episode51 不自由から逃げればまた新たな不自由を知る

 ユウキを抱えたリュウが出ていくのを見送って、美雨メイユイはぼんやりと外を見る。相変わらず騒がしい。魔女裁判でも始まりそうな勢いだ。


 思えばこの街も歪な場所だ。アラキ――――由良の父が生きていたころは、絶対王政を思わせたものだけれど。

 そう、ここは王国だった。アラキが右といえばそうなって、左といえばそのようになる。そこに行政等の干渉はほとんどなく、そうしているうちこの街は自由だった。


(自由。自由ねえ……)


 ルールがない、という自由を選ぶためにたった一人の男に縛られる不自由を選んだのだろう。

 そしてアラキが死んで現在まで、街は不安定だった。絶対的な拘束力はなく、いくらでも堕ちてしまえる環境の中で、しかし人はルールに縛られることを嫌っていた。アラキがいなくなり、自分たちを縛るものがルールにとって代わることを恐れていた。

 だから、支配者を求めるのだろう。

 章では力不足で、若松では周囲が納得しない。そもそも、若松裕司は上に立つつもりがない。

 この不安定な情勢の中、抑止力として、出過ぎた杭を打って回ったのが平和一だ。本人にそのつもりがあったかは定かでないが。なんせタイラという男は、荒野を更地に変えることしか脳がないのだから。


 可哀想な章、と美雨はため息をつく。

 あんな無責任でデタラメな大人たちの間であやつり人形を演じている。実権などほとんどないのにまつり上げられて。

 こんな街は捨てて一緒に行きましょうと言った時、それでも章は頑として首を縦に振らなかった。この街に残りたい、と確かに言った。


『そう、この街が欲しいのね。それならいいわ、あなたにあげましょう。形ばかりでなく、きちんとあなたに手綱を握らせてあげる。二人で、この街を守っていきましょうね』


 ようやく、あの子のためにできることがあるのだと思えたのに。ことごとくがその邪魔をする。外はいまだ騒がしく、断罪の火がちらちら見えた。

(大体、そこまで騒ぐようなことをしていまして? こちらがしたことといえば……宗教とか薬とか、まあ街に新しい流行を生みだしたくらいじゃありませんの。それくらいで目くじらを立てて、案外お堅い街ですこと)


 つい昨日までは大人しかったのにと思いながら振り向くと、そこには見たことのある人影が立っていた。

「黙って人の部屋に入るのはさすがに無粋じゃなくて? お育ちが知れますわね、イマダクルヒトさん」

「おー……っす、名前覚えてくれたのかよ女王様」

 軽薄そうに手をあげたイマダに、美雨はふんと鼻を鳴らす。


「何の用ですの、コソ泥のような真似をして」

「おおい、これぐらいでコソ泥扱いじゃサンタクロースも浮かばれねーぜ」

「では何かプレゼントでも?」

「悪いニュースをちょっとな」

「ある程度予測はつきます。帰っていいわよ」


 そう言うなよ、とイマダは苦笑した。

「あんただって何が起きてるか知りたいだろ?」

「把握しています」

「さすが女王様! 現状把握に長けていらっしゃる。あんたに足りないのは先を読む力だけだねえ? ああ、あとは人使いが下手くそか」

 そう言ってケラケラ笑うイマダを見て、美雨は顔をしかめる。帰っていいと言われたにも関わらず、図々しくもイマダはそこにあった椅子に座った。行儀悪く肘をついて、口を開く。


「タイラがさぁ」

「もし、『平和一が今回の件を先導した』などという話をしに来たのなら、本当に帰ってくださる? あの男はそういうことができるほど頭のいい人間ではないので。状況から考えて、あなたでしょう。わざわざこんなところに来る辺り、放火魔は現場に帰って来るってことですわね」

