第007話 02月20日(土曜日)その弐「泣くことは別にカッコ悪くないと思う」

――座標軸:神矢レイジ


 図書館の入口の前で、神矢レイジは己の判断の甘さを認めるしかなかった。

 入口に大きく掲げられている館内の案内図、その隣には、「携帯電話の電源を切るように」という内容を示しているらしい注意書きが、彼のように和語の解らない人間にも理解のできるビジュアルで示されていた。

 さして大きな規模の都市ではないが、西乃市もそれなりの人口と広さを誇る。雨音地方の最大、第一の都市が東乃市であるならば、その次といった位置づけだ。よって、この中央図書館もそれなりの大きさの建物である。

 図書館機能を持たせた空間も1フロアには留まらず、複層となっている。建物としてみても、建築デザインを優先したが故だろう、ここでの待ち合わせは行き違いになりやすい構造をしている。元より、図書館は待ち合わせの場所ではなく、本を読む為の場所だ。

 ため息の後、彼は気持ちを切り替えてゆっくりと深呼吸する。

 建物そのものは大きいとまではいかない。彼は先日の経験を思い起す。約束の時間の頃合に気を引き締めて入口を中心に気を配っていれば、携帯を鳴らさずとも風見ナミとの再会を果たせるだろう、と。


 この日の午前中の用事は想定していた以上に早くに片付き、彼は時間にかなりの余裕を持ってこの場へ来ることができた。

 その午前中の会見で、彼には幾つか気になる事項が出てきており、時間に余裕があれば彼女との合流の前にそのことを先に調べたいと思っていたところでもある。図書館での待ち合わせということは、その点では大いに助かることでもあった。

 時間はまだたっぷりある。彼の望む調べごとを少しばかり優先したところで、問題は無い。

 むしろ問題は、彼が和語の読み書きがほとんどできない、ということにある。探すべき情報の対象ははっきりとしているのだが、果たしてこの規模の市の公立図書館に目的のものがあるか。

 司書の女性に訊ねる。やはり、該当のものはここでは探せないらしい。より規模の大きな隣の東乃市の中央図書館まで行くか、あるいは首都圏の相応の規模の図書館ならばあるかもしれませんが、と残念そうに告げられて、彼もまた丁寧に礼を返す。

 ならば、洋書の書架へと向かおう。そこにも多少は情報が残っているかもしれない。

 そう発想を切り替え、彼は静かにカウンターから離れていった。




――座標軸:風見ナミ


 図書館の入り口で、風見ナミは「しまった!」と小声を洩らしていた。

 考えてみれば、図書館内では携帯電話の電源は切らないといけない。待ち合わせに関して、図書館の中のどことは特に決めてはいなかった。これは段取りが悪すぎる。西乃市中央図書館の、建築デザインを優先したやや複雑な構造を思い浮かべ……この建物も、先の戦争の後に復興された比較的最近の、かなりモダンなものだ……彼女は眉を顰めた。

 コートを脱ぎ、青灰色のショールをかける。小声の呪文を呟き、視力と聴力に魔力を通すと、彼女は図書館内を歩き始めた。地元の図書館だ。この施設の魔力探知器の精度は理解している。それを刺激しない程度の魔力の行使は、匙加減で何とでもなる。

 しかしすぐに、彼が和語の読み書きに苦労をしていることを、彼女は思い出す。であれば、彼の居場所としてその候補となる場所は館内でも絞られる。洋書、絵本、そしてビデオライブラリーだ。

 あの生真面目そうな性格からして、午前中の予定とやらが押していなければ、恐らく時間よりも早くに来ているだろう。それにまだ約束の時間までには余裕もある。焦る必要はない。まあ、ゆっくり探そう。あるいは、午後の2時丁度くらいに、再び出入り口周辺に戻ればいい。そう考えながら、彼女は洋書の書架へと向かった。


 けれども。先に彼女を見つけたのは、またも彼が先だったらしい。

「ナミ?」

 洋書の書架の手前で、驚いたような声が、小さく聞こえた。

 振り向くと、目を丸くした、しかしどこか安堵した面持ちの神矢レイジが五メートルばかり向こうで立っていた。手には三冊程の洋書を抱えている。

「そろそろ玄関先へ迎えに行こうと思っていたところだったのだが」

 驚いたよ、と小声で彼は続けて、そのまま洋書の書架へ手元の三冊の本を戻していく。

 視力に魔力を通していたというのに、魔力無しである相手が魔女である自分のことを先に見つけたのは少々悔しい。

「レイジは、視力がいいのね」

「さあ、どうだろう。どうかな」

 自身の話には関心無さ気な素振りで、彼は本を戻し終えると、再び彼女へと向いた。どうやら、これまで読んでいた本を丁度返しに来た、というタイミングだったようだ。

「君は何か本を借りていくのかね?」

「今日は、本はいいわ。また今度にする」

 小声とはいえ、ここで話を続けるのはあまりよくない。彼の手元の本が無くなったところで、二人は書架を離れ出口へと向かった。


 玄関でコートを羽織ると、彼女の姿は黒一色に染まった。それが嫌で、すぐさま青色のマフラーと手袋を身につける。

「食事は済んだかね?」

「体は空腹なんだけれども。あまり食事をしたい気分じゃないわ」

 先程までのあの陰気な司教の説教を思い出し、彼女は小さくも顰め面をつくる。教会で焚かれていた香はそう悪い香りでは無く、むしろ落ち着きをもたらす好ましい香りではあったのだが、基本的には食欲を抑制する系統の香りでもあった。

「なら、軽くお茶を飲んでから行動に移ろう。せ……ワタシも、何か温かいものが飲みたい」

 彼のその一言を契機に、市街地の中でも一番の賑わいを見せる方角へと、二人は並んで歩き出す。

「でも、何か見たいものとか行きたい場所とか無いの? レイジは観光だから、滞在中に効率的に回らないと勿体無いんじゃない?」

「いや、今日はそれよりも君の生誕記念を祝いたい。観光は後でもできることだ」

「はあ」

 左側に並んで歩くこの人は、時折物凄く、素で、とんでもないお人好しの台詞を吐くなあ。ナミは左の男を見上げて間抜けな相槌を返しながら、ことばを探した。けれども、彼女が会話の糸口を掴む前に。

