第010話 02月21日(日曜日)その参「人生ってものは大体そうやってできている」

――座標軸:風見ナミ


 既に周囲に人はいない。道の上で早くも、ナミは自分の使い魔に最も気になっていた点、つまり須田兄ィとの手合わせの際の魔力行使について、根掘り葉掘り聞いていた。

「スピードが急に上がったのは確かだが、自分でバランスを制御できなかったな。身体が軽く、切れが良くなったことはいいと思うが、事前に言ってくれればまた違った対応となっただろう。パワーについては、先程の掃除の時とあまり変わらない。せいぜい平時と比べて一割増しといったところだろう。実感は鈍いが制御はし易い」

「ということは、魔力の反応だけを見ればスピード関係の方が反応はいいってことね」

「だろうな。あとは、君がどのくらい魔力を乗せてくれていたかにもよるだろう」

「やっぱり事前打ち合わせが肝心ね。今度はそれでいきましょ」

 一瞬、彼が息を飲み込んだ気配を、彼女は感じた。

「……次もあるのかね?」

「……あ。そうね」

 思わず、レイジの返事に彼女は苦笑いを浮かべた。

 そうしてあれやこれやと魔力行使の関係について話を重ねたが、そろそろ今日の件についての話は聞き尽くしたようだ。そもそも使い魔の使役そのものが、数時間分だけのものだ。それだけの短時間では判ることも少ない。そう思い、彼女は少しばかり肩の力を緩めた。


「それと、ナミ」

 そう彼は呼び掛けてきかけてきたが、そこで一呼吸置いてから、改めて右隣の少女へと瞳を向ける。

「何?」

 そこで区切られた理由が想像できなかったので、彼女は左隣の大柄の外国人を真っすぐに見上げる。

「彼は随分と真っすぐな男なのだな」

 彼? と聞かれて、ナミは瞬時には誰も想像できなかった。だが。

「は? ああ、須田タツヤのこと?」

 声も無く、レイジは肯定の頷きを返した。

「魔力持ちだというのに、道場では不正を許さない。見ていたところ、指導も公平、公正で適切だったし、拙……ワタシへの怒りも正当なものだと思う」

 そこで一旦区切ると、レイジは黙った。何か含むものがあるのか無いのか。彼はそれ以上のことは言わず、ナミが見つめてもその表情からは何の感情も読み取れはしなかった。

「ナミは、彼とは付き合いが長いのか?」

 間に詰まったからなのか、レイジは至極どうでもいい、と言いたげな様子で彼女にその話題を振ってきた。

「そうねー、結構長いわよ。年齢一桁の頃からになるから」

「その間、あの男はあんな下品な会話で君をずっとからかってきたというのか?」

「というか、あの喋りは空気みたいなものだから。あの人の」

「そうか」

 ならばいい、と言いたげなその顔を見て、ナミはレイジが唯一須田兄ィに対して怒りの表情を向けたのが、兄ィの性的な発言だったことに気がついた。

「ああ、あれを侮辱と取らないでね、わたしたちの付き合いは長いし、別に他意が無いのも解っているから。まあ、彼があちこちで、その女の子が魔力持ちだと知った途端すぐさま声を掛けまくるアホだってことは確かだけど」

 大丈夫だから、という意味も込めて、にこやかにレイジに笑いかける。彼も納得したのだろう。それ以上彼女へは何も言ってこなかった。

「そうだ。レイジ、着替えは持ってきてる?」

「いや、先程の服を着るだけだが」

「シャワー浴びるでしょ? お風呂場貸すから。下着、持ってきてないんなら、スーパーで買いましょうか」

「はぁ」

 この男らしからぬ間抜けな返答が漏れる。彼女の以前の観察の通り、どうやら無駄な出費をしたくないのだろう。そう踏んで、ナミは強い調子で言い切ることにする。

「わたしも買いものがあるから、荷物持ちをして頂戴。夕飯の食材も買っちゃうから」

「ナミは……」

 レイジが、何か疑問を抱いているといった表情を小さく浮かべて彼女を見つめている。

「経済面ではどういうことになっているのかね? 神矢師匠の支援なのか、それとも魔女コミュニティからの借財なのか」

「ウチの、風見の財産よ。尤も、守ってくれたのは神矢のおじさまと、あとは管財人としてならば教会の司祭もだけども」

「司祭?」

「ええ、昨日も会ってきたわ。和国法的にはわたしの保護者役」

 そこで一呼吸置いて、

「魔力持ちよ」

「司祭……ああ、イリスウェヴ教会か」

 そういうことか、と続く彼の呟きが彼女の耳に届く。

「やっぱり教会に頼らないとどうしようもならない面は沢山あるからねー。特にこの辺りは先の『戦争』、魔女狩りの激戦地だったから。その対処や戦後の復興といった場面にも、教会の存在もその役割も重要だったのよ。なんせ肝心の中野町の魔女コミュニティが徹底的に破壊、解体されてしまっていたし」

