第7話 モンスターと呼ばれる女
塾の高田先生との三者面談を終え、いよいよ入塾に向けての準備を始めた。パパと二人、様々な事を話して、そして後日それを春樹にも伝えることにした。まず、サッカー教室と塾が重なったら、塾を優先し、週3日の練習は週2日に減らすこと、そして通塾は基本的に電車で、こども用のケータイを持たせること、毎回電車代とは別に100円の飲み物代をあげることをきめた。お習字は本人の希望を聞いて、6年生になったら辞めるか続けるか再度考えようと結論を伸ばした。
「授業料は月に2万円、電車代が往復360円の週3回の4週とテストの1回…4,680円。」
「そしてお小遣いの飲み物代が、300円の4週とテストの日で1500円ね。」
「合わせて2万と6,180円…ケータイ代も含めて、まぁ月々3万円ちょいってとこか。」
パパと二人、計算機をバシバシと叩きながら新たに課される教育費を試算した。
「受験が近くなるともっと高くなるけどね。」
「なぁ…この飲み物代、必要か?」
「お友達と休み時間に自販機で買ってるみたいなの。まぁ交際費ってとこね。あとは、ごほうび感を出したくて。毎回頑張るとちょっとお小遣い増えるよって。」
「なるほど。やっぱ授業料だけって訳にはいかないか…」
「そうよねぇ…」
「はぁ…職場のフットサル部、休部しよっかな…」
「飲み会に行かなきゃいいのよ。だって、運動不足も駄目じゃない?パパそろそろメタボが襲ってくるわよ?」
「や、やめ…」
「健康診断、コレステロール気になる感じになってきたし。」
「うっ、勘弁してくれ…」
「まぁ、冗談は置いておいて、ケータイ買いに行くのとか、またお願いね。今度の父母説明会、私がいくから。」
「おう!」
パパがお風呂に行ったあと、改めてひとり、こうやって数字で色々と見て行くと、段々家計の中で春樹に使うお金が大きくなっていくのを感じた。始めは必要最低限だったのに、お習字が入りサッカーが入り、額がだんだん大きくなってくる。勿論パパのお給料も年齢を経て増えてはいるけれど、この先もそれが続くとは思えない。ローンもあるし、パパの昇給率よりも春樹の出費が増えることだって考えないと。もし、もし本当にあこがれの太郎丸と同じ稲田大学に行くことがあれば、授業料も年100万円以上、ひとり暮らしをしたいと言い出したら、月々プラス15万はかかる気がする。
「やっぱりパート、出なきゃかなぁ…」
かつて働いていた銀行も、最近は非正規雇用の人が増えていると聞いた。寿退社組をパートで再雇用したり、派遣社員を増やしたり。恐らく自分も希望を出せば、車で通える範囲でパートとして働けるだろう。でも、10年以上のブランクと…かつての人間関係のいざこざが胸につかえる。
「でも、家計がなぁ…」
偏差値の時も思ったが、私はやっぱり数字が苦手。こういうふうに逃げられない現実を突きつけられることに滅法弱かった。
土曜日、夕ご飯の準備を済ませてパパに後の事をお願いし、いつもよりも念入りに口紅を引き、よそ行き用のバッグを持って車に乗り込んだ。今日は塾の父母説明会。エオンにつながる道がいつも以上に混んでいたが、無事にいつものパーキングまでたどり着いた。
ようやく見慣れて来た石造りのエントランス。エレベーターで上がると、受付に説明会会場の掲示があり、教室に向かった。教室には座席表が用意されていて、その通りに座って始まるのを待っていた。他には10名程名前があり、顔見知り同士、喋りながら待っている人もいた。もうすぐ説明会開始の時間になろうかというときに、ひとりの女性が滑り込む様に教室に入って来た。
(げっ…!)
ジーンズにパーカー、その上にトレンチコートを引っ掛けて、髪をひとつに束ねた女性。
(あれって…)
はっきりとした顔だちに気の強そうな目元、そしてどこか、人を寄せ付けない雰囲気。
(岩崎酒造のモンママじゃん…)
そう、春樹の学校で一番の有名人、岩崎さんだった。
(春樹の言ってた林太郎って、岩崎くんだったの!?)
