episode58 手を伸ばせば届く距離で

 薄く目を開ける。終わりのない暗闇の中で、溺れているような感覚だけがあった。息が吸えない。もがけばもがくほどに苦しい。

 どこからか声が聞こえていた。懐かしさに動きを止める。水中で聞こえる声は、まるで無声映画のように現実味がなく、しかし確かな質感があった。




“ どれだけ 生きるつもりで おいら日々を叫ぶだろう ”




 ああ、ああ……うるせえな。わかっているんだよ、そんなことは。



“ 君は言い訳を聞いてくれない

 星を落とした

 全部落とした

 何も 見えなくなった ”



 なあ、おい勘弁してくれ。まだなのか。

 まだ、俺は――――。



“ 望んだのはただひとつ 望まれること ”


 笑っているような泣き声だ。暗闇の中、くっきりとその姿だけが浮かぶ。

 橋の欄干のうえ、座って海を見ていた。

 お前はまだそこで泣いているのか。『あなたにだけは助けられたくない』と言いながら。

 頭が痛い。ひどい幻だ。そうわかっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。マコは、また自ら海に身を投げるだろう。俺の手を離れて。


“ どれだけ 愛してると叫んでも 本物にならないのと同じで

 きっと明日あすさえ思い通りにならないのに

 それでもあの頃 軽はずみに口にした

 未来にいま立っているのだろうか ”


 あの頃4人で回して聴いた、あのCDは結局誰のものだったのか。そしてそれは持ち主に返ったのか。そんな些細なことが気になった。きっと誰かが持っているのだろうと心の端で思っていて、結局自分では買わなかった。そんな馬鹿げたことを、なぜだかいま思い出した。

 誰かのためになれるという傲慢があの娘を追い詰めたのなら、二度と誰のためとも思うまい。全て自分のためと嘯いて、時に道具と成り果てて、誰のためでもなく俺はここに道を作る。全て更地にしてしまえば、誰もが通りやすかろう。


“ どうかこの手が届くところに 必ず守り抜いてみせる ”


 ゆっくりと息を吐く。馬鹿馬鹿しい。息を吐けば吸うこともできた。

 体中が痛い。どこもかしこも、痛い。

 かつて俺は、生まれたからには生きる権利があるはずだと信じた。それは分不相応な勘違いだったのかもしれない。だけど、それでも言いたかった。

 生きる権利がある、と。生きているのだから、これからも生きていていいんだと。生きるうえでお前たちが感じる悲しみも喜びも、未来への期待も不安も、俺には手が届かないものだが。だからこそ間違っちゃいない。俺には到底理解できないものだからこそ、お前たちは正しいのだと感じる。

 何があっても、死ぬほどには思い悩むな。誰もが生きることを許されている。お前たちが生きている限り、世界はお前たちの居場所を空けている。


 俺に向かって手を伸ばした時、お前たちは確かに『生きたい』という顔をしていたよ。それだけは俺が保証しよう。お前たちには、生きる力がある。


 力を込めれば、指が動いた。指が動くのであれば間違いなく足も動く。ゆっくりと上体を起こした。周りの音が聞こえ始める。「死んでたのに」「何でだよ……」とそれは絶望の声に近かった。

 なんでだろうな、と自分でも首をかしげるほかない。やはり足も動いた。立ち上がれる。

 最後に、マコが振り向いて笑った。


“ いつかその日々 地獄の果て ”


 愛おしそうに、『あなたはそういう人だよね』とでも言うように。

 ああ、そうだな。なぜか、なんて問うても仕方のないことだった。


“ 痛みさえ 愛すると決めた ”


 足が動く。腕も動く。俺に、立ち止まる理由はない。


「馬鹿だなぁ、お前らも」


 戸惑いの表情を浮かべた逃げ腰の男たちを見る。

「死体蹴りはしちゃいけないって、学校で教わらなかったか? 蹴られた死体は大抵動く。間違いない」

 懐を探ったが、ナイフはない。どうやら金目のものは全てはがされたらしい。まったく、人が死んだと思っていい気になりやがる。


 歩き出した。心臓は、うるさいくらいに鳴っていた。




☮☮☮




 ポケットに手を突っ込み、舌打ちをしながらイマダは歩く。

(クソ。せっかくいい気分だったのに、あの女……余計なことを言いやがる)

 まあ友坂勇気を巻き込んだのは、少々やりすぎの感がしていた。タイラと美雨で食い合う展開になればいいと思っていたが、あの2人の間にも理解しがたい信頼関係のようなものがあるらしい。そう上手くはいきそうもない。