「ナミ。誕生日、おめでとう」

 歩きながら、まるで「おはよう」「おやすみ」といった日常の挨拶のように、彼は彼女の誕生を祝福することばを告げる。

 だが。続いた彼のことばには、もう少し感情が籠っていた。

「君がこの年まで生きていてくれて、感謝している」

 普段よりも少し低く細く、そして小さな声で、レイジがそう続けた。いつもならば良く通る質の声だけに、こうしてトーンを落とした掠れ声になるのは珍しい。そう思って、彼女はまたも左を歩く彼を見上げる。レイジは、進行方向、正面を向いたままだ。

 どう返せばいいのだろう。特に何も思い浮かばずに、彼女は素直に、

「ありがとう」

 そう、簡素な返事を返す。

「これからの1年が君にとって実りがあるように。そしてその先の人生が彩りのあるものであるように」

 ここで、彼は歩き始めてから初めて、ナミを見る。

「十五歳になったのか」

「ええ。魔女的には、一応成人よ。大体は」

 そういえば、わたし、この人の年齢って聞いたっけ? 話題になっていたかもしれないが思い出せなかったので、ナミはレイジに問いかけてみた。

 前に聞いたっけ、と小さく付け加えて彼を見遣ると、レイジはいつものように少し眉間に皺を寄せながら、体ごと彼女の方を向いて、

「二十七だ。とはいっても、来月で二十八になるのだが。君とは十三歳の違いだな」

 だから、おじさんではなくお兄さんなのだ、と言いたげな、やや不満そうな表情でナミを見据える。どうやらこの話題は前にも聞いていたようで、それを彼女が忘れていたことが不満らしい。あるいは、思った以上に年寄り扱いされるのが嫌だということもあるのかもしれない。

「あーら。でも、花の中学生からしたら、二十歳過ぎたらもうオジサンかオバサンよ」

「鼻の中学生?」

 と言いながら、レイジが指で自分の鼻を抓む。声も、鼻濁音だ。

 小さく吹き出して、ナミは足を止めた。

「なにそれー!」

「は! 十五の小娘が。鼻だか花だか知らんが、鼻垂れ小僧を卒業してからにするがいい、その手の物言いは」

 少し先に進んで、レイジが一軒のカフェの前で足を止める。

「ここにしよう」

「ええ、いいけど……流石に鼻垂れの時期は卒業してるわよ!」

 わざと怒った表情をつくり、ナミはレイジの冗談に受け答えをしてやる。

「けれども、あなたの国の文化でも、やっぱり成人はもっと遅いのかしら」

「……どうだったかな」

 それまでと声色が変わり、まるで関心が無い、というかのような乾いた返事が返ってくる。

 彼の関心は、ナミがその返事を聞いたかどうかよりも店内に席があるかどうかの方に移っているようだ。高い位置にある彼の目が、素早く店内を見渡している。

 店内に入ると、彼は綺麗なケーキの並べられたケースを気にすることもなく、店員へ窓際の席という希望を出していた。女性へのエスコートというよりも妹か我が子の引率といった身振りで、彼は彼女をさして気にする様子もなく、後ろに付いてきていることを疑うこともなく席へと進んでいく。

 そして、随分と間を置いて。

「もう、忘れたよ」

 そう、どうでもいいことであるかのように、感情もなく、彼が吐き捨てるように言った。

 それは、先ほどの彼女の問い掛けへの返事だろう。その口調の平坦さが彼女は少し気になった。なったものの、どうやってその会話を繋げていいのか分からずに、一旦そのまま席に座る。

 彼は既にメニューに目を落としていた。一方彼女は、椅子にバッグを置くと再び立ち上がり、入り口近くのショーケースのケーキを見に行くことにした。

「ケーキ、選ばない? 見に行かないの?」

「いや、君のおすすめがあればそれを頼んでくれないか。無ければ、君と同じでいい。ご馳走するよ」

 席を守るかのように、彼は椅子に落ち着いたままだ。

「苦手な食べものはないの? 味の系統とか」

「いや、特に無いな。食べものの好き嫌いは」

 そこで彼女は、マフラーと手袋、コートを椅子の上へと置くと、甘いものへの期待を胸にケーキを狩りに出た。


 ケーキと紅茶がやってきた。紅茶は各々の分がポットに入っており、それを見たナミは、ちょっと高級かつお得な気分がくすぐられた。カップも、きちんと温かい。

「このお店、知ってたの?」

 ケーキにフォークを入れながら、ナミはレイジに問いかける。

「ああ。前にモーニングを食べた」

 どうやら、その時のお茶の味に満足したらしい。喫茶店の「モーニング」。中学生のナミには、テレビで見て、あるいは友人との会話で知ってはいても、経験の無い単語だ。そんな不思議そうな顔をしていたからだろう、彼は「朝の軽食セットだよ」と軽く言い添えてくれる。彼女は「知ってるわよ」といった表情をつくって、小さく頷くだけに留めた。

 まだ中学生のナミは、西乃市の市街地といわず、外食そのものの機会があまりない。それは、一番世話になっている神矢家が家庭料理好きということも彼女に影響を与えていた。

 だからこのカフェも、店の前を通ったことはある筈なのだが、きちんと認識はしていなかった。勿論、中に入るのも初めてだ。

 ケーキは、味は凡庸だが見た目がカラフルで楽しく、紅茶も外で飲む分としてはまあまあだ。

「ここから西へ十分も歩けば、根城にしているゲストハウスがある」

 更に話を聞いてみると、彼はあれからずっと同じ安宿の相部屋で過ごしているとのことだった。

「この辺は少し歩いたが、どこも清潔だし、治安も良くて安心できる」

「そう。でも、物価はどう? あなたの国と比べて、高いんじゃない?」

「そうだな。せ……ワタシの国というよりも、これまで渡り歩いた地域の中でも比較的割高には感じるな。だが、安心は金で買えない面もある。こうした治安の良さは、正直、助かるよ」

 心から寛いでいるのだろう。レイジは安心た表情を口元に浮かべ、目を瞑って頷いている。

「まあ、魔女狩りがあった頃でも、トータルな治安自体はそこまで悪くなかったらしいから。こんなもんじゃないのかなー」

 甘いお菓子をほぼ二口、三口で片づけるようにして口の中に放り込んだ男を見て、驚くやら、やっぱりと思うやら。この間の食事でも、食べるときは静かながらも思い切りがよく、尚且つモリモリ食べながらも決して下品なわけではなく、しかしまあ味わっているのかいないのか、よくわからない豪快な食べっぷりだったよなあ、とナミはそのときの彼の様子を思い出していた。

