第6話 亡くした弟
それから更に長い時間が経った。
その間、私と三月は共に何も話そうとはしなかったので、二人の
ふと、波の砕ける音や荒れ狂う風の音に混じって、ガラスの割れる鋭い音が耳に届いた。
間近で、空気が引き締まるような気がしたと思ったら、三月が何故か緊張している様子で立ち上がった。
私も立ち上がり、独り言を口にした。
「今の、窓が割れたみたいだったけど。風で何かが飛んできたのかな」
だとしたらどこの窓が割れたのだろう。
頭の中にいろいろな場所の窓を思い浮かべたが、それを三月の「いや」というはっきりした声が遮った。
「え?」
私は彼の方に向き直った。
「これは風の所為じゃないんだ」
「風の所為じゃないの?」
何故そんなことが分かるのだろうか。
三月はおもむろにエンジンルームへと入っていった。再び彼が部屋から出てくると、その手には金属製の長いパイプが握られていた。
「それ、どうするの?」
「使うかもしれない」
彼は、それだけを言うと、カンカンと音を立てて階段を上り始めた。
私もその後に続いて上った。外に出た瞬間、強烈な風と雨に打たれ、意識ごと自分を失いそうになった。気が付くと、三月に手を掴まれていた。
三月は物陰に隠れるようにしゃがみ込むと、操舵室の方を指差した。
「ほら、見て」
言われて目を向けた。
初めに見たのは小さく割れた窓ガラスだった。そして、その向こうに我が父、入日の姿が見えた。
その入日が向かい合っているのは、今日の昼前に救助したグレータス。そのグレータスの前には弟、冬馬。グレータスはその冬馬に、時折キラッと光る何かを向けている。じっと見つめていると、光の加減でそれが刃物の切っ先であると分かった。
「冬馬!」
私の叫びは風に吹き飛ばされて、すぐに消えてしまったけれど、それが功を奏した。
「ねぇ、三月! あれ、どういうことなの?」
「監獄船が難破したっていう話は覚えてるよね?」
「も、もちろん……え?」
その時点で、私は彼の言おうとしていることが分かってしまった。
三月は、私の予想を裏切ることのない言葉を発した。
「アイツはその船の囚人だよ」
信じられず、もう一度操舵室へ目を向けた。だが、そこには信じずにはいられない、生々しい現実があった。
グレータスは笑っている。いや、
「さぁ、二人を助けに行くよ」
私たち二人は、操舵室の死角を通りながら素早く船内へ入っていった。
船内では風の音がかなり遮られ、その音は常に聞こえているにもかかわらず、途方もない静寂が、目の前に続く廊下に横たわっているみたいな感じがした。
水滴が床に落下して立てる小さな音さえ、私の耳には届いていた。
「ねぇ、どうしてグレータスのこと、知ってるの?」
廊下を行く途中、私はそれまで気になっていたことを、
「それに三月、グレータスには一度も会ってないのに。うううん、違う。避けてたんじゃないの? 会わないように」
途中、直感的に思ったことを口にした。そう考えると、いろいろなことが繋がり、説明できた。
「それじゃ、初めからこうなることが分かってたみたいじゃない」
独り言のように小さく呟くと、三月は立ち止まった。そして、振り返って答えた。
「そうだよ」と。「僕は、こうなることが初めから分かっていた」
私の意識はそこで一旦途切れた。
それでも、周囲を包み込むように鳴り響く風の
そんな私に、三月はさらに言った。
「それよりも、冬海。頼みがあるんだ」
私はワンテンポを、意識を取り戻す時間に使い、少しずれたタイミングで、「何?」と答えた。
彼は神妙な面持ちをして、言った。
「先に踏み込んで欲しいんだ、操舵室へ」
「え?」
「大丈夫。僕が護るから」
そう言った彼の顔を見て、意識の奥深くが何かを掴んだような感覚を得た。そして、三月と出会ってからずっと感じていた奇妙な親近感の正体を、直感的に知ってしまった。
「三月、あなた」
いや、しかし、そんなことが現実にあり得る筈がない。けれども、そうとしか思えない。
正しいのか間違いなのかは、最早関係なかった。私の口は、ほとんど勝手に次の言葉を発していた。
「冬馬なの?」と。
今はそんなことを言っている状況じゃない。それは分かっていた。
だが、私は不意に気付いてしまった。三月が自分の弟であるという、動かし難い事実に。
彼は驚いたような顔をこちら向けた後、ゆっくりと
「やっぱり、俺の姉ちゃんだ。さすが」
「じゃあ、やっぱりあなたは、大人になった冬馬」
私の中に、それまで疑問にすら挙がらなかったような細かな違和感が、津波のように押し寄せてきた。
初めて彼に名前を付けた時から、年上なのにも関らず、ずっと『三月』と呼び捨てにしてきたこと。それに対して、全く慣れきったように、普通に接していた彼。
冬馬が泳げなくなった理由を話した時、三月は『やっぱり』と言った。その後、私がそれを問い詰めると、彼は上手くはぐらかしたが、彼は初めから冬馬が泳げなくなった理由を知っていたのだ。自分のことだったのだから。
他にも、三月に感じたことでないが、アンデス海岸最終日の夕方、冬馬が私に言った言葉。
『大丈夫。伝わってるよ』
この時、私は冬馬の姿に三月を重ねていた。
一瞬の間に流れ込み、そして去っていった光景。
ところが、三月は私の言葉に首を振った。
「違う」
それから、彼は、私がもう二度と耳にすることのないと思っていた名を口にした。
「僕は冬夜だ」と。
冬夜。頭の中が一瞬真っ白に変わった。その後で、今度はさっきとは別の様々な記憶がドッと押し寄せてくる。
あまりに速く飛び去ってゆくその記憶の中で、意識に残ったのは二つの場面だった。
微笑んでいる多季さんと、目を背けている父。それを見ている私。
もう一つの場面に移ると、そこから多季さんの姿が消え、あの父が声を上げて泣いていた。私の目も、涙でおぼろげにしか見えなくなっていた。
声が聞こえる。意味のない声。冬馬の声。この場で一番悲しみ、泣き叫んでいるのは、冬馬だった。
「そんな……ことあり得ない」
記憶の
彼は人差し指を口の前に当て、「シーっ!」と言う。だが、私は黙らない。
「だってあり得ないもん。冬夜は……もう死んだんだから!」
辺りが急に静かになり、遠くから聞こえてくる風の音さえも、やんでしまったように思われた。
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