「……なるほどねえ。よくわからん信頼関係? おたくら仲いいんじゃないの、実は」

「殺しますわよ」

「え? こわいこわい」

 ゲラゲラと、イマダは下品な笑い声を響かせた。「いやぁ、しかしあんたの周りの人間には忠誠心ってのがねえな」と目を細める。


「新しい職場を提供すりゃあすぐ飛びつくし、はした金で釣れた馬鹿もいたぜ。どうせこのままやってても捨て駒だって全員気付いてるからだ」

「よく喋りますこと。不思議ですわね……。7年前、あなたは真っ先に街から避難したと記憶しています。ここまでの度胸がありまして?」

「そりゃあ、あの時はしょうがねーって。オレ、喧嘩は強くねえもん。だからさ、オレはあの時学んだわけ。あんたらの喧嘩に巻き込まれて逃げたり隠れたりすんのはもうこりごりだ……わかんだろ? 今度こそ、あんたらに先手は取らせねーって。そんなに喧嘩がしたいんならさ、そこらのゲーセンでマリカーでもやってろって話だ」

 聞きながら、美雨はデスクの上で腕を組んだ。微かに笑って、「残念ですわね」と目を細める。

「正直に言って、あなたのことは毛ほども気にかけていませんでした。大したことはできないと高をくくっておりましたので。でもそこまでやる能力があるとわかっていたら……本当にうちで雇って差し上げてもよかったのに」

「そりゃあ、オレの方からノーサンキュー。使い捨てはごめんだっつーの」

 非常に嫌な顔をしてイマダは続けた。


「言ったろ? あんたが上に立つと、オレたちの居場所がねーんだよ。オレと竹吉のことじゃねえ。弱者の、だ」

「弱者……」

「あんたらは、誰かが上に行くためにまた喧嘩をおっぱじめんだろ。で、強いやつだけが生き残るわけだ。当然、そこに弱者オレたちはいない。なあ、おい。強者あんたらしかいない街に何の価値があるんだ? まあ、屋敷を見る限り審美眼的なものはあんまりなさそうだけどな」


 失礼な方ですわね、と美雨が肩をすくめる。そんな美雨を見て、イマダは少しバツの悪そうな顔をした。

「なあ美雨様よ、オレはあんたのことが嫌いじゃねーんだ。ほんとだぜ。いい女だしな。だから、いいことを教えといてやるよ」

「あら、なんです?」

「女王様……人は確かに駒だ。オレもあんたも等しく駒だ。それは違いねー。でも捨て駒は一つもねえんだぞ。人間は、骨まで使っても尚使える駒だ。ちったぁ、大事にしろよ」

 ふっと微笑んだ美雨は、「なるほど、覚えておきますわ」と呟く。満足そうな顔をしたイマダが立ち上がった。


「じゃ、オレはそろそろ帰るわ」

「よくこの状況で帰れると思いましたわね?」

「えー、今帰れる感じだったじゃん。てかさっき帰っていいって言ってたじゃん」

「あの時帰っていればよかったものを」


 するとイマダは子供が駄々をこねるような顔をして、「マジかよー、オレ喧嘩は弱いんだってー」と嘆いた。

「プライドはないんですの?」

「大昔にへし折られてからはそういうのねーわ」

「それはどうでしょうね……プライドを守るための卑屈、のように見えますけど?」

「…………なんだよ、靴でも舐めればいいのかよ」

「やめなさい、靴が汚れます」

 その場で直立のまま、イマダは「命だけは助けてくださーい」と茶化す。呆れたように目を細めた美雨が「許しましょう」と肩を竦めた。

「私は許しましょう。でも、部下はどうかしら……私への忠誠心ではなく、父への忠誠心からなら……私のあずかり知れるところではありませんので。夜道にお気をつけあそばせ」

「おおこわ。ご忠告どうも」

 にやにや笑うイマダを見て、美雨は眉をひそめる。

「大体、なぜわざわざ私に会いに来たんです? あなたの計画上まったく必要なかったと思われますけど」

「ああ、まったく必要ないね」

「そこまでして私をコケにしたかったのかしら……イイ性格ですわね」

「おいおい、人聞きが悪いぜ。言わなかったか、オレはあんたのこと嫌いじゃねーんだぜって。言ったろ? 覚えてねえならもう1回言ってやる。オレ、あんたのこと嫌いじゃねーんだよ。だから軽く警告っつうか忠告っつうか、しにきたわけ。なあ、美雨様よ」

