第11話 魔の二学期…

今までで一番長い夜、あの鏡花ちゃん失踪事件が無事に終結し、すぐに夏休みに突入、そして夏期講習、夏期合宿、8月授業とイベントが続いた。その申し込み用紙が来るたびに、事あるごとに二人で計算機をバチバチと叩く。最近は二人とも、計算機を扱うスピードが格段に上がった。

「夏期講習が6万、合宿が5万かぁ。それに通常授業。お金かかるんだなぁ…」

「ひと夏でこれは痛手だねー。でも今年は旅行も行かないし、サッカー教室の合宿も行かないから大丈夫よ。」

「お前、実家どうするんだ?」

「んー。帰らなくて良いかな。今はとにかく出費がしんどいもん。実家には春樹の顔見たかったらそっちが来てって言っとく。」

「そっか。いいのか?」

「良いのよ。それに、今はなんか、こう家計を切り詰めてやってるのが楽しいというか…」

そういうとお互いに顔を見合わせて笑った。受験生の親として、ガチガチに気を張っていたこともあったが、最近は拍子抜けするくらいに、やることがない。春樹に勉強を教えられる程、自分は頭も良くないし、朝起こして送り迎えをして、それだけの毎日だった。だから、頭がよくなるように、風邪をひかない様にとご飯を作ったり、節約生活をする方が手応えを感じられたのだ。

そうこうしているうちに8月も最終週。大量の塾の宿題と、日々の問題演習に気を取られて、結構な量の宿題が残っていることに気が付いた。しまった、と思いながらも、少々母の手が入った宿題を9月1日に持たせることに成功した。

鏡花ちゃんは、しばらく塾もお休みしていたが、夏期講習の途中から復活した。まだ精神的に不安定だからと、合宿はお休みし、夏休みが終わるまではパパとママで直接、塾まで送迎をしていた。9月も中頃になって、ひょっこりと佐和子さんが現れた。

「あら、佐和子ちゃん!」

一番最初に気付いたのは奥様だった。向こうから、黒のパンツに風に揺れるカットソーを合わせた格好で、控えめに手を振りながら歩いて来た。

「こんばんは。」

「もう、大丈夫なの?」

岩崎さんが声をかけると、はい、と言って続けた。

「行きは塾まで送って行ったんですが、帰りは電車で帰るって言うので、鏡花の言う通りにやらせてみようかなって。」

「よかったわ…」

皆、口々にそう伝えた。鏡花ちゃんは自分の意志で、再度塾に通い始めたのだそう。本当は結構、水戸に電車で行き来するのが楽しかったし、塾の先生が楽しくて大好きだった。何より、あの夜、一葉ちゃんから聖加女学院の事を聞いたそうだ。カタリナ祭という学園祭があって、その準備を頑張ってる、もしよかったら鏡花も招待するねと誘われ、おばあちゃんと行ってきた。そこで一葉ちゃんは新体操部の演技、クラスのダンスの出し物、様々なことを楽しそうにやっていて、本当にいいなぁとおもったのだとか。初めてちゃんと聖加女学院を知って、今度は改めて、鏡花ちゃん自身の目標になった。よかったね、がんばろうね、と改めて言い合うと、しみじみと、奥様が話した。

「先生のお母さまがまだいらっしゃったときね、厳しい人で、わたくし、本当に至らなくて。いつ実家に帰されるんだろうって、びくびくしながら毎日、頑張ってたの。それでね、もう駄目だ、限界だってなると、先生がね、ココアを淹れて下さって…」

先生、つまり老先生は生粋のお坊ちゃまで、東京の医科大に居るときも親戚のお世話になっていたので、一切料理は出来ない。でもお女中さんがおやつにココアを用意してくれるのを見て教わって、ココアだけは淹れていたそう。勉強が大変な時も、ココアを飲んで頑張ったのだとか。それで、奥さんが大変そうだと思うと、自分が出来る唯一のこと、ココアを淹れることで励ましてくれていた。そしてそれを見ていた若先生、つまり敦くんのお父さんも、奥様が体調を崩した時や疲れた顔をしていると、ココアを用意してくれたのだとか。

