第7話 二人の死
私が五歳の時、多季さんは二人の子を
何故、彼女が医療船の厄介にならなければならなかったのか、私は不思議がったが、黙って着いて行くと自ずと知れたのだった。
超音波による反響を映像化する装置によって、私は多季さんのお腹の中に宿った、小さな命をこの目にすることができた。勾玉のような形をした胎児は、上下互い違いになって、多季さんの胎内に納まっている。まだ、そこから人の形を想像するのは困難だったが、弟がそれも一度に二人できるというイメージだけが、直接伝わってくるという感じだった。
思えば、多季さんのお腹は
それから、もう一度だけ検診を受ける機会があった。その時、超音波エコーによる映像は、もうそれが人の子であるとおぼろげに想像できるような形状にまで成長していた。
「入日。私、決めたよ。今からこの子たちに名前を付ける。上になってるこっちの子が冬馬で、下になってるこの子が冬夜。いいでしょう?」
「そんなこと言ったってよー、いつひっくり返るか分からねーぞ」
「分かるわよー。私にはねっ」
そう言いながら微笑みかける多季さんはとても幸せそうで、世界中全てに
その笑顔が、私にも向けられていることを知った時、私たちが一つの家族であると強く感じた。
だが、それから数週間後、不幸としか言いようのない出来事が、私たち家族に降りかかった。
その夜は、海面を叩く雨の音が波の音に勝って、いやにはっきりと聞こえていたのを鮮明に覚えている。
私はそれを聞きながら、眠るタイミングを逃してしまったように、いつまでも目覚めていた。
そんな時、父の声が雨音の中を
「多季!」
名前を叫んだだけだったが、そこには鬼気迫るものがあった。
私は飛び起きて、父と多季さんの寝室へ急行した。
暗闇の中で、お腹を押さえてうずくまる人影と、それによりそうもう一つの影があった。
「おい、大丈夫か? 多季!」
父はそう言いながら、私の存在に気が付いたようだった。
「冬海、緊急回線で医療船を呼び出してくれ!」
しかし、そんなことを言われても、幼すぎた私にはどうしようもできなかった。ただその場に立ち尽くすだけだった私に、「行け!」と、父の
頭が真っ白になり、自分が無力だということさえも忘れた私は、とにかく操舵室へ走った。
父がよく話し掛けていたマイク。それに向かって、「誰か、誰かぁ!」と繰り返し叫び掛けてみたが、うんともすんとも言わない。
当然だった。スイッチが入っていなかったのだ。そんな易しいことさえ私は知らなかった。
けれど、数秒後には幸運にも、スイッチの存在に気が付き、オンの状態に切り替えた。
その途端、部屋中に雑音が響き渡った。
そこでもう一度、「誰か、誰かぁ!」と呼び掛けた。
しばらくして、眠たそうな男の人の声で返答があった。私はその人に、多季さんが大変だということを伝えた。
だが、相手は多季さんなんて個人の名前など出されても困り果てるだけだっただろう。
それでも、病人がいるらしいとは察してくれたらしく、父さえ教えてくれなかった緊急回線の開き方を教えてくれた。
緊急回線を開くボタンは、通信装置の隅の方にあって、普段は間違って押したりしないようにと、透明な蓋が付けられている。その蓋を手前にスライドさせ、中に守られた赤いボタンを押すと、連合の緊急回線センターへ接続されるようになっていて、起こっている状況を伝えると、それ相応の措置をとってくれるようになっていたのだ。
私は、できる限り状況を説明しようと試みた。それがどういった説明だったのか、もう思い出せないが、結果から言うと、その努力は無駄に等しかった。
緊急回線センターのオペレーターは、こう言った。
「大人の人は? あなた一人だけなの? 大人の人がいるんだったら、呼んで来てくれるかな?」
どんなに幼い子供のある種
私はマイクに向かって何も言わず、父を呼びに操舵室を出た。そして、この理不尽な対応に、父も怒りを
間もなくして、一番近くを航行していた医療船が到着した。
