第三章 姫の道に立ち塞がる勇者の圧倒的な声
結界
日差しが目に入る。眩しさで意識が覚醒する。
目が覚めて、輝が最初に確認したのは今の時間と日付だった。
日にちは順当に翌日。金曜日の朝だ。
一方で机の上には、昨日の夜中の報告会で使用された紙が残っており、報告会が夢でなかったことのを証明となっていた。
「どうやら、日数の件はなんとかなったみたいだな」
夜中に勝手に体が動いていたことは夢遊病のような気持ち悪さはあったが、それでも、いつの間にか三日経過していた時に比べればはるかにマシである。
しかし、身体のほうは影響を逃れられず、完全に寝不足となっている。
まだ重い身体をベッドから引っ張り出し、輝は登校の準備を整える。
「いっそ休みになっていればよかったんだがな……」
報告会では怪物のもたらした効果を最大限に訴えた輝であったが、現実は輝自身が思った以上にタフであった。
怪物がもたらした破壊の効果など、たかが午後休校程度でしかない。
「おはようございます輝さん。もう朝ですよ、起きてください」
輝の思考など完全に無視をして、そんな声とともに小気味よくドアが叩かれる。
「もう起きている。それよりお前、今日も学校に行くのか?」
「輝さんもおかしなことを言うのですね。私はあの学校に編入した、れっきとした生徒です。学校に行くのは当然ではないですか」
「その台詞はまず、昨日のお前に聞かせてやれ」
ロロンは自信満々にそう言ったが、輝にはこの少女がまともに授業を受ける気があるのか疑問だった。転校初日である昨日にしても、教室を抜け出す前からほとんど授業を聞いていなかったのだ。
輝の目から見れば、この魔界の後継者はそもそも、学校というものを本当に理解しているのかどうかさえ怪しいところである。
「大丈夫ですよ。昨日のあの行動はあくまで邪悪さをアピールするためのものですし。今日はおとなしくしていますから」
そんな言葉が届くが、ドアの向こうで表情は見えない。
だが、顔が見えようと見えまいと、輝がその言葉をまったく信用していないのは変わらない。
制服に着替えてドアを開けると、ロロンもすでに制服を着て準備万端で待っており、登校する気満々である。
「さあ、早速行きましょう」
「いや待て、ちょっと待て」
やる気を見せているのはいいが、そもそも学校はそう遠くないし、まだ時間的には充分に余裕はある。
なにしろ輝はこの朝の余裕を確保するために学力のランクよりも家からの近さで学校を選んだのだ。
「あと一時間は家でゆっくりできるだろう。こんな時間から学校に行っていったいなにをするつもりだ」
「いえ、あの学校という場所について、もっと詳しく情報を集める必要があると思いまして。昨日は中途半端になりましたし……」
「うーん」
そう言われては、輝もさすがに少し心が揺らぐ。
確かに、一通り学校を回って説明をするとなると、ロロンの主張するように早朝の人の少ない時間が一番やりやすいかもしれない。
ロロンの目立ち過ぎる容姿が不用意な注目を集めることも無いだろうし、それを避けようとして下手に人のいない時間帯を選ぶとなると、昨日のように授業を抜け出すことになりかねない。
そう考えると、ロロンの主張は輝が思っているよりもまっとうなのかもしれないと思えてくる。
実際ロロンの表情は、実ににこやかで、自分の案に強い自信を持っているかのようであった。
しかしもう一点、輝にはまだ、ロロンが学校に来ることについて大きな、そして根本的な疑問が残っていた。
「というかまず、お前が転校してきた理由がわからない」
昨夜は報告書作りで慌しかったため聞きそびれていたが、冷静に考えてみると、輝にはこの少女が学校に行く理由が思い当たらないのである。
「この世界で生活していくなら、ちゃんとした身分があったほうが楽ですし」
「ちゃんとした身分、か?」
思わずそう問い返す。
輝からすれば、高校生という身分はずいぶんと制限の多いように感じるものだが、この異邦人からすればそうでもないのだろうか。
「そういう輝さんだって高校生ではないですか。それに輝さんが考えているほど、高校生でも身分があることの重要さは小さくありませんよ」
「そうか……」
逆にロロンに言いくるめられそうになり、輝は少し考え込んでしまう。
確かになにか問題が起こった場合、身元を保証する場所があるのは、大きいことかもしれない。その身分自体をロロンがどう手に入れたのかは、おそらく誰も問うことは無いのだ。
だがもう一点、ロロンが学校に行くと困ることがある。
「まあ、高校に来るのはいいとして、もう祐希とは揉め事を起こさないでくれよ」
「祐希? ああ、昨日のあの『勇者』ですね……」
名前を聞いただけでロロンの表情は途端に険しいものとなり、それを見た輝の感情に影を落とす。
「起こす気満々か……」
「それは向こうの出方次第です。昨日だって、いきなりキューちゃんに切りかかってきたのはあの方のほうだったじゃないですか」
「まあ、それはそうだが、もう少し話し合いから入るべきだ。双方共にな……」
祐希の態度を思い出し、輝はますます気が重くなる。
人間離れした二人の少女の揉め事の間に立つことになるのは間違いなく輝だ。
頭の中で穏便に物事が進むパターンを想像してみるが、まったく思い浮かばない。
しばらく考え込んでいた輝だったが、どうやら輝のその反応が、ロロンにもなにか引っかかったらしい。
「あの方は、輝さんとはどういうご関係なんですか?」
「いうならば古い付き合い……、まあ、幼馴染みとでもいうべきだろうな。なにしろあいつの家はこの家の正面だからな」
「えっ?」
それを聞いたかと思うと、ロロンはそれ以上輝の言葉を聞くことも無く、玄関へと駆け出していく