 このまましばらく、どこかへ高飛びでもした方がいいかもしれない。そんなことを考えながら歩いていた、その時だった。


「こっちは丸腰だってのに、こいつら……くそ、刺しやがった……」


 今一番聞きたくない声が聞こえてきたのは。

「げっ、タイラ」と言いながらイマダは思わず物陰に隠れる。タイラはといえば、自分の脇腹を右手で押さえながら何か地面をまさぐっていた。こちらに気付いた様子はない。

 よく見れば、地面には死屍累々だ。物盗りをするタイプだとは思っていなかったが、よほど生活が苦しいのか。まああれだけ所帯を拡大させ続ければな、と呆れながら見る。どうやらタイラは怪我をしているらしい。それも満身創痍だ。腹を押さえているということは、そこが一番の重傷なのだろう。

 正直、ワクワクした。平和一という男が、あれだけ追い詰められているのだ。しかも、その一端を恐らくイマダが担っている。これほど胸のすくことはない。

 あの状態のタイラであれば、軽くちょっかいをかけてもいざとなれば逃げられるだろう。

 そう踏んで、イマダはタイラに声をかけた。


「おい、大人げないんじゃないの。皆殺しか?」


 タイラは振り向いて、『なんだお前か』という顔をする。拍子抜けである。何が起こっているか把握していないのだろうか。疲れたように、タイラが口を開いた。

「死んじゃいないだろ。殺してない」

「そうかぁ? 死んでるように見えますけどねえ」

「ライターがないな……ライターが……」

「あ? ライター?」

「それ以外は全部見つけたんだが、ライターがない」

 汗を拭って、タイラはイマダに向き直る。「ラムちゃん、ライター貸してくんない?」などと言ってきた。『誰がお前に』と言いかけたが、これからのこともあるので仕方なくライターを差し出す。タイラは煙草を咥え、静かに火をつけた。


 相当に参っているようで、タイラは煙草を吸いながら微かに頭を揺らす。見ないふりをしていると、突然異臭が漂い始めた。驚いてタイラを見れば、表情も変えずにライターの火を自分の腹にあてている。

(こいつ……傷口を焼いてやがるな……)

 肉が焼かれる臭いに、イマダは吐きそうになりながらちょっと距離を置いた。異物を見る目で、しばらくそれを眺める。手を止めたタイラが、「なんだよ」と言って笑った。

「お前、まだやるつもりかよ。病院行ったら?」

「俺が終わって他も順次終わりになるなら何もやらないんだけどな」

 長く息を吐いて、タイラは「終わらないだろ? 終わらないんだよ」と呟く。そして、ふらつきながらも歩き始めた。


 面白くない気持ちで、イマダはしばらくその後ろ姿を見る。

 ふと、タイラが立ち止まった。ゆっくりと、振り返る。その顔を見た瞬間、イマダは思わず後ずさった。

「やべ……」

 先ほどまでと、明らかに目の色が違う。酔いがさめた顔だ。


 確かな足取りでタイラはこちらに向かってくる。逃げようとしたが、腕を掴まれた。そのまま、手の甲に煙草を押しあてられる。「ッ痛!」と叫んだがタイラは煙草をぐりぐりとこすりつけた。

来人クルヒト……お前、よくもここまで話を大きくしてくれたもんだな」

「何だよタイラ。今まで寝てたの? 起きてくれなくてよかったのに」

 いきなり、首を掴まれる。喉仏をゆっくりと押された。さすがに『殺される』と思った。耳元で、「そんなに俺を潰したかったか?」と囁かれる。声が出ない。そっと、タイラが力を緩めた。

「……まあ、今回はいい。お前のおかげでやりやすかった面もある」

 どっと汗が出る。まさか許されるとは思わず、タイラの目を見た。タイラは薄く笑って、イマダの首から手を離す。

「だが、今後また俺を潰す計画にを利用してみろ……」


 イマダの髪を掴んで、ぐっと引き寄せた。「生きたまま焼いてやる」と、そうタイラは囁く。その表情までは見えなかったが、戦慄するに十分な声色だった。


「固まるな……脅してるわけじゃない。このライターは、その時に返すよ」

 そう吐き捨てて、今度こそタイラは歩いて行く。しばらく顔を上げられず、イマダは震える自分の手を見た。甲にはくっきりと煙草のあとがついている。いい歳をして根性焼の痕ができるとは思わなかった。


「おっかねえ……やっぱ、高飛びかね……」

 そう呟いて、静かに苦笑した。




☮☮☮




 駆けてゆく実結を、都が捕まえて抱き上げる。「ユウキくん! ユウキくん!」と実結は手を伸ばした。

 ノゾムも、ユメノの腕を掴んだ。そのまま強く引き寄せると、勢い余って彼女の体が少し浮いた。ユメノを抱えるような体勢になりながら、ノゾムは後ろから走ってくるカツトシのことも素早く押しとどめる。普通に力負けした。

