第10話 帰ってこない!?あの子とママの戦い
7月になり授業参観や夏休みといったイベントも控え、浮足立つ我が家。その授業参観を明日に控え、学校から帰るとすぐに春樹は部屋にこもって『みらい設計図』発表の練習をしていた。リビングでやるとネタバレになってしまうから、だそうだ。気付くといつも家を出る時間を過ぎていたので、慌てて部屋から引っ張り出して車に乗せ、駅に向かった。
車から降りて春樹と共に改札に向けて走っていくと、途中のエスカレーターで鏡花ちゃんを送り出した鏡花ちゃんのママとすれ違って、がんばれー!と声を掛けてくれた。
「はるきー!はやくはやく!」
改札に入るか入らないかのところで林太郎くんが叫ぶ。
春樹はダッシュで向かい、ギリギリ電車に滑り込んだ。
「ま、間に合った…」
「ねぇ、別にママの方は走らなくても良かったんじゃないの?」
岩崎さんに言われて、息も絶え絶えに「そうかも…」と答えた。
「今日はどうしたの?」
「明日の発表の準備してて、時間忘れてたんだよね…」
「気合入ってるね。良い感じじゃん!」
「ありがとう…」
息を整えながら話すと、岩崎さんがカラッと笑いながら答えた。
「そうそう、今日のお迎えはわたし居ないけど心配しないでね!」
「あ、うん。どうかしたの?」
「お姉ちゃんの方が今日まで定期テストで、明日お休みだから水戸で遊んでるの。洋服欲しいって言ってたから、林太郎が授業の間に買い物済ませてそのまま帰ってこようかなって。」
「そうなんだ!」
「この前みたくトラブルの心配、しなくていいからね。」
「ははっ!ありがとう。金曜日は奥様来ないし、お迎えは鏡花ちゃんのママとふたりかぁ…」
金曜日は奥様ではなくお母さんの担当で、行きはランドセルを背負ったまま学校から駅に直接来て早めに塾に行き、帰りは水戸に直接お迎えに行くので敦くんはいつもいなかった。
「最近どう?鏡花ちゃんのママ。」
「え…?」
「いや、何もなければいいんだけど。最近、あんまり愛想よくなくて。わたし何か悪いことしたかなって。」
「うーん…。」
言われてみれば、以前は4人でかしましくここで井戸端会議を繰り広げていたのだけれど、鏡花ちゃんのママは最近、早めに来てもパーキングで車の中で待っていて、電車が来る直前にやってきて、あまり話さずに帰っているような気がする。まぁ最近熱いし、鏡花ちゃんのママは細いから、夏バテでもしてるのかなーと思って気にしていなかったのだけれど。
「それかまた、私の噂、再燃した?」
岩崎さんは、にやっと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「いやいや、いやいやいや!それは、ないっ!」
「ふふっ。冗談よ。そんなに頑張って否定しなくて大丈夫だから!…でも、鏡花ちゃんのママ、特に中島さんに当たりが強くなった気がして。」
「え?そんなことないよ?」
「それならいっか…。ま、明日の授業参観、アナタの家の太郎丸の活躍に期待してるよ!」
「や、やめてよ…でも、楽しみ。みんなの発表が見られるの。また明日ね。」
「うん。また明日ね。わたしはお姉ちゃんのお財布してくるね~」
そういって岩崎さんはひらひらと手を振って帰って行った。お姉ちゃんと歩くからか、スニーカーではなく、サンダルを履いて、肩からカーディガンを掛けている姿が新鮮だった。
鏡花ちゃんのママの事が気になるような、気にならないような…心当たりになるような出来事を頑張って探すものの、家に戻る車の中で、ずっと考えていても何も見当たらなかった。いざ家に帰って来て明日何を着て行こうか考えていると、そんなこともすっかり忘れてしまったのだけれど。最近は、共働き世帯が増えたせいか、学校行事は土曜日に行われることが多くなった。一学期の授業参観はPTAの関係もあり、土曜日にやることが早くから広報されていた。別に授業参観だからといって特別着飾ったりするタイプではないものの、同じサッカー教室のママ友達に、いつも同じ服を着ているねと言われたらどうしようと思って、なんとか目新しい印象になるようにコーディネートを考えていた。
「うーん…」
とはいえ夏場は薄着になる。でもブラウス一枚も心許ない。さっきの岩崎さんを真似てカーディガンを肩から羽織ってみたが、私がやると冷房と戦う個人クリニックの看護師さんの様な印象にしかならなかった。
「ああいう風にはならないよねぇ…」
大きくため息をつく。そんなこんなで鏡を前に奮闘していると、電話が鳴ったり宅配便のお兄さんが来たりと忙しくなり、洋服のことを後回しにした。
いつもの時間に改札の前にスタンバイしていると、鏡花ちゃんのママがいつもの如く時間ぴったりにやってきた。
「あ、き、鏡花ちゃんのママ、お疲れ様。」
「中島さんも、お疲れ様です。」
さっきの岩崎さんとの話が頭に残っていて、たどたどしくなってしまった。ふたりだけなのでちょっとした沈黙も気まずくて、なんとか話題を探る。
「そ、そう言えばさ、明日授業参観だね。」
「ん?ええ。そうですね。」
「鏡花ちゃんのママは何着ていくか決めた?わたし、気付いたら全然、ヨソに着ていける洋服なくてさ…」
「はい。この前お台場行ったときに旦那さんにスカート買ってもらったので、それにしようかなって。」
「そ、そうなんだ…」
即座に頭の中で試合終了のゴングが鳴った。何故ファッションの話題を鏡花ちゃんのママに振ったんだ、1分前の私よ。そりゃ、この辺りじゃ見ないようなお洒落なお洋服、着ているわけだよ。そうこうしているうちに春樹が帰ってきて、胸をなでおろしたのだが、なかなか鏡花ちゃんは現れなかった。
「鏡花ちゃん、今日は遅いですね。」
「うーん。そうですねぇ…電車、乗れなかったのかな?」
「春樹、何か知ってる?」
「多分、森は同じ電車にはいなかったと思うよ。いつも一緒のやつ、ひとりで帰ってたし。」
「中島さん、先に帰ってていいよ。鏡花、同じ電車に乗れなかったみたいだし。」
一緒に待つよ、と言いたかったのだけれど、岩崎さんと話したことが気になっていて、一緒に居ても迷惑かなと考え引き下がることにした。
「うん。わかった。一緒に待ってたかったんだけど、今日まだパパ帰って来てなくて…ごめんね。」
なんとか理由をこじつけて、鏡花ちゃんのママと別れて家に帰ってきた。程なくして、パパから今日はみんなと飲んでから帰る、と連絡があり、先に春樹にご飯を食べさせた。
「じゃ、明日の準備してくるー」
「ちょっと待った!塾行く前にしっかり練習したでしょ?最後の確認する前に塾の宿題、終わらせてよね?」
「はーい…」
春樹がリビングで塾の宿題を片付けて、二階に上がって行ってすぐ、岩崎さんからケータイに着信があった。
「もしもし、中島です。」
『もしもし!』
とても焦っている様子だった。
「どうかしたの?」
『ねぇ、鏡花ちゃんのこと、知らない?』
「えっ!?」
『鏡花ちゃんのおばあちゃんから電話があって、鏡花も佐和子、鏡花ちゃんのママも帰ってこないんです、って。もうおばあちゃん、泣いちゃってるみたいで。』
「えぇ!?」
岩崎さんによると、いつも通り鏡花ちゃんのママは鏡花ちゃんをお迎えに行ったのだが、帰って来る時間になっても帰ってこない。電車の時刻表を見て時間を確認したが、次の電車の時間になっても、その次の時間になっても、二人は戻ってこない。その上息子さん、鏡花ちゃんのパパも今日は遅番で戻りは24時を過ぎる予定。誰も帰ってこない家で独り待っていたおばあちゃんは心配で心配で、バレエ教室で一緒だった岩崎さんを思い出し、すがる思いで岩崎酒造宛に電話をしてきたそうだ。従業員さんがこれは一大事だ、と若女将のケータイに電話を架けて来たとのことだった。
『わたしまだ一葉と水戸に居て…中島さんなら何か知ってるかなって。』
いつもは娘さんのことをお姉ちゃんと呼んでいる岩崎さんが、一葉と呼び捨てで呼んでいる。その言葉尻に緊迫した空気を感じた。
「帰り、鏡花ちゃん一緒じゃなかったの。春樹に聞いたら、いつも一緒に帰ってる女の子が今日はひとりだったから、鏡花ちゃんは同じ電車にはいないって。多分次の電車だから中島さんは先帰ってて、って言われて…」
『…ヤバいね。』
電話を持つ手が震える。岩崎さんと話しながらも、立ったり座ったり、身の置き場がなくうろうろしていた。どうして鏡花ちゃんのママを独りにしたんだろう、バカバカバカ!と自分を責めた。
「ど、どうしよう…ち、ちょっと待って、春樹に聞いてみる。」
電話口を胸に付けて、二階に駆け上がった。部屋のドアを急いで開けると、春樹は勝手に開けんなよ、と毒づいたが、今はそれどころではなかった。
「春樹、鏡花ちゃん、本当に電車一緒じゃなかったんだよね?鏡花ちゃん、まだ家に帰ってないみたいで。」
「森ぃ?アイツならまだ塾に居るんじゃないの?教室出る時とかも、エレベーターに居なかったよ。自習室じゃん?」
上り方面の電車は授業終了から10分で出発するため、上り方面に帰る生徒は比較的早く教室を後にする。そのため、一緒に帰らなくてもエレベーターで一緒になるが、今日はエレベーターでも一緒に乗り合わせなかったとのことだった。
「もしもし、なんか、帰りのエレベーターの時点で一緒じゃなかったって。…わたしちょっと塾に電話してみるね。」
