契約
「それで、お前は俺にいったい具体的になにを求めているんだ」
「はい、私には邪悪というものがよくわからないのです……。だからお願いします、先ほどのように、邪悪についてもっと詳しく教えてくれませんか! あなたの、その邪悪さを!」
輝の手を両手で握りしめて、ロロンはまっすぐな意思でそう懇願してくる。
思わずその姿に見とれそうになるが、彼女が願うのは、その態度とは真逆の、邪悪についてなのだ。
「邪悪さって……、いや、それは俺が教えられるようなものなのか?」
その場合、邪悪を教える自分は、一体どんな邪悪な存在だというのか。
(いや、俺は邪悪ではないはずだ)
輝は小さく首を振っておのれの邪悪さを否定し、なんとか振り払おうとする。
道崎輝が求め、目指しているのは、善悪さえも超越した新たなる世界と価値観の構築なのである。
その実現のためには手段を選ばない覚悟は持っているつもりだが、それはあくまで目的を達成するための崇高なる意思であって、断じて邪悪などではない。はずだ。
だがそれを悪と断じられた時、俺はどうすればいいだろうか。
おのれを貫くか、それとも悪ではない道を探し直すか。
決意を持っているつもりではいたが、悩んでいる以上、輝は迷いを抱えていることも自覚せざるを得なかった。
だが少女はそんな輝の苦悩などまったく気にすることもなく、無垢な笑みを浮かべながら話を続ける。
「はい、もちろんです! 私も実際にさっきの城を破壊してみて、ほんの少しですが邪悪というものを理解できたような気がするんです!」
「お前はなにを言ってるんだ……」
さらに強く手を握ろうとする少女に対し、輝はさっと手を引いてそれをかわす。
この純粋な少女による不可思議な邪悪への意欲は、下手な完成された邪悪さよりもよっぽどたちが悪いものだ。
そう考えると、これ以上この少女を邪悪へと導くことは、より多くの問題を生じさせることになるかもしれない。
もっとも、現時点での最大の問題は、当のロロンはなぜか完全に輝を信じきっていることにつきる。そこをもう少しコントロールしなければ、ロロンはこの先も同じように輝に邪悪さのレクチャーを求め続けてくるだろう。
この状況が続く限り、輝は爆弾を抱えているようなものだ。
そしてまた、その爆弾は新たな火種をあらわにする。
「最初に出会い、名前も知っている人が、私の導き手となる。これもなにかの縁なのかもしれませんね。いえ、これはもう運命に違いないです! それでは、さっそく正式契約の儀式に入りますね」
「いや、待て、いいからちょっと待て」
にこやかな表情でなにかを取り出そうとするロロンを、輝は慌てて止めにかかる。
「どうかしましたか?」
「いや、どうもこうも、俺はまだ同意もなにもしてないぞ。だいたい、なんなんだ、契約というのは……」
一度は止めたはずなのだが、話を聞いているうちにいつの間にか再び物事が進められていたのである。やはりこの少女は、並の邪悪よりよっぽどたちが悪い。
「えっ、輝さんは、私と契約を破棄しようとしているのですか?」
「そもそも、なんですでに契約が成立していて、しかも俺がそれを認めると確信しているんだ」
考えてみても、先ほどまでの会話に、自分の方が契約したがっているという要素はどこにもなかったはずだ。
だがしかし、輝はあらためて考えてみる。
目の前の少女を。
そしてなにより目の前の力を。
この少女なら、輝の考える『世界の変容』のために利用できるのではないか。
砂場を破壊したあの力もさることながら、人払いの結界の発言から考えて、おそらくその能力は多種多様であるとの予想も成り立つ。
この少女こそが、自分の求め続けていた『世界を変容させる力』ではないだろうか。
先程の、砂場を包んだ闇を思い出す。
それが心に残り、輝はもう少し、この少女の事が知りたいと思った。
この少女には、一体なにができるのか。どんな可能性があるのか。
「契約を破棄、してしまうんですか?」
「そうだな……」
だがなにより問題なのは、この少女そのものだ。
少し考え込み、輝は心の天秤に力と少女を乗せる。
そして、一つの可能性を探るべく言葉を発した。
「お前が魔界を統べることになると、一体なにができるんだ? それが俺にとっても有益なら、俺はお前に協力しようじゃないか」
「えっ、なにができるとは、どういう意味でしょうか?」
その間の抜けた返答に、輝の心の天秤は少女の危険さを危惧するほうへと傾いていく。
この少女の持っている力を、果たして自分は、そしてこの少女自身はコントロールできるのであろうか。
なにができるのかさえ自覚がないまま力を振るわれてしまっては、世界にも自分にも危険すぎる。
その自覚を見極めるべく、輝はさらに質問を続ける。
「いや、どういう意味もなにも、お前の力は俺にどのような利益をもたらすかといういうことだよ。たとえば俺を金持ちにするとか、世界の半分をくれてやるとか、そういう俺にとってのメリットはなにがあるんだ」
俗で陳腐な例えを出したことを少し恥じながらも、輝はなんとかしてロロンに自分の意思を理解させようと試みる。
この邪悪を知らぬ少女は、自分の持つ力とその影響さえも自覚していない。
そこから利用できるものを引き出すためには、まず力の形を自覚させる必要がある。
「輝さんがそれを望むなら、お金も世界も手に入れられると思いますよ。それくらいなら特に難しいことでもないですし」
