第011話 02月22日(月曜日)「まずはそこから困っています」

――座標軸:風見ナミ


 夜を一つ越え、朝を迎える。その間ずっと、家の中に「他の人」がいる。その気配を感じ続けることにナミは戸惑っていた。

 けれどもそれは「戸惑い」のままで、不快や不安といった感情とはまた別のものだ。そんな戸惑いという感情を持て余しながら目を覚ました彼女は、ゆっくりと身支度を整えて、階下の洗面所へと向かった。


 洗面所でたっぷり時間をかけた後、リビングへ向かう。その手前で、彼女の鼻が温かい香りを捉えた。

「おはよう、ナミ」

「……おはよう」

 昨日からの魔力消費が増えたことで、少しだけだが体が参っている。その意味で、彼女は本調子ではない。じっくりと顔を洗ってはみたものの、完全に目覚めているとは言い難い。

 そんな彼女は、温かい香りの正体に目を留めて、ようやく表情らしいものを浮かべた。

「……ミルクティー?」

 というよりも、チャイに近い淹れ方をした飲み物だろう。それは先日も、彼が淹れてくれたものだ。

「ああ。少し濃い目に淹れてあるが」

 そう言いながら、彼女の諾否を聞くこともせず、彼は彼女の手の中にその温かいカップを押しつけてくる。小さく頷きだけを返して、彼女はそのままカップに口をつけた。

 ほんのり、甘い。そして、ショウガの香りが広がる。

「ありがとう。目が覚めてきた……」

 レイジに対してそうは言ってみたものの、彼女の調子はそこまで上がってこない。おまけに時計の針は六時半。外は充分に明るいが、普段彼女が活動を開始する時間よりも二十分ほど早かった。昨晩は早くに床についたとはいえ、平素はまだ起きていない時間帯でもある。

 一方、彼女の仮の使い魔は、一晩を特に困った様子もなく過ごしたようで、風見の家の台所を使っているだけではなく既に布団も片付けてあった。

 彼自身の顔つきも小ざっぱりとした面持ちで、まだぼんやり覚醒を待っている状態の彼女とは対象的な表情だ。とはいえ彼のそれは、いつも通りの無愛想の一歩手前の無表情、という顔だったのだが。

 昨日の晩と同じく、ナミは台所傍の食卓テーブルの椅子に、レイジは居間のソファに、それぞれ腰を下ろす。

 彼女がぼんやりと彼の方を見ると、使い魔は彼女が初日に渡した絵本の表紙を眺めているところだった。開いて読んでいるわけではない。本は、彼女があの晩に音読をした、『いつか見た 青い空』。水彩で描かれた黒い狼と緑の子猫の表紙絵を、彼はしげしげと眺めている。

 ああ、あの本を読んだのは、彼が初めてウチに泊った日だったっけ……完全に覚めてはいない頭の中で、彼女は思い出す。

 確かにあの日の出来事は、彼女にしてみればここ最近の大きなドジだ。大ポカだった。けれども、昨日の契約解除の失敗と比べれば、まだ何とでも言い訳の立つものだ。

 そこまで考えて、彼女は少しばかり眉を顰める。

 彼は、別に何も声を掛けてこない。多分、彼女がきちんと覚醒し、調子を取り戻すのを待っているのだろう。それはそうだ。肝心の術をかけたのも、その術を解除できるのも、魔女であるナミだけなのだから。使い魔でしかない彼は、待つしかない。

「ナミ」

 5分ほどカップを持ってぼんやりとしていると、レイジが声をかけてきた。

「茶が冷めるぞ」

「あ、うん」

 彼の瞳の色に、僅かに、心配そうな色が滲んでいる。

「体調が今一つならば、無理するな」

「そうじゃない……と思う」

 そう答えて、残りを飲み干す。甘いその飲みものは殆どカップの中には残っていなかったし、その僅かな残りの液体ももうかなり冷めていた。それでも、彼女の覚醒の役には立ったようだ。先刻よりは随分と意識が明確になってきている。

「顔、もう一度洗ってくる」


 洗顔を終えて居間に戻ると、レイジは台所にいた。どうやら、朝食を拵えようとしていたらしい。慣れない様子で台所の中をあちらこちらと移動している。

「レイジ。空腹の状態で、一度術式を試すわ。空腹の方が魔力の通りがいいから」

「ここで? それとも地下でかね?」

 この状態だと、どちらでもあまり変わらないだろうし、食事の時間や通学準備を考えると地下に降りるのは面倒だ。

 そう一瞬で結論を出すと、彼女は大柄な彼を、まるで犬猫であるかのようにチョイチョイと手招きして、居間のソファの横に立つ。

 ピアス、指輪、ペンダント、ブレスレット。魔力の補助となるアクセサリーは、習慣上、起きて真っ先に身につけている。そうした道具を一つひとつ、指先で確認してから、彼女は体内の声に耳を傾ける。魔力が、体の内で小さく唸りを上げ始める……さあ、始めよう。




――座標軸:風見ナミ


 三度、試した。

 結果からすれば、いずれの術式行使でも彼女と彼の契約の解除には至らなかった。


 うんともすんとも、というのはまさにこれか、という感覚に彼女はあっさり兜を脱いで、彼の助言に従い朝食を摂ることにした。

「ナミの学校はここからどのくらい遠いのだね?」

「一キロもないわよ。もうちょっと遠かったら自転車だけれども、まあ徒歩よね。行きは上り坂だし」

 そう、ことばを繋げる。そして彼が焼いてくれた食パンに目玉焼きを乗せ即席のオープンサンドのようにすると、彼女は小さな口でちまちまと食べ始めた。

「高校に入ったら自転車通学の予定なんだけれども。ウチから三キロくらい離れているのかな? 通学する分には近い方だと思うけれども」

「この坂道を、自転車で?」

 西乃市は全体として坂の多い町だ。それも、彼女が居を構える中野町だけではない。少し奥地に行けば、さらにどこもかしこも地形は傾斜が続くし、もっと北へと進路を進めれば山ばかりだ。尤も、逆の南側、もう少し海沿いであれば平地も広がってはいるし、更に海沿いになれば東西にはずっと平らな土地を見ることはできる。けれども中野町を含むこの辺りは坂だらけだし、進学予定の高校も坂の上に位置している。

