義づけている。

 両親と妹の死の意味をよく飲み込んでいない、この子が。彼女の中には、「死」の概念はそれなりには形成されているらしい。

「……ごめん……」

 彼は頭上のナミを両腕で支え直すと、丁寧に地面へと抱き下ろす。見ると、彼女の目にはいっぱいの涙。しかし、零れないように、懸命に堪えている。口を、への字に曲げて。とても不機嫌な表情で。睨みつけるような、青い目で。

「……もう、しない。二度と、しないよ」

 声を出したら、涙が流れると分かっているのだろう。頭すら動かせずに、小さな子どもは、下も向かず上も向かず、真正面を向いて、睨むかのように涙を堪えている。

「……葉っぱさん、ごめんなさい」

 彼は、声に出して、自分がちぎってしまった葉に詫びを言う。

 彼女は、彼女の中の道理に反した行動をとった彼を怒っているだけではない。多分、生命を最後まで全うできなかったこの一枚の赤い葉の命に、何らかの意味を見出しているのだろう。そう考えて、彼も目の前の黙りこくった子どもを、ただ黙って見つめ続けた。

 それが、魔女の文化の思考法だ。ある意味、原始的なアニミズム。自然への素朴な信仰。今でこそイリスウェヴ神などという女性性を付与した神を頂き一神教で全世界を横断する連帯感を打ち出しているが、その根底を支えるのは地域ごとの数多くの小宗教であり、自然崇拝だ。

 そんなことをぼんやりと思いながら……そして彼自身は心底から葉っぱの命を悔やんだわけでもなんでもない……小さなちいさなナミの元に跪いて、同じ目線の高さになって、彼女の隣にしゃがみ込む。

 正面からではなく、隣から、彼女を見る。もしも真正面からこの幼女が彼の顔を見てしまえば、彼女は彼の浅はかな思いをきっと鋭く見抜くことだろう。それがたとえ5歳児であっても。この子どもの洞察力が侮れないことを、彼はこのたった数日の間で嫌というほど何度も味わってきている。

 何より、幼いなりにも相応の誇りを持って立っている彼女に対して、涙を堪えている顔を覗き込むような無粋な真似はできない。そんなことをしては、自分はこの小さな子どもから嫌われてしまうのではないだろうか。そんな不安もあった。


「あ……」


 思わず声を上げたのは、彼だった。


 一筋。どうしても抑えきれなかった涙が、重力に逆らうことなく、幼子の紅色の頬を伝う。


 彼は思わず、その涙を、唇で受け止めていた。

「ナナシ兄ちゃん。なに、それ?」

「おまじないさ」

「おまじない?」

「ああ。泣いている子の涙は、その家族が受け止めるものなんだって」

「おくちで?」

「たまたまさ」

「ふーん」

 驚いたのか、彼女の涙は既に止まっていた。


 それが彼自身の母親からの、幼い頃の扱いであったことを口にすることは、彼は躊躇われた。

 何より、彼は……今ではそうした己の家族のことを、心底、憎んでいる。


 かぶりを振ると、彼は一瞬瞳を閉じて、空を見上げる。それから今度は、足元を見つめる。

「ナミ、見てご覧。土の上に、綺麗な葉っぱさんがいっぱいだね」

「……うん」

 もう、心配は無さそうだ。

「……つちのうえのはっぱさんは、いいの。だいちにキスするために、お母さまからはなれたんだもの」

 彼にはよく解らない理屈、恐らくは魔女文化論的には何らかの体系のある概念に基づく解釈を述べて、幼女は再び地面へと屈み込む。

「このいろ、すきよ」

「ああ、綺麗だね」

 そうして、2人は、屈みこんで、綺麗な色の葉っぱを何枚も何枚も集めた。

「ナミ、もっと集めるかい?」

「うん。くびかざり、つくるの」

「首飾り?」

 どうやら小さなお姫様のご機嫌は戻ってきたようだ。

「5つつくるから。たくさんあつめなきゃ」

「5つ?」

「うん」

 既に、彼女は笑顔だ。

「お母さまでしょ。父さんでしょ。……ちゃんでしょ。あと、ナナシと、わたしの分」

 そこで彼女は魔力を発生させ、針も糸も使わずに、魔力だけで落葉を首飾りへと繋げていった。その、小さな魔力。周囲の大気、その生気を、そのエネルギーを、何の呪文の詠唱もなく、何の強い念も発生させることなく、呼吸をするかのように吸い上げて、魔力へと編み上げる。たった、5歳の子どもが。

「あと、4つつくるの。あつめよう、兄ちゃん!」

「……ああ、そうだね」

 彼は、今自分が浮かべている笑顔が、彼女にどう映っているのかが気になりながら、そのこと自体を悟られないように、一所懸命なふりをして、鮮やかな秋色をした紅葉を集め始めた。




(つづく)

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