 この国の歴史に暗い外国人に簡単に地元の現代史を語る、といった様子で淡々と説明しながら、ナミは自分の使い魔を従えて坂道をどんどんとバス道へと向かって上って行く。

 買いものの話を出した段階で、既に風見の家の前を通り過ぎていた。会話は途切れ、そのまま坂を上って歩いていた二人だったが、途中でレイジが足を止めた。

「どうしたの?」

「いや。この辺りからの眺めはいい景色だな、と思ってな」

「ああ。昨日もそんなこと言っていたわね」

 ナミも足を止める。左を歩いていた筈のレイジは彼女よりも二、三歩分ほど後ろにいて、体は坂の下へと向き直っていた。彼に倣って、その隣へと彼女も寄って行った。

「遠くに海が見える。そして街が見える。手前には我が家が見える……まあ、我が家と言っても、君の家だが」

 そう言った彼の声色は深く温かいものがあったが、その表情には僅かばかりの寂し気な色が浮かんでいるように見える。尤もその顔色は一瞬のことで、表面上はすぐに見えなくなってしまった。だからナミも、そこのことはあまり追及しないでおくことにした。

 そして同じように、彼女も坂道の下に広がる西乃市の中野町から市街地までの広がり、その風景が夕景に染まり始める姿を、ゆっくりと瞳に映した。

 そこはナミにとっては見慣れた風景である。南側に広がる市街地の風景とその先に遠く見える海岸線は、彼女としては確かに嫌いではなく「好き」と言える範疇に入るのだろう。だが、この数年の間はその風景を綺麗かどうか、そのような判断などしてこなかった。レイジはそこに美を見出し、彼女はそこに何も見ていなかった。そういうことだ。


 ……自分の中で、何かが、欠けている……

 そんな考えが少しだけ、彼女の脳裏を過る。


 気がつくと、彼女の半日だけの使い魔は踵を返し再び坂道を上り始めていた。

「急ごうか、ナミ。契約が切れる前に買いものを済ませよう」

「……気が利く使い魔で助かるわ」

 既にレイジの表情は、いつもの、どこか不機嫌さを思わせる無表情に戻っていた。

「レイジ、カレーでいい? 冬らしくないんだけど」

「そうか、夕飯は君が御馳走してくれるのだったな」

「ま、時間いっぱいはこき使うけどね」

 下心を隠しもせず、丸出しにして、しかしにこやかに笑うと、ナミは左を歩く使い魔に強い意思を込めて念を飛ばした。

 ――走れ! ――

 え、と驚いた表情を一瞬浮かべた男が、少女の前へと先行し坂道を走り出す。ナミは、頭の中に最寄りのスーパーへの道と目的地の建物の外観を明瞭に思い浮かべる。彼も疲れてはいるだろうが、基礎体力的にまだまだ走る余裕はある筈だ、などと考えながら。

「先に行ってて。下着は好きなのを買えばいいわ。会計は食材と一緒にするから」

 もう、彼女の声が届く範囲ではない。けれどもこの命令は、間違うことなく守られるだろう。

 それにしても、中学生に下着を奢られる三十路、じゃなかった、二十代後半って、どうよ、という気もしなくもないが。まあ自分が使役している立場である以上、そのくらいの出費は経費だと、彼女は割り切ることにした。




――座標軸:風見ナミ


 スーパーの入り口で籠を手に取りながら、魔力探知器に引っ掛からない程度の微量の魔力を視力に乗せる。すぐに自身の使い魔を見つけると、ナミは彼の方へと進んでいく。彼の方もすぐに彼女に気がついて、足早に彼女へと合流してきた。

 それぞれが道着にジャケットを羽織っただけという、見た目にも寒く見える格好をしている。それもあって、できれば早くに用件を済ませたいとナミは考えたのだが、目の前の男はそうでもないらしい。