『助かる!わたしも今から車戻るから、また連絡してね。』
電話を切り、春樹の部屋を後にしながら塾にコールする。
「もしもし、小学6年生でお世話になっている中島春樹の母です。同じ小学校の森鏡花ちゃんの件なのですが…」
階段を下り、リビングに入って来ても、うろうろしながら受話器を握りしめる。
「えっ!?き、鏡花ちゃん、今日お休み!?じゅく、き、来てませんでしたか!?」
背中を嫌な汗が伝う。さぁっと血の気が引いて、指先や胃の辺りがすうっと冷たくなった。塾の受付のお姉さんがどうかしましたか?と言うのに対して、何でもないです、ちょっとママ友同士のトラブルですありがとうございます。と早口に電話を切った。
「ど、どうしよう…」
あらゆる最悪の事態が、一瞬にして頭の中を駆け巡る。最近起きた少年によるリンチ事件や誘拐事件、いや、鏡花ちゃんだけじゃない、ママだって可愛いし20代でも通用する。近頃の女子大生の遺体発見のニュース…様々な物騒な事件の見出しが、ガンガンと脳内にぶつかって来た。どうにか冷静になろうと、深呼吸をして、再度岩崎さんに電話をかけた。
「い、岩崎さぁん…」
『どうだった?』
「き、鏡花ちゃん、塾お休みでしたって!どうしよう…お見送りの時、いたよね!?」
『それどころか、改札入るの見送ったよわたし…』
いつもカラッとしていて冷静な岩崎さんが焦っている様子に、こちらも涙が出そうだった。
「ど、どうしよう…」
『ねぇ、今日パパいる?』
「へっ!?パパ?」
『うん。パパもう帰って来た?』
「ううん、今日は飲んで遅くなるって…」
『ちょっと鏡花ちゃん探し、手伝ってくれない?』
「もちろんよ!」
鏡花ちゃんのママを独りにしてしまったことに責任を感じていたので、いつも以上に強く答えた。
『じゃあ…私は取りあえず、そうだな、いま一葉もいるから、鏡花ちゃんと、おばあちゃんに電話してどうにか連絡つかないか頑張ってみる。あと金曜だから奥様も力になってくれるかもしれないし、応援要請するわ。中島さんは鏡花ちゃんのママに電話してみて。出なくても、留守電に何かメッセージ残してくれると助かる。何かあったら、鏡花ちゃんのママのとこに行ってあげて。』
「わ、わかった…」
『もちろん、パパに断ってからね。』
「はい…」
『鏡花ちゃんのママからの電話を最優先して欲しいから、状況の報告はラインでしよう。いまからお姉ちゃんと奥様も入れてグループ作るから。』
「わかった…」
『巻き込んじゃって、ごめんね。』
「いいのよ!わたし、頑張るから!」
電話を切り、充電器に繋いでから再度電話の前にスタンバイした。パパに電話したが案の定出なかったので、ラインで《塾でトラブルがあって、もしかしたら外出するかもしれません。春樹は家にいます。その時はまた連絡するので、もしもの時にはタクシーで帰ってきてください》とメッセージを残した。すぐに、《俺も帰った方がいい?》と返信があったので《それは必要ないよ(*^-^*)》と心配させないように顔文字をつけて送った。既読が付いても返信が無かったので、そのまま鏡花ちゃんのママに電話を架けた。いつも以上にコール音が長く感じる。
「も、もしもしっ!」
繋がったと思い勢いよく答えると、無情にも留守番電話につながる自動音声からの返答しかなかった。ピーという音が聞こえ、焦って受話器に話しかけた。
「あ、な、中島ですっ。えっと…その、聞きたいことがあって電話しました!えー、また、電話しますね!」
はぁ、と大きなため息をついた。もし、第三者の悪者と一緒に居た時に、娘、とか、相手の強請のネタになるようなことを言わない方が良いかと思って、気を回した所、しどろもどろになってしまい、自分の頼りのなさに鼻の奥がつんとした。するとピロンと着信があり、奥様から《福沢おばばです。今から森さんのお家に行きます。おばあちゃんのことは、ひとまず任せてね(^^)/》とメッセージがあり、少しだけ心が落ち着いた。わたしも、と思ってぽちぽちと打っている間に、《ひとはです。鏡花に電話してみましたが出なかったので、まだ水戸に居るなら一緒に帰らない?ってラインしました。林太郎はパパが迎えに来ます。わたしとママはもう少し、水戸で待機します。》と反応があった。それに続いて《中島です。鏡花ちゃんのママに電話しましたが出ず、留守電にまた電話しますとメッセージ残しました。》と返した。
《ママ代理ひとはです。塾には鏡花ちゃんのこと、なんていいました?》
《ママ友同士のことで…と帰ってきてない旨は伝えてないです。連絡した方がいいですか?》
《しなくて大丈夫です。》
《福沢おばば、森家に到着。鏡花祖母、かなり取り乱しています(´・ω・`)でも安心して!おばばがついてるから。》
《奥様ありがとうございます。》
《ありがとうございます。》
ラインのメッセージがどんどん素早く流れていく。時計を見ながら再度、鏡花ちゃんのママに電話を掛けた。
「もしもし?」
再度試みるが、やはり、自動音声の声が流れて来た。
「あ、何度もごめんなさい。中島です。さっきはすみません。取り乱してしまいました。さ、佐和子さんの事、気になって電話しました。ではまた。」
もしもの時のために、鏡花ちゃんという単語を出さずに話す。初めて佐和子さんなんて呼んで、とても照れ臭かった。でもそんなこと言ってる場合でもなく、ラインを開き、メッセージを確認しつつ、送信した。
《ひとはです。水戸の駅員さんに、SUIPA改札の入退出の履歴見てもらえないか聞いてみます。》
《中島です。二度目の電話も出なかったのでメッセージ残しました。》
《おばばは鏡花父に何か知ってる事ないか連絡とります》
《鏡花父会社繋がらず(;_:)》
《うちのパートさんの御主人、同じ会社かも!裏番号無いか聞いてみます。ママ代理》
《SUIPA履歴だめっぽい…》
《それならおばばもなけなしの福沢コネクション使うわよ!》
こんなに情けないなんて。何もできない自分が、出す知恵も何もない自分が、こんなに惨めだなんて。奥様も岩崎さんも、それぞれ地元に根を張って、顔も広くて、困ったときには頼りになる人が親族以外にもたくさんある。それに比べて自分は、鏡花ちゃんのママに、出てもらえない電話に何度もコールするだけしかできない。その事実が、本当に惨めだった。それでも…それでも自分に出来るのは、これだけ。祈る様に再度電話をかける。やはり現実は無情なもので、応えてくれたのは、自動音声だけだった。悔しくて、涙が出て来る。指で涙を拭いながら、めいっぱい明るく取り繕ってメッセージを残した。
「中島です。こんばんは。明日の事、お話ししたくて。また電話しますね。」
電話を切ったら、どっと涙が出て来てしまった。ティッシュで目元を抑えながら再度メッセージをやり取りする。
《中島失敗。メッセージは残しました。》
《別の子会社だった!期待させてごめんなさい。中島さん、ありがとう。岩崎》
《おばば鏡花父会社に連絡!警備会社に無理を言って電話繋いでもらいました。鏡花父に帰宅してもらうことになりました。》
良かった…と胸をなでおろすと、更に流れが加速する。
《鏡花から着信 ひとは代理》
《ひとは話してます》
《鏡花いま日立にいる 代理》
《家に帰りたくないそう》
《ママ達に内緒ならひとはと話しするって》
《日立駅構内改札出てない。お金なくて出られない。財布忘れた。》
鏡花ちゃんと一葉ちゃんが話している様子を岩崎さんがリアルタイムで伝えてくれた。震える指で、《ひとまず安心しました!》と打ち込んだ。
《日立行きます 岩崎二人》
《おばばです。鏡花から連絡あったって、祖母に伝えていいですか?》
《まだ待ってて!伝えちゃだめ!ママ代理》
《ひとはです。ひとはがお財布を届けに行くってことで話を付けました。今からママと向かいます。ママも家も嫌って言っている以上、家族から鏡花に連絡があると逃げちゃう可能性あるので、鏡花と会えるまでは内緒にしていて下さい。》
《おばば了解》
《中島も了解しました》
《念のため日立駅に連絡しておきます。絶対にママに会いたくないし、もう家に帰らないって言っています。ひとはのいとこが日立に居るから、今日はそこでお泊りしようよって話で取りあえず会いに行く約束取り付けました。ほんとはそんないとこいませんが。》
《おばばは祖母が暴走しないように見張ってるわ(^^♪》
《日立駅に電話。確かに女の子いる。遠くから見張ってくれる。待合室の窓よりも背が低くて気が付かなかったそう。》
《安心(^^♪》
《鏡花ママは?》
《再挑戦します》
気を奮い立たせて短く返事をし、再度電話をかけた。長いコール音が響く。まただめか、と思った時に、受話器の向こうから声がした。
「もしもし…」
「も、しもし…」
「もしもし!」
はきはきとした自動音声ではなく、消え入りそうな声が聞こえて来た。
「…」
「さ、佐和子さん!森さん!」
「は、い…」
消え入りそうな、すすり泣く声の合間に、鏡花ちゃんのママの声が聞こえた。
「大丈夫?怪我してない?ひどいこと、されてない?」
「ぶじ、です…。」
「よ、よかったぁ…」
ひっこんだはずの涙が、だぁっと出て来た。
「ごめいわく、おかけして…」
「いいの!いいのよ!あのね、おばあちゃんがね、帰りが遅いって心配してたの。」