「おい、待て!」
輝も慌ててその後を追いかける。
もしかしたらそのまま祐希の家に殴り込みをかけるつもりなのではないか。
ロロンの性格を考えるとそれは充分にありえることのように思える。
そんな不安があったからこそ、輝は軒先でただたたずむロロンを見たときの安堵はひときわ大きなものだった。
しかしその安堵も、ロロンが次に言葉を発するまでのことでしかなかった。
「……驚きました。まさかここまで完全に構成された結界を、この世界で見ることになるなんて……」
ロロンの口から、そんなぼんやりとしたつぶやきが漏れる。
祐希の家を見つめるその顔は、まるで見てはいけないものを見たかのように力が抜けており、輝にはロロンと自分がまったく別の物を見ているように感じられた。
「結界、だって……? そんな馬鹿な……」
輝の目に映る目の前の祐希の家は、いつもとなんら変わることはない。
しかし、今となっては輝もそれを否定する材料をなにも持ち得なかった。
ロロンの力はいまさらいうまでもないことだし、祐希が勇者として人間離れした力を見せ付けたのもつい昨日の話である。
「皮肉なものだな。俺が持ちえたいと願っていたものを、全部あいつの方が持っていたとはな……」
思わず、そう口に出してぼやく。
輝も以前、自分の家、自分の部屋に結界を張ろうとしたこともあった。張ったつもりでいた。
もちろんロロンが現れるまではなんの力もなかった輝が当然そんな力を持っているはずもなく、あったのはただ、輝の自己満足だけだった。
それは仕方ない。それが現実だ。
だから輝はいつだって現実と自らの願望をすり合わせて生きてきたのだ。
不可能を少しでも可能にするために、自分に可能なことを高め続けてきたのだ。
空しくないと言えば嘘になる。
それでも自分のできることが増えていくたびに、ある程度の満足感はあった。自分の無力さを忘れることはできた。
しかしそれを否定するかのように魔界の後継者であるロロンが現れ、追い打ちをかけるように、目の前の幼馴染みの家には本物の結界があるのだという。
輝がもし本当に結界が張ることができたのならば、ロロンも、ククスも、元老院も入ってこられるはずも無い。
だが現実は、好き放題に不法侵入を許し、あまつさえ勝手に居候までされている有様なのである。
あっという間に、現実のほうが輝を置き去りにしたのだ。輝自身の立っている場所は変わっていないはずなのに。
世界は、現実は少し、俺を置いてきぼりにしすぎではないか。
輝は声に出すことなくそう叫びたい気分だった。
「なるほど、お兄様が危機感を持つのも、勇者の存在をすんなり信じたのも、これが理由だったのですね……」
一方ロロンはロロンのほうで、目の前の問題のことで頭が一杯らしく、輝の感傷など気にする暇もない様子である。
一人でなにかをつぶやきながら、懐から次々に紙を出しては赤い光を纏った指でなにかを描きつけ、それをそのまま地面へとばら撒いている。
その紙は地面に落ちると、一瞬赤く輝いてはすぐに色を無くし、まるで水をかけられたかのように地面へと融けていった。
当然のように、融けた後にはなにも残らない。少なくとも、輝の目にはそうとしか映らない。
「お前、なにをしてるんだ……!」
さすがになにが起こっているのかわからなくても、その行動には輝も黙っているわけにはいられなかった。
端から見ても常軌を逸した意味不明な行動にしか見えないということもあったが、それ以上に、この少女がその力を使ってよからぬことをしているという危機感の方がさらに勝る。
「決まっているではないですか、この目障りな結界を破壊するのです」
「いや、待て、いいからちょっと待て」
手をつかみ、無理やりロロンの行動を止める。
「なにをするんですか」
「いや、いいからこっちの話も聞け。まず確認したいんだが、その結界の破壊、他には影響は無いんだろうな」
これまでの例から考えても、ロロンが勝手に先走るときは後先も他の事も考えていない。下手すれば、結界ごと祐希の家を破壊してしまうことだってありえるだろうし、そのことを特に問題と思わないだろう。
そもそも、他人の家の結界を勝手に破壊すること自体は倫理的に考えたらどうなのだろうか。
それも器物破損になるのだろうか。それとも住居侵入の一種か?
「あー、えっと、それはですね……」
「……やっぱりなにかあるんだな」
それを聞かれた途端、ロロンの目があからさまに泳ぎだす。
さすがにその態度には輝も呆れるやら自分の行動に安堵するやらで大きな大きなため息をついた。
まさかとは思っていたが、本当になにかをしでかすつもりだったようだ。
「あっ、でも、輝さんの家にまでは影響は及ばないと思いますよ、多分……」
「それさえも多分なのか……。いや、そもそも祐希の家にも影響を出すな」
輝の言葉にロロンは頬を膨らませるが、とりあえず、ひとまず作業だか儀式だかわからないあの行動は中断している。
止めなければどうなっていたのかを想像すると恐ろしいが、間に合っただけでもよしとしなければ。
もちろん、ロロンの方は納得がいくはずもない。
「いいですか輝さん、相手は勇者なんですよ! このまま放置しておいては、私達の活動に……フガッ」
「いいから、その話は中でだ」
軒先で大演説をされても問題が大きくなるばかりというのはさすがに輝でもわかる。
ましてや目の前はその祐希の家なのである。このことを聞かれでもしたらどうなることか。
まだ早朝ということもあってか、幸いにも祐希の家からは反応はない。
輝はロロンを押さえつけたまま、家の中へと戻るのだった。
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