〔黒の幕間〕1

――10年前、晩秋/座標軸:ナナシ


 彼女は彼を、まるでとても親しい人であるかのように見上げていた。けれども、訊ねてきたのは、その名前だった。

 それはそうだろう。彼が彼女を初めて見たのは、ほんの数秒前のことにすぎないのだから。

 答えるべき名前を、ワタシは、持っているのだろうか。彼は、そう自問しながら答えるべき「何か」を己の中に懸命に探す。

 けれども。彼の中には、何も残ってなどいなかった。

「……ワタシはね、名前を失ってしまったんだよ。名前は、もう無い。だから、君にも渡せる名前がないんだ」

 子どもは驚いたような顔をする。けれどもすぐに、

「じゃあ、ナナシなの? 兄ちゃんは」

 そう、たたみかけてくる。

 だから彼は、それを肯定した。「ああ、名無しだな」と。


 ともかく。此処ここにこのまま居続けるわけにはいかない。


「ここは危ない。だから、東へ向かうよ」

「ひがし?」

 東西南北の概念も持たないのだろう。ほんの小さな子どもだ。青い瞳は、まだ完全に目覚めていない。少しぼんやりとしている。これでは方位といった話はおろか、今の状況そのものを把握してはいまい。

「お母さまと、父さんは? ……ちゃんは、どこ?」

「……ここには、いない」

 彼女のことばから両親の死亡現場を目撃はしなかった様子が見て取れ、彼は安堵の息を大きく零した。最後に呼ばれた名前は、あの、瀕死のまま置いてきてしまった、小さな子どものことだろうか……恐らく、現時点では既にこと切れているに違いないであろう、小さなちいさな「人間」の身体……ブルブルっと頭を振り、彼はその想像を頭から振り払う。

 そして再び、一人だけ生き残ったこの子どもを腕に抱え直す。その温もりが、彼の中に生存の為の勇気を奮い起こしてくれる。

「兄ちゃんのことは、名無しのままで構わない。君のことは、何と呼べばいい?」

 子どもは何も返してこない。

「真名ではなく、通称の方でいい……ああ、通称の方がいい。いつもみんな、友だちは、君のことをなんて呼んでいたんだい?」

「……ええと……」

 幼女は、言い淀む。

「ねえ、ナナシ」

「なんだね」

「ひがし、ってところにお母さまと父さんと……ちゃんがいるの?」

 回答に詰まる。これだけの深刻な状況を、こんな小さな子ども相手にどうやって、そしてどこまで伝えるべきなのか、彼にはまるで見当がつかなかったのだ。

「お母様からの伝言だよ。東……東乃市を目指そう、まずは」

 良心の呵責もなく、彼はつるりと嘘を吐く。

「……ちゃんも、いるんだよね?」

「ここは危険なんだ。すぐに離れないと。逃げるんだ」

 だが、これだけは本当だ。嘘を、吐いていない。

 東へ。まずは、東へ。

 方角的には、そこが一番追っ手をまきやすく、また追っ手の意表を突くコースとして考えられる、というだけの理由だった。

 コミュニティを探して子どもを預けることは、その先の話になりそうだ。しかしそれも、そう長い時間はかからないだろう。そう、数日で。この子どもは、同族の中で安心して休むことができるようになる。その筈だ。 

 彼はそう考えて、改めて子どもの小さな体をしっかりと抱きしめて、扉を開けた。


 三日経った。追っ手の気配に、ずっとビクビクしていた。

 五日経った。探しても、探しても、彼女の仲間、「コミュニティ」と接触できずにいる。その片鱗すら、掴めない。東乃市ならば、もっと楽に「コミュニティ」と接触出来ると思っていたのだが。

 七日経った。彼女は五歳。そんな子どもに、こんな寒い季節の中、夜空で眠らせ続けるわけにもいかない。暫定的な目的地、そのやや手前となる東乃市の団地で、二人は空き部屋を不法占拠し、こっそり住んだ。

 改めて、彼はもう一度、髪を黒く染めた。名前は失くしたままだ。多分もう、恐らく一生、己を産んだ親から与えられた名前を名乗ることはないだろう。

 彼女は、親から貰った大切なたいせつな名前をしっかりと隠しながら、彼には通称を名乗った。彼が、その方がいいから、と強く言い張ったからだ。

「ところでナミ」

「なあに、ナナシ兄ちゃん?」

「どうして母上のことは『お母様』で、父上のことは『父さん』って、違う呼び方なんだい?」

「それはね……」

 子どもは、クスクスと笑う。そして、内緒話を楽しむかのように、彼の耳元に口を寄せ手で口元を隠しながら、ひそひそ声で、魔女としての己の矜持を彼に語るのだった。




(つづく)

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