そう言うと、電話越しにひどく嗚咽する声が聞こえて来て、なんとかしなくては、と受話器を握りしめ答えた。
「そ、そうだわ、もしよければ、わたし、迎えに行くよ!お迎え、行ってもいい?」
「…」
「いま、どの辺にいるのかな?」
「ここ、どこだろ…水戸駅から歩いて、川が見える…」
暗い川…入水でもしないか、変質者が出ないか、そんな不安を振り払うように慌てて話した。
「なにか、建物ない?こ、コンビニとか!」
「その近く、コンビニに、います…」
「なんてとこ?」
「え…っと…」
「ガラスのドアになんとか店って書いてない?」
「水戸川前…マミマ、です…」
「話してくれてありがとう!じゃあ、今から行くから、20、30分くらい、待っててもらってもいい?」
「わかりました…」
「じゃあ、な、何かあったら連絡して!」
スマホを充電器から引っこ抜いて、バッグと車のキーを掴んで立ち上がる。行かなくちゃ!その前に連絡しなきゃとはっと気が付いて、ポチポチと焦る指を抑えながら打ち始めた。
《鏡花ママと連絡着きました》
《よかった(^^♪》
《どこにいる》
《水戸のマミマに居るとのことで、今から迎えに行きます。かなり泣いているようです。》
《鏡花のことはなした?ママ代理》
《話していないです。取りあえず迎えに行くから待っててと伝えました》
《ありがとう。まだ黙っててください。岩崎高速かっとばし中。》
《中島さん、パパに連絡した?ママ代理》
《してない!してから出ます。》
《よろしくね。充電器持って行ったほうがいいかもよ。ママ代理》
《森家に父到着したもよう。おばば少し父に説教します。反応遅くなったらごめんね。》
《ありがとうございます。》
パパに《今から塾の友達のママを迎えに行ってきます。もし帰ってからも春樹が寝てなかったらお風呂に入れて寝せて下さい》と送り、春樹にちょっと出かけるわね、と声を掛けて車に飛び乗った。
ナビをマミマ水戸川前店に設定して、勇むアクセルを必死に抑えながら最短距離で向かった。赤信号がこれほど憎いと思ったことはない。鏡花ちゃんも鏡花ちゃんのママも無事だと分かったせいか、ラインもしばらく大人しくなっていた。しばらくしてピロンと音がしたので信号が赤になった時に確認すると、鏡花ちゃんと合流できたと岩崎さんがお知らせしてくれていた。
本来なら30分程かかる道のりを、20分を切るくらいの好タイムで走り、マミマの駐車場に滑り込んだ。飛び出して行こうとドアに手を掛けたが、無茶をしてみんなに迷惑を掛けない様にと、ひとまず岩崎さんに電話をかけた。
「もしもし…」
「もしもし、中島さん!ありがとう!ちょっと待ってて…」
とたとたと走っている様子を受話器が雑音として拾う。
「ごめん、いま鏡花ちゃんから聞こえないとこまで移動してた。」
「よかったぁ…無事に鏡花ちゃん見つかって。」
「うん。まぁ、これからが大変かも…そっちは?」
「いま言われたコンビニの駐車場に来て、突入する前にどんな事話せばいいか聞きたくて。」
「ありがとう。まぁ鏡花のことは岩崎でなんとかしてるって伝えて。あとは…そうだな、そこから帰る道すがらで、何か、ファミレスとか、ないかな?」
「んー、あるとはおもう。」
「そこでちょっとなだめててもらってもいい?あと、入ったら場所と店名、ラインして?」
「わかった。行って来る。」
車を降りて走ってお店に近づくと、店内のイートインスペースに小さくなっている鏡花ちゃんのママの姿が見えてほっと胸をなでおろした。小さく深呼吸をして、店内に入り話しかけた。
「おまたせ!おそく、なっちゃった!」
「…中島、さん」
力なく椅子に体を預けたまま、顔だけを上げた。
「ってどうしたの!?その足!」
鳴き腫らしたであろう顔以上に、膝やつま先から血が出ているのが痛々しかった。ピンクの、オープントウの可愛らしいパンプスが、擦れて汚れて削れて、ボロボロになっていた。そして靴擦れをしたのか、つま先やかかとの部分が真っ赤に血で染まっていた。履いているのも辛いのか、脱ぎ捨て、裸足でいるのがなおさら、ほっそりとした足を強調していた。
「えっと…」
「ま、待ってて!今ばんそうこう、そこで買って来る!」
店内からウェットティッシュとばんそうこうとハンカチを見付けて会計を済ませ、急いで鏡花ちゃんのママの元に戻った。
「ありがとう…」
鏡花ちゃんのママが傷を拭いている間、必死で冷静を保とうと頑張っていた。一緒に泣いてしまいそうな気持ちと、しっかりしてと抱きしめたい気持ちが一気に押し寄せてきたが、先程の岩崎さんとのやりとりを思い出して自分を奮い立たせた。
「あ、っと…あのね、鏡花ちゃんのことは岩崎さんと娘さん、一葉ちゃんが頑張っててくれてるから、任せてって。だから…、ひとまず移動しよう?ここにいても、ね、アレでしょ?」
伝えたいことがなかなかうまくまとまらない。しかし、一葉ちゃんの名前が出るとハッと反応し、鏡花ちゃんのママは、わかった、と小さく答えた。
そのまま車に戻り、鏡花ちゃんのママを助手席に乗せて、コンビニを後にし夜道をひた走る。こんな時ってお目当ての場所は見つからないような気がする。どこか入れるお店、ファミレス、と頭の中で呟きながらきょろきょろと運転するが、営業時間を過ぎていたり、ラーメン屋や牛丼屋が大きく目の前で輝いて見せる。しばらくしてようやく、24時間営業のファミレス、ガスポを見付け、あっ!と声を上げてしまった。しまった!と、無理やり話を繋げた。
「ね、ねぇ…少しさ、軽く何か食べない?わたし、ガスポ好きなんだよね!」
完全に空回っているのが自分でも分かり、あたふたしていると、鏡花ちゃんのママは「喉も渇きましたしね」と話を合わせてくれた。駐車場に車を停めて、パパにご飯食べて来るって連絡するね、と嘘をつき、《中島です。鏡花母と合流。国道沿いのガスポに行きます。ブックオン隣です。》と岩崎さん達のラインに急いで打ち込んだ。
「あ、ちょっとまって…これ、不格好で申し訳ないんだけど、良かったらこのサンダル使って。わたし、ヒール履きながら運転できなくてさ。そういうとき様に乗せてるやつだから。」
「いいんですか?」
「えぇ!だって、靴擦れしてるのにパンプス履くの、辛いもんね。」
「ありがとう…」
ふたり並んで、闇夜にぼんやり光るガスポに入って行った。並んで歩くと、彼女って案外背が低いんだなぁと呑気にも思ったのだった。
客も疎らな夜のファミレス…と思ったのだが、案外賑わっていて若いカップルやくたびれたオジサンたちが店内で澱んだ空気を醸し出していた。完全にミスチョイスだと思いつつも、ここまで来たら引き下がれなかった。疲れの色が顔に出ている店員さんに案内され、6人掛けくらいの広いテーブルに向き合って座った。
取りあえず、アイスティーとクラブハウスサンドイッチを2つずつ頼み、程なくしてアイスティーが運ばれてきた。涙こそ流していないが、鏡花ちゃんのママは憔悴して、うなだれていた。喉乾いたね、とかガムシロップ使う?とか、そんな当たり障りのない話題をようやく絞り出したのだが、なかなか会話にならない。何かないかと考えているとさっきの店員さんがサンドイッチを持ってきた。もう、食べる気にもなれなかった。ぎゅっとスマホを握りしめる。岩崎さんに、どんな話したらいい?と聞きたかったが、相手の手前それも出来ず、ひたすら間を持たせるためだけにアイスティーを口にする。鏡花ちゃんのママのグラスにはまだ半分以上残っているというのに、私の方はもう、氷しか残っていなかった。
それでも癖でストローを口にしてしまい、ずずっと音を立てる。ちらりと窓の外を見ると、蛾が窓ガラスにぶつかりと小さな音を立てていた。
近くの席にいた若いカップルが外に出て行くと、店内はぐっと静かになった。その沈黙が、とても痛かった。ぶおん、と改造されたマフラーの大きな音がして、再びの沈黙。すると、鏡花ちゃんのママが、小さく口を動かした。
「…なんです。」
「え?」
「ぜんぶ、私のせいなんです。」
「えっ!?」
消え入りそうな声で話し始めると、渇いていたはずの涙が再度だっと流れ出た。
「私が悪いんです。こうなること、本当は分かってたんです!」
「えっ!ちょ、えっと、そんな、そんなことないって!」
バタバタと大袈裟にリアクションを取ってしまった。鏡花ちゃんのママは意に介せず、話し続けた。
「いつか、鏡花を私が不幸にしちゃうって。それが今日だっただけなんです。私が、鏡花を…」
「いや、いやいや!そんなことないって!も、もしかしたら、さ、学校で嫌な事、あったのかもしれないじゃん!ほら、男子ってバカだから、ふざけて馬鹿にしてきたりさ!」
わたしが口を開けば開く程、状況が悪化している気がしなくもない。というかもう、ドツボにはまっている。頭の中では、岩崎さん早く来て!と鏡花ちゃんのことはまだしゃべっちゃだめ!と良い話題ない?がぶつかって、シンバルを鳴らしているかのような大混乱ぶりだった。目の前では鏡花ちゃんのママが小さくなって泣いていて、指で涙を拭っている。つられて私も泣いてしまいそうだった。
「ねぇ、中島さんって、大学どこ?」
「へっ?わたし?」
「そう。どこの大学?」