「お母さまココア飲んで、僕、勉強頑張るから、って。申し訳なさと嬉しさでね…でも、それで安心したの。先生譲りの優しい子に育ったから、もし医者にしてあげることが出来なくても、優しい子だからきっと生きていけるって。そういう風に、大変な時でも、それを肯定できる出来事だったり、笑顔になれることって、些細なことだけれど、見つかるときがあるの。佐和子ちゃんも、そういう風になるといいな、って思ってたの。」

はい、と佐和子さんは目に涙を浮かべながら答えた。

「でもね、それを見ていた孫たちはね、どうやらおばばはココアを飲むと機嫌が良くなる、と。それでテストの成績が悪い時、お小遣いが欲しい時なんかにね、ココアを淹れて持ってくるんですのよ!しかも三人とも!もう嫌になっちゃう。怒るに怒れませんでしょう?それに、幼いながらによく見ているんだなぁって思ったら、感心してしまいましたの…」

ぷんぷん、と可愛らしく怒る奥様の姿に、皆で笑い合った。岩崎さんの言葉を思い出す。家族って、かなり複雑で、子どもだってそれぞれに見える物を目で追っているんだって、改めて思った。


そんな、他の家族の物語とは裏腹に、10月が近づくと中島家には不穏な空気が流れていた。最近、春樹ががくっと、やる気を落とし始めたのだ。今までは素直に塾の宿題に取り組んでいたのに、最近は言わないとやらない日が出て来た。そしてそのやらない日数が増えて来て、しまいには「今やろうと思ってたんだよ!」と逆切れすることも。それを見かねてパパが決めたことはちゃんとやれ!と怒鳴ると、うるさい!やってる!と声を荒げ、バンっと大きな音を立ててドアを閉めて、部屋にこもってしまった。

その日はしばらくすると部屋から出てきたが、その日を境に、日に日に、友達と遊ぶ時間が増えて来た。休みの日はもちろん、下校中に遊びながら帰って来て、ギリギリ車に飛び乗って塾に行くこともしばしば。折角勉強に集中のためにお習字を休会したのに、その代わりに外に出たりジョギングをしに行ってしまったりと、落ち着きがなくなって行った。

勉強しなさい、真面目にやりなさい、と怒鳴り散らしたい気持ちがガッと沸騰してくるが、この前の鏡花ちゃんのママの姿が頭を過り、ぐっと堪える。塾でなにかあったの?茗荷谷学園、諦めるの?など、色々と刺激しない様に聞いてみるが、別になにも、と言うだけだった。

そしてある時、とうとう塾をサボってしまった。

いつも学校から帰って来る時間になっても現れず、塾用のバッグを用意して今か今かと待っていた。そしていつも家を出る時間を、そして電車が出発する時間を、過ぎてしまったのだ。危ないところにでも行ってるんじゃないかと、探しに行こうとしたときに、ひょこっと帰って来た。