「どうどうどうどう! 止まってください」

「ちょっと何よ。ユウキが危ないんだから」

「そうですよ、ユウキが危ないんですよ。ここで飛び出していって、もっと危険にさらすわけにいかない」

 離してよ、とユメノが顔を真っ赤にして暴れる。「ユメノちゃんが一番危ないんで」と言いながらノゾムは力を緩めない。


「じゃあ、ここから撃つわ」とカツトシが言う。

「撃つな。撃たないでください、人が多すぎる。向こうにはユウキがいるんですよ。刺激できない……外すぐらいなら何もしない方がいい」とノゾムは首を横に振った。それから「ああ……すいません、すいません。偉そうに言いました。別にアイちゃんさんが外すって決めつけてるわけじゃなくて、ヘタなことをしたくないだけなんです」と頭をかく。

 肩をすくめたカツトシが、「了解」とだけ答えた。

 実結を押さえ込みながら、「私が話してくるわ。対話の余地があるはず」と都は宣言する。それにも、ノゾムは首を横に振った。「ユキエさんにはミユちゃんがいるでしょ、ここで出ていっちゃいけない。一番ダメ」と独り言のように呟く。

「ねえ、離してよ。わかったから。あたし、危ないことしないから」

「ユメノちゃんは絶対にここで走り出す人なのでダメです」

 ユメノを抱え込む腕に力を込めて、ノゾムはため息をついた。


 あと一歩足りない。ユメノにも、カツトシにも都にも、実結にすら、綱渡りで飛び出す勇気はある。だが、恐らく渡りきる器用さは足りない。ノゾムじぶんは論外だ。誰ひとり危険な目にさらしたくない臆病者だから。それならば自分が、と思っても踏み出せない。成功するビジョンが持てない。死ぬことよりも失敗することの方が怖い。

 ユウキを抱いている男は、戸惑っている様子だった。それを横目で見て、ノゾムはまた短く息を吐く。

「ユキエさんの言う通り、交渉の余地はあると思います。でもそれは、オレたちじゃダメなんですよ。求められてない。こっちには切り札カードがない」

 そうだ、今出ていってもこっちには交渉の材料がない。ただ返せと言っても、この状況ではどうにもならない。なんせ相手はもう引き返せないのだ。向こうだって何も得るものがなければ話を聞けないだろう。

 だから。だから――――


「ここまで足止めした意味はあった、と」


 思っていいんですよね、先輩。




☮☮☮




 ハンドルに体重をかけながら、若松は唸る。「これは……」と呟いて後部座席の美雨と麗美を見た。

「もう1mも動きそうにない。恐らく、前の方の運転手が一斉に車を乗り捨てて野次馬に行ってしまったのだろう。この道はダメだ」

 といっても、今更引き返すことはできない。本当に、身動きが取れない状況だ。現場までは2,3キロといったところか。ここまで渋滞しているということは、途中で事故でも起きているのかもしれない。


「じゃあ、降りましょう」

「走っていけば何分でしょうね」


 まあ、そうなるだろうとも。いいなあ、バイクの人は。

「あまり体力に自信がないんだが……絶対に追いつくから私のことは気にせず先に行っていてほしい」

「それ、絶対に来ないやつでしょう。しっかりしてくださいます?」

 頑張るよ、と言いながら車から降りる。せめて自転車でも積んでくればよかった。




☮☮☮




 ユウキは、怒っていた。

 誰も傷つけないのならいいかと思ってついてきたのだ。それなのに仲間たちには車をぶつけようとするし、竹吉のことを撃った。悪い人ではないと思っていたが、だったのだ。ユウキは、無言でリュウを睨む。

 笠は笠で、この展開には戸惑っているようだった。銃をユウキのこめかみにあてながら、周囲を注意深く見ていた。

 どうにかして逃げ出さなければ、とユウキは思う。恐らく、笠の方でもそう考えていただろう。


 そんな、時だった。無茶なバイクが、ほとんど体当たりのように人ごみをかき分けて突入してきたのは。


 逃げきれなかった人がいくらか巻き込まれたように思ったが、ライダーは平然とバイクを乗り捨てて歩いてきた。

 その姿を、ユウキはもちろん知っている。は「いててて」と言いながら腰を押さえた。

「いやあ、すごい騒ぎだな。祭りか? 携帯がおじゃんになった時にはどうしようかと思ったが、これだけ大きな騒ぎを起こしてくれて助かった」

 そしてゆっくりと、ヘルメットを取る。思わずユウキは「タイラ……」と口に出してしまう。タイラはといえば、「よおユウキ。お前、2回も誘拐されたってマジ?」なんて言って、笑った。

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