突然の、予期せぬ問いにぽかんとしてしまった。咄嗟に、白梅女子だよ、と何も考えず素直に答えた。
「そっか…」
更に大混乱の私の前で、ふっと息を吐き、鏡花ちゃんのママが話し出した。
「わたし、学歴にコンプレックスを持っていて…鏡花には、同じ思い、させたくなかったんです。」
「…」
鏡花ちゃんのママは、訥々と話し始めた。話すところには鏡花ちゃんのママは、この辺りで言うと常陽第二のような、名門の女子高の出身だそうだ。しかし大学受験に失敗。上京して浪人するも思うような大学には行けず、もうやけくそになっていた。そんな時、友達に誘われてキャバクラの体験入店に行き、気付いたらそこでレギュラーで働いていた。ほら、私たちの頃ってキャバ嬢とかホステスがもてはやされてたときでしょう?と。運が良かったからか自分に合っていたからか、そのお店でもトップを争うようになっていて(と本人は言うが、そのルックスと可愛らしい所作もあったと思う)、大学が退屈に思えて親に内緒で中退し、そのトップ争いというゲームを楽しんでいた。ところが23歳を過ぎるとそのトップ集団から外れて上って行けなくなった。毎月の様に若い子が入ってくる中で、歳にはやっぱり勝てなかったのだ。これではいけない、と思うがなかなか就職はできず、繋ぎで派遣の仕事を始めた。そこで一般事務として派遣された先が、旦那さんの職場だった。旦那さんは日系大手企業のプラントエンジニアで、技術屋が本社に来ることはあまりないのだが、新しい工場の建設に携わるために来ていたそうだ。勉強熱心な姿勢が買われ、旦那さんは若いうちから全国の現場に参加し遠距離恋愛が続いたが、ママは26歳の年に鏡花ちゃんを身ごもった。
「旦那さん、妊娠がわかったとき、本当に喜んでくれて。それで、結婚を決めたんです。お義母さんも、男の子でも女の子でも、佐和子ちゃんみたいに可愛い目の子が良いわって。…でも私の実家側が大反対して、わたし、実家と縁を切ったんです。」
えーっ!と声を上げそうになったが、ぐっと堪えて鏡花ちゃんのママの言葉を待った。実家側が反対した理由は、旦那さんの学歴だった。旦那さんは幼くして父を亡くし、成績優秀だったのだが早くに大学を諦め、代わりに高専に進学し、そのまま今の会社に就職した。実家は、大学も出てない奴に娘はやらん、と大激怒。慰謝料だ、中絶だ、と責任を取れと迫ったらしい。
「馬鹿はどっちだ、って話ですよね…娘はキャバ嬢なのに。」
結局、鏡花ちゃんのママは実家と縁を切り、森家に嫁いだ。ちょうどその頃、森家の土地がエオンモール建設に引っかかり、まとまったお金が入った。そのお金で新築の家を建てて、旦那さんは県内に異動を申請し、新婚夫婦とお義母さんとの生活が始まった。
「お義母さん、多分、私が夜の店にいたのも、気付いていたと思うんです。でも、見ないふりして、くれたのかな。派遣切りに合う前に茨城に来られてよかったわね、なんて言うんです。実家の件があったのに、お腹の子が女の子だって分かると、娘が二人も増えてうれしい、私が産んだわけじゃないけどね、なんて。本当にお義母さんに救われて…だから、鏡花は、お義母さんが恥ずかしくないように育てようって…思って。」
お義母さんはお花とお裁縫が好きで、旦那さんが亡くなりアパート暮らしだったときも鉢植えの世話をしていたし、鏡花ちゃんが生まれるとお雛様を手作りしたほどの腕前だそう。
「だから、鏡花のこと、お義母さん好みの可愛い子にするのに必死だったんです。」
馬鹿みたいって思われるかもしれないけど、と前置きをして、話を続けた。まだ鏡花ちゃんが3歳だった時、ある日曜の朝、テレビを見せていたら、魔法少女プリキラよりも超人戦隊ウルトライダーに興味を示し、ママは真っ青になって慌ててバレエとピアノを習わせ、髪をいつも長く整え女の子らしさを“植え付けた”。持ち物は全部デズミープリンセス、長期休み毎にデズミーランドにプリンセスの衣装を着せて連れて行き、サッカーもドッジボールも授業以外は禁止、つまり、女の子らしくないことを徹底的に排除しようとしていたのだ。
「でも、いつもみたいに三勢丹で、三人で買い物していて…お義母さんが『いいわね、聖加女学院の制服。可愛いわね。鏡花ちゃんも着たら似合いそうね。』って。それで…」
わっと涙があふれた。鏡花ちゃんのママの心中が見えて、こちらも、涙をこらえることが、出来なかった。
鏡花ちゃんのママのベクトルは、可愛らしさから偏差値70の聖加女学院に変わった。お義母さんに、鏡花の聖加女学院の制服姿を見せなければ、勉強させなきゃ、お義母さんをもっと喜ばせなければ…。もともと賢く、真面目な鏡花ちゃんは塾でも良い成績を残していた。でも、6年生になり進度も難易度もぐっと上がると、成績は伸び悩んだ。
「もう、どうしたらいいか、分からなくて…それで、春樹くんが、春樹くんが同じクラスになってから、もう、わたし、耐えられなかった。」
「えっ!?春樹が!?」
突然に出て来た我が子の名前。何か悪いことでもしたのではないかと、手が汗でびちょびちょになった。
「だって…春樹くん、能天気…バカじゃないですか。太郎丸選手を見て、太郎丸になりたい。それで茗荷谷学園に入ろうだなんて。阿呆らしい、そんなの。しかもそんな風で勉強にまで本気になるんだから、もっと阿呆らしい…」
「…」
怒りたいような恥ずかしいような…でも、何も言わずに耳を傾けた。
「そんな子に、なんで鏡花が負けるんだろう、良い学校に行って、幸せになって、お義母さんを喜ばせるのは鏡花なのに…そう思うと腹が立って、わたし、もう鬼とか、悪魔になってた…無邪気に、自分がやりたいことを見付けて頑張る、春樹くんが、もう、憎くて…」
もはや何も、言い返せなかった。鏡花ちゃんのママの焦る気持ちが、痛いほど、胸に突き刺さってくる。
「敦くんみたいに医者になるために、林太郎くんみたいに老舗の岩崎酒造の跡取りになるために、そんな風に勉強して、させられているから、うちも同じよって思って、勉強しなさいって怒鳴ってた…でも、自分のやりたいこと、自分でみつけて、家族総出で頑張る春樹くんを見て、気付いちゃったの。わたし、鏡花…鏡花のこと、なにもわからないって。」
「そん、な…」
鏡花ちゃんのママは、不安を振りほどくように、感情をぶつけ、怒鳴り、時には壁に物を投げつけたり、ひどいことをしてしまったそうだ。流石に手は上げなかったけど、と。
「このままじゃだめ、聖加が遠くなる、受験に失敗しちゃう、そう思うとね…頭の中に、縁を切った両親が出てくるの。」
「え?」
鏡花ちゃんのママの両親は、どちらも学校の先生で、厳格な教育ママ・教育パパだった。交友関係にも口を出し、部活も内申点に繋がりやすいものしか認めず、高校も進学校でなければ行かせない、と徹底していた。よく、自分の生徒とお前は違うんだ、と言われていたのだとか。
「その時は普通だっておもってたけど…後になったら、そういう親が、嫌いだった。勉強が出来る良い子じゃなきゃ、自分の子じゃない、良い学校に行かなきゃ愛してもやらない…でも、どんどん、あの時の怖い、嫌な、親の姿に、自分が重なっていくの。主従関係というか、恐怖でしか、親子になれなった、自分の生みの親に…」
一方の旦那さんは、結婚し生活が落ち着くと、茨城の工場でも要職に就き、仕事に打ち込むようになっていった。デズミーランドに行きたいと言えば休みを取れるように頑張ってくれて、朝の3時でも車を出して一緒に楽しんでくれるし、仕事とバレエの発表会が重なったときは、休憩時間と鏡花ちゃんの出番に合わせ、大急ぎで駆け付け、スピード違反の切符を切られたほどだ。別に家庭内に不和があったわけではないが、自分の仕事、昇進が最優先。家のことは、全て女性陣に任せるというスタンスだった。夜勤や出張も増え、丸々一週間ひとことも話さないことも普通だった。
「旦那さんね、私の事、派遣社員でも頑張り屋さんで仕事が丁寧で、そこに惚れたって…。だから、頑張らなきゃ、鏡花の事、頑張らなきゃ、って。旦那さんは外で頑張ってるのに、仕事頑張って、私たちに色々買ってくれるのに、鏡花を一人前にするの、頑張れなかったら、わたし、もう、このお家、いられない、そう思うと、だめなんです。鏡花に、優しく出来なくて…。ほんとうに、母親失格なの。お義母さんが居る時には、良い恰好して、陰では鏡花を怒鳴って…ほんとうに、最悪なひとなの。春樹くんの太郎丸みたいに、無邪気な夢さえ、鏡花に見せてあげられなかった…。」
感情が溢れ出て来る。こんなに、鏡花ちゃんのママが辛い思いをしているなんて、思いもよらなかった。いつも悠々とベンツに乗り、可愛い娘と一緒にお洒落を楽しむ素敵なママ…そんな印象だったのに。一緒に話していて、そんなことにも気付けなかった自分が本当に情けなかった。ファミレスの端で、女ふたり、周囲を憚らずに涙を流した。
しばらくするとふぅ、と息を吐き出し、鏡花ちゃんのママは、再び話し始めた。
「わたし、鏡花を送り出して、ひとり、誰もいないところで、こうやってメイクして、髪を巻いて…そうやってる時間だけが、唯一何も考えずにいられたんです。髪を巻いていると、わたしはまだ大丈夫、って。これも本当は、気付いてたんです、心のどこかで。もうわたし、そんな若くないよ、可愛くないよって。でも女性らしさを、若さを頑張って出さなきゃ、お義母さんにも、鏡花にも、旦那さんにも、見捨てられちゃうよって、そう思うとね…つい、ピンクとか、白の服、選んじゃって。」