 八年ぶりだという和国への、まだ一週間かそこらの滞在である。この背の高い使い魔は何を見ても異国情緒を感じるらしく、実に珍しそうに「あれはなんだ」「これはなんだ」と、店内の商品からデイスプレーから何から何まで、彼女に矢継ぎ早に質問を飛ばしてくる。和語の説明書きが殆ど読めないというのも、地味にその傾向を後押ししていたのだろう。彼女も、それに対して端的に解説を返していく。

 その合間に野菜を籠に放り込み始めたところで、彼女は小さな疑問に行きついた。

「レイジは何か宗教上食べちゃダメ、なんてものある?」

 彼女が魔女として相応の信仰を抱いているイリスウェヴ教の場合、食事に関する戒律は殆ど無いも同然だ。せいぜいが「季節に合った食べものを選べ」「その土地の食べものを大事にせよ」「過食は慎め」といった、学校の道徳と同程度のお題目があるに過ぎない。だから彼女はこれまでこの手のことをあまり気にしたことは無かった。

 だが、これまでレイジが何かの信仰を持っているのかどうかをまったく話題にしてこなかったことに、彼女は今更ながらに気がついた。ムスリムか、あるいはメジャーなところでキリスト教か。ムスリムだと豚肉ダメだったっけ、などと思いながら彼に訊ねたのだが、禁止項目のようなものは何も無く「何でも食べる」という内容の彼の返事に、ナミはさっさと豚肉を選択した。

 根菜と肉を中心に、ほうれん草といった冬の葉物を少々、あとはりんごを二つ。みかんはまだウチにあったかなー、などと彼女は想像を巡らす。明日の魚も買うか、それとも予備で鶏肉にでもするか……左を歩く自身の使い魔を見て、どうせどんなに荷物が重くなったところでこの使い魔が運んでくれる、と思い直す。「うん、両方買おう」と自分にだけ小さく呟くと、彼女は両方を籠の中に無造作に放り込んだ。

 まだまだスーパーを回り足りないという顔で名残を惜しむ使い魔を無視して、彼女は急くように会計を済ませる。早くシャワーで身体を綺麗にしたい、という年頃の少女らしい気持ちもある。また、風呂と調理の時間調整も彼女は気にしていた。

 会計を済ませ袋詰めのコーナーに来ると、

「ナミ」

 名前を呼んで、レイジがやや躊躇いがちに彼女の手を取ると、むき出しの和国紙幣をそっと、しかし意思的に押し込んできた。それも、驚いた彼女が手を引っ込める間も無く、どこか有無を言わせない所作でもって。

「ナミ、ワタシの分だ」

「は?」

「いや、下着だとか。ワタシの私物のことだが」

「別にいいわよ」

 けろり。あっけらかんと、左側に立つ背の高い使い魔に、彼女は言い渡す。現金は手に乗せられたままだが、彼女はそれを動かさない。彼を見つめているだけだ。

「いや、ナミ。それはできない」

 そんな彼女の返事、そして手元を見て、更に目元に強い力を籠めて、レイジが彼女を見ている。

「ナミが何を勘違いしているのかは分からないが、ワタシは別に自分の分の支払いを他者に押し付ける程、ひどい貧乏旅行をしているわけではない」

 そして、足りているかね? と付け加えて、そのまま彼女の腕をそっと彼女自身の身体へと押しやってくる。

「足りているのならば、端数は君の取り分で構わない」

「……分かったわ」

 年齢的な差もある。相手は彼女の倍近くは生きている年長者だ。こうした押し付け合いは彼のプライドにも関わるだろうと思い、彼女はそれ以上の無理強いも追及も止めることにした。

 そうは言っても、無駄金を遣わせてしまったのは、彼女の段取りの悪さのせいではある。何となく、気持ちの収まりが悪い。

「まあ、夕飯を君に御馳走になるのだ。そう気に病むことはない」

 まるで彼女の気持ちを見越したかのような彼のことばに、ナミは不思議に思いながら彼を見上げた。

「そんな『申し訳ない』みたいな顔をしないでくれたまえ、ナミ」

 ……なんだ、そういうことか。彼女自身が思っていた以上に、彼女の顔には気持ちが出ていたらしい。

 時間があまり無いことを思い出し、彼女は慌てて荷物の収納を開始する。彼もそれに従う。二人であーだこーだと言いながらエコバッグに収納すると、全てを彼に持たせて、念だけで「急ぎましょ」と彼女はレイジに先を促す。この段階に及んでも未だスーパーのあれやこれやに興味津々の様子だった彼も、彼女の命令が優先とばかりに、その表情とは別に体を動かし始めた。