「まあ、体を鍛えると思えばそんなに苦じゃないわよ」

 高校の話をしながら、彼女はカボチャをつまみ、次いでブロッコリーとニンジンを口にする。正面に座る彼女の使い魔はというと、例によって大口で、ワシワシと目の前の皿を空にしていく。それこそまるで、皿を平たくすることが目的のような勢いで。あのトースト、何枚目だったっけ……

 そうした日常に関する話の後、二人は今日の予定を確認する。レイジは、朝一番で神矢老人に事態を相談した後、市街地の定宿へと一旦戻って荷物を引き揚げてくる。午後に彼女が帰ってくる頃に家で合流して、この西乃市周辺で最大の魔女コミュニティの長であり、ナミの第三の後見人でもある姉魔女あねまじょに相談に向かう、といったところだ。今晩の宿泊は未定だが、彼のことばの節々からは、神矢家へお邪魔する算段を考えている様子が見て取れた。

 老人の予定に都合がつけば同行してもらう可能性もあるが、それは不明だ。昨日の式典絡みで何か用事があるかもしれない。それに道場のこともある。今日は拳道の日でもある。付き添ってくれる確率は低い。そう、彼女は考えをまとめていく。

「契約中だと、使い魔との間にどの程度距離が置けるのかどうかわからないわね」

「そういうものなのか?」

「そういうものだと思うわよ」

 これまでナミが見てきた他の術者の使い魔の、その使役を思い返しても、遠距離の使役例はほとんど見かけなかった。勿論、無機物有機物を問わず、だ。

 北の魔女がフクロウの使い魔を飛ばした際も、最大で数キロ。それも例外的な遠距離だった筈だと、彼女はぼんやり記憶を辿る。使い魔の使役に関して、キロ単位での遠距離を言う魔女は、まずいない。まあ、あの姉魔女の魔力量は特別だから、その例を参考とするには少々無理があることも、考慮に入れるべき点である。

「市街地とわたしの学校との距離が、どのくらいかしら。四キロ? 五キロ? でもまあ、そのくらい離れても問題は無いと思うけれども」

 昨晩遅くに電話で相談した先輩魔女の話では、あまり距離を置くなとかなり強く念押しをされていた。されてはいたが、この距離を告げても「それならギリギリかしら」といった返事が返ってきたことを彼女は思い出す。

 午後には授業を終えてすぐに帰宅することを約束して会話を一旦打ち切ると、彼女は台所に皿を洗いに立った。

「パン食も、悪くはないわね」

 すぐに流しへと自分の分の皿を持ってきたレイジを見上げて、声をかける。並んで皿を洗い出しながら、レイジは、

「ナミは普段は米の朝食なのか?」

 と、食事の話を振ってくる。いつもの食べっぷりからすると食べることへの興味は強いのだろうと、ナミは思い当たる。

「レイジはどう? あ、お米の文化圏じゃないのかしら。小麦? ナンとか?」

「いや……」

 逆質問になった途端、彼の口が重たくなる。以前から、故郷に関する話題を振るといつもこうした重い空気を纏うことに彼女は気づいていたのだが、今回もどうやら同様らしい。気にしていない風を装い、彼女は話題を自分のことへと戻す。

「まあ、和国では白いご飯が一般的かな。わたしもそうだけど。体調によっては玄米もアリだし。それに、お味噌汁よね。あと、納豆。レイジ、納豆食べた事ある?」

「以前の和国滞在の時にはよく食べたな。安価で良質な蛋白源だ」

「前って、八年振りって言ってたわよね。どのくらいいたの?」

「いろいろあってね、結構長く居たよ。和語の勉強も相当した。神矢師に師事したのは後期の短期間。一年足らずだったが、それでもかなりお世話になったよ」

 成程、結構長く滞在していたらしい。ナミは軽く驚くが、それを顔にも声にも出さず、淡々と次の話題を繰り出して行く。

「拳道の入門って、その時?」

「ああ、あれからだ。勉学に関するものはなかなか身に付かなかったし、忘れるのも早かったが、体で覚えたことは忘れないものだな。先の和国滞在で身につけたものごとの中でも、なんだかんだで拳道が一番役に立っているよ」

 八年前の来和の際も和語を勉強したというのに、「拙者」で「ござる」とは。余程勉学の方は素質がなかったのだろう。あるいは余程時代劇に耽溺していたか。けれども体技を見る限り、武道の方は良い素地があったようだ。そう胸の内だけで、彼女は一人小さく呟いた。

 二人で皿を洗い終え、ナミは「あと十分で家を出るから用意をしてね」とレイジに言い残し、彼女は通学の用意を整えに自室へと上がった。


 


――座標軸:風見ナミ


 以前彼女が本を貸した際に一緒に預けた小さな布袋、一つ。それだけを持って、先にレイジがドアの外へと出ていく。彼の手には他の持ちものは無い。昨晩洗濯した道着はまだ乾いておらず、そのまま庭の物干し竿で風を受けていた。

 きちんと制服を着、長い髪もいつも通りに整えたナミは、彼を伴って門を締める。小さな呪文。今度は、彼女の戻りがないと解錠しない。

「ナミは学校が好きなのだな」

「うーん、どうかしら?」

「こういう事態でも、休んで、先に北の魔女に相談に行くということをしない」

 家を出る前にも、そんな話をしたような気がする。

「これでも一応、今年は皆勤賞を狙っているもの」

 だから、それ相応には頑張っている。

 その他にも、いろいろと。もちろん、成績も含めて。

 魔女だからズルをした、魔女だからいい加減だ、魔女だから頭が悪い、魔女だから……そうした雑音をできるだけ遠ざけるためには、兎にも角にもある程度の頑張りが必要だ。

「では、ナミ。また後で」

「うん。行ってきます」

 坂を上る中学生の魔女、下る外国人の使い魔。二人は背中を向けて、それぞれの目的地へと歩き出す。

 