 先に片づけた、と言わんばかりの身振りでケーキの皿を脇に押しやり、レイジは紅茶のカップを両手で持ち上げる。大きくてごつごつした手を温めるかのようにカップをしっかりと抱えて、ゆっくりと口をつける。温かいものを口にしている為か、その表情は穏やかだ。

 その顔に、ナミもまた安らかな気持ちを感じた。そういえば、この人と話をするときはいつもこうして安心しているような気がする。まだ、今週頭に会ったばかりの、よく知らない人だというのに。

「ケーキ、一個で足りた?」

「ああ、充分だ。問題無い」

「なんか、凄くお腹がすいている人みたいな食べっぷりだったわよ。美味しかったの?」

「ああ」

 本当に美味しかったのかどうかよく判らない表情で、彼が返してくる。彼女はというと、女子中学生らしい矜持をもって、ちまちまと素材ごとの楽しみを味わいつつ、また見た目が汚くならないように気を配りながら、そっとフォークを入れている。

「美味しかったのだが……君は、さして空腹ではなかったか。それとも、甘いものにそう興味が無いか」

 ゆっくり食べ進める彼女のことを彼の感覚で判断すると、どうやらそういう見立てになるらしい。ナミは吹き出しそうになって、でも声は出さず、面白そうに目の前の大男を見る。

「美味しいものはゆっくり食べるものよ」

 でも、ここのケーキはそれで言ったら七十五点くらいだろうと、彼女はやや辛口のポイントをつける。ご馳走になる身として、それを目の前の大人に告げることは無かったが。

「今日は、見たいものややっておきたいことは無いの?」

 夕方までの短い時間を考えて、次の行動を組み立てるための話題へと移行する。

「そうだな、これといって何も。君のおすすめは何かな?」

「あることはあるんだけども……」

 時間が、まだ早い。彼女は店内の時計に目をやると、これからの行き先についてのアイデアを話していく。

「西乃市の港が、ちょっとおすすめなんだけれども。ただ、まだ時間が早いのよ」

「早い? 魚市場ならば、早朝というのが相場だが」

 西乃市の港に漁港はない。市も立たない。彼はそのことを知らないのだろう。

「ううん、違うわ。市場じゃなくって、単純に、景色の方。海に沈む夕日を見られるの。この時期くらいまでは。三月の末だと、もうお日様のキスの位置がもっと西へとずれちゃうから……」

「……お日様の、キス?」

 不思議な語彙を聞いた、とばかりにレイジが目をパチパチと瞬きをさせて、ナミを見る。

「だって、太陽が沈む時って、地平線や水平線に落ちていくでしょ。最初に太陽の縁とスカイラインが触れ合う様子って、ちょっと、キスみたいだなあ、って……友だちが」

 このボキャブラリーそのものは、夢見る乙女まっしぐらの友人、ピンク色のとても良く似合う少女らしい少女、仲良しのサエが言い出したものだ。それが今では、クラスの女子が皆、そんな言い回しをしている。そして多分、他のクラスの女子たちも、また。

 だからナミもその習慣のままに、そう口にしたのだが。子どもっぽい? こういうの、男の人には言わない方がよかっただろうか。少し恥ずかしくなって、彼女は目線を下げる。

「ナミは、詩人なんだな」

 ……はあ? わたし、魔女なんだけど。詩人じゃないし。元々言い出したのは友だちだし。赤くなりかけていた彼女の顔が素に戻る。彼女は顔を上げると、目の前の男にニヤリ、とチェシャ猫の如く笑いかける。

「それ、いろんな女の子に、そういうこと、言ってるでしょ?」

「え?」

「大人って、上手いんだなあ、そういうの。ねえねえ、どう?」

 ニヤニヤ。ここは十二歳年下という特権を利用して、ちょっとばかりこのおっさんをからかってやりましょうかねえ。そう挑むかのように、ナミが目の前の大男を見上げる。

「いや。そもそも女性とこうして日常的な会話をすること自体、皆無だよ」

 慌てる風もなく、また茶化すことも逆に自慢話を織り込むこともなく、素っ気無いレイジの反応に、ナミは少しばかり悔しがる。というか、こいつ、素でこういう奴なのか。

「旅の途中で、そういった出会いはないの?」

「あまり慣れ合いはしない方でね。一人で行動する事が殆どだ」

「それでよく、書きものをしたいだなんて言えるわね」

 彼女は何気無くそんなことばを放った。しかし彼からの返事は無い。咄嗟に何かことばに詰まった、といった顔をして、けれども何も言わずにいる。

 なんだろう。どうして? ここ、困るような話じゃないでしょうに。不思議そうにナミは見遣るが、レイジは既に表情をいつもの冷静なものへと切り替えていた。

「ならば、夕方に港に向かうのだな」

 いつもの時代劇調の言い回しで、レイジが話題を戻す。先程の話はそこまでして聞く程のことでは無いだろう。そう思い、そこで彼女は肝心の、今後のことへと意識を向ける。

「ええ、かかるのは港までのバス代だけ。中学生はお金を使わない娯楽を頑張るのが得意なのよ」

 えへん。ちょっとばかり、彼女は胸を張る。まあ、張ったところで、胸のサイズが変わることはない。それに、ここでこの男にそんな見栄を張ってもしょうがない。

「日没までにはまだ時間があるな。余裕を持って行動するのもいいが、どうせなら少し市街を散歩しないか。君のおすすめのコースでいい。更に時間に余裕があれば、その港の周辺を散歩してもいいだろう」

 そう言って、レイジが携帯で現在時刻を確かめる。

「日没はまだ先だな」

 そしてナミに目を向けると、

「普段と違う靴を履いているようだが、それで歩き回ることに支障は無いか?」

 と、冷静な口調で問い掛けてきた。

 意外な観察眼に驚いて、最後の紅茶を飲み干してカップをソーサーに置こうとしていた手を、彼女は止めた。

「ええ、大丈夫よ。今日は儀式もあったし、少しばかりフォーマルな格好をする必要があったから、ヒールのある靴を履いているけれども。別に歩けなくはないわ」

「万が一もある。何かあれば、痛くなる前に言ってくれ。この街ならば、ベンチや公園など、休むところはいくらでもあるだろうから」

「ありがとう」

「いや。今日は君の誕生日だ」

 会計はレイジが負担した。年齢的な力関係もあるのでナミはそのままごちそうになったが、彼の服装や身の回りのもの、それに神矢老人や関係者との関わり方を見ている限り、資金的には相当に切り詰めた旅行をしているように思える。そこから考えても、この後の行動がウィンドーショッピングと港での落日観賞という流れになったのは悪くはないと、彼女は胸を撫で下ろした。