「なんです?」

「こんな街、捨て置けよ。大して価値はねえぜ、本当に」


 どこか芝居がかった仕草で溜息をつき、「あなたも私に、故郷くにに帰れとおっしゃいますのね」と呟いた。

「この街の男といったらみんなお節介。帰ってちょうだい。私がどうするかは私の自由ですので」

「……そりゃあ、もちろん?」

 肩を竦めたイマダは、もう何も言わずに背を向ける。その後ろ姿に一瞥をくれ、美雨はまた外の様子を眺めた。


 美雨がこの街にいたのは、恐らく10年に満たない。その10年で得たものは何だったのか。得られなかったものは何だったのか。この街に何があるのか。今さらにそれが気になった。

 夢見るように、誘われるように、美雨は外に出た。




☮☮☮




 幼い頃、章にとって世界で一番強いのは祖父だった。外で何が起きているのかはわからなかったが、祖父こそが世界だった。

 そんな祖父を殺した男が平和一だ。

 あの日のことを今でも夢に見る。全く色褪せない恐怖であり、感動。一瞬で世界の全てを壊された。そしてその向こうに、もっと大きな世界があるのだと知らされた時の驚き。

 それは、恐らく恋に似ていたと思う。

 そんなことを言えば、当の平和一は鼻で笑って『そりゃ、お前の勘違いだ』と言うだろうが。

 勘違い────なのだろうと章にもわかっていた。あの男があんなことをしなければ、と思うことすらある。しかしそう思えば思うほど、ただあの男が欲しかったのも事実だ。


 そんなタイラが、仲間を囲い始めたと聞いた時には驚いた。それが愛染勝利と中道夢野だと知って、なるほどと思わず納得したりもした。章はあの2人を雇ったことがある。後のない2人ではあったが、不思議と進む先は塞がっていない────そう信じて疑わない2人だった。

 彼に気に入られたのだろう。タイラが気に入った人間を短期間支援するのは珍しいことではない。数日、場合によって数ヶ月は面倒を見る。今回もきっとそうだろう、と思っていた。

 それが。いつのまにか1年2年と過ぎてゆき、ひとりふたりと増えてもいった。時には友のように、時には家族にすら見える。


 なぜ? なぜですか、タイラさん。

 ずっと、そう問いかけたかった。

 なぜ僕ではダメで、彼らならよかったのですか。


 友坂勇気という少年と接触したのも、そういう思いがあったからかもしれない。

 そして、もう全てわかってしまった。ユウキと話したとき章は、その瞳の中に光を見たのだ。思えばカツトシやユメノの中にも、それはあった。

 それは平和一という男のなかには、光だった。

 ああ、そうか。そうだったんですね、タイラさん。あなたはあなたの中にない光を、わざわざ外から攫ってきたのか。

 彼らは、決してあなたのものにはならないのに。決してあなたと一つになりっこないのに。


 星を見た。手を伸ばしたら触れられた。だから攫ってきてしまった。いつかは空に返すべきものと知りながら。

 ああ、なんだ。一緒ですね、タイラさん。僕もそんな思いがするのです。強くもなく美しくもなく優しくもなく勇気のない僕にも、欲しいものがたくさんあるのです。そのひとつがあなただ。

 疲れましたね、タイラさん。決して手に入らないものに、手を伸ばし続けるのは。


 僕と一緒に死んでください、タイラさん。あなたにもきっと、先がないのでしょう。


 重みのある足音が、遠くから近づいてくる。わざと、だろう。あの人はそう足音を立てる人ではない。『逃げるなら逃げろ』ということだ。まったく、この期に及んで甘い人だ。こちらから呼んだというのに、逃げ出すと思っているのだろうか。