 学校に着いても、カヤやサエたちと騒いで一通りお喋りを楽しんでも、彼女はやはり自分の中の魔力の減少を常に意識させられていた。これが、使い魔を……それも「人間」などという非常に燃費の悪い使い魔を……使役することの代償なのだろう。ただその意識は曖昧といえば曖昧で、彼女の中ではいつしかその意識も薄れ、慣れていく。

 学校での日常はいつものように過ぎていく。まして、卒業前の中学三年生の三学期だ。授業に身が入らぬまま、彼女はそのままやり過ごすようにしてその日の学校を終えた。

 校門を出て友人たちと別れる。歩くとすぐに、いつも買い物をするスーパーが目に入った。その建物を目に入れたところで、どうしたことか彼女は「使い魔」のことを思い出す。

 同時に、己の使い魔との間であれば、念を飛ばして最低限の意思疎通が図れる、ということも。

 そうか。


 ――レイジ、今、どこにいるの?――

 

 解答を寄越しなさい。

 そこまで明瞭な命令形の念を思い浮かべると、すぐに自分のものとは違う念が流れ込む。

 それは、「バスの中」という漠然とした概念。彼の「声」だ。物理的に耳に響くいつもの彼の低い声とは違いながらもなんとなく彼の声を想わせる念が、直接彼女の心に響く。

 この遣り取り、彼自身は和語ではなく彼の母語でナミの意識を受け止め、また彼の母語でナミへと意識を送り返しているのかもしれない。もしもそうだとすると、これはなかなか面白いものだ。ナミは小さく感心する。

 そうして、彼のイメージする返信を改めて咀嚼する。そこから、市街地で用事や昼食を済ませて中野町へと戻ってくる途中のようだと、ナミは見当をつけた。

 特に何かを思ったというわけではない。それでも彼女は、なんとはなしに、最寄りのバス停で待つことにする。

 さして間を置かず市内の巡回バスが到着し、見覚えのある大きくて使い込まれたリュックを背負ったレイジが降りてきた。

「ナミ……!」

「おかえり、レイジ」

 いつもの無愛想に近い無表情ではなく、明らかに喜びの表情で、彼女の使い魔がバスを降りながら微笑む。まさかこうした出迎えのようなことがあるとは、思ってもみなかったのだろう。

「君も帰り道か?」

「ええ。それで、どう?」

 朝の打ち合わせ通りの件、神矢老人の同行についてレイジに問いかけると、やはり今日いきなりでは身動きが取れないという。道場の用事ではなく、地域の政治的な集まりで午後いっぱいを留守にするという話だ。今日の午後の道場は、きっと須田兄ィが担当するのだろう。

 続けて彼は、

「魔力に関する技術的な事は老師にとってはお手上げだから、北の魔女によく確認するように、と強く念押しをされたよ。不備があれば夜間でもいいから、すぐに神矢邸へと押し掛けてくれて構わないそうだ」

 と、神矢老二人との話を伝えてくる。

 二人は家に戻ってそれぞれの荷物を置いた後……今晩、レイジは一体どこに泊るのだろう……当初の予定通り西乃市の北部へと向かうことにした。時間も勿体ないと、ナミは制服に学校指定のコートのままで移動を開始する。


 バスを乗り継ぐ。

 レイジは、北部へ向かう路線のバスに乗るのは初めてだからだろう。どこか緊張した様子だ。路線バスに乗り込む彼のソワソワとした面持ちを見て、ナミは内心微笑んだ。

 もうすぐ三十路だと言うのに、こうしたときの彼はどこか幼い。そう思えるのが、なぜか不思議だった。しかも、彼の半分程度しか人生経験を経ていない自分にそんな風に思われているなどと、この使い魔は思ってもいないだろうということも、彼女は確信している。

 方向は、大雑把に言えば北へ向かっているが、地域を巡回するバスということもあり、右へ左へ、東へ西へと結構迂回をしながら路線を進む。

 そしてだんだんと海抜を増し樹木が増えてきたその先に、バスの終点があった。時間も、既に午後の遅くとなっている。バスに最後まで残っていた乗客は、ナミたち二人だけだ。

 それまで車中で、珍しいと思われる物を見かけては、「あれは何だ」「これは何だ」「和語では何と言うのだ」と時折口を挟んでいたレイジも、意外と長い時間のバス移動に飽きたのか疲れたのか、車窓の変化の乏しくなった最後の二十分程は無言となっていた。


 バス停にある時刻表で、ナミは帰りのバスの最終時刻を確認する。最終バスが、午後八時過ぎ、二十時台である。彼女が想定していた以上に早い。

 彼女がこのコミュニティを訪れる際は、基本的には訪問も帰宅も昼間の明るい内が殆どだ。あるいははっきりと宿泊するか。そのいずれかだ。

 偶にではあったが、場合によっては魔力持ち仲間の車で送って貰うこともあった。けれども今日の彼女が連れているのは、魔力無しだ。仲間の誰かの車での送迎は期待しない方がいいだろう。

「レイジ、コミュニティはここから更に歩くから。話の内容によっては、帰りのバスの時間が結構ぎりぎりになるかもしれないから。時間、気をつけててね」

 ちょっとしたハイキングコースのような、しかし意外に明るい様子の森林へと、ナミは制服の上に薄手のコート、そして通学用のローファーというスタイルで足を踏み入れていく。遊歩道というわけではないが、それでも相応に整備はされている森林の土の道を十五分ばかりで抜けると、和国のどこでも見るような、小ぢんまりとした近代的な住宅街が開けているのが遠くに見えた。住宅街とはいっても規模は小さく、遠くから見る限りでは斜面に張り付いているようにも見える。妙に色彩に欠けるそれらの家々を視認して、彼女は歩みを進めた。