「春樹!あなたどこ行ってたの!」

「え?別に。」

「別に、じゃないでしょう!塾に行く時間なのに、今から塾まで送っていくから早く用意しなさい!」

「えー、遅くなっちゃったし、別に良いよ。今日は休む。」

そう言って春樹はテレビをつけ、スポーツニュースを見始めた。

「今日は休むって!勝手な事言わないで。話聞きなさい!」

「だって、もう間に合わないのに行ったって、意味ないじゃん。」

「塾は休まないこと、ってルールにも書いてあったでしょ?塾も行かない、宿題もしない、それで本当に太郎丸になる気なの?ほんとうに、茗荷谷学園、行こうと思ってる?」

「うるさいなー。そんなこと言われなくたって、別にやってるし。勉強。」

「じゃあ何をしてるっていうの?前まであんなに勉強して、それでようやくクラスが上がったって、言ってたじゃない。最近は宿題もやらないし…」

「だから、やってるって!」

そんな水掛け論のような言い合いをしていると、家の電話が鳴った。中島です、と出るとTゼミの受付の女性からだった。

「…はい、少々おまちください。」

一度保留にして、春樹に冷たく言い放つ。

「春樹、Tゼミから春樹くん来ていませんが、ってお電話来てるよ。そんなに休みたいなら、電話に出て、今日はお休みしますって自分で言いなさい。」

すると、春樹はちょっと怒ったように反論してきた。

「は?そんなのやだよ。」

「それなら今から行くって言って。待たせてるんだから早く出て!」

そう言うと、風邪で寝てるって言っておいて、と言いながら走って二階に行ってしまった。

「…おまたせしてすみません。ちょっと、都合がつかなくなってしまって…今日はお休みさせて下さい。」そう伝えると、受付の女性が「かしこまりました。次回までに宿題を済ませておくようにご指導ください。」と言い、終話した。電話を切った途端、情けないやら腹立たしいやらで、涙が出て来きてしまった。どうしよう、どうしよう、と無意識にぶつぶつ呟いていた。

せっかくここまで来て、ようやく成績が上がる兆しを見せて、夏期講習からはクラスも上がった。それなのに、どうしてこんな時に手を抜くんだろう。入試まで4か月を切ってしまった。その焦りと、何より軽くあしらわれたことがショックで、電話の前にへたり込んで、しばらくの間、そのままでいた。

この前の鏡花ちゃんと鏡花ちゃんのママの件を見て、頭ごなしに叱ったり、怒鳴ったりはしない様にしよう、と思っていた。でも、親から見てもこの状況はとてもマズい。なのに春樹は勉強をやっていると言い張るし、わたしは春樹を説得させる言葉を、何もかけてやれなかった。春樹が頑張るって言ったから、春樹が茗荷谷学園に行きたいって言ったから、ママとパパは、勉強こそ教えられないけれど、学費とか送り迎えとか、そういうところで頑張っているのに、どうして分かってくれないんだろう…無力感に苛まれて、もう、どうしようもなかった。しばらくしてパパが帰って来て、電話の前でぐずぐずになっているママを見てギョッとしていた。

「ど、どうしたの…」

「パパぁ…もうわたし、無理かも。」

そう言ったら、収まりかけてた涙が、また溢れてきた。

「ママ、落ち着いて…ね?なにか、辛いことでもあったのか?」

「春樹、塾さぼっちゃうし、塾にも風邪ひいたって伝えて、なんて舐められてるし、もう、どうしたらいいか分からない…」

「そうか…。春樹、茗荷谷学園行くの、辞めるのか?」

「ううん。勉強してるって言い張るの。どうしてなんだろう。何がいけなかったんだろう…」

うーん、と暫く考えてから、パパは口を開いた。

「男ってバカだから、自分が出来てると勘違いしちゃうんだよ。大人になったと調子乗っちゃうんだよ。ちょっと、春樹と話してくる。」

「ケンカはやめてよ?」

「大丈夫。だから、ママはソファに座って待ってて、ね?」


ソファに座って、クッションに顔を埋めてうなだれていた。もう、体に少しも力が入らない。しばらくして、そう言えば今日はまだご飯の用意していなかったな、と思いだしてハッと顔を上げたのだけれど、カップ麺もあるし、パパや春樹が何か食べたいって言ったら自分でなんとかしてもらおう、と結論付けて再度クッションに突っ伏した。

そうこうしているうちに、パパが帰って来た。

「春樹には、一応言っておいたよ。こっちの意図が伝わってるかは分からないけれど。」

「うん…」

「ちょっとだけ、子供扱いじゃなくて、あえて大人っぽく扱ってみた。」

「うん。」

「自覚が生まれるといいんだけどね。」

「うん…」

パパは上着を脱いだり、冷蔵庫を開けたり、うろうろしながら話しかけていたが、ママはもう、うん、と応えるだけしかできなかった。そうこうしていると、ガチャガチャと何やら作業をする音が聞こえ、再度顔を上げると、パパがネクタイを抜き、ワイシャツの袖をまくってキッチンに立っていた。