 ああでも、そうだな。ちょっとこわいかな。

 彼が部屋までたどり着くのを待っていた祖父も、こんな気持ちだったろうか。それは正しく身の危険であり、しかしどこか希望に似ていた。


 足音が章の背後で止まり、そして彼は言った。

「ユウキは?」

 章は笑ってしまって、「手に負えないのでお返ししましたが」と答える。「だろうな」とタイラはため息をついた。

「であれば、俺がここにいる理由もないわけだ」

「寂しいことを言うんですね、話をしましょうタイラさん」

 振り返らないままで、章はうつむく。震えそうになる声を抑えながら。


「以前、僕が選択を違えたら殺してくれるとおっしゃいましたね。僕は今回、誤ったことをしたと思うのですが、どう思いますか」

「……俺にはわからねえな。自己申告で頼む。お前は、間違えたのか?」


 瞬間、息が止まるような気がした。何とか笑顔を作って「それはずるいなぁ」と呟く。見えなかったが、タイラは後ろで肩をすくめたようだった。

「確かお前はあの時、俺に引き金をひかせるわけにはいかないとも言っていたが」

「ああ、よく覚えていますね。くだらないことはすぐに忘れるでしょう、僕との会話なんてひとつも覚えていないんじゃないかと思っていましたよ」

「お前はいつも思わせぶりなことを言うからな。どれを忘れていいものかわからなかったんだ」

「僕はあなたに、勝ってほしくなかったんですよ」


 沈黙が痛い。章は自分でも知らないうちにため息をついていた。どうやらタイラの方でも、言葉の意味を考えているようだった。

 視線を落としながら、章は口を開く。

「母と、話をしました」

「どうだったよ」

「僕の母は話が通じないんです。ご存知ないですか?」

「知ってるっつうの、今ではお前の次くらいにはな」

 こんな時なのに章はちょっと笑ってしまった。

 もっとこんなやり取りを、たくさんしておけばよかったのかもしれない。

「僕の母は本当にこの街を獲る気ですよ。しかも、宗教や薬なんかで」

「傍迷惑な話だ」

「だけどそれも、僕がこの街にいるからです。恐らく、僕がいなくなればこの街に執着することもないはず」

 また、タイラは黙った。この先に言うことが容易に想像できたからだろう。わかりきったことでも、章は言わなければならない。


「僕を殺していただけませんか、タイラさん。僕のお願い、聞いていただけますよね?」


 それで、とタイラは冷静に囁く。

「お前の想定じゃ、お前が死んだあとはどうなるんだ?」

「母は怒り狂うでしょうが、最後には故郷くにに帰るでしょう」

「怒り狂ったお前の母親は、最悪この街をぶっ壊していくぞ」

「ですのでそれは、あなたが相手をしてあげてください。そして、負けてあげてください」

 一拍置いたのち、タイラは思わずという風に吹き出した。「お前は……本当にめちゃくちゃ言うなぁ」と言いながら喉を鳴らす。章はわざと、なんでもないことのように続けた。

「1と99が争って1が勝てば、99の敗者が出ます。50と50で戦えば、どちらが勝っても50の敗者が出ます。だからあなたは、99と戦って、たった1人で負けてください。どうせ母は、勝っても負けてもこの街から手を引くでしょうから」

「お前と心中しろって言うのかよ」

「そうです、タイラさん。この前、聞きましたよね。“僕のために死んでくれますか”と。その返答をまだ聞かせていただいていなかった」

 まだタイラは笑い続けていた。「そんなもん」と楽しそうに答える。


「もちろん、イエスだよ」


 耳元で、ガチャリと音がした。何か、頭にあてられる。

「そうだ、この街はどうなるんだ? お前が死んで美雨が放り投げて、そのあとこの街はどうなる」

「裕司叔父さんが実権をとるでしょう。最初からそのようにしていればよかったのですが」

「ほう……」

 背後で、タイラが微かに身じろぎをした。「若松裕司なら俺と一緒に来てるぜ」と何でもないことのように言う。章はワンテンポ遅れて、「え?」と振り返ってしまった。

 タイラは銃を章に突き付けながら笑っている。その背後、3mくらい離れたところに、確かに若松はいた。「裕司叔父さん、なぜ」と問いかけても答えない。ただ重苦しい沈黙だけが残された。

「前を向け」とタイラが言う。戸惑いながら、章は前を向き直した。待ってくれ、と若松が言葉をはさむ。


「アキラくんと話をさせてくれ」

「今さら何を話すんだ?」

「私は……私は、その子のことを誤解していたのかもしれない」

「ああ、あんたは荒木のジジイのことしか見ていなかったんだからな。今さら気付いたのか?」


 そんな言い合いは、章のことすら混乱させた。何かひどく胸の内をかき回されるような思いがした。拳を握り締め、章は「早くしましょう、タイラさん」と訴える。

 不意に、タイラが「アキラ」と呼んだ。名前を、確かに章の名前を呼んだ。

「死にたいか」と彼は聞いた。


 死にたいか――――。

 死にたいか?