 更に十分程歩くと、もう集落の中である。既に、北の魔女コミュニティの中にいる。

 その集落の中でも比較的大きな一軒の家。それが、今回の目的地であり、このコミュニティの長とも言える魔女、鈴姐の住居である。大きな離れのような建物は、コミュニティの集会場だ。内部は、廊下で繋がっている。

 呼び鈴を押すこともなく、門が開かれる。恐らくはバス停の所から監視用の使い魔に見られていたか、あるいは家の周辺に張ってある何らかの結界のチェックにひっかかったのだろう。いつものことだ。

 待つことも無く扉が開くと、紫のロングスカートを身に纏った美女が、立っていた。

「鈴姐さま、久しぶりです」

 ナミは自然と笑顔になって、手を振って女性の元へと足早に近づいていく。

「昨日は会えなかったわね、ナミ。久しぶり。半成人のお祝いをと思っていたら、こんなことになっていたとはね……」

 やや低い、けれども艶やかないつもの声色が、彼女たち2人に向けられる。

 それにしても。いつもながらに、鮮やかな美人である。そう、ナミは改めて感嘆する。ほとんど、会う度にこう思い直させる程なのだ。大したものである。

 そして、魔女としての成人を既に迎えた子どもが2人もいる年齢だというのに、見た目は若く、初めて会う人間にとっては年齢不詳に見えるだろう、とも。

 彼女の長い艶やかな髪の色が少しだけ淡い色目なのは、白髪が混じり始めたせいではなく、カラーリングをしているのでもない。自前の頭髪の色だ。見ると、瞳の色も僅かばかりに複雑なカラーを湛えている。はっきりとした表情、はっきりとした口ぶり、はっきりとした性格とは対照的な、けれども曖昧ながらも綺麗な瞳の色。それらは、彼女の祖先の遠くに、また近くに、複雑な混血という経緯があったことによるものだ。

 この瞳の色は、強いて分類すれば紫だろう。印象としては、竜胆リンドウや桔梗といった花の色を想わせる。でも、複雑な色。そんな思いで、ナミはこの先輩の大魔女を真っ直ぐに見つめる。彼女はいつものように、ナミへと親しみの籠った笑顔で見つめ返してきてくれた。

 そうしてナミに対してはにこやかに微笑みを浮かべた紫の魔女は、しかし少女の後ろから付いてくる赤い髪の大柄の使い魔には何の感情も見せることはしなかった。いや、少しだけ視線に留めた際、明らかに好ましく思っていないといった表情が、その瞳に僅かに走る。いつも人当たりのいい、気風のいいこの女性にしては、珍しい。これまで、ナミが彼女の中に殆ど見ることの無かった表情だ。

 とはいえ、相手は魔力無しだということもある。恐らくはそうした部分で彼女が彼に引っかかりを持ったのかもしれない。夫が魔力無しとはいえ、基本的にこの姉魔女あねまじょは魔力無しの人間に対する関心が薄い。そのことを、ナミは改めて意識した。

「集会室の方へ行きましょう。帰りが遅くなるようなら、ソージの車で送らせるわ」

「ソージ先生、今日はこっちにいましたか」


 今はこのコミュニティの住人である美麗な魔力持ちの顔を、ナミは思い浮かべる。その彼も、先の「戦争」で喪われた中野町の魔女コミュニティとも縁があったと、彼女は聞いていた。「戦争」でコミュニティが解体しなければ、ひょっとすると同じコミュニティに属していた可能性もあったのかもしれないことを、彼女は一瞬だけ思い浮かべる。

 しかし、今の彼の根城は、この西乃市の北の魔女コミュニティである。

 そして、神矢道場で週に3日、剣道の指導を受け持っている沖田ソージが、その週の残り半分をフラフラと過ごしているように見えるのも、鈴姐の雑用を受け持っているからだ、というのがナミの見立てである。それは、このような鈴姐の言い方が割といつものことである、ということから彼女が推測していることで、ソージ自身に直接確認を取ったわけでは無い。


 一方、その沖田ソージを使い魔でもないというのにあれこれとこきつかっている……ようにナミには見える……鈴姐自身は、コミュニティから離れることは稀だ。コミュニティ内での魔力的なあれこれの用事も行事もこまごまとある。あとは、コミュニティ内の皆からの相談や、更にコミュニティに住まないナミのような魔女、魔力持ちたちの相談に応じて多忙にしている、といったこともある。更に、北に位置する北乃市に住まう同族の来訪も、結構頻繁にあると聞く。昨日の行事のようなことでもない限り、西乃市の中心部、市街地にすら行くことはない。

 しかしいきなり、海外の魔力持ちと交流をしに出かけたり海外からのゲストを招いたり、といったことはある。だから、そこまでの出不精というわけではないようだ。

 更に言えば、コミュニティの魔力持ちも多くが通勤や通学で毎日外に出ているから、特にここが閉鎖的な環境にあるというわけではない。市街地と結ぶ民間のバス便があるのが、その何よりの証拠だ。鈴姐の伴侶である魔力無しの「センセイ」も、バスで毎日コミュニティ外の職場たる公立の学校へと通勤している。

 ぼんやりと、このコミュニティの成り立ちやそこでの鈴姐の働きを思い返していたナミは、左隣に立つレイジを未だ紹介していないことに気がついた。

「姐さま、これが……今のところのわたしの使い魔になっちゃってる、神矢レイジです」

 挨拶もそこそこに室内へと歩き出そうとする鈴姐に、ナミは彼女の使い魔を紹介する。

 レイジもどちらかというと無愛想な男だが、それでも先程から一言も挨拶らしいことばを発していない。その不自然さに、ナミは隣の大男に挨拶をするよう、左肘で小突いた。

「こんにちは」

 ようやく、レイジがいつもと変わらない落ち着いた声を、目の前の女性へと発する。

 しかし鈴姐もまた、レイジと同様、実に素っ気無い。そもそも、レイジのような挨拶すらしていないのではないだろうか。

 ナミの表情を察してなのか、鈴姐ははっきりとした笑顔を浮かべた。

「二人共、ようこそ」

 そしてそのつくった笑顔のままゆっくりと二人を見遣り、それから室内へと改めて促した。

「時間が勿体無いわね。行きましょうか」


 客人二人を連れて、紫のロングスカートを美しく翻して歩く鈴姐。気さくな声色とは違い、彼女の身の振舞い方はいつもどこか優雅で、育ちの良さを感じさせる。

 その後について歩くナミは、昨晩の電話、そして今朝、昼間と何度か電話で報告した内容を、先を行く先輩の大魔女に繰り返して伝える。前を行く姉魔女は、その区切りごとに、なるほど、と小声を零したり、うんうんと頷いている。