 家に戻ると、

「先にシャワーを使ってちょうだい。わたしは夕飯の下拵えをするから」

 と彼女は明確に指示をする。食事の用意を彼に手伝わせる気は彼女には無い。多分、入れ替わりに彼女が入浴を済ませば、契約解除に丁度いい時間で、そのまま夕食に突入できるだろう。

 根菜をストックヤードに置き、それ以外の食材の内、使わないものを冷蔵庫に収納し、使うものから先にどんどんと洗ったり切ったり分けたりと、仕込みをしていく。

 シャワーも遠慮がちに進めたのか、レイジはかなり短い時間で出てきた。そこで彼女は、料理の段取りをどうするか、少し考える。

 今日はキーマカレ―の予定なので食材を細かくすれば調理自体にさほど時間はかからない。ただ、単純に出来上がりまで彼を待たせるのであれば、やはりその間に何かを手伝ってもらうという判断もあるだろう。

 だが、昼間の少しの手伝いだけでは彼に調理をどこまで任せられるのか、その見当が彼女にはつかなかった。片づけだけならば、彼一人でも問題が無いことは解っているのだが。

「ナミ、先にシャワーを貰った。ありがとう」

 入る前もそうだったが、出てきてからも彼は律儀に礼を言ってきた。

 料理の途中ではあったものの、段取り的にひと区切りにきたところで、彼女も先にシャワーを浴びることにした。浴槽に浸からず短時間で出れば、夕食への影響は最低限で進められるだろう。

「覗かないでよー」

「まさか!」

 ニヤリ、今度はレイジがやや小莫迦にした笑いを浮かべる。

「その台詞はあと数年先の為に取っておくんだな」

「フン!」

 彼の嫌味に、顰め面を投げ返す。

 すると、

「まあ、ワタシが何かやらかしたところで、魔力を行使された君にはとてもじゃないが太刀打ちできないよ」

 と、先刻までの表情を一転させ、やや情けない顔となった彼が、彼女を見下ろしてそう続けた。

 ほうれん草は茹でられるとのことなので、それだけを指示として残し、彼女も稽古の汗を流しに浴室へと向かった。

 長い髪をまとめてアップにし、体だけ軽くシャワーを浴びて出てくると、彼女は黒を基調とした服装に身を包んで台所へと戻る。

「お茶でも飲むかね?」

 ほうれん草を茹でただけで手持ち無沙汰だったのだろう、レイジが温かい湯気の上がるカップを差し出してきた。

「君の家のミントティーだが、風呂上がりの水分補給には丁度いいだろう」

 そう言う彼のことばが届く前に、彼女の鼻孔を涼しげなハーブの香りがくすぐった。

「いいわね。いただくわ……その、ありがとう」

 思わぬ気遣いに、ナミは少しばかりこそばゆい気持ちに晒される。けれども、そんな自分の気持ちを気づかれるのもまた恥ずかしい。だから、素っ気なく彼を一瞥する。彼の方はそんな彼女を気にする様子も無く、自分用のお茶のお代わりを注いでいる。彼女も安心して、体にその香りがほんのりと沁み込むようなミントティーを、小さく口に含んだ。爽やかな香りが、鼻へと抜けていく。

 そこで気持ちをしっかりと切り換えると、彼女もエプロンをつけて、料理の仕上げに取りかかった。


 ご飯が炊き上がる。ほうれん草のおひたしは先に出してあり、後はカレーに再び火を入れるだけだ。

「レイジ。食事の前に、先に契約を解除しましょうか」

 時計は既に午後の六時を回っている。太陽はとっくに地平線の下へと沈んでいるだろう。「街では法律の施行記念の集会が始まっている頃だなあ」と彼女の思考が一瞬、市街地に集まっているであろう仲間たちのもとへと飛んだが、目の前の男に気がつくと、彼女はエプロンを外して居間のソファへと彼を誘導した。