 和国の平均的な女子中学生が好むようなお店はこうだ、というような冷やかしの目線で、西乃市の市街地を二人は連れ立ってうねうねと歩く。途中、適当なベンチを見つけては、素直に座る。公園で犬を眺めては、魔女が使う使い魔のことを話題にする。そしてまた、少女趣味と言われそうなカラフルなお店へ、少女はこの大柄な外国人を引っ張っていく。

 そんな中でレイジが足を止めたのが、一度通ったゲームセンターのクレーンゲームの前だった。

「ナミ」

「何?」

「何か欲しいものはあるかね?」

「へ?」

 確かに。彼女は、行き際にこの場所を通り抜けた際、このゲームの中にある黒猫のぬいぐるみが気にならなかったと言えば嘘になる。一瞬足を止めただけのそれを、どうやら彼は目敏く見ていたらしい。けれども別に、あのぬいぐるみはそこまでして欲しいものというわけじゃないし……ああ、そうか、今日はわたしの誕生日だっけ。そう、今日の根本的な状況を、彼女は思い出す。

「これは、どういう遊びなのだ?」

 うわ、このオッサン……じゃなかったお兄さん、クレーンゲームのこと知らないか……そうか、余所の国にはないのかな、このゲーム。

 レイジの質問に、ナミは簡潔にゲームの仕組みを説明していく。そうは言っても、彼女もこの手のゲームは殆どしたことがない。ゲームセンターで遊ぶ習慣は、彼女の平素の娯楽の中には含まれていなかった。

「出資はする。君の取りたい物に挑戦したまえ」

 そんな流れで、なぜか彼女がゲームをすることになっていた。ちなみに欲しい黒猫のぬいぐるみは突起も少なく布も滑らかという、大層取りにくいデザインをしている。

 ガチャン、と大仰に音を立ててコインを吸収し、マシンが動きだす。キャラリララ、キャラリララ……とやや幼稚で軽快な音楽が流れる。簡単な機械だ。ナミは気張らず操作を開始する。

 魔力を使ってズルをしたいところだが、このマシンにも無論魔力探知器がかけられており、それをやると即罰金の憂き目に遭うことは間違いない。彼女は一瞬過ぎったその連想を頭から放り出して、手元の操作に集中する。

 狙った黒猫のぬいぐるみに向けて、何度も彼女はクレーンを操作する。だが、この手のゲーム経験が殆ど無いことが主要な要因で、やはり出資は無駄となった。数回稼働し、あっという間に1ゲーム分のコイン分が尽きて、彼女はゲームオーバーとなった。

「ふむ……難しいのだな」

「ならレイジ、やってみる? こういうの、初めてでしょう?」

「機械操作はそれほど苦手ではないが。ただこれは、バネが緩めてあるだろうから、成功率は低いだろうな」

「じゃあ、こういうルールはどう? あなたが一ゲームであの黒猫をゲットできれば、ほっぺにキスしてあげるわ」


 ――だって、兄ちゃんとわたし、キスなんていつもいつも、しているじゃないの――


 言い出した自分でも、意外だった。あまりにも意外だった。


 けれども、意外だと思いながらも、それが不思議ではない、当たり前だ、とどこかで思っている自分がいる。しかも、それも精神の根幹に近いところで。大丈夫。この「兄ちゃん」がわたしに悪いことをする筈がない、という揺るぎの無い、意味不明な根拠と共に。


 え? とレイジが隣で固まっている。うわ、コイツ、純情だなあ、とナミは見上げていたが、見上げている自分もまた少し頬が赤くなっていることには気づいていなかった。

「ナミ」

 レイジが急に真剣な表情になって、彼女を見下ろす。

「ルールの改定を要求する」

「は?」

「初のトライで成功するのは、恐らく難しい。練習をさせてくれ。その次に本番、というのはどうだろうか?」

「そうね、いいわ」

 ニヤリ、と笑いながら彼女もバッグから財布を取り出した。

「なら、わたしもその一ゲーム分、負担するわ。それと……」

 ここで一呼吸置いて、彼女は少々質の悪いいたずらを追加してみることにした。

「もしも失敗したら、明日の日曜日の午後、半日ばかり、あなたがわたしの使い魔になる、っていのはどう?」

「? 使い魔……?」

 先程公園で休んでいた時に、魔女文化における使役動物や小物使用といった話を少しばかりしたが、どうやらそのときに抱いた印象があまり良くなかったらしい。彼女の左隣の大男は顔を顰めている。

「別にこき使うようなことはしないわよ。ま、半分シャレだと思っておいて」

「……よかろう」

 うわ、飲むとは思わなかった。けれども、面白くなってきたわ。時代劇そのままの口ぶりで真面目に諾意を返すレイジに、ナミもつい気合を込めて一ゲーム分のコインを渡す。

「さ、始めましょ」




――座標軸:風見ナミ


 ……

 ……

 ……

 これが、ラストチャンス。未だ、レイジの手は空っぽだ。

 グイ、とレイジの肩に力が籠る。これを外すと、彼は彼女の使い魔となる。半日とはいえ奴隷もどきの扱いだ。それは嫌だろうな、と彼女は思う。

 でも、まさか。それ以上に、わたしのキスがそんなに気になっているんだろうか、この人は? ……まさか、だろう。それまでの彼にはそんな素振りは一切なかったし、大体、目線だってまるで子どもを見るようなものなのだ。


 グワン。


 マシンが動く。

 クレーンの位置は、いい位置だ。縦方向、よーし! 続けて横へ……、これも、よーし! さあ、あとは高さを……よーし! 