後頭部をふんわりと高くして、長い髪を緩やかに巻いて、優しい色調のモテ系。センスが良いからか古臭い印象にはならなかったが、これらは全て、かつてホステス達がもてはやされたあの時代に流行ったスタイルだ。鏡花ちゃんのママはもしかしたら、旦那さんに“選ばれた”、お義母さんに“認められた”時の呪縛から逃げられないでいたのかもしれない。
「聞いておけば良かったなぁ…旦那さんにも。本当は私の事、どう思ってるの?って。多分、鏡花が居なかったら…もっと良い女のひと見つけてのにさ。」
「そ、そんなぁ…」
「あのね、旦那さん、前からそうなの。言ったものはなんでも、買ってくれるんだけどね、その、察してくれないっていうか…本当に欲しいものとか、言葉とか、気付いてくれないんだよねぇ…。困っちゃうよね。だから、私が結婚してって言っちゃったから、頑張るって言っちゃったから、そうしてるだけなんだ。わるいこと、しちゃったよね。」
「そんなことないって…」
慌てて、言葉を遮る。鏡花ちゃんのママは、困ったような、愛おしむ様な、懐かしむ様な、そんな様子で、旦那さんの事を話した。話し終わってすっきりしたような雰囲気が、尚更こちらを不安にさせた。そして、おもむろに髪を解き、落ちていた輪ゴムで軽くまとめ、取れかけていたつけまつげを引っ剥がした。テーブルのティッシュに包んでぐしゃっと丸めて、背景の一部と化していたクラブハウスサンドイッチを引き寄せた。
「食べましょう。力つけないと。鏡花をお義母さんに、届けなきゃ。」
こちらが呆気に取られていると、むしゃむしゃとそのサンドイッチを頬張った。しばらくすると、また鏡花ちゃんのママの頬を涙が伝ったが、泣きながら、サンドイッチに食らいついた。
鏡花ちゃんのママのお皿が半分ほどきれいになった時に、すうっと黒い影がテーブルの横に近づき、何だろうと思った瞬間、ば、っと男の人が頭をさげた。
「ごめん、本当に、悪かった!」
「周平、さん…」
鏡花ちゃんのママがサンドイッチ片手に硬直する。男の人は長い間頭を下げていたが、おずおずと顔をあげる。鏡花ちゃんのパパが、真っ青になって、立っていた。
びっくりしてきょろきょろしていると、旦那さんの背中の向こうに奥様がピースをして隠れて顔を出していた。奥様!と声を出そうとすると、人差し指を口に当て、しーっ!とジェスチャーをしたので、うんうん、と何度も頷いた。
「周平さん…どうして、ここに…」
事の顛末はこうだ。福沢の奥様が旦那さんの会社の電話番号を聞き出し、電話するとふざけるな!家のことはお前らに任せてあるだろうと怒って電話を切った。それに福沢の奥様が、一人娘の危機にふざけるなとはなんだと激怒。再度会社に電話して、警備員さんに森さんを家に帰すように言い付けた。旦那さんは母親に説教するために一度家に帰って来たのだが、奥様はひとつ芝居を打って、鏡花ちゃんの友達、好きな場所、困ったときに行く場所、頼る人などを涙ながらに教えて下さいと泣きついた。しかし旦那さんはひとつも答えられない。逆切れして部屋に閉じこもり、ネット上で俺の家族がクソだ、と愚痴ったらクソなのはお前だのオンパレード。胸騒ぎがして、自分の母親に何か聞き出そうと出てくると、福沢の奥様のケータイが鳴り、ラインでママの状況を知る。福沢さんの奥様から情報を聞き出して、このファミレスに向かったのだ。ママの監督不行き届きに責任転嫁しようと思い、こっそり話を聞いていたのに、今まで知らなかった、ママの苦悩を知ってしまうことになった。私は母親失格、見捨てられちゃう、他の良い女…そんな思いもしない言葉を聞いているうちに、クソと言われた所以が分かったのだ。今まで、家庭の事を何も考えていなかった自分が、取り返しのつかないところまで鏡花とママを追い込んでしまったことに、ここに来て気が付いたのだ。
「俺、自分は良いパパだと思ってた。奥さんも娘さんも美人だね、可愛いねって言われて、そんな二人の為に仕事して、外車買って、休みをとってデズミー行って…。俺、自分に、酔ってただけだ。うぬぼれてて…」
「わたし…もう、良いの…」
鏡花ちゃんのママがそう言いかけると、ひょっこりと奥様が顔を出した。
「さっ、帰りましょう!お夕飯作って、待ってる人がおりますのよ?」
さぁさぁ、と福沢の奥様が急き立てる。段取りに関して、奥様の右に出る物は居ないと思う。すでに私たちの会計は済ませてあり、私と鏡花ちゃんのママ、奥様とパパの二手に分かれて、車に乗せ森家に向かった。森家に着くと、玄関先にお義母さんが待っていて、私たちの姿を見るなり、「佐和子ちゃん!あぁ、良かった、良かったわぁ…」と泣きながらママに抱き着いた。ママはお義母さんの肩に顔を埋めて、ごめんなさいと何度も繰り返した。奥様が二人を宥めて家に入れ、それに続いてダイニングに行くと、ダイニングテーブル一杯に、お義母さんが料理を用意して待っていて、ソファに岩崎さんがどっぷりと座っていた。
「遅かったわね。お帰り。」
余裕たっぷりに、笑顔で迎えてくれた。
「さぁさ、お義母さまがね、皆が帰って来るのにお腹を空かせていたら大変、ってね、ご飯を用意して下さいましたのよ!さ、皆さまここはありがたく頂きましょう?鏡花ちゃんはね、いま、ひぃちゃんが看ていますから。色々、話さなきゃいけないことはありますでしょうけど、それはご飯のあとで、お茶と一緒に。ね?」
ぱたぱたと硬直している人の背中を押したり、引っ張ったり、奥様はさぁさぁ、と言いながら皆を座らせて、じゃ、頂きますしましょうね、と言ってお箸を持った。
「…頂きます。」
鏡花ちゃんのママが、小さな声で、そう言いながらお箸を動かした。それを合図に、みんな、お義母さんの作ったご飯を食べ始めた。ぽかんとしていると、岩崎さんが私にウィンクをし、大丈夫だから、と声を出さずに口を動かした。うどんのアレンジ料理、サバの味噌煮、ラタトゥイユ風の茄子の煮物、トマトのサラダなどなど、気合いと愛情のこもった料理はどれも美味しくて、最初こそ疲労感で口が動かなかったが、食が進みぺろっと食べてしまった。食べている間は、ぽつぽつと、当たり障りのない話をしながら、ぎこちなく、料理に集中した。
食事が終わると、お茶を淹れますね、とお義母さんが立ち上がり、奥様は食器を片付け始めた。手伝おうと立ち上がると、これはおばばの仕事よ、と奥様が茶目っ気たっぷりに言った。
皆がお茶をひとくち、ふたくち、口にしたところで、岩崎さんが本題を切り込んだ。
「ねぇ、私から鏡花の話、してもいい?」
ぴんと張りつめた雰囲気が流れたが、旦那さんが、お願いしますと重々しく声を絞り出した。
「鏡花ちゃん、嘘つきになりたくなかったんだって。」
「え?」
「旦那さん、明日、何があるか知ってる?」
「明日?…授業参観、ですよね?」
「授業参観で、なにやるか、知ってる?」
「えっと…いや、知らないです。」
すみません、と消え入りそうな声で答えた。心当たりがあったのか、鏡花ちゃんのママは静かに涙を流した。
「『みらい設計図』って言って、自分の将来の夢とか、そういうのを発表するんだけど、鏡花ちゃんはクラス代表になっていて、皆の前で話すことに決まってたのよ。」
鏡花ちゃんの発表の内容は、将来デズミーランドのキャストになること。そのためにバレエや勉強を頑張って、世界中から日本に遊びに来る人を幸せにする、そんな人になること。でも、準備をしているうちに、それは本心ではないような気がしてきて、でも、家族みんながそれを見て喜んでくれたから、これでいいかな、なんて考えていた。そして本格的に発表の原稿を書く段階で、これは私の夢じゃない、これはママの夢だ、そう感じるようになった。でもクラスのみんなが鏡花にぴったり、鏡花なら絶対なれるよ、と言ってくれるうちに、これはママが鏡花にしてほしいことなんだって言い出せなくなって、代表に選ばれてしまった。明日は学年全員と、その親の前で発表する。本当はデズミーランドのキャストになんかなりたいとも思わないし、なれるとも思わない。本当にやりたいことを言ったら、それは男の仕事だって馬鹿にされる。あぁ、私は明日、みんなとその親が見ている前で大嘘つきになるんだ。思ってもないこと、やりたくないこと、それをさもやりたいかの様に、心を込めて発表する。そう考えているうちに、電車を降りそびれてしまって、終点の日立に来てしまったんだとか。待合室に入りぼーっとしていると、聖加女学院の生徒が外を通って行った。そういえば、なんで私、聖加女学院に入らなきゃいけなかったんだろう、なんであんなにママに怒られて、勉強しなきゃならなかったんだろう。もし勉強を辞めたら、どうなっちゃうのかな、なんて考え始めたらすっかり外は暗くなっていた。最初は寂しかったが、何度もケータイに着信あるうちに、私を大嘘つきにした上に、また私に勉強しろって怒るなら、もう家になんか帰ってやらない、とムキになってしまったのだそう。
「私が言うとアレなんだけど…鏡花ちゃん、わたしは一葉ちゃんにはなれないの。私じゃなくて、一葉ちゃんがママの子だったら、ママは幸せだったのに…って言っててね。」