 そうして迎え入れられた集会場の中には、人がいなかった。月曜の午後であれば誰も用事が無いのだろうが、鈴姐が人払いをしている可能性もありそうだと、ナミは見て取る。

 ガランとした、そこそこの意外な広さを持つその部屋の隅の席へと、ナミたちは落ち着いた。室内の装備は折りたたみの机とパイプ椅子、というありきたりな集会場らしいものである。


 三人がそれぞれ椅子に収まると、ナミは念の為と思いつつもあり得ないであろうことを、真っ先に尋ねてみることにする。


「鈴姐さまは人間の使役って経験ないんですか?」

「あるわよ」


 ケロリ。


 無いと思っていた前例が、あっけなく目の前に取り出される。しかしこれは、ナミにとっては明らかにいい話だ。期待が持てるとばかりに、彼女の青の瞳が強い光を放って姉魔女を凝視する。

 だが。

「でも、人間は自由意志が強すぎて、使役に向かないのよー。魔力を食うだけで、全然結果が出ないんだもの」

 ほんっと魔力喰いよ、あれは、と彼女は忌々しげに続けた。

「でも、姐さまほどの魔力ならば、ヒトの一人や二人、使役には問題無さそうだと思いますけれども……」

 昨日から今日にかけての魔力の減少を思うと自分にとってはかなりのハンディに思えるが、「この人ならば」という期待も込めて、ナミは話に食い下がってみる。

「そうじゃなくってね。それなら短期間の暗示を使うとか対象の体躯にだけ魔力を通すとか、やりようがあるでしょう。費用対効果が低すぎるのよ。『人間の使い魔を常時飼っておく』ってことは」

「はあ」

 鈴姐の長い髪が揺れる。窓ガラスから差し込む午後の陽光がその髪を美しく照らす。いつもながらに髪も顔も実に若々しいのは不思議だと、ナミは使い魔契約の問題を一瞬忘れて姉魔女の美貌をこっそりと見る。

 彼女はこのような「母親世代の女性」には少々弱い。何かマイナスの要素があったとしても、基本的には点が甘くなりがちだ。鈴姐はもとより、悟朗の母である神矢リサもそうである。喪った母親のイメージを投影しているという自覚はあるので、それに過剰に依存しないように、と彼女も常に自覚はしているが、やはりその年代の女性を愛おしいと思ってしまう自身の甘さは変えられそうにない。

 それに実際、この鈴姐は彼女の母のような役割も果たしてくれているのだ。それこそ、「戦争」直後、ナミが魔女狩人ウイッチハンターたちから保護された直後からというもの、親身になって彼女を立ち直らせてくれたのだ。更に現在に至るまで、ことに魔力関連について、何やかやと彼女の面倒を見続けてくれているのは、この女性に他ならなかった。裏表のない突き抜けた個性と、強い魔力で、ナミを圧倒し続けながら。

 そうしてナミが目の前の魔女との思い出を少しばかり思い描いている間、隣の大男は普段にも増して表情を押し殺すかのように、その気配を消しながら黙っていた。

 気がつくと、鈴姐がいつものように人懐こい笑みで二人にお茶を出してきた。緑色の和茶が、温かく湯気を揺らしている。

「で、ナミ。確認するわね。あと、神矢レイジ。あんたにも後から聞くけど」

 今日が初対面である外国人であるレイジを早速あんた呼ばわりというのは、まあ鈴姐らしいオープンさだな、とナミは笑みが浮かびそうになったが、空気を読んでそれを噛み殺した。今は、笑う程の余裕があるような事態ではない。

「昨日と今朝の電話で根掘り葉掘り聞いたけれども。でもって、同じことになるかもしれないけれども、もう一度確認するわよ。忘れていたことがあったら、どんどん付け足して」

 契約時の段取り、その手順のこと。ナミは同じように繰り返す。

 うーん、と鈴姐が、膝を組み変えて、ロダンの「考える人」と同じようなポーズで数秒考え込む。

 それでもさらに食い下がるかのように、更に鈴姐はナミに質問を投げかけていく。

「聖水は?」

「最後、セオリー通りよ」

「魔法陣の具合は?」

「これもいじってないから、その方面から呪いを呼び込むことはあり得ないわ。強力な磁場としてあの場所を保護していたはず」

「薬草は?」

「普段通り。これも」

「一種類?」

「ううん、用心して二種類」

「まあ、半日契約であっても、相手はヒトだものね。悪く無い判断だわ、それだけなら」

 ナミの淀みない返事に、鈴姐は頷いていく。

「宝珠の利用は?」

「今回は無し」

「まあ、普通そうよね。あと、体液の交換は?」

「無いですよ、流石に」

 鈴姐はポンポンと返ってくるナミの返事を聞きながら、指を折りつつ数を数えていく。左右いずれにも光る指輪には、鈴姐のお好みの色でもある紫色の大きな石が光る。

「呪文の詠唱は?」

「問題無し、のハズ……」

「最後の復唱は?」

「それも特には問題があるとは思えなかったわ。そうでしょ、レイジ」

 急に話を振られてレイジが一瞬慌てた顔つきになったが、すぐに冷静な声で「ああ」と簡素に告げる。

 鈴姐は重ねて、呪文詠唱についてその用法をナミに問うが、ナミもまたそこに見落しが無いかを質問に照らし合わせて考え直す。だが、思い当たる節はなかった。

「じゃあ、解除について聞くけれども」

 昨晩の、あの簡単な解除の魔力行使についても段取りを一通り確認していくが、そこでも糸口らしいものは見当たらない、という結論に落ち着いた。

 更に鈴姐はナミの両手の指輪、左腕のブレスレット、両のピアスにも手を触れてチェックを入れていくが、いずれも魔力の通りは順調というのが彼女の見立てだ。これはナミの自覚通りでもあるので、彼女は頷きしか返せない。