「地下室でなくてもいいのかね?」

「解除だけだもの。ここで充分よ」

 そして彼女は、彼に対して右手を差し出す。彼女の中指で黒銀色に鈍く光る指輪の上では小さな青い石が炎のような煌めきを放つ。

 ――では、ここに誓いを――

 彼女は口に出すこともなく、使い魔・神矢レイジを足元に跪かせる。

「これにて契約は終了する。天には星を、海には風を、地には光を、緑に慈雨を」

 簡単な詠唱を終える。促されることもなく、彼は、昼間とは反対の手の上にある石に口づけをする。


 ゆっくり、彼が起き上がる。

「……これで終了、の筈なんだけど……」

 ……おかしい。

 体の重さも、軽さも、ずっと魔力が減っている違和感も、寸分の変化も無い。

「レイジは。どう?」

「いや。どう、と言われても」

 事実、彼が契約直後から彼女のように体調に微妙な変化があったという報告は無い。武道者として自分の体の変化に敏感であろう彼が言うのだから、実際にそうなのだろう。

 それに、被術者の彼にとってみれば通常時に関しては術者程の負担がないということもある。彼にとっては本当に、術の施行前も施行後も、そして今も、体調に関する変化は何も無いようだ。そう、彼女は結論づけるしかなかった。


 ――じゃあ、お茶淹れてくれる? ――


 と、ナミは、敢えて声を止めて、思念を送る。

「分かった」

 と答えて、レイジが台所へと移動する。

 ……やっぱり。

「レイジ」

 声を掛けると、彼が彼女の意を汲んで、動きを止める。これも、呼んだのは名前だけ、止まれの指示は意識だけだ。


「契約が、解除できていないわ」


 多少の焦りはあったものの、ちょっとした手違いだろう。そうした確信のまま彼、女は続ける。

「レイジは、体調に変化はないのよね?」

 ナミの質問に、確かめるように自分の体を見回して、レイジが声に出して返事を返す。

「うむ、何も」

 そう言うと、彼が再び居間のソファの側に立ったままのナミの許へと戻ってくる。行動の指示にナミは一切の声に出していない。念を飛ばすのみである。それにそのまま従っている彼にしても、その不自然さには既に気づいている顔だ。

「もう一度、かね?」

「そうね。でも、失敗するような呪文じゃないんだけど……」

 魔力も念も足りていない筈はない。とはいえ、解除に失敗したのは、間違いない。

 ……

 ……

 ……

 二度目は、念を押して、丁寧に呪文を唱えた。

 三度目は、きっちり意識を強化して、更に強く呪文を唱えた。

 四度目。彼女はレイジを地下室へと連行した。

 そして、五度、六度。何度やっても、変化は訪れない。聖水を使い、薬草を使っても、気休めにすらならず、変化は一切訪れない。

 この半日で結構な量の魔力を使い魔の使役のために取られていたせいもあり、彼女は自分の腹にも足にも力が入らなくなってきていることをぼんやりと自覚する。

 そんな彼女の焦りといら立ち、疲れに気づいたのだろうか。

「ナミ」

「なに?」

 思わず、苛立った声で彼に返す。けれどもそこへ、

「先に食事にしよう」

 いつものように冷静な低い声で、レイジがナミに休憩を促した。

「君の顔色が悪い。何か、腹の中に入れた方がいい」

 真剣な表情で、彼が腰を落としてナミの前で屈み込み、その顔色をじっくりと見つめる。地下の、蝋燭の炎だけの明かりで判るほどの顔色なのだろう。それが魔力消費を要因とする疲れによるものなのか、あるいは術式解除の失敗への焦りからなのか、彼女自身もよく判らない。

「食べれば何か、いい案が見つかる。きっと」

 地下から上がろう、と彼が身振りだけでナミに促してくる。何かを返すことも無く、彼女はその提案に従って部屋を片付け、扉を閉め、呪文を紡いで鍵を閉めた。

 階段を先行しながら、彼が口を開く。

「少しインターバルを取ろう、ナミ。それから再度試せばいい。休んでいる間に何か忘れていたことやものを思い出すことも、ままあることだ」

 まずは食事だ。そう、彼は念押しのようにして続けた。

「大体、人生ってものはそうやってできているのだから」

 低く豊かな音量の努めて明るい声で、レイジが続ける。


 一階に戻り、食卓の椅子へと力なくへたり込んだナミをそのままに、先ほど作り上げたばかりのカレーをレイジが温め直し始め、同時に薬缶に火をかける。

「こういう場合、お茶は何がいいかね?」

 しかし、ナミからの返事の声は届かない。心配そうな表情を一瞬だけ浮かべると、レイジはテキパキと複数あった紅茶の缶を眺めて、彼女に何の断りも入れることなく一番高そうなものを惜しまず選択していた。小声で零した「ハーブティーをとっておけばよかったか」という彼の声にも、彼女は気がつくことは無かった。

