第5話 義母の師

 その日の夕方近くになって、船はサルベージの現場へ到着した。そこには既に、研究母船けんきゅうぼせん、調査船、それにサルベージ用のクレーンを搭載した船が二隻が停泊していた。

 私たちの船は、研究船の最も大きな一隻に接舷せつげんし、そちら側へ渡った。すると、船内から厳つい顔をした四十代後半くらいに見える男性が現れ、私たちを出迎えた。

 彼が、今回の仕事を父に依頼した研究者だ。外見からは、おおよそ研究者らしく見えないという印象は、余計なお世話だろうか。

「ああ、入日。随分と久しぶりだな」

「こちらこそです、フォータイナー博士」

あまり慣れていない父の敬語は、どこかおかしかった。

「以前のようにリカルドと呼んでくれよ。アンタに敬語は似合わん」

「……はは。それじゃ、そうさせてもらうか」

 リカルド・フォータイナーは、私の二度目の母、新宮多季の師である。その関係でか、父とリカルドは、ずっと以前からの知り合いだった。

 また、二人の間には年代を超えた、深い友情があった。私の父は三十五歳。一方のリカルドは、五十代に届こうとしているくらいだ。

 どちらも豪快で大雑把おおざっぱな性格で、その辺が年齢差を越えて意気投合したのだろうと、私は考えている。

 彼、リカルドと面識のある私は、一歩進み出て挨拶をした。

「こんばんは、リカルド先生」

「ん? おお、あんたは確か、冬海さんだった。前に会ったときはまだ小さかったのに。もう彼女が亡くなってそんなになるのか」

そう、先生と最後に会ったのは、多季さんが死んだとき。彼は私の成長を通して、かつての弟子を亡くしてからの年月を実感したらしい。

 辺りに一瞬、寂しげな空気が漂った。

 その時、それまで後ろに隠れていた冬馬が顔を出した。

 多季さんが亡くなった時、冬馬はまだ生まれて間もなかった。先生のことを知らないのは当然だ。

「その子は、冬……」

リカルド先生は弟の名前に詰まった。

「冬馬です」

どうしても思い出せない様子に、入日が助け舟を出した。

「こ、こんばんは」

恐る恐る冬馬が言う。

 先生は冬馬の事をじっと見て、深い溜め息を吐いた。そして、「似ているね」と、小さく呟いた。

 そこへ、今度は遅れて三月がやって来た。彼は、何やらエンジンの整備をらしき作業をしていたらしい。手には真っ黒に汚れた作業用のゴム手袋が装着されていた。

「終わりましたよ」

「ああ、ごくろうさん」

三月を見て、父はねぎらった。

「ん? 彼は誰だ?」

リカルドは尋ねた。

「彼は最近、漂流しているところを冬海が見つけて」

「三月といいます」

三月は手袋を外し、リカルドと握手を交わした。

「ま、とにかく中に入ってくれよ」

そう誘われた時にはもう、水面は赤い絵の具を流したような色をしていた。そんな時刻になったのだ。

 私はその圧倒的な彩りを目に焼付けると、みんなと遅れて船内へ入っていった。


 私たち新宮家の面々は、船内のある一室に通され、今回の作業に関係するスタッフ全員と挨拶を交わした。

 父の知り合いはリカルドだけに留まらず、現場スタッフの多くが一度はどこかで顔を合わせたことがある者たちだった。かつて父は、それだけ多くの人たちと仕事をしていたと意味している。今は数ヶ月に一件程度の依頼しか入ってこないのに。

 顔合わせが済むと、そのまま宴会に雪崩なだれ込むことになった。方々で陽気な声が響き、怒号のような声が飛び交う。文字通り、どんちゃん騒ぎというものだった。

 そんな中で私は、明日の仕事、ちゃんと動ける人いるのかなと、一人、そんな心配をしていた。

「まぁ、飲めや」

声の方に目を向けると、三月がお酒を勧められていた。

 そういえば、この人は幾つくらいなのだろう。見た目では二十歳前後だけど、なんとなくそんなに歳が離れているようには感じない。

「いえ、僕はもう」

「海の男が飲まねーでどうする」

「海の男って、男なら誰でもそうじゃないですか」

「……アハハッ、そうか、ちげーねーな」

上手く交わした三月は、そのまま席を立ち、人知れずといった雰囲気で外へ出た。

 私はしばらく目の前の料理に手を出したり、周囲の会話を聞いていたりしていた。

 その夜はそんな風に更けていった。


「おい、冬海」

不意に父が呼んだ。

「何、父さん」

「冬馬がもうダウンしそうだ。部屋に連れてって寝かせてくれ」

「はーい」

 私は、隣りで眠たそうに半目だけを開けている冬馬を無理に立たせ、宴会場を後にした。その時になって知ったのは、その宴会場が普段、会議室として使われているという事実だった。

 船外へ出ると、それまで耳に流れ込んできていた音とは全く種類の異なる、たおやかな波音が周囲を満たすと同時に、気持ちを凛とさせるすずやかな夜風が全身に染み込んできた。

 そこまで手を繋いで連れて来た冬馬だったが、もう膝がかくんかくんと折れそうになっているので、私は彼を背に負うことにした。六歳の彼はまだそんなに重たくなかった。


 彼を船室に寝かせて、再びあの宴会場へ戻る途中のこと。ちょうど船から船へ乗り移った辺りでふと空を見上げると、半月に少しだけ足りない月が、それでも煌々と照っているのに気付いた。

 そういえば、三月。どこに行ったんだろう。

 あの時出て行ったきり、彼は一度も宴会の席に戻ってこなかった。

 私はまず、研究母船の甲板を一回りした。いない。

 もう一度自分たちの船に戻ってみようと、そちらに顔を向けた時、船室の屋根の上で空を見上げている三月の姿が黒い影として見えた。

 彼はその時、顔を水平方向に向けて、屋根から反対側の甲板へ飛び降りた。

 私は思わずその後を追って、甲板の上を走った。船室の外壁に沿ってカーブすると、その先に三月がいた。

 私はそこで、今までなんとなく足音を潜めていたことに感謝した。

 彼はとても思い詰めたような表情をして海面を眺めていたのだ。とても話し掛けられるような雰囲気ではない。

 私は無意識に後ずさり、ゆっくりと彼から見えない場所まで戻った。そこで、それまで詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。

 私はしばらくそこで立ち尽くしていた。多分、もう一度彼の姿を確認しておきたかったのだろう。そうして、あの厳しく強張こわばった表情が消えてなくなっていることを望んでいたのだ。

 だけど、私は結局覗き見ることができず、すごすごとと研究母船の方へ戻っていった。

 再び宴会のど真ん中。周囲のやたら明るい空気に包まれて、居心地の悪さを感じながらも、眠たくなるまでその場所にいた。

 その間中ずっと、三月の表情が頭の中に浮かんでは消えて、またそれが初めから繰り返され続けていた。

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