「うーん……特に問題があるとは思えないわねえ。ナミの話を聞く限りでは」

 大まかに話を聴き終えて、北の魔女、この西乃市の北部コミュニティの中心人物は、自分用のお茶に手をつけることもなく、ため息をついて椅子に深く腰を掛け直した。ナミを見据え、またレイジを見て、と視線を合わせた後、ややふんぞり返った姿勢で腕を組む。それまで組んでいた長い脚を別方向へと組み直す無意識の仕草が、妙に艶めかしい。

 そして、

「あんたんとこの魔法陣は使い勝手が良い筈だから、その路線でのミスの可能性は低いだろうし……」

 などと、一人ブツブツと呟きながら、鈴姐は考えを深めていく。

 やがて、彼女はゆっくりと頭を振ると、ナミの傍ら、左隣に気配を消すようにして静かに座っている大男へと視線を真っ直ぐに向けてきた。

「で、神矢レイジ。あんたに確認するけれども」

 魔力無しであること、これまでの魔力行使の影響の有無、といったことについて、ナミとの雑談で判明している程度の話が問われ、返される。とはいえ、元々神矢老人の客人でしかない彼のこと故、魔力行使との接点はほぼ皆無と言っていいようだ。

「ここ数年は複数の国を渡って仕事をしてきている。その中には魔力持ちの同僚もいたこともあるし、その彼とは親しく友人づき合いもしていた。そこから、せ……ワタシとしても知らない内にその影響を受けている、といったことがあれば……」

「まあ、それが急に昨日の魔力行使に影響するってのも、タイムラグもあることだしまず考え難いのよねえ。せいぜい数日内に一度、かなーり大きめの影響をダイレクトに受けてさえいれば、まだ分かる話なんだけれども。一週間とか十日前にそういうことがあった、ってワケじゃないんでしょ」

 何も無い、と彼がはっきりと首を動かした。

 その方面の可能性で唯一考えられるのが沖田ソージとの手合わせだが、その影響云々といった可能性は無いと、彼女は断言してきた。この件は昨晩の電話での相談時に既に伝えている話でもあり、その後、深夜にもかかわらず鈴姐が直接ソージの自宅に出向いて本人に確認したというから、間違いないだろう。

「それに、ナミ当人でもない別人の魔力でそういうことが発生するって、まあ確率としちゃあ低い方だし」

 ナミ周辺の魔力行使に関しても、レイジに対して直接行った魔力行使は、昨日午後の契約行為の時点まで皆無である。ナミも眉毛を八の字に寄せながら考え込む。


「お茶、冷めちゃったわね。淹れ直しましょうか」

 ふと、鈴姐が、二人に向けて、優しい表情を見せる。

「この場合、あたしか誰か、つまり他人の魔力を通してあんたたちの魔力関係を強制的に契約解除、という手法はどうあがいても無理だからねえ」

 困ったものよねえ。本気で、心の底からのため息と共にそう続けながら紫の大魔女は席を立つと、ポットを置いてあるテーブルへと向かい、茶葉を入れ替えた急須にポットの湯を注ぐ。そして彼女は、優雅な足取りで二人の元へと戻ってきた。

「あたしがどうこう言いながら介入できる筋合いではないのよねー。まあ、あたしだろうが誰であろうが、ってことなんだけれども。他人の魔力に介入してそれを上書きするのは、こうした契約だとまずあり得ない分野だから。どこでどうリンクしたのかわからないけれども、強力な縛りが掛っちゃっているようね、あんたたち」

 ふう、と大きなため息をつく鈴姐。ブツブツと、解除の鍵は……などと独り言をいいながら掌に小さな形のいい顎を乗せて考えに耽っている。

「でもまあ、効力によっては時間切れ、が生じるかもしれないケースでもあるけれども」

 そして二人に対して、身振りのみで淹れ直したばかりの温かいお茶をすすめた。

「……っていう風に、時間が解決をする、というのは困るのよね? お互いに」

「まだ、時間的にもどの程度の強制力があるのかも判らなくて」

 力なく、途方に暮れたといった声で、ナミが声を返す。

「距離としては、どう?」

「中野町のわたしの学校と市街地までの距離を離れたけど、特にこれといって問題は無かったわ」

「けれどもそれも直線距離で三キロとか四キロくらいでしょ? ヒトの使役だもの、五キロ越えると多分強制力が働くわよ。というか、働かなかったら拙い事態に陥るかもしれないし。というか、陥ると思うわ。そう思っておいて頂戴」

 拙い事態、と言うその声色が気になり、そこを詳しく訊き返そうとしたナミを遮るように、鈴姐は続ける。

「まあナミの場合は……あんたの歳にしては結構立派な魔力があるから、もう少し距離が稼げると思うけれども」

 と二人に向けて視線を合わせながら語りを継いだ。

「そうかしら?」

 と、ナミは素直な疑問を鈴姐へと向ける。

「ええ。あんたの魔力はこの界隈でも指折りだもの。今年半成人を迎えたばかりの魔女としては、たぶん破格の馬力よ、あんたは」

 年長者たる大魔女は、若い魔女に素直な賛辞を贈る。

「そういうことで言えば、キチンと使役しようと思えば、結構なところまで手が届くかもしれない。あんたたち」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべて、鈴姐はナミ、レイジ、と二人を交互に見る。

