第6話 春樹の現実
テストがあった日に、塾に継続したい旨を電話で伝えた。そして、手続きの説明を受けた。最短で2月から入塾でき、本来なら入塾テストがあるが、講習生は最終日のテストで判断し改めてテストを受ける必要は無いこと、入塾の手続きの際には三者面談を行い、後日父母説明会があること、入塾までに期間が開いてしまうので、希望があれば補助教材を配布することなどを、例によってTゼミ担当の高田先生が、澱みなく話した。そして後日連絡を頂き、日程を決めて面談を行うこととなった。
1月3週目の金曜の夕方、学校から帰って来た春樹を連れて駅まで来た。もし、入塾が決まれば、春樹独りで電車に乗り、塾に通うこととなる。その前に一度、予行演習をしておきたかった。駅の無料パーキングに車を停め、切符を買って、人も疎らな電車に乗り込んだ。最近はなかなか電車に乗ることも無い生活だったので、春樹以上に、私の方が緊張してしまっていた。15分程で降りて、帰宅する学生や会社勤めの人の流れを逆行するように塾に向かった。
受付に行くと、そのすぐ近くに面談スペースがあり、そこに案内された。5分程待っていたと思う。春樹は、他の先生に挨拶をしたり、知っている顔を見付けて話しかけたりしていたが、一方のママは全くそんな余裕が無かった。三者面談の日程を貰えたということは、多分基準を超えたのだろう、でも本当に合格しているんだろうか…そう思うと心配で仕方なかった。近くの教室からは高田先生の声が聞こえて来る。きっと授業中なんだ。どんな授業を行っているのか、見当がつかなかった。
子供たちの声が大きくなり授業が終わった雰囲気がして、高田先生が資料を抱えて入って来た。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。」
「こちらこそ、早く来てしまって…」
「今日は、テストの結果を振り返りながら、今後の事を話していきたいと思います。」
「お願いします…」
この前と同じく、オールバックに髪を撫でつけ、今日はネイビーのジャケットを着ていた。そして台本でもあるかのように、高田先生は淡々と話を進めた。
「春樹くん、今回の試験はどうでしたか?」
「算数は、まあ出来たんですけど、でも国語と社会が…」
やはり先生を目の前にしているせいか、もじもじしながら話し始めた。
「まず、こちらが春樹くんの今回のテストの結果です。春樹くん本人が思っているような結果になっていますね。」
試験の成績表が目の前に出された。棒グラフや折れ線グラフが並んでいて、カラフルで親しみやすい雰囲気とは裏腹に、かなりぎっしりと情報が詰まっているようだ。そして、教科ごとの棒グラフは、算数と理科は人並みなのに、国語と社会がへこんでいてギザギザしていた。
「これ…バランス、悪いですよね…」
どのように反応して良いのか分からず、声を絞り出した。
「今まで塾に行ったことが無い子は、大体同じようになりますよ。」
高田先生はにこやかな表情を崩さずに答えた。
「理科や社会は、学校でまだ習っていない部分を先取りしています。そして理解した、という段階よりも一歩先の点数が取れる、という段階を目指して指導していますので、どうしても『わかる』から『できる』まで、タイムラグが生じます。なので、こういったバランスの悪い形になるのは、仕方のないことです。春樹くん、社会、難しかった?」
「はい。学校では、近所の地図とか、やっと県庁所在地とか、そういうことやってたのに、初めて工業地帯とか、北海道の事とかやってたので、いろんな話題が移り変わってて、ちょっとスピードが速かったです。」
「そうなんだ…」
この前疑問に思った、勉強が速い、の意味が少しだけ分かった気がした。
「そして、どれだけ春樹くんが冬期講習を頑張ったか、お見せしますね。こちらは講習前に受けて頂いた学力テストの解答用紙です。」
前回と今回の解答用紙を、算数と国語それぞれ並べて見せてくれた。
「点数は無視して見て下さい。算数は講習前も良くできていますが、後半の難易度の高い問題だと、(1)から間違えています。一方で、今回のテストでは難しい問題も、(1)は解けています。算数は粘り強く、解くことが出来たかなと思います。」
「…」
親子二人、食い入るように解答用紙を見つめていた。
「一方で国語ですが、前半の基礎的な部分、つまり他の5年生が楽勝に解いてる部分でバツがついてしまっています。春樹くん、これ、どう思う?」
「ちょっと、もったいない…」
「そうだね。他の子ができているのに間違えてしまうと差がついてしまうね。でも今回は基礎の部分で取りこぼしが無くなっています。この辺りはすごく、頑張って授業を聞いていたのが点数につながってるかなと思います。」
「ありがとうございます…」
「ですが、国語は文章題、(6)の最終問題を落としがちです。どういうことだか、分かりますか?」
「…」
春樹は首を傾けた。
「バテたり飽きてる可能性が高いですね。問題をしっかり読んで最後まで解く、それが課題です。」
「確かに、国語は早く次の問題読みたくて、うずうずしちゃって…」
「結果的には、今回のテストで入塾基準点はクリアしています。基準は偏差値50で、春樹くんは53をマークしています。」
「「良かった…」」
二人して、思わず声が洩れて顔を見合わせた。高田先生はおめでとうございます、と言いながらも表情を崩さなかった。