 つるん。


 布地が滑り、呆気なく、彼の惨敗という結果で終わる。

 この瞬間、神矢レイジの明日半日の拘束が、確定した。

「……」

 ことばもなく、大の男が、クレーンゲームの前でがっくりと項垂れる。

「あーあ」

 思わず彼女は、声を漏らす。ぬいぐるみが手に入れられなくて残念だったのか、それともキスをしないで済んでホッとしているのか、あるいは予想外な「使い魔使役のチャンス」が巡ってきて喜んでいるのか。己の声を耳にしても、ナミは自分がそのどれなのかよく判らなかった。

 それ以上に、目の前であそこまで残念がっているこの大柄な男の真意が彼女にはよく判らなかった。そんなに欲しかったの、ぬいぐるみ? それとも、キス? それとも……まあ、奴隷は嫌よね、やっぱ。

「……プレゼント……」

 あ。

 レイジが零した言葉は、それだった。

「ううん、別にわたし、物はいらないわよ」

 うわ。こう言うと、ますます使い魔が欲しいって言う風に聞こえちゃうかしら。言ってしまってから、彼女は焦る。

「……せっかく君に……」

 しかし、レイジの立ち直りは、意外と早かった。

「まあ、仕方がないか。せ……ワタシが半日君に仕えれば、それで君が喜ぶのだろう?」

 立ち上り、いつもと同じように高い目線から彼女を見下ろしているその顔は、決して痩せ我慢というわけではなさそうだ。

「ならばまあ、その明日もまた、楽しみとしておこう」

 コホン、と軽く咳をして、レイジは意外と朗らかな笑みを彼女に向けた。

 ……本当に、それ、楽しいの? と言いかけたが、ナミは結局そのことばを飲み込んだ。彼が笑顔をつくってまで納得を口にしている以上、そこに口を挟むのは、逆に失礼というものだろう。

 かなりの時間が経っていることに気がついて、二人はその場を離れた。

「少し早いけど、バスに乗りましょうか?」

「そうだな。もうすぐ四時になる。港までの乗車時間は長いのかね?」

「ううん、そんなに。二十分くらいかしら。もうちょっとあるかな」

 そう言って二人は、西乃市の市街地中央、バスターミナルへと向かった。


 港方面へと向かうバスは、始発ということもあり空いていた。2人は余裕を持って席へと腰を降ろした。暫く待っていたバスが漸くエンジンをかける。そろそろ出発だ。

「外国でバスに乗るって、どう? 面白い?」

「ああ。面白くはあるが、鉄道よりもバスの方が道をどう移動するのかが分からなくて、乗っていて緊張するよ」

 だから君のような道案内がいると、凄く助かる。安心できるんだ。嬉しそうに、大柄な男が笑顔を浮かべた。

 バスの席に収まるその体は大層窮屈そうに見えるが、しかし表情はとても明るい。高い車高から外を見る、それも初めての道を通るという期待に満ちているようだ。彼の表情から、彼女はそう見て取る。

 他国でバスに乗るときの不安感と聞いて、彼女はもう少しいろいろな国のことを聞いてみたい気もした。なにせ彼女は、和国から一歩たりとも外に出たことがないのだ。対する彼は、いくつかの国を渡り歩いてきている。

 だが、彼女も外国からのお客様をおもてなしするという方向でその日の流れを考えていた為、気がつくと話題の中心は和国のこと、魔女の暮らしや文化、歴史のこと、そして雨音地方や西乃市、それに中野町のこと……と続いていた。途中、時折、彼の旅の遍歴に絡めて話題を振ってみるのだが、意識しているのかいないのか、話がそちらに向くとあまり話題が広がらず自然と収束してしまう。少し不思議な気もしたが、それがこの人間の個性であるならば仕方がない。彼女は再び、和国のことを中心に話題を探した。

 加えて、移り変わる景色に「あれは?」「これは?」と大柄の男がひとしきり話題をとっ散らかしていく。バスそのものには、結構な時間、乗っていた。だが、ナミがそうして受け答えしていく内に、気持ち的にはとても時間がかかったとは思えない程の早さで目的地に到着した。


 特に変わったもの、見るもののあまり無い、地方の小さな港、西乃市港。その一部は小さいながらも公園として整備されていて、日の入りを見学するのであればそこだろう、といったつくりになっている。

 海が落日の色に染まる時間にはやや早いことから、二人はあちらこちらを歩いてみる。だが、観光に力を入れている訳でもない地方都市の小さな港に、さして見どころは無い。あまりの狭さに、二人は午後五時を前に公園のベンチへと戻ってきた。

「うーん、思ったより見て回る所が無いわね。やっぱりこれが地方故の限界ってやつかしら」

 ベンチに座り、うーん、と背伸びをして、ナミが隣に座った男に話題を振る。

「まあ、こういう場所はこういう場所で趣があると思うが」

 彼も彼女に倣って、同じようにベンチに腰掛けたまま、うーん、と大きく伸びをしながらことばを返す。

「何より、平和だ」

 平和だ、と言う彼に、大きな頷きで彼女は同意を返す。

 治安がどうこうといったように、これまでの彼の話の切れ端からは時折物騒なボキャブラリーが飛び出してくることに、ナミは気がついていた。あまり治安のよくない国や地域に行くこともあるのだろうか。そんな想像をしてみる。彼が武道を嗜むのも、あるいはそうした身を守る為といった必要性に迫られてのことなのかもしれない。ナミ自身が、魔女迫害への対策の為に武道を身につけてきているように。

 しかしこの和国は、基本的にはそうした緊張は不要な国だ。今後魔女狩りが再開でもされない限り、この国ではこうしたのほほんとした日常が続いていくに違いない……そう彼女は思って、海を見つめた。視界に入っていないのでわからないが、隣に座る男も目の前の海を見ていることだろう。そう思いながら。

「思ったよりも、まだ日は高いわね」

 冬至の十二月からは既に二カ月が過ぎ、春分に一月と迫った二月下旬の太陽は、まだ落日の様相を見せることはなかった。

「今日はね、この国での、魔女関連の法律の施行記念日なんだけど。わたしの誕生日がまた、二月の二十日でしょ。こういうのって、ちょっと気に入っているわ」

 微笑みながら、彼女は再び海を見た。彼の視線はずっと海を向いている。

 この国の魔女法のこと、もう少し話した方がいいのだろうか。そう少しだけ逡巡するが、相手は神矢の関係者だ。通称を「神矢」で貰う程の。ならばこの件に関して話をしても、抵抗感を抱くことは殆どあるまい。

 そこで彼女はゆっくりと、ことばを紡ぐことにする。

「九年前、戦争……この国における魔女狩りが終結して、その時の被害を反省して、この法律ができたわ。それこそ大慌てで一年後に施行するくらい、和国の政府はこの問題を重く見ていたし、当時は世論ももの凄く大きく動いたらしいの」

