episode57 ルールと限界は超えてゆけ
ユウキが誘拐された、と連絡を受けてから、車内は紛糾していた。厳密に言えば、主にユメノがパニックになっていた。それをなだめるカツトシも、何を言っていいかわからないという顔だ。ただノゾムだけが冷静で、都に道を伝えている。「オレ、昔この辺に住んでたんすよ」と言いながら迷うことなく案内を続けた。「港に行くのにこっちでいいの?」と言われても「いいんです」とノゾムは自信を持って言う。
ユウキを乗せた車の情報が数分間隔で送られてくるようで、そのたびにノゾムは「近いな……」「いや3分前にこの場所ってことは、もっと急がないとダメかな?」とぶつぶつ呟いた。それを聞きながら都はアクセルを踏んだ。法定速度はこの際気にしてもいられない。そもそも無免許だった。
不意にノゾムが、「追い越した!」と叫ぶ。「追い越したぁ!?」とユメノが驚いて聞き返した。
「あ、すみませんすみません。3分前の映像にある場所を追い越したんです。つまりユウキの乗った車は3分先にいるってことですよ。向こうも相当急いでるって考えたら時速80キロぐらいが妥当ですかね? たぶん……4キロ前方ぐらいにいると思うんです。もうちょっとスピード出ますか? ユキエさんは運転に集中して。オレたちで探します」
もちろん同じ速さで走っていたら到底間に合わない。相手が何キロで走っているかは知らないが、直線で勝負をするなら覚悟を決めなければならないだろう。都はアクセルを踏み込み、ハンドルを切った。隣の車線の隙間に無理やり入り込み、次々と車線変更していく。
(迷惑な車でしょうね……本当に)
そう思いながらも、他の車を追い越していった。1キロ、2キロと走る。後ろで震えた声のノゾムが、「ユキエさん結構煽るじゃないですか、こわ……」と呟いた。
しばらくして、ノゾムが「近い!」と声をあげる。新しい画像が送られてきたらしい。
「近いっすよ、ユメノちゃん、アイちゃんさん! ナンバーは覚えてますよね?」
呼ばれたユメノとカツトシが、前傾姿勢で前を向いた。たっぷり1分。「あ、ユウキくんだ!」と叫んだのは、実結だった。
「え? どこ?」
「あそこ! 5こ、まえ。くろいくるま!」
「えー、見えない……ミユちゃん目がいいな……」
都が落ち着いて、「じゃあ上がっていくわね」と言う。こちらの鬼気迫る勢いに押されたのか、前の車は路肩に停車しハザードランプを点滅させた。「申し訳ないわ、本当に申し訳ない、直々に謝罪したい」と言いながらしかしスピードを緩めることなく都はハンドルを切る。
ようやく、都たちにもその姿が目視できた。ナンバーも間違いない。ユウキの乗っている車だ。「ちょっと急ぎます」と言いながら都はまたアクセルを踏み込む。「マジかマジかマジか」とノゾムの声がした。
豪快に車線を変更し、ようやく都たちの車はユウキの乗っている車の後ろにつく。向こうの車はこちらに気付き、少し路肩に寄った。『追い越せ』ということだろうが、もちろん都はそのまま後ろの位置をキープする。ようやく、こちらが何者か感づいたらしい。ユウキの乗っている車はいきなりスピードを上げた。
短く息を吐き、都はそれを追いかける。「先生! 先生、これ一般道で出していい速度じゃない!」と声が聞こえるが、それはひとまず無視だ。
都幸枝は、かつて人を殺してでも大切なものを守ると決断を下した女である。
ここで止まれないのだ。止まれない、理由がある。
追われているとわかった今、あの車はどうにか都たちの車を撒こうと必死に考えているだろう。ここで見失ってしまえば、車を乗り捨てて逃げられる可能性がある。そうなればまた一から。今度は麗美でも特定できないかもしれない。何か策を講じる暇もないくらいに、常に追い詰めていなければならない。
距離は等間隔。向こうもこれ以上は速度を上げられまい。このまま目的地まで行くのか、それともどこかで動いて来るか。
と、思った瞬間だ。
例の車の、ブレーキランプが点いた。
前方に信号はない。何か遮るものがあるわけでもない。正真正銘、後続車――――つまり都たちの車に、ぶつけるつもりでブレーキを踏んできた。追突すれば自分の車も無事では済まないだろうに、明確な殺意を持って停車した。
ノゾムたちの悲鳴が聞こえる。都は息をのんで、ハンドルを切った。車線を大きくはみ出し、隣の車線に進入する。対向車が見えた。可哀想に、対向車のドライバーも目を見開いてこちらを見ている。ハンドルを持つ手に力が入った。ごくりと喉を鳴らして、素早くハンドルを戻す。そして、アクセルを踏んだ。
