第2話 朝の風景

 朝が訪れた。

 私はあれからなかなか寝入ることができず、少なくとも水平線の彼方に朝日が昇る瞬間を目にした後、眠った。三、四時間くらいだろう。

 いつもよりもずっと短い睡眠時間の所為せいか、どうも意識と身体のリズムが若干ずれているような気がしていた。

 誰も私の事を起こしに来なかったので、目覚めの後もしばらく何もしないで部屋にいた。

 気になる事と言えば、昨夜漂流していた若い男。といっても、二十歳前後ほどに見えた。十一歳の私からしてみれば、『若い男』という表現はおかしいのかもしれない。

 彼は、『漂流者プレート』を身に付けていなかった。そのプレートは、万が一漂流してしまった際に、その人の名前や所属船籍などがすぐにわかるようにと、普段から携帯することが推奨されている代物だ。

 ただし、実際に漂流している際にくしてしまう事はよくある。だから、その男がプレートを持っていなかったとしても、さしたる不思議は無かった。

 それはともかく、彼がどういう素性なのかを知るには、自分の口で語ってもらう必要が出てきた。


 私は、時計の針が十時を指し示す少し前に部屋を出た。

 顔を洗うよりも早く甲板に出て、潮風を受けるのが私の朝の日課になっていた。冷たくもかんばしいあの空気で胸の中を満たすと、どんなにぼやけた心持であっても、すっきりと澄んだものに変わるのだ。

 ふと見ると、甲板の隅で釣り糸を垂らしている冬馬とうまの姿が見えた。船はとどこおりなく、海洋を滑っているというのに。普通、魚が釣れるのは船が停止している間だ。

 私は彼の傍に立ち、両手を腰に当てて言った。

「ねぇ、冬馬。カジキでも釣ろうっていうの?」

「あ、姉ちゃんおはよう。で、カジキって何?」

冬馬は私、冬海の弟。多季たきさんも随分と紛らわしい名前を付けたものだと思う。

 私は弟にカジキの説明をしてやった。

「カジキっていうのはねぇ……鼻の長い、大きな魚よ」

正確には角だけど。

「鼻の長い? 魚に鼻なんてあるんだ」

「じゃあ、どうやって匂いを嗅ぐの?」

「あ、そうか。鼻だ」

納得している。私は噛み殺せない可笑しさを隠すために俯いた。バケツの中が見えた。数匹の魚が浅い海水に浸った状態で入っていた。

「ウソ。釣れてるじゃないの」

冬馬には聞こえないよう、小さな声で呟いた。

 私がバケツの中を見ているのに気付いた冬馬は、「その魚、持っていってもいいよ」と言った。

 つまり、料理してくれという意思表示だ。

 言われたとおり、バケツごと魚を調理場へ運んで行く途中、脳裏に例の男の事が浮かんできた。私は彼が未だ眠っている客室へ行く事にした。

 船室は全部で八つ。船尾側から入ると、そこから伸びた廊下伝いに片側それぞれに三部屋ずつが続く。

 向かって右側に面した部屋を手前から見て行くと、最初に調理場、次に書斎、最後に客室となっている。左側は手前から、冬馬、私、父の部屋だ。そして、正面の一番奥にはリビングへと続くドアと、数段の上り階段がある。その先が操舵室そうだしつとなる。

 私は一旦バケツを調理場の床に置くと、奥の客室へ向う。

 多分眠っているのだろうが、一応ノックだけはしておいた。やはり返事は無かった。

 中に入ると、何故か空気が違っているように感じられた。温度でも湿度でも匂いでもない。では一体何なのか。考えても、さっぱり見当が付かない。

 だけど、私は現実に、その部屋が少し違っているように思ってしまった。ひょっとすると、予期せぬ客人の持つ特別な雰囲気なのかもしれない。

 ベッドに眠る彼は、人間離れした静かさで眠っていた。見ているほうが不安になってくるほど、呼吸と次の呼吸の間が長い。私は彼の顔に耳を近づけ、生きていることを確認した。

 その時に気付いたのは、彼の右頬に走る一筋の傷だった。その傷を水平方向から見ると、ちょうど海底山脈のように盛り上がって見えた。

 首筋に彼の息がかかった。ぞくっとしたものが全身を駆け抜けた。私は身震いすると、溜め息をいた。

「良かった。ちゃんと生きてる」

 私は言ひ残し、それだけで満足して客室を後にした。


 昼食までには時間があったので、私は書斎へ向かった。

 この部屋には、今となっては珍しい紙の本が多数収められている。それらは全て、多季さんの趣味で集められたものだった。私は時間があればよくここに来て、取り留めなく本を読む。

 この日、私が選んだ本は戯曲の台本のようなものだった。年月の経過と共にかつて白だったと思われる紙は、見事に黄色くなっていたし、紙質自体も潮風の影響でぱりぱりに固まっていた。場合によっては、ページ同士がくっ付いて、破れそうなところもあった。

 男女同権主義的な物語だったのだが、結局、最後まで読んでしまう前に、昼食を作る時間になってしまった。

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