「入塾希望ということで、どのような方針でいらっしゃるか、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい、中学受験を考えていて…」
「お母さまの希望は、どちらの学校ですか?」
「茗荷谷学園です…」
なんだか、大声で言うのもはばかられるような気がして、いつもよりも声を落として答えた。
「では、春樹くんは?」
「俺が、茗荷谷学園行きたいって言いました。」
「おう!そうなんだね。」
高田先生は表情を崩して、目を大きく開いたが、すぐにまた、にこやかな顔に戻った。そして、春樹はさっきの頼りなさげな様子とは違って、堂々と、先生に向かって話した。
「俺、太郎丸選手に憧れてて、ラグビーやりたいんです。今はサッカー習ってるけど、ラグビーができる中学は茗荷谷学園しかないので、茗荷谷学園でラグビーやって、太郎丸になりたいんです。」
高田先生はうんうん、と頷きながら、しっかりと春樹の言葉を受け止めてくれているような気がした。
「素晴らしいです。太郎丸選手の活躍、先生もテレビで見ました。」
ほんとですか!と春樹は目を輝かせて言った。
「そして太郎丸選手はどこの大学で活躍していましたか?」
「稲田大!」
「そう、稲田大。稲田大学は、日本でもトップクラスの大学です。スポーツだけではなくて、勉強もしっかり頑張ると、太郎丸選手に近づける。そこに気付いた春樹くんはさすがです。物事を良く見る力を備えていると思います。」
「…」
さすが、と褒められて、ぱっと顔を上げる。春樹もしっかり、高田先生を見つめていた。
「ですが、こちらが県内の私立と国立中学の偏差値表です。…茗荷谷学園中等部は、このランクにあります。」
持ってきた資料の中から、ランキングのような表を見せてくれた。茗荷谷学園は偏差値ランク65のライン上、県内でも上位の方に位置していた。そして今の春樹の実力…50のラインには2校程、名前があるだけだった。
「春樹くん、どうですか?」
「今回、俺は53だったから、茗荷谷学園はここで…結構差がある気がします。」
「そうだね。でも、あと1年、塾で授業を聞いて、宿題をやって、そして粘り強く勉強に取り組むことが出来たら、春樹くんなら十分、このラインまで引き上げることが出来ると思います。」
ママは若干、泣きそうだった。ちょっと頑張る、という漠然としたものではなく、偏差値を10以上引き上げる必要がある、という現実が途方もなく思えた。頭の良し悪し、という思い込みの世界に、偏差値という世界が割り込んできたのだ。脳内ではパニックが起きていた。この前みゆきちゃんが話していたことが頭を過る。みゆきちゃんは親を本気にさせるジョークです、くらいのスタンスだったが、実際には、我が子に幻想を見ている親たちの頭の中をぶん殴る、くらいのものだと痛感したのだ。
「ほんとに、春樹は大丈夫なんですか?」
「期待は出来ると思いますよ。今は3つのクラスに分けているうちの3番目のCクラスに居ますが、私が担当している算数だけでしたら十分Aクラスでもやっていけると思います。受験は総合力といいますか、4教科の合計で合否が決まります。この教科ごとのばらつきが無くなってくれば、持ち前の集中力で、一気に化ける可能性はあります。」
「な、なるほど…」
「そのためには春樹くん、成績が伸びないときも、じっと我慢で頑張れるかな?」
「頑張ります。太郎丸も粘り強い選手です。俺だって、頑張ります。」
「分かった。じゃあ、これからもよろしくね。2月から、頑張りましょう。」
「では、お母さま。5年の中学受験コースは、授業料はこちらの通りになります。引き落としで頂いておりますので、その書類一式がこちらに入っています。次回…来週土曜日に親御さんのみの父母説明会というのがありますので、その際に入塾の書類と共にお持ち頂いてもよろしいでしょうか?」
「はい…」
力なく、渡されるがままに、Tと書かれた紙袋を受け取った。春樹は春樹で、2月までの補修テキストとプリントをみっちり貰って、バッグに押し込んでいた。
「お母さま、心配に思う気持ちも分かります。でも今は、自分のレベルを知る時期です。そして、一年かけてどんな風に階段を作って、志望校のレベルに持っていけば良いんです。焦らずに、一緒に頑張りましょう。親御さんではなく、お子さん本人が受験したいというのは珍しいことですから。」
「ありがとうございます。今後とも、どうぞよろしくお願いします…」
受付のお姉さんに見送られて、Tゼミを後にして、煌々と光る駅に足を進める。頬を冷たい風が掠める。春樹の現実。偏差値にして12以上。果てしなく、長い道のりに思えた。足が重く、並んで歩いていた春樹が、随分前に行ってしまっていた。その後ろ姿はがっしりとして、とても頼もしく見えた。そして目標に向かって頑張っていたパパの、かつての姿と重なって見えた
「わたしがビビってちゃ、駄目だよね。」
よしっ、と小さく気合いを入れて、春樹の元へ駆けて行った。ひとまず、入塾ミッション、クリア!ということにして…。パパには何て報告しようか…授業料の振込書類、見せる前に褒められたってことアピールしておこうかな。
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