都たちの車は、2台の車をすり抜け――――車道を遮る形でユウキの乗った車の前に出る。急ブレーキを踏むと、今まで感じたことのないような重力がかかった。
車が完全に停止して、都はほっと息をつく。ノゾムたちはまだ震えているが。
「……ナンバーを外していないけれど、事故を起こしていないからセーフよね」
「い、いや、そういう問題じゃないと思います」
不意にユメノが「ああ! バックで逃げてく!」と指さした。確かにユウキの乗った車が、バックとは思えない速さで来た道を戻っていくのが見える。今からこちらも走る体勢を整えるとなると、間に合わない。逡巡している都の横で、カツトシが動いた。窓ガラスをあげ、何かを持ったまま腕を伸ばす。
耳をつんざくような音が響いた。都たちは呆気にとられる。それは間違いようのない、銃声だった。「当たった!」とカツトシは嬉しそうにする。確かにユウキを乗せた車は、突然制御を失った様子で蛇行し、ブロック塀にぶつかった。
「あの……アイちゃんさん、」
「何?」
「それは……銃のように見えるんですけど」
「銃よ」
「銃よ、じゃねーよ! 何してんすか! あの車にはユウキが乗ってるんですよ? 事故ってユウキに何かあったらどーすんだよ!」
えーでも逃げられたら困るじゃなーい、と言いながらカツトシは銃をしまう。
「拳銃はタイラが持って行ったんじゃなかった?」と都が確認すると、カツトシは肩をすくめて「結構そこらに落ちてるんだもの」と答えた。もしかして住んでいるところが違うのだろうか。
「まったく、うちの大人たちは歳の順に無茶するんだから」と言いながらノゾムは頭を抱えている。
そんなやり取りを丸ごと無視して、実結が「ユウキくん!」と叫んで勝手に車から出てしまった。見れば、車から這い出た男がユウキを小脇に抱えて走っていくところだった。追いかけて走り出す実結を見て、都もすぐさま車から降りる。
「うーわ、幼女はやっ。それを追いかける母親もはやっ……」
言いながらノゾムも降りた。
その横で、突然ユメノが「おらぁっ!!」と叫び出す。正直ビビり倒しながらそれを見て、ノゾムは「ユメノちゃん……?」と恐る恐る声をかけた。
ユメノは、ひどく綺麗なピッチングフォームで何かを投げる。真っ直ぐに真っ直ぐに飛んでいき、それはユウキを抱えている男の背中にぶつかった。勢いに潰されて、何かびちゃっと音がする。男の背中が蛍光色に染まった。
防犯用の、カラーボールだ。
こんなものがどこから、とノゾムは思ったが、車のグローブボックスが開いてるのを見てハッとする。そうだ、あの車は本橋イブのものだった。
(今度からあの人のことはちゃんと本橋巡査って呼ぼう)
そんなことを思いながら、ノゾムは走る。走りながら、声を張る。
「その人、捕まえてください!! 誘拐犯です! 誘拐です! 捕まえてください!!」
遠くで、男がタクシーを捕まえる姿が見えた。蛍光塗料は男の背中についている。タクシーの運転手からは見えないだろう。乗られてしまえば、あとは脅すなりなんなりしてどうとでもなる。こちらとしては、また車まで戻って追いかけるしかないが――――今度は追いつけるか自信がない。
「乗せないで! 運転手さん、乗せないでください! 誘拐です!」
タクシーのドアが開く。もうダメか、と思った時である。
男の肩を叩く人影があった。ふくよかな男だ。ノゾムたちはその男に見覚えがあった。
☮☮☮
こめかみの辺りを押さえ、1歩進んでは立ち止まるということを繰り返している。タイラは小さく唸りながら、前を見た。
薬が効かない。意識が飛びそうなほどの頭痛が続いている。それと不自然な動悸。胸の奥の方で感じる空腹感。視界が歪んでいくのを感じた。無理やりにまた踏み出した。
ここで、立ち止まることを許されてはいない。
不意に背中に痛みが走り、タイラは緩慢に振り向いた。拳ほどの石が転がっている。「……人に向かって石を投げるクソガキが、いるのかこんな時代に」と呟けば、若い男たちが近づいてくるのが見えた。おい、と怒声も聞こえる。
「なんてテメェが上に立とうとしてるんだよ」
なるほど、美雨を蹴落として章を殺したのであれば確かにそれだけの野心があると思われていても仕方がない。しかしそれにしても――――上に立つとはおかしなことを。