担架に乗せられて運ばれていく多季さんに、雨が当たらないようにと、私は傘を持って一緒に医療船へ入っていった。
多季さんと二人の弟に起こったことは、本当に単純だった。出産予定日を二ヶ月近く待たずして、二人の子供が胎内から外に出ようとしている。早産だ。
白髪の老医師が、看護士に保育器の準備をするよう指示を出していたとき、遅れながら父がやって来た。そして、息を切らせながら言った。
「保育器なら、二つ要る。双子なんだ」
「何だって?」
そんな医師の慌てぶりが、その後の展開を暗示していた。
「空いている保育器は、一つしかない」
呟くように、医師はそう言った。
病室に、静寂と暗い影が降りた。
「他の、医療船は」
父が抑揚のない声で尋ねたが、返答は首を左右に振る仕草で返された。
「近くの医療線に、応援を」
医師は、ゆっくりとした力ない口調で看護士に指示を与えた。
それを受けた看護士も、ゆっくりと頷き、やはりゆっくりとした足取りで去った。
その時、苦しそうに喘ぐ多季さんの声が、止まり掛けていたその場の時間を再び動かした。
「とにかく」決然と医師が口を開いた。「やれるだけのことをしましょう!」
看護士が、私を部屋から出そうと促した。だけど、私が頑なにそれを拒んだので、結局残ることになった。
寝台に乗せられた状態の多季さんの顔は、私の位置から見ることはできなかったが、苦痛に歪んでいるであろうことが何となく分かったからこそ、逆に目を背けていた。
今まで聞いたこともないような多季さんの苦しげな声と、看護士に指示を与える鋭い医師の声、それに多季さんを呼ぶ弱々しい父の声。
やがて、それ以外の声がひっそりと聞こえた。生命という極彩色に彩られながら、激しく生誕を主張することのできない声。
私の弟の第一声は、あまりにも寂しかった。多季さんは、保育器へと移動させられる我が子を目で追いながら、小さく呟いた。
「冬馬」と。
冬馬は、一際小さな体を透明なケースの中に収められた。安堵の溜め息が、誰からとなく漏れた。
医師は傍らの看護士に向かって言った。
「救援はあとどれくらいだ?」
「一時間くらいです」
「間に合うのか?」
父が尋ねた。
「持ち
医師は答えと共に目を伏せた。
「冬夜……頑張れよ」
父のその祈りに、医師は厳しく返した。
「持ち堪えられるかどうか問題なのは、母体の方です。私の見立てでは、三十分が限界だ。場合によっては、もっと短くなる可能性の方が高いでしょう」
「多季に死ねというのか!」
「そうじゃない! もう一人を諦めれば、あなたの奥さんは命を失う必要なんてない!」
「冬夜を……諦める? そうれすれば、多季は助かるのか?」
「ダメ!」
二人の会話に割って入ってきたのは、生きるか死ぬか、今しがた議論されていた当事者だった。
「多季!」
「入日、そんなこと考えちゃダメよ」
多季さんの声は、震えていた。
父はハッとした様子だった。次に多季さんは、医師に対して言った。
「この子を諦めろですって? あなたそれでも医者なの? 人の命を救うのが、医者という仕事じゃないの?」
「私は今、あなたの命を救おうとしているんだ!」
「我が子を犠牲にして助かりたい命なんてね、持ち合わせていないのよ! 絶対に……産んでやるんだからねっ!」
それから約四十五分後、予定よりも早く保育器を有した医療船が到着した。
だけど、もう終わっていた。最初に、多季さんの体力が尽き、細い
ほんの五分前だった。
多季さんは亡くなった。
父の涙を見たのは、後にも先にもこの時だけだった。
私は、結局、多季さんの本当の子供にはなれなかった。彼女が私の母親だという実感は持つことができるようになったが、本当の親子関係を築くには至らなかったという意味だ。
それを築き上げるにはもっと、ずっと、たくさんの時間が必要だった。
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