 なんだろう、その問いは。なんて意味のない、問いなのだろう。そんなことは考えたこともなかった。


 ああ、でも、どうだろうな。生きている意味がないと感じるのは、つまり“死にたい”ということなのだろうか。どちらにせよそんなことは、今どうでもいい。

 自分が死ねば上手くいくだろうと思った。そこに章自身の願望など、あってもなくても同じことだ。

 それでもその答えが彼にとって重要ならば、章はこう答えるしかない。

「死にたいです、タイラさん」

 若松は絶句しているようだった。しかし次の瞬間には、聞いたこともないような鬼気迫る声で「そんなはずはない」と怒鳴る。

「彼はまだ14歳だ! 一時の気の迷いだ、話をさせてくれ」

 うるせえぞ、とタイラが応えた。その声も、章が聞いたことのないような冷たさがあった。


「そうだ、14歳だ。14歳のガキにここまで覚悟を決めさせた責任がある。俺は、こいつと一緒に死んでやると決めたんだ。それが嫌ならその前にあんたが俺を殺せ。さっき言っただろうが、あんたの持ってる銃は飾りか?」


 その場はしんと静まり返る。何か言いたそうな若松の息遣いが聞こえた。

 ああでも、と先ほどとは打って変わって軽い調子でタイラが口を開く。

「お前を殺すとなると、約束を違えることになるな。お前をいじめてやるなと言われていたんだ」

 章は苦笑して、「どなたにです? カツトシさんですか、ユメノさんかな」と首をかしげた。緩やかに首を横に振ったタイラが、言った。

「イブだ」


 イブ。本橋、イブ。

 瞬間――――彼女の困ったような怒ったような、いかにもお節介そうな顔が浮かんだ。

 すぐに消えてくれなくて、振り払おうと頭を振る。「嘘でしょう」と言おうとした章は、しかし口を開くことができなかった。


 耳元で鋭い爆音がした。それを銃声だと認識する前に、章は『死んだ』と確かに思った。

 その錯覚は絶大で、自然と膝をつかされていた。

 息を吐いて、自分がまだ生きていることを知る。ついでにどこにも痛みはない。

 慌てて振り向けば、タイラは腕をまっすぐ横に伸ばしていた。銃からは確かに白煙がのぼっている。

 章は過呼吸を起こしたように胸を押さえた。タイラが何か言う。聞こえない。耳鳴りがやまない。


「章ッ」


 空気がぴりつくほどの、タイラの怒声が聞こえた。章は肩を震わせて、縋るように見た。


「死にたいか」


 わからない。もう、全てわからなくなってしまった。こんなはずではなかったのに。章なりに、覚悟を決めてきたはずなのに。

 へたり込んでいる章に向かって、タイラはもう一度銃を突きつけた。「今度は」とタイラの唇が動く。

 自分が震えていることに気付いた。ひどく寒かった。


 さっきから、本橋イブの声が聞こえ続けている。


『私にとって君は、ただの守るべき市民の一人です。何の卑屈さも必要ありません。君は、黙って私に守られていればいいんですよ』


『本橋は、君が心配です』


 そうだ、本橋イブの前でいつも章はただの無力な少年だった。いつだって本橋イブは手を差し伸べていたが、それは章が荒木家の者だからではなかった。そんな簡単なことが、それでもその稀有な出来事が、無性に嬉しかったから。