 太陽は、海に向かって落ちてきてはいるが、まだまだその色は黄色く、力強い。

「その頃にね、拐われた魔女の子どもが魔女狩人ウイッチハンターから拷問を受けていた、ということがスクープになってね」

 彼女はまだ、海を見ている。

「九年前、ううん、八年前。あのときの狩りは、何人死んだ……殺されたのかなあ。わたしの家族、だけじゃないけれども、中野町を中心に被害は相当大きかったらしいの。魔女だけで百人近く。それに魔力無しの人にも大きく被害が及んでいたくらいだから。風見の家だって……お母さま、父さん、それに妹に、叔父、叔母、いとこ、殆どの一族、同族が根絶やしにされたわ。中野町にあった小さな魔女コミュニティが、一晩で解体しちゃった程に。呆気無く」

 わたしを、除いて。小さく、彼女は付け加えた。 

 特にレイジの方は向いていない。だが、彼の空気が変わるのを、彼女は気配で察した。

「そのときの記憶は、まるで無いわ。余程酷い虐待を受けたんでしょうね、って。保護してくださった姉魔女さまをはじめ、皆がわたしの回復に手を貸してくださったわ。魔力持ちの皆の尽力もあって、わたしは何とか回復して……その間に、この国の世論が動いた。そう、劇的に」

 海風が、寒い。

「家族と中野町の魔女コミュニティを喪っても、それでもわたしは生き延びたし。そのおかげで魔女狩りがいかに人権上、人道上の問題があるものなのか、ということが国内世論はもちろん、世界中に発信されたんだから。犠牲は大きかったけれども、結果的にはマイナスばかりとは言えないと思う」

 レイジが心配しそうだ。ナミは意識して、話題をポジティブな着地点へと持って行くよう、考えを巡らせながら話を続ける。

「そうして、魔女とはいえいたいけな子どもが拷問を受けていたとかナントカいう『わたしの情報』を世論の鍵として、この法律が出来上がった……まあ、もちろんわたしだけの功労なんかじゃないし、それまでの長年の、魔力持ち、魔力無しの人たちの努力がまずはあったからなんだけれども。マイナスも大きかったけれども、それでも大きなプラスを引き出せたってことよ」

 わたしの両親と妹、コミュニティの仲間たち……大勢の死が、犠牲があったけれども。その無念を、その憤りを、力に変えたのだ、と彼女は己の内心だけへと語る。

 心配させないように、と思ってちらりとレイジの方を見る。彼は、それまでのナミと同じように、海へと顔を向けていた。その表情は、斜めに差し込む黄色の陽光が邪魔をして、彼女からは分かり難い。

「和国の歴史が動いたのよね。これをきかっけに、この国の魔女狩りは完全に終息したわけだし、法的な差別だって表向きとはいえ止まっている。世論だって、魔力無しと魔女との共生が当たり前、って意識の道筋がしっかりとできたわ。そうしてそれが続いて、拡がっていけば、これからこの国は、魔女と魔力無しとの『共生』が文字通り、本当のことになるわ。他のまともな国ぐにのようにね」

 レイジは、ただ、黙って聞いているだけだ。それを肯定的な催促と勝手に受け取り、ナミは更に続ける。

「で、わたしはそうした戦争……魔女狩りという『非人道的な行い』の被害者というか、広告的な存在として、結構知られちゃっているわけ。物心もつかない内から。まあ、良くも悪くも、有名人というか。お陰で、流石に悪いことなんかできないわね」

 ハハハ、と笑う。当人としてみれば本気で可笑しいと思っているのだが、左に座る男は、どうやら真剣な表情のままらしい。うわ、話題の選び方、失敗したかな……

「まあ、嫌でも品行方正でいないといけないのはちょと癪だけど。それが結局はこの国の魔力持ちの為にもなっているんだし、わたしも将来より住み易くなるわけだもの。悪いことばかりになんてさせないわ。ええ」

 ややつくった笑顔で、彼女は隣の外国人をもう一度見る。

 え……え?


 なんで、この人が、泣いているの?


「……」

「……レイジ?」

「……なんでもない」

 その声は、普通だった。けれども、彼の赤銅色の頬を伝っているのは、どう見でも汗ではない。焦っていいのか、困っていいのか。彼女の感情、思考が停止する。

「……少し、待ってくれ」

 それだけを言うと、彼は頭を膝に付けんばかりに体を折って、体を縮みこませた。まるでそれは、できるだけ小さくなろう、それこそこの地球上から消えてしまおうかと思っているかのように、彼女の目には映った。

 暫く経って、押し殺したかのような嗚咽が聞こえてくる。

 びっくりした、としか言いようがない。ナミは、たかだか出逢って数日の、まだよく知らない隣の外国人のことを、ただ見守ることしかできなかった。

 時間の経過はゆっくり感じられた。男の穿いていたジーンズに、少しばかり水の染みができているのが、彼女の角度からも見て取れた。声は小さいが、嗚咽はまだ、続いている。

  更に少し時間が経って、彼の呼吸が普通のものへと近づいてくる。

「……なんでもない……」

 再び、声。

 その声を契機に、また、レイジの呼吸が再度乱れ、押し殺したような嗚咽が小さく漏れ、響く。またも暫くそうやって、男の姿勢は折りたたまれたままとなる。むしろ彼女の目には、更に小さく縮こまっているような気がした。

「……レイジ……」

 なんであんたが泣くのよ、と声を荒げた方がいいのかしら? 彼女は暫く考えた後、そのまま放っておくことにする。そのうち泣き止むだろうし、泣きたい時は泣けるだけ泣いた方が精神衛生上、いいに決まっているのだから、と。

 まだ太陽は、水平線とキスをしてはいない。けれどももう少し経てば、それも始まるだろう。

 海風の寒さを彼女は再び意識する。彼女は、彼が寒くないか、少し気になった。彼女とは違い、彼はマフラーも手袋もしていない。今、彼の羽織っている、あの忘れ物となった黒のジャケットは相応に温かい。それは彼女も知っている。だが、彼の生まれの地が温暖な地域ならば、寒さにはあまり強くないかもしれない。けれどもまあ、体を折っている彼の方が寒さを感じないで済んでいる状態かもしれない。そうやってあれこれと、彼女は脈絡の無い連想を繋げていく。