座席表を見て、そして一席開けて自分の隣に座った。
「隣、失礼しますね。」
「はっ、はい…」
これはマズい。非常にマズい。
顔を出す程度しかPTAに参加しないレベルの私でも知っている、噂の岩崎さん。老舗の若女将で、美人風のルックスとは裏腹に、校長先生にケンカを売ったとか、担任の先生をクビに追い込んだとかで有名な奥さんだった。当時、ニュースなどで『モンスターペアレンツ』が取り沙汰されていたので、モンスターなママ、モンママと陰で呼ばれていた。最近は学校に顔を出さなくなったようだが、上の兄弟がいる他のママからは、かなりの恐怖の対象として噂が広まっていた。そんなラスボス級のママが私の隣に座っている。
そんな中、高田先生とは全くタイプの異なる二人の先生、背の小さいおじさんと、がっしりとした癒し系の男性が教室に入ってきた。
「えー、今日はお越しいただきありがとうございます。Tゼミの今川と申します。生徒たちからはヤッキーと呼ばれております。えー、今川と言ったら今川焼だろう、とまぁそんな風にあだ名をつけられて、長年ここで、国語をですね、えー、指導している訳でして。」
がっしりした男性が話し始めた。淡々と話す高田先生と対照的で、今川先生は笑いを誘おうとしたのかもしれないが、自分の中ではそれどころではなかった。
「えー、それでは初めにですね、当『灯台舎』茨城校舎校長の相川より、えー、皆様にご挨拶と当塾、それからTゼミについてご説明致します。」
そして、背の小さいおじさん先生が話し始めた。
「どーも、お忙しいところありがとうございます。校長の相川です。」
あれが校長先生なのか…と考えていると、隣のママのことを考える余裕はなくなり、説明会の中身に引き込まれていった。
「数ある学習塾から、『灯台舎』そしてTゼミをお選び頂き、ありがとうございます。まず、私共『灯台舎』ですが、名門校に何人入れたよっ、ていう数のゲームをする塾じゃありません。合格するプロセスを通して、お子さんの10代という一番大切な時期に、心身ともに成長するのをサポートしていこうという思いでやっております。別に東京帝大に合格させる会社、ってわけではありませんので、もっと私たちを身近に感じて欲しいなと思ってます。さて…」
校長先生は落語家のような、抑揚をつけた話し方で、塾の方針の説明をしてくれた。塾のスタンスとしては、結果は勿論、テレビで活躍しているスポーツ選手の様に、日々成功と失敗を繰り返して、目標とする学校に入学して、更に成長していける土台を作りたいと考えているとのことだった。そのため、合格がゴールではないし、生徒が質問しやすいように、職員室という概念を無くし、講師の先生も私服に近い恰好にしているとのことだった。
「正直、コイツやべぇんじゃねーかな、って思った子も、1年の間で成長して江戸山や、中学生だと常陽第一に合格していますので、内心、うちの子大丈夫かなーって思ってる方も、焦らずに一緒に頑張りましょう。相談事があればいつでもお気軽にご連絡下さい。それでは、途中で大変申し訳ございませんが、今から授業に行って参りますので、退出させて頂きます。今川先生、あとは頼みます!」
そう言って、校長先生は出て行った。そしてそのあと、今川先生より塾のルールの説明と、インターネットで見られる塾のサイトの説明が続いた。
塾のルールは、例えば、週3日の授業はよほどのことが無い限り出席し、欠席の時は電話連絡すること、ゲーム機や漫画を持ち込まないこと、勉強に必要のないものを持ってきている場合は没収することもあるということ、あいさつをきちんとすること、電車通学の場合安全のため最寄り駅の改札前で子供と待ち合わせして欲しいということ、宿題は必ず出すので休んだ際にもきちんとやっておくこと、質問があるときにはいつでも先生に話しかけること、などがあり、詳しく説明が載った冊子が配布された。