 そして、

「本来ならば、食後に飲むのが筋だろうがね」

 と言いながら、ナミの使い魔は彼女の前に紅茶のカップを置く。うっすらと不安の浮かぶ瞳で、けれどもかたちだけは笑みを浮かべて、彼はナミへと視線を落としている。

 カップを置かれたナミはというと、ただ、深刻そうな、何かを一所懸命集中して考えているような、それでいて涙を堪えているような……とにかく複雑な表情で、先程からずっと無言のままだ。目の前の紅茶に気がついてもいない。

「空腹ではないのかね、ナミ? ともあれ、食べて、温まった方がいい。きっと」

 使い魔に据え置かれたままの男は立ち上がると、温まったカレーとご飯を盛り付けて、彼女の前へとドン、と置いた。自分用には、その倍くらいの量の、溢れんばかりのカレーを盛り上げている。

「食べよう、ナミ。食べればきっと、いい知恵も見つかる」

 地下室と同じようなことを再度口にして、彼は一人手を合わせると「いただきます」と声に出し、モリモリと食べ始めた。

 カレーの匂いに、彼女がようやく気がついた。

「ナミ。すまんが、先に食べているぞ」

「うん」

 小さく返事を返して、彼女もカレーを口に入れた。口に入れてから、いただきます、の詠唱を忘れていたことに気づく。そこでスプーンを改めて両手に持ち手を合わせるような形を取って、彼女は「いただきます」と小さく呟いた……カレーを咀嚼しながら。

 元々お喋りとは言えない彼女の使い魔は、普段のままに、一人で黙々と温かいカレーライスをその口の中へと押し込んでいく。

 一方のナミもまた、食べ始めると空腹が刺激されたのか、結構な勢いで食事を進めていく。

「ナミは、あまり魔力の行使に失敗した経験がないのか」

 皿の中の食べものを半分ほど片づけたところで、レイジがポツリ、と独り言のように彼女に漏らす。

「失敗に落ち込んでいるわけじゃ無いわよ」

 ここでようやく、彼女がやや挑戦的な目線を彼に返す。彼女の青い瞳に力が戻ったのを見て安心したかのように、レイジが微かな笑みを浮かべて正面の少女に目線を向ける。

「どんな算段を組むか。理由は何か。一所懸命考えていただけ」

「まあ、そう焦ることはないだろう」

 本来ならば、使役する側のナミよりも、使役される側であるレイジの方がはるかに被害は甚大な状態のはずだろうに。彼はそのことを気に留めている様子を、少なくとも表面上は何も見せていない。

 それは、事態の深刻さに想像が及んでいないからなのか、あるいはその程度のことならば問題がないと高を括っているのか、はたまた未知なる経験だとあるがままを受け止めているだけなのか。それまでの数日間であっても、海辺での一件以外にこの男が大きく動揺した姿をナミは見たことがなかったので、余り動じない性格なのだろう、と彼女は彼の反応については一旦思考を切り離すことにした。

「拙者……ワタシの和国訪問に関する最重要案件は、昨日までの段階であらかた片付いている。滞在中の予定については、幾らでも調整がつくから、そこでの問題はあまり考えなくていい。今日はキチンと休養を取って、明日の朝にでもまた試せば、案外、上手くいくものだよ」

 レイジよりも少量だった皿のカレーライスは、既になくなっていた。おかわりをしよう、と彼女は立ち上がる。これだけ空腹ということは、やはり使い魔の使役、その契約を履行中だという状態であるだけで、その為に相当の魔力を消費している、それを体から突きつけられている、ということでもある。

「相談を持ち掛けるにしても、今晩は式典で主だった顔ぶれはみんな外出中だものね」

 自分の頭の整理も兼ねて彼に状況を説明していく。見ると、レイジの皿もほぼ空に近い。

「おかわり、いる?」

「いいかね? ああ、ぜひ」

 二人分の皿を持って、ナミは台所に入る。

「ご飯、あとどのくらい食べる?」

 と彼の方を見遣ると、レイジは中央の皿のほうれん草をワシワシと食べ続けていた。

「そうだな。皿の半分くらいあると助かる」

 それにしてもなぜ、この男はこの事態に、全く動じている様子が無いのだろう? ナミは改めて神矢レイジと名乗る大きな男を見る。背中を見ても、横顔を見ても、その表情には全く不安めいた様子は浮かんでいない。おかわりの皿を目にした時などは、何の不安も無い嬉しそうな表情を一瞬浮かべて、また元の無愛想な表情に戻る。それだけだ。

 ……食べよう。彼の言う通りだ。体調を整えて、明日また挑戦すれば、あっさりと解決するかもしれない。動じることなくカレーを口に放り込み続ける男を見ていると、ナミもまた段々と気持ちに張りが戻ってくるような気がした。食べて落ち着いたせいもあるのかもしれない。

「よければ泊って行くが。構わないか?」

「え?」

「明日早朝に解約の儀式をもう一度試そう。朝にことが済めば、君も学校を休まずに済む」

 それを聞いてナミは、客間の無い自宅の構造を軽く思い浮かべ、この台所続きの居間に予備の布団を運ぶかどうするかと思考を巡らせた。先日と同じだ。

「君からの魔力の縛りがある以上、拙……ワタシは下手なことは何もできない。結界を張る必要すらないと思うから、心配はしなくてもいい。まあ、不安があれば結界は好きにしてくれればいいが。二階にも地下室にも近寄らないから、問題は起きないだろう」

 まるで他人事のように言うと、話は済んだとばかりに彼はまた食事へと集中しだした。

 気がつくと、いつの間にか先に食事を終えていたレイジが、温かい紅茶のおかわりのカップを彼女の前に置いてくれた。

「ありがとう。その、……助かる。いろいろと」

「まあ、旅にも人生にも、ハプニングはつきものだ」

 いつものように、大きな二つの手でカップを囲むように持ち上げて中の茶を啜る。男の態度は、冷静そのものだ。

「……術の行使の失敗って、確かにわたし、殆ど経験がないのよ」

 だから、ちょっと途方に暮れたんだけれども。そこまでは口にすることなく、男の目線から外れるように、彼女は目線を泳がせた。

「そうね、動揺はしているわね……というか、この状態が続くと、わたし、ずっと魔力をあなたに放出しっぱなしになるから」

「そりゃあ、疲れるだろう」

「ええ。多分、今晩はぐっすりよ」

「式典とやらがなければ、神矢師にもすぐに相談ができたのだがな」

「まあ、そろそろ向こうも宴会に突入しているんじゃないかしら」

 それ相応の面子が揃う記念の催しだ。集会の後にはパーティの予定か何かが組み込まれていることだろう。神矢老人たちはバスで移動をしているからいいだろうが、須田兄ィは車だと言っていたか。飲酒運転にならないだろうか、大丈夫だろうか。あの夫婦は揃って酒を飲むのだから。それに、北のコミュニティの魔女仲間たちは、帰りはどこかに泊るのだろうか。北の魔女コミュニティ近くへと行くバスは、終バスが早いのだし……

 けれども皆に相談して大ごとになる前に、できればサッパリと終えてしまいたい。

 ここまでの大きな失敗を、彼女はそれまで経験したことが無かった。しかもその理由が皆目見当がつかない、という状態に、彼女は自分の魔女としての自尊心が傷ついていることを自覚する。けれどもそれは、目の前の魔力無しである使い魔に言うべきことではない。そのくらいは、彼女も判っている。

「ところでナミ。どうして今日は法律の記念集会をキャンセルしたのかね?」

 気持ちが落ち着いてきたところで、レイジから意外な質問が出されて、ナミは思わず目の前の彼へと視線を合わせた。

 使い魔のお試しの方が面白かったから? それともあの陰気な保護者である司祭に二日続けて会うのは御免蒙りたかったからだとか? ううん、それもあるけれども……この法律制定の直接的なきかっけになってしまった自分、この「青波の魔女」が、またも政治的な立場に巻き込まれるのは、もううんざりしていたから。多分、その辺りが一番近い感覚なのだろう。

 いつの間にか視線を外してただぼんやりと考えていた彼女に、レイジは、

「いや、話したくなければ、別にいいのだが」

 と、妙な気を回してきた。

 普段の彼女ならば、余計なお世話に感じられる部類の心遣いであったが、疲れているのか余裕がないのか、反論はせずそのまま彼の話を流すことにした。

「カレー、美味しかったよ」

 邪気の無い笑みを小さく浮かべて、レイジがナミを正面から見ていた。

「人と一緒に食事をするのは、良いものだな」

 ああ、これは彼の本心だろう。それがほんのりと伝わってくるような彼の声に、ナミもなぜか、心が穏やかに落ち着いていくように思えた。




――座標軸:神矢レイジ


 洗いものを担当した彼が居間へ戻ると、ナミが布団を運ぼうとしているところだった。

「ナミ。大物は、言えばこちらで運ぶ」

 疲れているのだし、休んでいればいいものを。そう口にするかどうか悩んで、しかし結局はそのことばをグッと飲み込んで、レイジは彼女からひょい、と布団を軽々と受け取るだけに留めた。それが子ども扱いと受け止められないように、と思いながら。