 そして、彼女はようやく泣き終えた様子のレイジを見下ろして、その背中をポンポン、2回ばかり、左手で軽く叩く。

「レイジ、大丈夫よ。あなたが泣く必要は無いんだから」

「……ナミ、違うんだ……なんでもない。なんでもないんだ……」

 彼はまだ、同じことばを繰り返す。ただ、声は先程よりもシャンとした、しっかりとした音をしていた、それはいつも通りの、低くて良く通る声に近い。どうやら、会話に支障は無くなってきている様子だ。

「ねえ見て、レイジ。わたしだって、もう泣いてないでしょ。だから、」

「……そうじゃない……」

 ナミはベンチから立ち上がると、顔を上げることなく膝を抱えて蹲る彼の正面へと回り込んで、しゃがんだ。

「でも、ありがとう」

 真正面から、彼の赤い髪を撫でる。

「あなたのように、魔力無しの人の中にもわたしを理解してくれる人がいる。それだけで、力が湧いてきちゃうから。大丈夫よ。本当に」

 頭を下げたままの彼は彼女を見ていないけれども、ナミは本気の笑顔を見せつけるかのように、赤毛の男の頭頂部を見続ける。

「だからわたしは、お母さまや父さん、妹の分まで、頑張ることができるのよ。みんなの分まで生きよう、って。あなたのような人がいてくれるお陰でね。うん、大丈夫よ。何も問題なんて無いわ」

 まあ、そりゃあそれだけではない気持ちの時だってあると言えばあるけれども。けれども今はそれを言うべき時ではないものね。彼女は内心の声を抑えて、彼の頭部を見続ける。

「それにあなた、一昨日、わたしを助けてくれたじゃない。胸を張りなさいよ、胸を! ね」

 ピクリ、とレイジの頭が動く。そして、そろり、そろり、とゆっくり顔を上げようとして、彼女の顔が目の前二十センチ程の所にいることに気がつくと、そのままピタリと頭を止める。

「あれ、なかなかカッコ良かったわよ」

「……今は格好良くないよ、ナミ」

「ううん、泣くことは別にカッコ悪くないと思うけど」

 これは本気の感想なので、彼女もするり、と声が出た。

 それを聞いてなのか、彼はようやく頭を上げる。鼻水が恥ずかしいのだろう。手で、ぐしょぐしょと、目よりも先に、鼻を隠す。真っ赤な目元が、二十七という歳の割には彼を幼く見せていた。

「……鼻垂れ小僧は、どっちよ?」

 ほれ。

 レイジの目元の涙をぬぐうようにして、ナミはその頬に唇を寄せた。


 ――兄ちゃん。また、ないてるの?――


 どこかで。子どもの声が響いたような、気が、した。


 殆ど考える間も置かず、彼女はもう片方の頬にも口を寄せる。両方のほっぺに、平等に。少し涙を、舐め取って。

 そしてすぐに彼女は立ち上がると、再び海の方へ、落ち行く太陽へと顔を向けた。唇に残るしょっぱい味を自覚する。

 どこか。ゆっくりと、少しばかり遠のいていた意識が、きちんと手元に戻って来る。よく考えてみると、人の顔を舐めるなんて、これまでの彼女の人生の記憶には無い経験である。それは一応ファースト・キスに含まれるのかもしれないな……そうやって冷静に意識すると、今の行為に少しだけ恥ずかしさがこみ上げる。なので、彼女はその連想に蓋をして、何事も無かったかのように彼の目の前に立ってゆっくりと海を眺め続けた。

 と、同時に。心の奥底で、「これはいつものことだもの」、と。そんな声が、聞こえたような、気が、した。


 どのくらい時間が経ったのだろう。

 彼も一応はハンカチの類を持参していたようだ。彼女の後ろで、ごそごそと顔を拭く音と気配がする。

「ナミ」

 どうやら、彼の状態は元に戻ってきたようだ。そう、彼女は声から判断する。

 そうして、呼びかけてくれた彼へと、何事も無かったかのように、彼女は穏やかに振り返った。すると。

「君はどうして、母親のことは『お母さま』と呼び、父親のことを『父さん』と区別して呼称しているのだね?」

 ……て。そこにツッコミかよ、この男は……!




――座標軸:風見ナミ


 結局、日が落ちた後まで、彼らはそこにいた。それからは何かを話すことも無く、静かにその場に佇んでいた。ただ、どう見てもやっぱり寒そうな男の様子に彼女が何度か声をかけて、漸く二人はその場を後にした。

 それでも、ゆっくりと時間をかけて観察した夕焼けは綺麗で、ナミは適度な満足感を得ていた。隣に座る無口になった男もそうだといいのだが、と彼女は彼を見る。


 外が寒かった分、バスの中の温かさが身にしみる。彼女の隣の男は無言だが、いつものような冷静な様子に戻っている。

 バスは、時間帯の関係もあってのことなのか、他の乗客が乗って来る気配はない。発車時間までたっぷり待ったが、いつまで経っても他の客は来ない。そのまま長い待ち時間を経て、乗客が二人だけのまま、バスは出発した。

 途中からの乗客は多いのだろうか。行きもそうだったが、この路線は人が少ないようだ。土曜日ということもあるのだろうか。そう、彼女はゆっくりと考える。

 揺られるリズムが心地よい。彼女は車内の暖かさとその適度な揺れとに、だんだんと意識が落ちていく……まあ終点までの旅だし、これはこれで、気持ちいいし……

 彼女の意識は、そのまま浅い眠りへと、落ちていった。




――座標軸:神矢レイジ


 右隣に腰掛ける少女が眠りに落ちたことに、神矢レイジは暫く気づかなかった。


 自分自身の先程の動揺に未だに動揺し続けていた、というのが本当のところだ。動揺に動揺してどうする、と己に呆れつつも、しかしその気持ちを整理する為にも彼には時間が必要だった。


 やがてふと、隣の少女の様子に気がついて、彼は眦を下げる。その安心しきった寝顔は、彼の心の柔らかい場所に温かい明かりを灯してくれるようだ。

 幼い頃の彼女の寝顔が、懐かしい。それをもう一度見ることができただけでも、自分の人生にとってはもう悔いが残るまいと思うほどの喜びだ。

「無事でいてくれて、嬉しい」

 そう声に出すと、先日の暴漢の引き起こした出来事を思い出し、彼の額に皺が寄る。

 これ以上、彼女の身に危険なことが及ばぬように。この地の全ての精霊が全身全力で彼女の身を守らんことを。これから先、長き未来の、その先の先にまで。

 ことばにすることのない願い。内心、祈るように強くつよくそう思うと、幼かった彼女によくしてやったように、彼女の頬に唇を寄せようとして……いや、自分には本来、彼女に触れる権利は無いのだと思い直し、肌にではなく彼女の左耳、青い石のついた銀のピアスに、そっと、彼は祈るような口づけを落とした。