バレエでも一葉ちゃんは背が高く踊り映えし、優雅だと褒められるタイプ。一方鏡花ちゃんはどちらかというと小柄で華奢なため、踊り映えよりも、元気で可愛いね、と言われてしまう。一葉ちゃんはみんなと仲良くなれるし、いつも話の中心にいるけど、鏡花ちゃんは本当は内気なところがあり、頑張って頑張って話しかけて、ようやく傍にいてくれる友達をみつけられるくらい。一葉ちゃんは年下の子にも仲良くしてくれて、でも鏡花ちゃんは話しかけられないとなかなか話せない…と、少し大袈裟にとらえているかもしれないが、つまり、一葉ちゃんと比べると、自分なんて聖加女学院にふさわしくないと思えて仕方なかったそうだ。成績表を見て、成績が下がっていくと、ほらやっぱりふさわしくないでしょ?と確認できてうれしかった。だからだんだん、勉強もやるふりをするようになったのだと。
鏡花ちゃんのママは、涙も拭かず、ただうなだれていた。パパも、何も言わず、口を押さえて狼狽していた。
すると突然、お義母さんが堰を切ったように、ごめんねごめんね…と泣きながら話し始めた。
「ごめんね…私が、嘘をついたり人をだますことは絶対ダメ、なんて言って。佐和子ちゃんが無理してるの、頑張ってるのと勘違いして。周平を仕事人間にしちゃって、本当に、皆を傷つけた!私が居ながら、みんなのこと…」
「もう、いいのよ…もうちょっと話していい?あのね…、鏡花ちゃん、ね…あの長い髪、自分で切っちゃったのよ。」
「えぇ!?」
思わず驚いて声を上げてしまった。慌てて口を押さえた。
「変装と、あと、色々…」
ごめん、と岩崎さんが言いながら伝えると、ドン、とテーブルに手をついて、鏡花ちゃんのママが立ち上がった。
「ってことは、鏡花に会ったのよね!?鏡花、どこにいるんですか!」
「…あたしの家。」
「ちょ、どこ行くの?」
「いく。鏡花のとこ。髪なんて、どうでもいい。鏡花の無事を、一目でいいから、鏡花に会わせて!お願い…!」
「それなら、車は私が出しますわよ?」
暫く黙っていた奥様がウィンクしながら立ち上がった。続きはおねがいね、と岩崎さんに言いながら、鏡花ちゃんのママの腕を取って外に出た。そわそわしている旦那さんとお義母さんに、もうちょっと続きあるんだけど、と岩崎さんは持ち前の目力を発揮し二人を座らせた。
「鏡花ちゃんの将来の夢、聞いたんだけどさ…」
鏡花ちゃんは、パパと同じ、エンジニアになりたいのだそうだ。大震災の時、真っ先に会社に飛んでいきみんなを助け、その後何か月も、あの時は森さんのおかげで助かったと言われているのを見て誇らしく思ったのだとか。作業着を着て、いろんなところに行くのが楽しそうだと思ったそうだ。でもそんなこと言ったら、これは男の仕事だと、ママに怒られるかもしれないと思って内緒にしていたそうだ。
「鏡花…」
それを聞いて、パパは嬉しそうな顔で涙ぐんでいた。
「鏡花、そんなこと考えてたんだ…でも確かに、エンジニアは男社会だからなぁ。」
パパの発言に、ちらりと岩崎さんを見る。それに気が付いて岩崎さんはニヤッと悪戯っ子の顔を見せた。首をかしげてるパパを見て、念のため、種明かしをした。
「そんなこと言ったら、岩崎さん、フォークリフト運転してますよ?」
「えっ!?」
「納品もトラックで私が行ってるけど?」
「酒造の女将さんって、着物着て、あらどうも…みたいな感じじゃないんですか?」
シリアスな雰囲気だったのに、本人は至って真面目に、そんなことをいうパパが可笑しかった。
「そういうことすると思ってたんだけどね…気付いたらフォークリフトの免許取ってたし、着物より白長靴よね、もう。生活の為には背に腹は代えられんのよ。鏡花ちゃんも含め、今の子達は大変だよね。昔みたく将来の夢はお嫁さん、とか言ってられないんだもん。」
「はぁ…」
パパの方はピンと来ていないようだった。確かにそうだ。子供の頃、女の子の夢と言ったらお嫁さん、お花屋さん、ケーキ屋さん。男の子は、ヒーローか消防士か、お父さんのようになること。そんな世界観だったし、それについてなんの裏付けも必要なかった。そして女子大に進学し就活をした時も、良妻賢母を良しとする風潮もあってか、就活は婚活と同じ地平線上にあった。だからあまり、自分の夢とかやりたいこととか、そういうことよりも、今を楽しく、ちょっと先の結婚という将来に向けて頑張るというゆるいスタンスの子が多かった。時代が厳しくなってきて、そういう曖昧さやゆるさも、すり減って行ったような気がする。
「それよりさ、鏡花ちゃん、遅くない?」
ぼんやりと考えを巡らせていると、岩崎さんがふと呟いた。そういえば、と思い時計を見ると、すでに15分が経っていた。どうしたんだろう、と考えているうちに、ファミレスで鏡花ちゃんのママが話した言葉がぐるぐると回ってきた。
「だ、だめです!はやく、電話!一葉ちゃん、連絡つかない?」
「どうしたのよ、いきなり…」
「鏡花ちゃんのママ、お義母さんに鏡花を届けるって。もしかして、いや最悪のケースですよ、鏡花ちゃんのママ、責任とろうとして…」
「どゆこと!?」
「お義母さんに鏡花ちゃんを託して、責任とって、り、…、周平さんには、もっとふさわしい人いるからって、ファミレスで、そう言ってて。いや、別に思い過ごしならいいんだけど…」
「佐和子がそんなことを!?」
驚いたように答えるパパに、こちらが驚いてしまった。
「聞いてましたよね!?だって、かなり、自分の事責めてたじゃないですか!」
「わかった…取りあえず一葉に連絡する。」
電話をかけると、どうやら鏡花ちゃんはママに会いたくないと一葉ちゃんの部屋にこもっていたそうで、奥様が必死に説得しているところだった。
「ねぇ、鏡花ちゃんのパパが鏡花ちゃんと話したいっていうからさ、電話代わってもらってもいい?」
「俺!?」
鏡花ちゃんのパパは驚いた顔をした。いいから、と岩崎さんは電話を渡し、壁にかけてあったカレンダーを勝手に外して、ポケットからペンを取り出して裏にカンペを書いてパパに見せた。お義母さんはその様をあたふたしながら見ているだけだった。
《だいじょうぶ?》
「も、もしもし、鏡花か?よかった…大丈夫か?」
パパもその通りに、話を進める。
《疲れてない?》
「そうか。疲れてる?疲れてない?…うん、安心した。」
《きょうはおそい かえっておいで》
カンペと岩崎さんの顔を見ながらパパは続けた。
「もう、さ、夜も遅いし…お家に帰ってきなよ。ね。…そうか、それは嫌なのか。」
《なぜ》《おばあちゃん 美味しいもの作ってる》
「どうして?おばあちゃんも美味しいもの作って待ってるんだ…。うん…。そうだね。みんなに迷惑かけちゃったよね。」
《みんな怒ってない》《みんなやりたくてやった きょうかのことさがすの》
「でも、みんな怒ってなんか、いないから。みんな、鏡花の事さがしたくて、電話したり迎えに行っただけだから、ね。…うん。わかった。帰っておいで。」
そのひとことに、ほっと胸をなでおろす。しかし岩崎さんは手を止めなかった。
《ママと一緒に帰ってきて ママも》
「じゃあ、ママと一緒に帰って来てよ。」
岩崎さんはペンを止め、試すような目でパパを見た。パパは一瞬、どうにかしてと目線を泳がせたが、うん、と頷いて、言葉を続けた。
「ママと一緒に、さ。鏡花は、ママの事、怖かったりしたと思うんだよ。気付いてあげられなくて、ごめんな。でも、パパは、鏡花のこともママのことも、好きだから…勉強とか、学校とか、そういうのは、後にして、その…とりあえず、今日はお家でゆっくり休もう?な?」
しばらくして、分かった、待ってる、と言って電話を切った。それを聞いてみんな自然と、よかったぁ…とため息と一緒に吐き出した。
「アンタ、やるじゃないのよ。」
岩崎さんはバシッと背中を叩く。
「本当に、ご迷惑をお掛けして…」
鏡花ちゃんのパパとおばあちゃんがそろってペコペコと頭を下げる。お茶でも飲みましょうかと、岩崎さんが声をかけたので準備を手伝って、みんなが帰って来るのを待っていた。
「帰って来たわ。」
ぶぅん、と奥様の車が入って来て、みんなで玄関にスタンバイした。がちゃっとドアが開くと、鏡花ちゃんのママがごめんなさいと言いながら一番最初に入って来た。そしてそれに続いて鏡花ちゃん、奥様が入って来た。
「佐和子ちゃん、鏡花ちゃん、ごめんね、ごめんね…」
ふたりを抱きしめながら、鏡花ちゃんのおばあちゃんは、何度も、何度もごめんねと繰り返した。鏡花ちゃんはぽかんとしていたが、ママは声を上げて泣いていた。長かったはずの鏡花ちゃんの髪は、ざっくりと、斜めに切られて揺れていた。
明日も早いから、と奥様の声でみんなとりあえず、今日のところは家に帰ることにした。
帰り際に岩崎さんが鏡花ちゃんのママに、明日にでも美容院連れてってあげてね?とウィンクすると、泣きながら敬礼のポーズで返した。
家に着くと、パパがソファでだらっと眠っていた。もう午前2時を過ぎていた。
「パパ、パパ、起きて!」
「ん…?あぁお帰り。」
「遅くなって、ごめんなさい。」
「あぁ…何があったか知らないけど、大丈夫だったか?」
欠伸をしながら、パパは答えた。
「うん。いろいろあったけど、明日話すね。風邪ひいちゃうから、お布団で寝ましょう。」