「死にたい……僕は、死にたい……死にたく、ない……なぜそんなことを聞くんです。僕にどちらかを望む自由があるかのように」

 殺されるか、生かされるか、どちらかしかないような世界で。ここで生きることを選んだとしたって。


「じゃあ、どうすればいいというんです。僕は、上に立つ器じゃないんだ……!」


 ずっと、怖かった。責任を負わされて無能さが露呈するのが怖かった。

 誰かの上に立って誰もが納得するような指示を出す自信がなかった。自分の一存で誰かを陥れる覚悟ができなかった。

 だけど、それでも章には、守りたいものがあったのだ。強くもなく美しくもなく優しくもなく勇気のない章にも、どうにか守り切りたいものがあった。


 なんとか被害を最小限に、と必死になって考えたのは逃げの一手だった。平和一という人に全て投げ出すような手だった。

 しかしこれでも必死に考えた手だ。ここで、さらに逃げるわけにはいかない。

「僕は死にたい」

 そう、言い切った。タイラが引き金に指をかける。


「私が、悪かった……」

 若松は悲しそうにそう呟いて、章とタイラの間に立った。


「何してんだ、おっさん。あんたのことを撃つぞ」

「そうすればいい。それくらいは受けてしかるべきだ。だが、アキラくんのことは撃たないでくれ。後生だ」

 若松は膝をつき、章の肩を抱く。「君がそのように思っているとは知らなかった。そうか、君はまだ14歳だったのだね」と目を閉じた。それから、またタイラと向き合う。

「私は、この子こそが上に立つべきだと信じて疑わなかった。それは確かに、私がこの子を会長の代わりとして見ていたからだろう。認めよう、私はこの子を見てはいなかった。全てが私のエゴだった。だが、それでも。私はこの子のことだけは、今度こそ守ると決めたんだ。その思いは嘘じゃない。君に、」

 ぐっと若松は拳を握った。「君に、この子まで殺されるわけにはいかない」と言い放つ。


 腕を下ろしたタイラが、少しふらつきながら笑った。「遅いんだよ、あんたは」と力が抜けたように言う。

「どうするよ、章。このおっさんが責任は全部取ってくれるってよ」

「せ、責任……?」

「お前が死ななくても、上に立ってくれるってことだろ。ここまでやってやらんと覚悟を決めないんだから、困ったおっさんだよなあ」

 そう言われて、章は呆然としてしまった。それからちょっとうつむいて、考える。


 そんなことが、許されるのか。責任を問われないまま、生きていていいと認められることが? それで大事なものも守れると?

 もしそうなら、僕は。

「僕は……生きたい、かもしれないです……」

「かもしれない、か。まあ上出来だな」

 不意にガクンと膝をついて、タイラは章と目線を合わせた。なぜだか彼はひどく汗をかいていた。

 タイラは章の頬をつまんで、軽く引き上げる。「泣いてんなって。やっとスタート地点かよ……お前、何がしたい?」といつか聞いたようなセリフを吐いた。混乱した頭で、章はなんとか言葉を紡ごうとする。


「ああ、僕……まだあなたに抱いてもらってないな」

「それ、今言うか? お前まだ未成年だろ」

「じゃあ20歳までは生きていないと」

「それまで俺が生きてればな」


 そんな軽口を叩きあった後で、タイラはふと表情をやわらげて「逃げてもいいんだよ、章」と言った。

「地を這うことは恥ではない。そういう生き方を選んだというだけだ。助けを求めることも悪じゃない。ここには、言わなきゃわかんねえやつしかいないんだぞ」

 試したのか、と若松が嫌そうな顔をする。「そう怒るなよ。あんたも章も、俺だって試されたんだ」と汗を拭いながらタイラは言った。


 何とも言えない静寂の中で、タイラの胸のあたりから電子音が響いた。タイラはごく自然に、胸ポケットから携帯電話を取り出す。そのまま耳にあて、「ユメノか?」と端的に確認した。

「何だよ。ユウキ、戻ってきてんだろ。…………戻ってない?」

 タイラが横目で章を見るので、章は困った顔で「帰ったはずですよ」と言わなければならなかった。

「いや……いや、あいつは確かにぼっちゃんの家に泊まってたよ。ただぼっちゃんが言うには……もうとっくに帰ってるはずなんだとよ。ああ、もうちょっと探すよ。え? 拳銃? ……いや、知らね」

 最後だけ明確に嘘をついた顔をして、タイラは電話を切ろうとする。しかし、途中で手を止めて「どうした?」と電話の向こう側に尋ねた。

 しばらく様子をうかがっていたが、やがてタイラは面倒そうにため息をついた。


「なんでお前がそこにいるんだよ、麗美」

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