 再会してからの彼女を観察する限り、この少女は年相応の子ども扱いを極端に嫌うということが彼にもよく伝わってきてはいた。

 彼からしたら、ミドルティーンの存在などは、本当にただの子どもに過ぎない。ましてや、彼女はあの「小さなナミ」なのだから。九年間のブランクがあるとはいえ、彼の中でその認識はほぼ五歳の子どもと同様だ。

 尤も、どの国であっても基本、魔女は早熟だ。迫害の歴史、加えて出生率の低下。魔女、魔力持ちは早くに大人になるように、と周りからもその成長を急かされる。だから、彼女が年よりも大人びた表情をしたがるのも、自分のような年長者に生意気な表情を見せるのも、その物言いも、恐らくはそういった文化的背景も踏まえてのことなのだろう。そう彼は解釈していた。


 床の準備を済ませ、定宿としている市街地のゲストハウスに荷物を置いたまま外泊する旨の電話を入れたが、まだ時間は早かった。

 寝るには早いと考えて、彼はテレビをつける。ナミは食卓の椅子で、レイジは居間のソファで、それぞれ座ったまま、それぞれの位置からぼんやりとテレビを見る。慣れない和語のテレビは注意力を注いでいないと、彼には理解が難しい。後ろで座っているナミの気配を背中越しに意識もしてみたが、彼女はどうもテレビから情報を取ることにあまり熱心ではないらしい。結局、三十分も経たない内にテレビは消された。

「一階は好きに使って」

「ああ、助かる。むしろ、今晩一階に用心棒を置いている、くらいの気持ちでいればいい、ナミ」

 少し照れたように微笑む少女を見て、彼は心の中に温かい気持ちが灯るのを意識する。

「疲れているのならば、上がってくれればいい。こちらも適当に休むから」

「じゃあ、二階に上がるわ」

「朝は普段、何時に起きるのかね?」

「七時前には起きるけど……それじゃあちょっと遅いかも」

 明日の朝、再び契約解除のあれこれをやるのであれば、多少は余裕を持って起きたいと考えてのことだろう。

「では、ワタシは遅くとも六時過ぎには起きていることにしよう。日の出も、大方そのくらいだろう」

 大雑把に時間を決める。

「じゃあ、お休み」

「おやすみなさい」

 互いに挨拶を交わすと、彼女は階段を上って行った。

 部屋の中が静かになる。階上で少しだけ、気配がする。

 ……彼女は、二階と、そして地下室への入り口に、結界を張っただろうか。恐らくは、張っていることだろう。「神矢レイジ」はまだそこまで彼女の信頼を得ているとは思えない。

 これまで見ていたところ、彼女は結構なお人好しの少女ではある。だが、長いこと迫害されてきた歴史がもたらした魔女らしい用心深さは、彼女もまたその習性として持ち合わせている筈だ。

「……大きくなったな。けれども」

 何度もの術式の失敗の後。食事の前の、あの涙を堪えてへの字に曲がった口元。必死な顔。しかし、人前で泣くまいと睨みつけるような、鋭い青の視線。それが、本当に、あの頃の彼女の表情とまるで変わりがない。そんな小さなことが、彼には嬉しかった。嬉しくて、仕方がなかった。

「まったく。そういうところは変わらない……」

 深い親しみの念が、明らかなことばとして零れる。

 そういえば。小さい時も、彼女は泣きそうで泣かない、ということが実に多かった。我慢強い子どもであったと当時も思ったが、それから今までの九年間という月日が重ねられたことで、更に泣くことができなくなっているのかもしれない。

 そう思うと、彼は少し胸が痛い。心が、重たい。まるで締め付けられるかのように。けれども、そこに手を差し伸べることは、彼の役割ではない……そう自戒する。けれども、彼女との再びの、このひょんな縁に、想像できないほど喜んでいる自分を持て余し、困ってもいる。

 気づかれては、いけない。

 自分のことを。

 自分の、名前を。




(つづく)


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