布団に入っても、疲れすぎたせいかなかなか眠れなかった。遅くに帰って来て、酔っぱらっていたのもあるけど、一応待っていてくれた。そして、あまり詳しくは聞かずにいてくれたパパ。そんなほんの少しの気配りが、嬉しかった。鏡花ちゃんのパパは、ママの頑張り屋さんなところに惚れた。そんな話をふと思い出して、そういう風に、わたしも、パパもお互いの良いところを感じていたらいいなと考えていた。
パパに、もう時間だぞと起こされて、土曜日は朝からてんてこ舞いだった。昨日の疲れからか早起きできず、とにかく急いで春樹を起こして朝ご飯を食べさせて送り出し、シャワーを浴びて洗濯機を回す。今日は土曜日だがイベントがあり、パパは出勤。そのおかげで寝過ごさずに済んで、密かにパパに感謝した。
しかし昨日ちょっとだけ悩んでいた、授業参観に着ていく服の結論がでていない。とりあえず先にメイクを始めた時に、ケータイが鳴り、誰よ!と毒づきながら慌てて電話に出た。
「もしもし!」
「もしもし、岩崎です。昨日はありがとね。」
「岩崎さん!岩崎さんこそ。お疲れ様でした。」
「あのさ、大変申し訳ないんだけど…今日の授業参観、乗せって行ってくれない?」
「えっ!?」
「私が納品に行ってる間に、お義母さんが車乗って行っちゃって。主人もいないし、トラックで行く訳にもいかなくて。無理ならタクシー使うから構わないんだけど。」
「いいよ。乗せてく!何時ごろそっち行けば良い?」
「わたしはもう行くだけの状態になってるから、そっちのペースに合わせるよ。」
「はーい。じゃあ岩崎さんとこ寄ります。」
電話を切り時計を見る。9時20分。10時には家を出たいところ。
「もう!急がないと!やばーっ!」
さっさとアイシャドウをつけて、口紅を引く。クローゼットを開けて、取りあえず無難な、この前エオンのセールで3990円に値下げされていたワンピースを着て、姿見の前に立った。眉毛が濃くなってしまったことと物足りなさを感じたが、取りあえずロングネックレスを首から下げて、今日はこれで行こうと決めた。
車に乗り、岩崎酒造に向かうと、倉庫で岩崎さんが従業員の人たちに指示を出しているようだった。こちらに気が付き、ちょっと待ってて!と叫ぶと事務所に向かい、スニーカーを脱いでパンプスをひっかけ、バッグを持って走って来た。ベージュのパンツと白いワンピース風のシャツが爽やかな印象だった。
「待たせてごめん!ありがとね」
「大丈夫!忙しそうだね。」
「わたしいっつもこうなの。要領悪くて、バタバタしちゃってね…」
岩崎さんは髪を結び直しながら言った。
「そんなこと無いって!昨日もすごかったもん。私なんかあたふたしてるだけで、その間に指示出してくれて。要領どころか、軍隊並みの統制、名司令塔だったよ。」
もし岩崎さんがいなかったらと、考えただけで胃が痛んだ。
「まぁ慣れかな。ほら、食品扱ってるし自営業だからさ。トラブルの連発よ。私も昨日はすごく勉強になった。奥様の根回し力?にはかなわないよ。」
「根回し?」
「ほら、鏡花ちゃんのパパと奥様、中島さんがいるファミレスに行ったでしょう?その時も、鏡花ちゃんのおばあちゃんにさ、おばばはいつも通りに待っててあげるのが仕事よ、って料理させて冷静さを取り戻させてたし、パパの会社も警備会社経由で連絡とるとか、そういうの普通思いつかないもん。」
「確かに段取りがすごく良かったけど、そんな風だったんだね…」
「でもさ、よかったよ。無事に帰って来たし、いい方向に着地しそう。」
「ほんと!最近物騒なニュース、多いじゃない?だから最悪の事態を想像しまくってたよわたし…」
しみじみとふたりで頷く。お互いに違う対応をしていても、やはり同じように心配だったのだ。
「ほんとにね…でも、鏡花ちゃん、良い子だよ。嘘つきになりたくないって、そういう気持ちがある子、なかなかいないよね。」
「わたしは鏡花ちゃんのママがあんなに無理してたなんて、思わなかった。」
「鏡花ちゃんも、早く限界が来て良かったのかな。我慢を続けて、大きくなって爆発して非行に走ったり、変なオトコに捕まったり、そうなったら本格的に手に負えなくなっちゃったかもしれないし。」
そんな話をしていると学校が見えて来て、車を停めて昨日の事を話しながら一緒に教室まで歩いて行った。途中でサッカー教室のママ友と会って挨拶をしたのだが、急に顔を引きつらせて、用事を思い出したのか踵を返していった。それを見て岩崎さんが「私の威力、すごいでしょ?」と言い、かつて岩崎さんの噂に振り回されていたときのことを思い出した。
「それより、今日、鏡花ちゃん来るかなぁ…」
教室に入りぼそっと呟くと、岩崎さんが笑いながら答えた。
「来ないと思うよ。」
「え?ごめん、可笑しかった?」
「いや、中島さんも変わったな、って。」
「え!?」
意外な答えに思わず、大きな声を上げてしまった。はっと口を押さえて小さくなると、その姿を見て再度、岩崎さんが笑った。
「中島さん、周りの目を気にしたりおどおどしたり、振り回されたり、頼りない人だなって思ってたの。でも昨日は鏡花ちゃんのママのことで、すごく逞しくなったなって、そう思ったのよ。」
「そう、なの?」
「そうよ。甘い人、って感じから、個人、って印象になったかな。」
「なんか…褒められると恥ずかしい。」
「ふふっ。」
そうこうしているうちに、授業参観が始まった。前半1時間はそれぞれのクラスで、班に分かれて自分の『みらい設計図』の発表を行った。そして後半1時間は体育館に移動し、各クラス代表の生徒の発表を聞くというものだった。
「えー、本日1組の代表の森さんが体調不良でお休みになりましたので、二番目の発表者の山崎さんから発表します。それでは、山崎さん、お願いします。」
司会を務めていた先生がそう言うと、順々に発表が始まった。本人が言わなかったので知らなかったのだが、春樹も代表に選ばれていて、中島さんお願いします、と先生に言われた時にはうそでしょ!?と声を上げてしまった。
「僕の将来図の基礎には、太郎丸選手がいます。ラグビー日本代表の、南アフリカ戦を見て、僕は心の底から、太郎丸選手になりたいと思いました。勝つだけではなく、成し遂げる、そんな太郎丸選手がほんとうにすごいと思ったからです。」
マイクを通して聞こえる春樹の声はなんだか大人びて聞こえ、いつも以上に大きく見えた。こんなに大きくなってしまったのかと思うと、その成長に涙が出そうだったのだが、他の人の手前、ぐっとこらえて春樹の声に集中する。5分くらいだろうか、春樹の番が終わり壇上で礼をすると、岩崎さんが隣で大きな拍手を送ってくれた。
授業参観が終わり、春樹と林太郎くんを乗せて駅に向かい送り出した。今から塾のテスト。子どももなかなか、忙しいのだ。
「お弁当作れなくてごめんね。コンビニで何か買って!」
「はーい。」
「春樹いいなぁ…僕もコンビニで買いたかった。」
林太郎くんが岩崎さんの方を見るが、残念ね、と返した。春樹にお小遣いを多めに渡して、改札の外で見送った。
再び車に乗り込むと、岩崎さんがしみじみと今日の感想を述べた。
「いやぁ、今日の授業参観、良い発表だったけど、昨日の鏡花ちゃんもそうだし、複雑だよね…」
「複雑…?」
「だってさ、ただ単にヒーローになりたい、アイドルになりたい、みたいなレベルだったら良いけど、何歳でこんな事して、ってやってくとどうしても、子どもながらに分かっちゃうじゃない。」
ぴんとこないままの私に、岩崎さんは話し続けた。
「じゃあさ、例えば離婚して、女でひとつで育ててます、って状況だったとして、春樹くんがおんなじような内容のこと、話せるかってことよ。」
「あぁー、そうだね…」
「もうさ、ここまで大きくなっちゃうと、タダでは夢もみられないのよね。」
「塾に通わせる前に、春樹に言われたの。敦くんみたいな金持ちじゃないと受験できないの?って。それでハッとしたの。男の子って、そういうの鈍感じゃない?それなのに、金持ちとか、うちはどうなのか、とか、そういう客観的に見てるんだって。」
うんうんと頷きながら、話した。
「夢とか理想じゃなくて、現実に生きてる子だっているじゃない?お姉ちゃんのときかな、低学年の時に、インタビューするって趣旨の授業…国語だったかな?で、こんなに成長しましたよっていうのを発表するのに小学校に入る前の事とか名前の由来とか、そういうのを親に聞いてくるってのがあって。それでお姉ちゃんと同じ班の子の原稿が真っ白で、あの子不真面目だね、って思わず言っちゃったんだけど、違うの、その子のママ離婚してていないのよ。外国人の新しいママの子を毎日面倒見ているから、宿題とかできない日もあるんだって、って。そういう子に将来の夢とか、聞くの、すごく残酷なんだなって、今日改めて思った。」
そんなことがあったんだ、と、心が痛くなった。コンプレックスに囚われ期待に応えたい一心で鬼になった鏡花ちゃんのママの、泣いている姿を思いながら答えた。
「家族って、自分の家族が標準モデルみたいに思ってたけど、もっと良い家も悪い家も、それぞれなんだよね…だってわたし、鏡花ちゃんの家も、理想的な家族って思ってたもん。美人でお洒落なママで、パパだって高級取り、優しいおばあちゃんに子役みたいに可愛い娘…そんなイメージだったのに、気付かなかったり、言えなかったり、虐待すれすれまで行っちゃうなんて。」