――座標軸:風見ナミ


 西乃市の市街地に戻る。終点となるバス停で、彼女は漸く目を覚ます。ナミはまだ目がよく覚めていないことを自覚すると、家の近くまでバスに同乗して送るというレイジの申し出を拒まず、そのまま2人揃ってバスを乗り継ぐことにした。彼の申し出は恐らく一昨日の出来事も考慮してのことだろう。彼女も、その配慮をありがたく思った。


 低地にある市街地から徐々に高度を上げるようにして、住宅街へとバスが移動する。後ろに、夜空の星のまたたき程の美しさとまではいかないが、西乃市の市街地の夜景がぐんぐんと広がって行く。

「ナミ」

「何?」

「綺麗だな」

「……そうね。でも、さっきの海辺の夕景の方が良かったと思うわよ」

 何より、自然だし。天念の風景には、人工物なんて敵わないわよ。そう言って、彼女は隣のレイジを見る。

「今度は海から昇る朝日を見に行くのも、いいんじゃない?」

 帰国までにどう? と彼女は続けるが、彼は生返事だ。そろそろ、彼女たちの降りるべきバス停が近いからかもしれない。外国人である彼にとって、途中下車の案内アナウンスを聞き取ることは、普通の会話以上に神経を使うのだろう。とはいえ、降車ボタンを押すのは地元民である彼女になるのはわかっている。

 いつものバス停で降りたのは、彼女たち二人だけだった。

 交通量の多い幹線道路から住宅街への小さな道へと入りながら、レイジはナミに、先程の話題の続きを促した。

「どこへ行けば、その朝焼けが見られるのかね?」

 さっきのあの港で朝焼けも見られるのか、と続けた彼に、ナミはあまり考えることもなく、淀みなく彼女の知る事実を軽く告げた。

「そうね……季節を考えないベストスポットは、ちょっと遠いけど、隣の東乃市の自然海岸かしら。東乃市の南乃海岸っていう所なんだけど」

 そう返した途端、彼がその歩みを止めた。街灯の下のレイジの瞳が普段よりも硬い。思わず心配して、彼女は目を覗き込むように少しばかり背を伸ばすと、左の彼を見上げた。

「……どうしたの?」

 港でのこともあったし、何かまだ本調子ではない部分があるのかもしれない。そう思って、ナミは彼の表情を真剣に見遣る。しかし、レイジはすぐにいつもの冷静な仏頂面をつくり、ポン、とナミの両肩に手を置くと、それをすぐに外した。

「いや、ちょっと眩暈がしただけだ。気にするな」

 彼がそう言うのならそういうことにしておこう。そう考え、彼女はそのまま再び歩き出した。


 そうして彼女は、家へと向かう坂道を下りながら、それまで忘れていたことに気がついた。

「あ、そうだ。約束、したわよね?」

「……約束?」

 この様子では、彼も忘れているのだろう。そこで彼女は、強く彼に出る。

「あなた、明日半日、私の使い魔やってくれるんでしょ? よろしくね」

「……そうだったな」

 すっかり忘れていた、という声で彼が応じる。

「あなたの明日は、何か予定あるの? やりたいこととか」

「いや、道場の稽古があれば、と思っていたのだが」

「だったら、それは明日考えましょう」

「では、どうすればいいのかね?」

 相変わらず時代劇めいた物言いのまま、レイジは彼女に指示を仰ぐかのように問いかける。

「とりあえず昼前にウチを訪ねてちょうだい。一緒に昼食を摂りながら段取りは説明するから。日暮れには解放するわよ」

 この事実を思い出した途端、ナミの口の端には浮かれた笑みが浮かぶ。声は出さない。外から見たらチェシャ猫のような摩訶不思議な笑みを浮かべていることに、彼女は気づくこともない。それでも、嬉しくてうれしくて、彼女は緩む頬を止められない。

 明日半日だけとはいえ、完全なる召使いを使役できるのだ。人間の使い魔なんて、どんな使い勝手だろう……魔女的な好奇心でナミの期待が膨らんでいく。

 そうしたナミの気持ちなどまるで気がつく風も無く、隣のレイジはいつものような冷静な声で、「ああ、そうかね」などと受け答えをしている。

 門まであと数メートル。二人の下る坂道の目の前に、西乃市の市街地の夜景が広がって見える。

「でもまあ、夜景も綺麗よね」

 先程のバスの中での自説とは真逆のことばを、彼女はぽつりと漏らす。

「ああ、綺麗だ」

 彼もまた、否定することも無く、穏やかに肯定の返事を返す。

 二人して足を止め、暫し、その風景を見続ける。

「光の洪水の途切れている部分が海岸線かな? 先程の港の辺りかね?」

「多分そうだと思うわ」

「後で地図を見てみよう」

 きっと、宿に置いてある荷物の中に彼の地図があるのだろうと、彼女はその言い方から想像を巡らせた。

 そうして再び歩き出す。門の前まで来ると、彼は足を止めた。

「ありがとう、レイジ。寒いでしょ。気をつけて帰ってね」

 暗くてよく見えないが、彼はどうやら嬉しげに微笑んでくれているようだ。魔力を通して視力を上げようか。彼女は一瞬だけそう思ったが、それは止めておくことにする。

「こちらこそ、ありがとう、ナミ。そして、誕生日、本当におめでとう」

「ありがとう。じゃあね、また」

「ああ、また。君の明日が、今日よりもっといい日でありますように」

 少し意外だった。これは、イリスウェヴ教の信者が一日の終わり、別れ際や就寝前に家族や親しい人へとよく言う言い回しと同じだ。彼は淀みなく、それを和語で口にした。彼は、信者ということは言ってはいないが、過去にそうした付き合いでもあったのだろうか。

 けれども。このことばは、どこか彼らしい。嬉しくなって、彼女も笑顔になると、ブンブンと大きく手を振ってから元気に門をくぐって行った。




(つづく)


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