「それじゃあ話題を変えて」

 と言う鈴姐は、それまでよりも明るい調子の声になる。

「契約のことと解除のことはさておき、現状で、何に困っているのかしら? その部分を整理して話して頂戴」

 つまりは、契約が継続する、風見ナミという魔女が神矢レイジという人間の使い魔を使役することで、双方にどんな不都合や不具合があるか、という話のことである。

「魔力の消費ー」

 ナミが真っ先に、語尾を伸ばして投げやりに言う。

「もう、体調がこんなに変化するなんて、思わなかったわー」

「そんなに大変なのか、ナミ」 

 ここで、それまでほぼ話に口を挟まなかったレイジが、傍らのナミへと心配そうに体を向けた。

「無理はするな、ナミ。今朝も言っただろう」

「そこまで無理じゃないわよ。ただ、この状態が続くとなると、他に割り振る魔力が減るのが辛いわね……まあ、そうしょっちゅうあることではないけれども」

 フム、と隣のレイジが、いつもの通りに、考えているようないないような、曖昧な相槌を打つ。

「それと……」

 ナミは鈴姐を縋るように見上げて、続ける。

「今晩も、彼をウチに泊めるかどうか。まずはそこから困っています」

 



――座標軸:風見ナミ


 外国人旅行者、神矢レイジ。

 旅行の査証ヴィザはただの観光ヴィザで、和国滞在可能期間も六週間程である。但し、その期間延長は制度面では割と簡単にできるから別に問題は無いし、旅行の予定も今後については特に決めていない、という大雑把な男である。

 当人が言うところによれば、和国来訪の最大の目的は先日までにほぼ完了しており、あとは観光を、そしてあわよくば何か将来的にも仕事に役立つような勉強やコネクションを、と思っていた程度。駄目でも見分を広げられればいいのだから、そこに加えて数週間程度の停滞ならば、これといって焦ることも何も無い。

 そう、ナミに告げた通りのことを、彼はここでも同じように口にした。

 そして、それまで働き詰めだった分、これから二年近くは放浪の旅でも構わない程度の余裕がある、ということも。因みに、お金を貯めた当初の目的は中退した大学に戻る費用だったとのことだが、学問への意欲といった面も含め、今は復学を迷っているという。


「となると、最長でも二年の猶予があるわけじゃない!」

 と、これまた大雑把な、笊のような自身の感覚を隠すこともなく、コミュニティの統率者である紫の大魔女の返答が返ってくる。もちろん彼女は、レイジの査証ヴィザのことなどは頭にも無い。

「とりあえず、何日か何週間か何カ月か、あれこれ試したりしていけば、その契約破棄も見通しが立つってもんじゃない?」

 あるいは、それこそその間に「時間切れ」がやってくるかもしれないわけだし、と鈴姐は朗らかに続ける。

「つまりは、要約すると……」

 魔女的には半成人、年頃の娘の一人暮らし状態のところに、魔力持ちでもない異性の成人が、ほぼ付かず離れずの使用人として側に控えるという生活になる……ということに話が落ち着いていく。

「……ということに、あんたら二人がどこまで納得いくかどうかよね」

 ナミもレイジも、揃って絶句する。一週間前に知り合ったばかりの魔力持ちと魔力無しが、いきなり共同生活というのは、それぞれの想像の枠を超えていた。

「そうは言っても」

 と、どこか軽やかな声色で、鈴姐は続ける。

「今の力関係だったら、ナミの意思がない限り、コイツはナミには指一本触れられないわけだしね。なーんの悪さもできない、ってコト」

 悪戯を企てようという猫のような笑みを浮かべて鈴姐が二人を見て笑ったものの、一瞬で真剣な目に戻り、

「まあ、使役関係のあるなしはひとまず置いたとしても。魔力無しが魔力持ちを出し抜くなんてこと、そう滅多にできないと思うけれども」

 と、艶のある声色で話をまとめる。

「むしろ使用人として、正式に雇うという契約もありかもしれないわね。あんたたちさえよければ、の話だけれども。法的な雇用契約とでも言うか。合法的な契約に持って行った方が、滞在資格だとかなんだとか、むしろいろんな意味で安心かもしれないわ。でもまあ、そうした法的な話だと、それ、神矢のお師匠さんに話を持って行った方が早いかもしれないわよ、ナミ」

「ならば、神矢師の御宅に滞在を考えるか、あるいは近所で宿を探すという……」

 と、レイジが冷静な声で言うことばを、鈴姐はあっさり遮る。

「無理無理。使い魔なんでしょ、あんた。そんなにナミの体に負担掛けたいの?」

 驚いた顔で、レイジが大魔女を見遣る。対する彼女の、ナミの使い魔を見る目は冷ややかだ。

「離れた分だけ、魔力面での負担は大きいってこと。そこんとこ、あんたも使い魔だったら忘れないでいて頂戴」

 驚いていたレイジの顔が、すぐさま真剣になる。

「それにそんなのどうせすぐ、強制力が働いちゃうから。世界は何やかやで、主従の長時間の遠距離関係を維持できないように回っちゃうのよ」

 艶やかな瞳を持つ大魔女は、冷たい表情をレイジに向けたまま冷めた声で呟いた。けれども彼女は一瞬目を閉じると、今度はナミへと向けて温かいまなざしを向ける。

「但し個人的には、魔力無しをあたしたちの大切なナミの側になんぞ置いておきたくないんだけどね」

 それは、心底心配している、という顔だった。

「ともあれ、ここにいてもやれることはないわね。問題の整理にはなったようだけれども」

 そして、つい、と鈴姐は立ち上がると、また冷めた目線を隠そうともせず、レイジを見下ろす。

「あんた。少しだけ話があるの。いい?」

 ついてこい、という身ぶりで、彼への乱暴な口ぶりとはちぐはぐなほど優雅に踵を返すと、仕立ての良い紫のスカートを翻して彼女は歩き出す。レイジは小さく頷くと、彼女に次いで立ち上がった。