「今流行りの『お勉強という名の虐待』ね。」
「そう、それ。」
ワイドショーで取り上げられ、それを引用して有名芸能人が、実は私も親との関係に悩んでいた、とブログで発表して話題になった。あなたのため、とか、いい大学に入らないと就職も出来ずお先真っ暗、とか様々な理由でエスカレートしていき、勉強をしないと食事を抜く、寝せない、友達付き合いをさせない、そうやって子どもを追い込んでしまう。虐待というと、殴ったり監禁したり、そういうイメージが強いですが、それ以外にも子どもに人格を否定する行為は虐待ですからね?というものだった。勉強は親が良かれと思ってやっていることもあるから大変ですねとコメンテーターが話していた。
「そもそもさ、家族ってそんな綺麗事で繋がれる程、優しい物でもないのかな?放って置いたらだめになっちゃうし、手を掛け過ぎても駄目な個体なのかなー。意識的にも無意識にも、我慢したり努力しないと、すぐ破綻させちゃいそうで。」
「うーん。そうかも。」
趣味や馬が合って、好きで結婚して、そんなふんわりしたもので始まったはずなのに、老舗の百年以上続く酒造に入って、その歴史を背負って子どもを育て、フォークリフトまで運転するようになった岩崎さんが言うと、なんだか説得力が増してくる。
「大体さ、おかしいとおもわない!?J-POPもさ、恋愛の歌は想いが通じない、震えるほど会いたい、本当の気持ちが知りたい、ってのがガンガン売れるのに、家族の歌になったら絆がどうとか、愛にあふれてる、温かい、守りたい、そんな風になるってのがちゃんちゃら可笑しいんだよ!通じない同士がやっと通じただけなんだから、一緒に居たって電波悪いんだよそんな奴らは!」
「確かにー!」
敢えて、なのかは分からないけれど、さっきまでの真剣トーンから、一気におちゃらけて岩崎さんが話す。確かにそうだ。目から鱗だった。もしかして実感こもってる?と二人でゲラゲラ笑った。
岩崎さんの家に着くと、おばあちゃんも帰って来てるようだった。塾のお迎えは私が行くよ、春樹くんのこと送ってくから、というのでその言葉に甘えることにした。家に帰りアクセサリーを外し、掃除や手を付けていない家事を進めているとインターホンが鳴った。
「誰だろ…まだ時間じゃないのに。」
ドアを開けると、鏡花ちゃんのパパと…ばっさりと髪を切った鏡花ちゃんのママが立っていた。
「え!?あら、どうしたの!?」
「昨日、ご迷惑をおかけしたので、これ…」
鏡花ちゃんのパパが、綺麗な紙袋を差し出した。中には、高級ホテルのレストランで売られている、ちょっとお高いロールケーキの箱が入っていた。
「そんな…こんな高いの…」
「いいんです。本当に申し訳ありませんでした。」
「いえ、いえいえ!取りあえずお茶、淹れますから!」
「でも…」
「出来たらあの後のこと、教えて欲しくて。」
ふたりは顔を見合わせて、うん、と頷いて家に上がった。丁度この前、福沢の奥様におすそ分けしていただいたクッキーがあったので、ロールケーキを冷蔵庫にしまい、紅茶を淹れて一緒に出した。
「いま、鏡花は疲れたのか寝ちゃっているので、お義母さんにお願いしてるんですが…美容院に連れて行ったんです。それで、いい機会だから、ママも一緒にやってもらおうって。スタイリストさんと、鏡花と一緒に雑誌見ながら、どんなママがいい?って聞いたら、黒本瞳みたいな感じが良いと思うって。それで、黒に近いブラウンに染めて、思い切ってショートカットに…」
恥ずかしそうに、ママは話を続けた。髪を切ったら、絶望的に今までの服が似合わなくなってしまって、エオンモールに行って鏡花ちゃん本人が着たい服を、ママの新しいイメージに合う服を、パパが買ってくれたのだそう。タンス丸ごと買い替える勢いだったので、ウニクロやZADOなどのファストファッション系しか買えなかったけど、と。実際鏡花ちゃんのママはグレーの、シックなスタイルのワンピースを着ていた。トレードマークだったつけまつげも、もう卒業したようだ。
「とっても、似合ってる!もう、鏡花ちゃんのママくらい素材が良かったら、そんな安いとか気にする必要ないわよ。」
いやいや、と言いながら笑う。やっぱりこういう、少女らしい顔は女の私でもきゅんとしてしまう。
「本当に、ありがとうございました。恥ずかしながら…俺、男って家庭を顧みないくらい仕事に打ち込んで、昇進していくのがかっこいいと思ってたんです。」
鏡花ちゃんのパパが話してくれた。幼いころに病気で父親を無くし、記憶にあるのは「お父さんがね、出世したのよ」と母親…あのお義母さんだ…が嬉しそうに料理を作り、ちらし寿司やなにやら、皆の大好物だらけの食卓を囲んだ日のこと。普段は厳しい顔をして仕事に打ち込んでいた父親も、そのときは目尻を緩めて嬉しそうだった。だから自分も家庭を持ったら、そういう風に、バリバリ働いて出世して、そうやって家族を喜ばせようとしたのだとのこと。しかしあまり家族の反応が無くて、やっぱり技術屋の下っ端スタートだったから、まだまだ上に浮かなきゃダメかなと、率先して難しい案件に立候補し日々精進していた。おかげで叩き上げの希望と言われる程の出世ぶり、会社で認められることが嬉しくて、本末転倒、家のことはほぼ、どうでもよくなっていった。というかみんななんとかしてんだろ、っていう程度になった。
「福沢の奥様に説教されて…鏡花の友達の名前ひとり言えなくて、鏡花の何を育てたっていうんですか。体なんて、動物はいくらでも成長するんです。心や信頼、そういう目に見えないものを育てられるから、人間は人間でいられるんじゃないでしょうか?って。」
奥様が語ったであろう言葉にハッとする。確かに、最近起きる凄惨な事件。どうしてそんな酷いことを、本当に同じように血の通った人間なのかと思ったときの気持ちとリンクした。
「俺も、その強がりと、苛立ちとで、奥様に反論したんですが…血が通ってなくたって親子の関係にはなれます。貴方は父親ではありません。鏡花ちゃんの父親はただの精子ですよ、って言われて…まぁあの上品な奥様からそんな言葉が出てきたことにギョッとしたんですが、本当に、父親として俺がしてあげたこと、何かあったのかなって後から思ったんです。俺の父親は早く亡くなってるし、俺も突然、死ぬかもしれない。俺の中にはあの、昇進した日のオヤジがいるけど、今死んだら、鏡花に俺の何が残るかなって、そう思ったら、本当に後悔して。だから、もっといろいろなことを話そうって、そう佐和子と昨日あの後話したんです。」
ひとまず、鏡花ちゃんはしばらく習い事をお休みして、やりたい習い事は続けるように整理し、朝か夜は一緒にご飯を食べる、そういうところから始めるのだそうだ。ママが狂気に走ったきっかけの、おばあちゃんの制服着せたい発言も、絶対に聖加女学院に鏡花ちゃんを入れたいと言うわけでも、良い学校に行かなきゃ許さないというわけでもなく、可愛い制服が気に入っただけで、深い意味は無かったそう。それどころか発言したことも、覚えていなかったとか…。中学受験するかどうか、そこから考えるので、塾もしばらくお休みしますので、と鏡花ちゃんのママが続けた。
「そうなんですね…よかった、よかったっていうのも変かもしれませんが、最悪の事態になる前に、解決できそうで、それでよかったとおもいます。」
「本当に、そうなんです。鏡花の事だけじゃない、佐和子のことも…いつもきれいに化粧してるから、疲れてるとか、そういう顔色とか年齢の変化も、俺、気付いていなかったんです。向上心があって頑張っちゃう性格だって、分かってたはずなんですけどね。」
ちらりと鏡花ちゃんのママを見ると、ちょっと照れて目線を外した。頑張り屋さんの不器用同士、ようやく通じる距離に入ることが出来たように見えた。
「あの、もしよかったら、これからは中島さんも、鏡花ちゃんのママじゃなくて、佐和子って呼んで下さい。昨日、留守電に佐和子さんって入ってて…すごくうれしかったんです。中島さん、私に話しかけてくれてるって。奥さんとかママとかじゃない、わたしもいたじゃない、って思ったんです。」
「ありがとう。そうさせてもらうね…佐和子さん。」
「はい!」
これから福沢の奥様のところに顔をだすので、と二人はクッキーに手を付けずに、並んで帰っていった。窓からその姿を見送る。初々しい、とてもお似合いのカップルに、見ているこっちの顔もほころんだ。
その後すぐに春樹が帰って来て、そのクッキーを見付けてむしゃむしゃと食べ始める。
「ねぇ春樹、ママ知らなかったんだけど。春樹がみんなの前で発表するの。」
「言わなかったっけ?」
「言わなかったよ。でも、すごくママ感動した!春樹ってもう、子どもじゃないんだなって。」
「…ったりめーじゃん!」
「多分、一番、恰好よかったよ!」
「…」
照れて強がりながらも、まだ素直な春樹。反抗期が来たり、大変なこともあるだろう。それでも、お互いに歩み寄ったり、努力できる関係性でありたいなと、太郎丸の試合を見始めた背中に思うのだった。
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