「上やら下やら、お前たちは何を言っているんだ。ここに立ってるのは、俺だけだろ」
「はあ?」
男たちは歩みを止めない。肩をすくめて、タイラはため息をついた。
「お前たちと遊んでいる場合じゃないんだよ、本当に」
仕方なく向き直ったその時、
タイラは1歩よろめいた。
自分の胸の辺りを掴んで、呆然とする。
電気が消えるように、視界が一度大きく暗転した。気づいたら膝をついている。呼吸を忘れていた。ひどく苦しい。
光が戻ってきたが、視界が狭まっている。ほとんど何も見えない。
息ができない。地面に倒れこんで、ただただ驚愕している。徐々に意識が遠のいていくのを感じた。
うるさいほど空回っていた心臓が、動きを止めた。
☮☮☮
ノゾムの声が聞こえる。ユウキは叫び出したいのをこらえて、前を見た。あまり仲間に助けを求めたくはない。なんせ
前方には道路だ。車が行きかっている。不意に笠が手をあげて、タクシーを止めた。何も知らない運転手が、ゆっくりと停車してドアを開ける。笠は、まるで親が子を抱くようにユウキを抱き直した。
タクシーに乗り込もうというその時だ。後ろから肩を叩かれた笠が、振り向いた。ユウキからもその顔が見える。思わず、「タケヨシさん……」と呟いてしまった。
「そ、その子をどうするつもりだ、あんた」
おっかなびっくりという風に、竹吉はそう尋ねる。その自信のなさそうな姿に、すぐ振り切れる相手と踏んだのだろう。笠は「急いでいるので」と言いながらタクシーに乗り込もうとした。すると竹吉は、その巨体を笠と車の間に滑り込ませる。
「ゆ、誘拐だろう。あんたそんな……背中に変な絵の具ドバっとついてて怪しいぞ……」
「妙な言いがかりをつけないでいただきたい。私はこの子の親戚のものです」
「嘘をつけ! お、俺はその子のことを知ってる。その子に親戚なんていないぞ」
「いないということはないでしょう。確かに遠い親戚ですが、この子を引き取りに来たのです」
「いや、いない。俺はずっと探してたから知ってんだ」
初耳である。竹吉はユウキの親戚を探していたのか? そして、いなかったのか……。
なかなかにショッキングな事実を聞かされたような気がするが、ユウキは全て飲み込んで「タケヨシさん、ぼくならだいじょうぶです」とだけ口を出す。「大丈夫なわけあるか!」と竹吉は激昂した。
「もう一度聞くぞ。その子をどうするつもりだ」
面倒そうな顔をした笠が、「まったく全員どういう関係なんだか」と言いながら懐から銃を出す。竹吉は「ひっ」と息をのんだ。
一瞬の沈黙の末に、タクシーの運転手が「乗るの? 乗らないの?」と声をかけてくる。竹吉の身体が邪魔で、こちらのやり取りが全く見えていないのだろう。
やけを起こしたような顔で、竹吉が「乗りません! 行ってください!」と叫んだ。運転手は肩をすくめて、「困るんだよなぁ、本当に乗るとき止めてくれないと」と言いながら発車させる。
「この……!」と噛みつくような顔をする笠に、竹吉は「ふん」と鼻を鳴らしてみせた。
「そ、そんなもん俺はぜんっぜんこわくねえぞ!」
「タケヨシさん……ムリしちゃダメです……」
「言っておくが、その子が包丁持って走ってきたときの方が数倍怖かった! 今も時々夢に見る!」
「タケヨシさん……」
その子を離せ、と言いながら竹吉は笠の腕を力任せに引っ張る。若干青ざめた様子の笠が「離しなさい、危ない」と竹吉を引きはがそうとした。「うるせぇよ」と竹吉は吠える。
「俺ぁ、優吾を助けることができなかったが! その子は、せっかく……せっかく、生きてたんだ。幸せにならなきゃダメだろうが!」
瞬間、2人の間に何か衝撃が起こった。笠も竹吉も、よろめいて後ずさる。そして、竹吉は腹を押さえ崩れ落ちた。その手は赤く濡れている。音はしなかった。ただ一言、竹吉が「いてえ……」と泣きごとを言っただけだった。笠ですら、呆然としている。恐らく揉み合っている最中に誤って発砲されてしまったのだろう。ユウキは真っ青になって、笠の腕を強くつかんだ。
「なにするんですか! 人の心がわからないおじさんだったけど、いいおじさんだったのに!」
「この男が掴みかかってくるのが悪い」
あれよあれよという間に、野次馬が集まってくる。「……この街は!」と言いながら、笠は頭を抱えた。
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