第4話 お使い

 やがて、私たちはこの海域の中央付近にやって来た。それがわかるのは、すぐそこにそういうことが書かれた立て看板が置かれていたからだ。

 私は立ち止まり、アシュに向かって尋ねた。

「ここら辺、見覚えない?」

アシュは言われて、周囲をキョロキョロと見回した後、「わかんない」と、私にとって無情な一言を告げた。

 私たちはまた一つ橋を渡りきり、新たな船へとやって来た。人の群れは相変わらずで、歩きにくいことこの上なかった。

 周囲の店先には、魚や肉、野菜や果物などの生鮮食品が並んでいた。

 もしもアシュに出会わず、冬馬ともはぐれなければ、ここで適当に食材を買って帰るだけだったのだ。

 目的の物を見ながら、その場を去っていくのは少し悔しかったが、その素振りは表面に出さずに終わった。

「アシュ」

彼は無言で私の顔を見上げた。

「アシュのママって、どんなお仕事をしてるの?」

「おしごと?」

私は少し言い方を変えてみた。

「ママ、いつもは何をしてるの?」

「うーんとね」

アシュは一旦うつむいて、考えている素振りを見せた。

「あのね、椅子に座ってる」

「え?」

私は彼の言うことが正確に理解できず、足を止めた。合わせて、アシュも立ち止まる。

「ねぇ、それがお仕事なの?」

彼は首を捻るだけだった。

 もっと、別の角度から尋ねなければ。

「そうねぇ。アシュのママは、いつも座っているだけなの?」

「座ってね、紙に穴を開けてる。小さいやつ、いっぱい」

 益々わからなくなったので、整理してみた。

 アシュの母親は、いつも椅子に座って紙に穴を開けている。

 それは一体、何だろう。

 黙りこくって考えている間に、私たちはいくつかの橋を渡って、周囲と比べても一際大きな船へとやって来た。

 辺りには店舗もなく、一体何のための船なのか、一目では判断できなかった。

 よく見ると、そこにいる人々は大きく二種類に分けることができるようだ。

 一つは、その場に集まって動こうとしない人々。もう一つは、何やら忙しそうに右往左往している人々。

 私は忙しそうでない前者の一人に声をかけた。

「ここ、何をする所なんですか?」

「ここはイベント会場だよ。よくわからないけど、有名人が来るらしいよ」

なるほど、と私は思う。

 前者の人は野次馬、後者の人はイベントのスタッフなのだ。船の縁辺りに、ベンチが幾つか並んでいた。

「アシュ、疲れてない?」

「ちょっと、疲れた」

「あそこのベンチで休もうか」

そう言うと、アシュは私の手を振り解き、元気にベンチの方へ走っていった。疲れていたと言っていたではないかと、私は小さな溜め息を吐いた。

 私は遅れてアシュの横に腰を下ろした。

 彼の方は一体何が楽しいのか、地に届かない足をぶらぶらと揺らしては、にこやかに笑い掛けてきた。その様子に、私は、今よりもっと小さい頃の冬馬の姿を重ねていた。

 ふと気が付いた。私と最初に出会ったときのアシュは、今にも泣きそうだった。それが今は、こんなにも笑っている。頼りない私でも、彼に安心感を与えることが出来たのだろうか。

 アシュは背もたれの後ろを覗き込んでいる。すぐそこには、群青の底深そうな海がそのまま水平線まで続いていた。

「アシュ、危ないよ」

本当に昔の冬馬のようだった。

 そう言えば、今、冬馬は何をしているだろうか。まさか、一人で泣いていたりしていないだろうか。

 その時、再び前の方に向いていたアシュが、突然声を上げた。

「あっ」

「どうしたの?」

すかさず私は尋ねた。

「あの人」

そう言って彼が指差した方には、三、四十歳代と見える女性がいた。

「あの人がアシュのママ?」

「うううん。でも、さっき会ったよ」

ここにきて、アシュが口にした唯一の手掛かりだった。

 早速、私はアシュを連れてその女性のもとへ行った。彼女は、その場で忙しそうにしている人々、つまりイベントのスタッフに対して、いろいろな指示を与えているようだった。

 彼女が一人でいるところを見計らって、私は声をかけた。

「あの」

その女性は、険しい顔をしたままこちらに振り返った。

「何ですか? ここは立ち入り禁止の筈ですよ」

言われてよく考えてみると、ここへ来る途中、黄色と黒の紐をくぐり抜けてきたような気がする。

 だが、固執せずに私は話を進めた。

「それは謝ります。でも、この子のことを聞きたいんです」

私はアシュを紹介した。

「あら、あなたは確か」

「やっぱり、知ってるんですね? 教えてください。この子、迷子なんです」

「ああ、そうなの」

彼女は険しかった顔を緩め、哀れみを表した。

「どんな些細ささいなことでもいいんです。この子のお母さんについて教えてください」

女性は顎に右手を当てて、考え始めた。

「私もそんなによく見た訳じゃなくて、この子が落し物をしたから拾ってあげただけなのよ」

「落し物?」

「メモよ。近くにこの子のお母さんがいたかどうかはちょっとわからないわ」

 そのメモには、一体何が書かれていたのか。

「ありがとうございます。ええっと」

「イネス。私はイネス」

「ありがとう、イネスさん。私は冬海です」

「どういたしまして、冬海。あと一時間くらいしたら、この広場で私たちのコンサートがあるの。良かったら聴きに来てね」

私たちはイネスという女性と別れた。

 そして、歩きながらアシュに問い掛けた。

「アシュ。メモなんて持ってたの?」

「うん」

「見せてくれる?」

彼はポケットからくしゃくしゃになった紙切れを一枚取り出し、私に差し出した。受け取って中を見てみると、次のようなことが書かれていた。

 ・ちゅうかなべ

 ・おたま(2)

「これ、ここで買う品物のリストじゃないの?」

「うん」

 見たところ、彼はそれらしき物を持ってはいない。まだ買っていないのだ。

「これを売ってるのは金物屋さんね。私たちの船が泊めてある場所のすぐ近くにあったわ。ここと反対の所にあるんだけど。行く?」

彼は勢いよく頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る