ロロンの返答はあっさりしたものだったが、それだけに、その力の底無しぶりが際立つ。つまりロロンの持つ力からすれば、輝の考えた俗で陳腐で単純ながらも強大な願いなど、その程度のことにしか過ぎないのだ。
「できるのか?」
「輝さんがどの程度のものを望んでいるのかはわかりませんが、私が後継者に決まったのなら、それくらいは簡単だと思います」
その言葉に嘘偽りがあるとは思えない。
この少女は認識に対しての甘さはあるし、人の話を聞かないことは多々あるが、が、人を従えさせるために嘘をつくようなタイプではない。
もし将来その言葉が反故にされることがあるとすれば、それはたんにロロン自身に約束を果たす能力が無いときであろう。
「なるほどな、お前の力はよくわかった……」
静かに、力を得た明るい未来を想像してみる。その時自分になにができるだろうか。
その力がどのようなものであれ、今よりも多くの可能性が広がるのは間違いない。
別に先ほどたとえに出したような大金や世界の半分を欲するわけではないが、それ以外のものでもたいていは手に入ることだろう。
一方で、この少女の言葉を鵜呑みにしてしまっていいのだろうかという不安もある。
もし下手を打てば、自分は少女の走狗となってしまうのではないか。
少女自身に自覚は無くとも、その力、その言葉には逆らいがたい。契約を交わすとなるとなおさらだろう。
だが、その不安は輝にとってはある程度計算の範囲内だ。
なにしろこの少女は、邪悪を目指すというわりにあまりに純真無垢なのである。上手く誘導すれば、多少の無理も通せるだろう。
そうなれば、輝の心も決まった。
「……ならばこそ、契約しよう。ロロン、俺の意思とお前の力で、この世界を変容させようではないか。それこそが、お前の望む魔界の後継者への道でもあるはずだ」
「はいっ! ありがとうございます!」
力強く拳を握る輝に対し、ロロンも嬉しそうに笑顔を向けてくる。
「では早速、この契約書に術を施してもらえますか」
「ふむ」
そしてロロンは、どこからともなく一枚の紙を取り出した。
そこに書かれている言語はまったく未知のものであったが、不思議と輝にもどのような内容なのかは理解できた。
そこに書かれているのは、ごくありふれた契約においての注意事項ばかりだ。
この程度の事は後でどうにでもできる。
ようするに、この少女の害にならないように自分の野心の方へと誘導すればいいだけのことだ。
わからないのは、ロロンの言う契約の方法である。
「術を施す?」
「この円の部分に親指を当てて念じればいいですよ。あとのことは全て、そこに書かれた呪式がやってくれますので」
ロロンが示したのは、契約書の右下にある円の部分である。
その円の中はどす黒く、どういう原理なのか、まるでそこに生命が宿っているかのように蠢いている。それは先ほどの、砂場を消滅させた闇と同じもののようにも思えた。
そのこと一つとってみても、輝は自分が常識の範疇を越えた相手と契約する事を実感させられる。
あとはこの力を、どうにかして自分の物にすればいい。
「こうか?」
紙を掴み、ゆっくりと、その円の上に親指を乗せる。
その瞬間、輝の視界はあらゆる光を失い、親指を含めて全ての感覚が消失した。
音も無く、風景も無く、身体そのものもどこにもない。
驚きはあるが、声さえもどこから出せばいいかわからない。
闇の中に、ただ意識だけが漂っているかのようだ。
自分の存在が消えたのか。
それでも意識だけが残っていて、闇の中を彷徨い続けている。
だが不思議と、恐怖を感じることもない。
この闇に、どこか懐かしささえ感じている。
ここは、どこだ。
「……もう大丈夫ですよ。契約は完成しました」
不意にロロンの声が輝の意識を引き戻した。
「ここは……」
輝がゆっくりと目が開くと、目の前には、先ほどまでと同じ夜の公園の光景が広がっていた。身体もベンチに腰掛けたままだ。
どれほどの時間が過ぎたのかわからなかったが、どうやら全てが終わったらしい。
「ああ、よかった、無事戻ってきましたね。お身体の方は大丈夫でしょうか?」
「身体? ああ……」
手を開き、閉じてみる。
月を見上げ、大きく息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出す。
それら一つ一つの行動で、輝は感覚はほぼ全て戻っていることを実感する。
だが、少しばかり身体が軽すぎるような気もする。先ほどまでの浮遊感の錯覚が続いているからだろうか。
それを振り返ると、元の自分が感じていた重力が微妙に思い出せない。
元々意識していなかったものは、失い、すりかえられたとしてもわからないのかもしれない。
少しずつ、輝の中を違和感が侵食してくる。
しかしそれ以上考える前に、ロロンのほうが口を開いた。
「それでは、これで契約は完了です。道崎輝さん、これからもよろしくお願いします」
そして再びロロンが頭を下げた。
「……ああ」
この契約によっていったいどんな変化が起こるのか、そして起こったのか輝にはまだわからない。
それでも、目の前の少女との出会いと、軽くなったような気がした身体で、道崎輝という人間は、昨日までとまったく異なる人生を歩みだしたことは理解できた。
世界の変容は、ここから始まるのだ。
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