スケールは大事
少し時間が経つと、不機嫌な顔をしていたサキュバスさんがいつもの顔に戻った。
心の中でホッとため息をつく。年齢の事は触れないようにしよう。
赤くなった鼻をおさえながら、俺は右側のピアノの前に置かれた椅子に座った。
サキュバスさんは左側のピアノの蓋を開けた。
大きく開いた黒い蓋。それを支える細い棒。蓋の内側に金色にコーティングがされた弦やパーツ達が映る。
綺麗だな、と思った。やっぱりピアノはこの姿が一番綺麗だ。
この部屋にある二台のピアノを使う時、俺は右側のピアノを選んでいる。
理由はこの蓋が開いたピアノの姿が好きなのと、ピアノの蓋は小なりイコールの不等号の向き、≦の様な形で開くので、右側にいた方がピアノの音がよく聞こえるからだ。
「あっそうだ先生、この前のレッスンで言われたアレ、やってきたよ」
準備を終え、椅子に座ったサキュバスさんが言った。
アレとはスケール、音階の事だ。
この前のレッスンで俺はサキュバスさんに、ドレミファソラシド、ハ長調のスケールを弾いてくる様に頼んでいた。
「どうでしたか? 」
そう言うとサキュバスさんが意地悪く笑った。何とも得意げに。
少しドキりとした。
「ふふ、先生にアレを教えてもらったけどアレは良いわね。上がったり下がったり、あたし、そういうのは得意よ」
「それは良かった。スケールを弾く事は大切ですから」
スケールを弾く事は重要だ。俺はこの魔界に来てそれを痛感した。
魔界に来たばかりの頃、あらゆる事が起こり、ピアノを弾く時間など殆ど無かった。
それに楽譜も無い、暗譜で弾こうにもボロが出る。
途方にくれていた時、俺はある言葉を思い出した。
「スケールには神様がいる」
人間界にいた頃、ピアノの師匠からこう言われた。
だがその頃の俺は、ただの誇張だと思い、それを適当に聞きながしていた。
今思えば何て勿体無い事をしていたんだろう、はり倒したい。
実際、神様はいた。
スケールは短時間で済むし、音の感覚も掴める。指も自然と動くし、リズムを変えれば色んな奏法の練習になる。
スケールのおかげで、俺は何とか拙い演奏技術を保てた。
ドレミファソラシド、ドシラソファミレド、という単純な動きの中にはピアノの神様がいたのだ。
「スケールには神様がいる」
「あらいきなりどうしたの? 」
ボソッと呟いたつもりだったが声が大きかったみたいだ。少し恥ずかしい。
「昔ピアノの師匠にそう言われたんです。ちょっと懐かしいなと思って」
サキュバスさんは「とても素敵ね」と言って「先生の先生ってどんな人だったの? 」と尋ねた。
俺は師匠の事を色々思い出しながら応えた。
「とても厳しい人でした。弾けない時は色んな事言われましたし」
「色んな事って例えば? 」
「あの世に行ってショパンに土下座してこいとかですね、これはまだまだ全然です。他にも色々言われました。だけど」
「けど? 」
「だけど厳しくても優しさはあったんです、親みたいな先生でした。厳しくて優しかったから俺は上手くなれました。今こうして魔界でピアノ教室がひらけてるのも、あの人のおかげだと思ってます」
俺がそう言うとサキュバスさんは「いいわねぇ」とため息をついた。
「そういう人に会えるのは本当に幸せね羨ましいわ。先生、そういう思い出は一生の物だから大切にしなさい」
「はっはい。ありがとうございます」
俺は大きく頷いた。
数分後、ピアノの静かに座り、サキュバスさんは息を吐き、黒い翼を消した。
サキュバスさんは意外と激情家だ。
最初のレッスン、ピアノを思う様に弾けなかったサキュバスさんが、黒い翼を羽ばたかせ部屋を滅茶苦茶にした事は今でも鮮明に覚えている。
それ以来ピアノを弾く時は、翼を消してもらう様にしている。
サキュバスさんが鍵盤に手をのせた。
辺りの空気がほんのちょっと下がった気がする。
ピアノを弾く者なら誰もが感じるだろう、独特の沈黙が部屋に満ちてくるのが分かる。
鍵盤にのったサキュバスさんの指が僅かに動いた。
そして緊張と沈黙は静かに破られて、スケールが始まった。
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