「すぐに終わるわ。コレ、借りるわね。ナミは、ここで待っていらっしゃい」




――座標軸:風見ナミ


「ナミ、ごめんね。あんたの使い魔借りちゃって」

 集会場の引き戸を軽快に開けて、鈴姐とレイジが戻ってきた。ものの数分離れていただけだが、ナミの顔には二人を見て安心した表情が浮かんだ。

「まあ、普通と言うか、一般常識のお灸をすえてみただけよ。一人暮らしの女の子の所に三十路がちらつく男が転がり込むんだから。それ相応のデリカシーを持って対処すること、あとは魔力無しは魔力無しなりに、出来る限り早く契約解除のための手法を探ること、ってね」

 それだけよ、と念押しするかのように、この人のいい大魔女は、ちょこんと椅子に座ったままのナミを覗き込んで微笑んだ。

「こっちでも書物でいろいろと調べたり、別コミュニティに問い合わせしたり、幾つか当たってみるわ。ナミはナミで、自分の力で調べて、手法を手繰り寄せなさい。尤も、人に質問を送る場合は、自分の例だって言い触らすようなことはしないで、『どこかの誰かが~』って、他人だとか外国だとかの例にしておくようにね。必ずよ。それと、」

 レイジとの距離があるのをいいことに、鈴姐は彼をちらりと見遣った後、ナミの耳元に、

「魔力無しとは、常に一線を引いて接しなさい。使い魔は使い魔。使用人は使用人でしかないのよ」

 と、小声にしてはえらく力の入った強い声で、彼女にことばを放ってきた。

 二人のひそひそ話をする様子を見て、ムスッと不快そうな表情を浮かべたレイジが、しかしすぐにその表情を仕舞い込むのを、ナミは視界の隅に留めた。


 結局ここを訪ねても、確実な結論は得られなかった。鈴姐の声からも、ナミは暇の時間だと理解した。

「あと、用事がなくてもいいから、時間があるようだったらいつでもいいからこっちに顔を出しなさい。何か、変化があるかもしれないし。あんたの顔を見られるってだけでもあたしは嬉しいし。週一くらいで顔を見せなさい、ナミ」

「姐さま……ええ。ぜひ」

 鈴姐の動作に誘われるようにナミも立ち上がる。そして、軽く、鈴姐に抱きつくように彼女の腰に両腕を回して、

「いろいろありがとう、鈴姐さま」

 しばらく、そのままの姿勢で、年上の美しい女性の体温を感じていた。

 対する鈴姐が、ナミの両肩から背中へと大きく腕を伸ばして、覆いかぶさるようにしながら彼女を引き寄せる。

「あんたは、あたしの親友の忘れ形見だもの」

 小さく、呪文が綴られる。それは、鈴姐の家に伝わる彼女独自の呪文。神の加護を祈る呪文だ。

「イリスウェヴ神のご加護を」

 そう、ナミも返して、腕を離す。レイジの方へと歩き出すナミに、その背中から鈴姐は声をかける。

「そこの使い魔。あたしたちの大事なナミに下手な事やらかしたら、承知しないからね! 身の程を弁えて接しなさい」

 と、彼女の背を通り越して使い魔へと直接ことばを飛ばす。

「ナミ、どうする? ソージに車出させる?」

「いいえ。まだバスのある時間だから、それは遠慮しておくわ、姐さま。そろそろ夕飯時だもの」

 先にレイジが、次いで女性二人が部屋を後にする。彼女たちの先を行くレイジは、既にこの家には用が無いとばかりに二人の様子に対しては淡白な身振りでことばも無く先行している。

「それならせめて、誰かに、バス停まで送らせようか?」

「大丈夫よ。わたしもだけれども、こいつも強いから」

 ナミは、屈んで靴紐を結んでいるレイジの肩をパン、と力任せに上から叩きながら、鈴姐を自慢げに見上げた。

「それに、姐さまも夕飯の支度とか、いろいろと大変でしょ。センセイ、帰ってきちゃうんじゃないの? ハヤト君たちは?」

 ナミが、鈴姐の家族のことを気づかって話題をそちらへと振る。彼女の会話の意図に気づいて少し顔を赤くした鈴姐は、「ばかね!」とそれまでの姐御っぷりをふっ飛ばすかのような年甲斐も無い可憐な照れっぷりを見せる。

 パートナーにベタ惚れの鈴姐には、何かあったら「センセイ」の話題を出すとご機嫌がてきめんに改善する。これは、いつものことだ。

「といっても、もう遅い時間ね。子どもたちには、何かあれば自分で用意するようには言ってあるから。やっぱり誰かの車、手配しようか?」

 真剣な面持ちで、鈴姐はナミへと振り返る。

「……ってあんまり広く知らせない方がいいからなぁ、この件は。困っちゃうわね。ソージくらいしか使える駒が無いわー」

 二人に続いて、鈴姐も外へと出てくる。いくら温かいこの地方とはいえ、この時期のこの時間であれば寒さはまだ厳しい。多少の防寒は魔力行使でもなんとかなるが、二月の夜ともなるとそれでは埒があかない気温である。コートも何も羽織っていない、室内着のままの彼女が寒そうに見えたナミは部屋に入るよう促すが、鈴姐は、「そこまでだから」とその格好のまま立っている。

「お互い、できるだけ早くの解決を頑張りましょう。連絡はほんっとできるだけマメに頂戴。それこそ毎朝毎晩の電話でもいいわよ」

「ええ」

「それと使い魔!」

 今度は、ナミにではなく、レイジに対して、鈴姐が声をかける。

「あんたも……解ってるわね?」

 声には出さず、辛うじてなんとか肯定と取れなくもないボディランゲージで鈴姐へと頭を下げると、レイジは素早く振り返って前へと歩き出す。ナミはまだ、鈴姐の方へと大きく手を振りながら、それでも先へ行くレイジを気にして、後ろ歩きを止めて前を向き、鈴姐の家から離れていく。

 運がよければ最終のバスよりも早いものに乗れるだろう。時計を見たレイジの「急ごう」という声を受けて、二人はコミュニティを後にした。




(つづく)

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