「ごめんなさい。今日、せかせかそわそわしてて、お夕飯の用意していなかったの…。」

「うん。だから今俺がやってるよ。」

流石にマズいと思って立ち上がり、パパの元へ向かった。

「代わるね。」

「いいって。生姜焼きと、うどんでいい?」

「うん。」

「春樹にはおにぎり作っておこうか。一緒に食べるのも気まずいし、降りてこないでしょ。」

「そうだね。」

「ねぇママ、そうして立ってるんだったら、そのキャベツ切って置いてほしいなー」

フライパンの前に立ち、パパが言う。先にキャベツ切って置けばいいのに、なんて思いつつも黙ってキャベツを千切りにし、水にさらした。

「次は?」

「うーん、ネギ?」

「かまぼこは?」

「じゃあかまぼことネギ!」

「オッケー!任された!」

並んで料理をしているとだんだん涙も落ち着いて、ふたりで突っついたり、ふざけたりして、自然と笑うことが出来るようになってきた。結婚前のことを思い出しながら、きっとパパと一緒なら何とかなるかな、とふっと心が軽くなるような気がした。


うどんを啜りながら、ふたりきりで食事をする。ふーふーと冷ます音と、ずずっと啜る音だけが、しばらく響いていた。食べ終わる頃には、湯気のせいか、空気が温かくなったような気がする。食後にお茶を淹れると、パパがようやく口を開いた。

「あのさ、色々考えたんだけどさ。」

「うん。」

「一度塾に相談してみたら、どうかな?」

「塾に?」

「俺達じゃ勉強のことは素人というか、教えられることも少なくないけど、もしかしたら先生たちは子どものヤル気を出すテクニックとか、持ってるかもしれないじゃん。」

「…確かに。」

「俺は、茗荷谷学園とか、良い学校とか、そういうところにはこだわりはないんだけど、やるって決めたならやり切って欲しいとは思ってるんだよね。中途半端なオトコには、させたくないなぁって。」

「分かる気がする…確か9時に中学生の授業終わるから、それくらいに電話してみる。」


午後9時15分を過ぎた頃を見計らって、電話をかける。パパが隣で見守っていてくれた。

『お電話ありがとうございます。Tゼミ受付です。』

「お世話になっております。小6の中島春樹の母です。春樹の事でご相談があって連絡したのですが、高田先生はいらっしゃいますか?」

『はい、少々お待ち下さいませ。』

しばらく、保留の音楽が続いた。その陽気な電子音はちっとも心を落ち着かせてはくれなかった。

『お待たせしました、担当の高田です。』

「お世話になっております。春樹のことなのですが…」

今までやる気を示していたのに、最近手を抜くようになってしまった。宿題も言われなきゃやらないようになったし、挙句の果てには、今日は…大変申し上げにくいのですが…サボって部屋にこもってしまったんです。勉強してるのかと聞けば、してると言い張るし、茗荷谷学園行きたくないのかと聞けばそんなわけでもない、そんな返答に親として困っているという旨を伝えた。すると高田先生は、いつ頃からか、家族のことでなにか変わったことは無いか、などの質問をいくつかしてきたので、思いつく限り答えた。

『ありがとうございます…それでは一度、春樹くんを交えて面談を行いたいと思うのですが、ご都合はいかがでしょうか?』

「いつでも大丈夫です。」

『そうですか…そうだな、それでは次回授業の後に設定したいと思いますので、次回はお迎えに来ていただいてもよろしいでしょうか?』

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。…それでは、失礼します。」

電話を切ると、パパがよかったな、と言ってくれた。

「パパありがとう。だいぶ、落ち着いたよ…」

「よかった。明日でいいか、春樹に面談のこと伝えるのは。取りあえず、おにぎり用意したって伝えてくるね。」

少し早いが、先に休むことにした。少しでも、何か解決策が見つかればいいなと思いながら。

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