そして塾のサイトの事が説明された。塾生証が入館証になっており、入退出が記録されていて、個人のページで確認できること、テストの結果をPDFで確認できること、お知らせは配布した後にサイトでも掲示し、書類を無くしても家庭で印刷して見ることが出来ること、などが伝えられた。
「えー、こちらの入退出管理はですね、サボっているかどうかを確認するだけではなく、何時くらいに電車に乗ったか、という目安にもお使いいただけます。かつてですね、親御さんから息子が帰ってこない、と連絡がありまして、授業には居たのに!と私共もかなりパニックになりまして。そうしましたら、電車で寝過ごしてしまい、牛久の方まで行ってしまった!というのが分かりまして、胸をなでおろす、という事件がありました。電車にきちんと乗ったかどうか、それが分かれば、探す範囲も絞ることが出来ますので、有効なんじゃないか、と思います。まぁそんな良く寝る子は育ちまして、今は一ツ松大学で勉強していますよ。ほほっ。」
おぉーと感嘆の声が聞こえた。それを聞いて今川先生は満足そうに、話を続けた。
「ではですね、そんなハイテク、便利な機能はスマートフォンからでも設定頂けます。えー、今から一緒にやっていきたいと思いますので、皆さまスマホを出して頂けますでしょうか?」
一斉に父兄がスマホを取り出し、今川先生が話すのに合わせて、URLを入れ、ページを開き、パスワードと生徒情報や緊急連絡先の登録などを行っていった。
「す、すみません…」
その時、隣のママが小声で話しかけて来た。
「はい…」
ひっそりと応える。
「わたし、ちょっと着いていけてないんですけど…ここから、どうやって進むんですか?」
スマホと今川先生を交互に見ながら、焦った様子で助けを求めて来た。
「えっと…たしか、ここのパスワードは茨城校舎のib310って入れて、こっちに自分の子供の学生番号、この封筒に書いてある6ケタの…そうです、これを入れれば…」
「あっ!これで大丈夫?」
岩崎さんのスマホに、自分のスマホを照らし合わせて確認した。
「はい。大丈夫です!あと生徒情報は、名前と生年月日、小学校の登録内容が間違っていなければ次に進んで良いみたいですよ。」
「あっ!ありがとうございます!た、助かったぁ…」
「い、いえいえ!」
内心ドキドキしながらも、平静を保ち、流石にモンママとはいえ困っているのは放っておけないし、でも邪険にしたらキレられそうだし…そんなことを考えていると今川先生のパートは終わり、10分間の休憩時間になった。
「ありがとうございました、私、最近スマホの機種変えたばっかりで、操作に慣れてなくって…」
引き続き岩崎さんが話しかけて来た。案外、話していると、近寄りがたい雰囲気が崩れ、普通の人のような気がしてくる。取りあえず会話を無難にやり過ごすことにした。
「いえいえ!わたしも、こういうの慣れてなかったから必死でした…」
「私、あまり小学校行ってないから存じ上げていなかったんですが、同じ学校なんですね。」
非常にヤバい。確認する時に自分のスマホと照らし合わせて、生徒情報ページを見せてしまったのだ。これはマズいぞ…ただでさえ恐ろしいモンママ、やり過ごして知らないふりを決め込もうと思ったのに、早々に同じ学校とばれてしまった。でも、それを顔や表情に出すのも失礼な話…再度心を落ち着け、岩崎さんに話を合わせた。
「私も、人見知りで、授業参観くらいしか学校行ってなくて…」
「私たちのとこ、人数多いですもんね。私、岩崎と言います。1組の岩崎林太郎の母です。何かあったら、よろしくお願いしますね。」
「こちらこそ…3組の中島春樹です。わたし、受験とかよく分かってなくて…宜しくお願いします。」
モンママとして有名な岩崎さんに遭遇するという予想もしない状況に陥ったものの、父母説明会を終え、春樹の通塾の準備は整った。来週からは、ひとりで電車に乗ってここまで通うことになる。小さな冒険が始まる予感に、期待と不安が高まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます