episode47 執着の果てに
イマダの後ろをついて美雨邸を出てきた竹吉が、「本当にこんなことしちゃっていいのかな」と呟く。
「こんなことしたら、タイラや瀬戸ちゃんなんかが困るんじゃねえかなぁ」
苛立ったように振り向いたイマダが、「おいおい竹吉くぅん」と竹吉の肩を掴んだ。
「タイラ? ドレミ? あいつらが何だって言うんだ。なあ竹吉、あいつらがオレらに配慮したことなんてある?」
「……結構気にしてくれてんだぜ、俺が太りすぎるとタイラなんかランニングに誘ってくれるし、瀬戸ちゃんはスムージーとか作ってくれる」
「あーはいはい、あいつらはお優しいよな。オレ以外には」
なあ竹吉、とイマダは目を細める。
「もう話はまとまったんだ。こんなチャンスは二度と来ねえぞ。これで約束を反故にしたら、オレはただの詐欺師だ。……お前はタイラやドレミのことをそんなに気にしても、オレのことは助けてくれないのか?」
竹吉はただ押し黙って、小さく頭を振った。
☮☮☮
農道というのか、田畑の真ん中にある道を爆走しながら本橋は「もう少しでお別れですねぇ、タイラ」と残念そうに言う。
「今日は結構濃密な接触だったので向こう半年は満足ですけど、やっぱりもうちょっと一緒にいたかったなぁ」
「お前のそれは何ジョークなの?」
何ジョークでもないつもりでしたけど、と言いながら本橋はブレーキを踏む。車は森の奥へと進んでゆっくりと止まった。
「こんなとこに上司のバイク置いたのか?」
「あれ、交番まで取りに行きたかったですか」
「見たところ、もうすでに汚れているが」
「あーあ、タイラったら」
「それも俺のせいなのか」
車から降りて、本橋はバイクのシートを軽く掃う。それから、着ている警官服を脱ぎ始めた。「君も上着を脱いでヘルメットを着けてください」と言われ、正真はその通りにする。
タイラが車の運転席に移動しながら、手ぶりだけで正真を呼んだ。迷ったが、恐る恐る近づいてみる。「なんですか」と顔を見上げると、タイラは正真の顔を覗き込んできた。
「お前は何がしたいんだ」
「僕に聞いてるんですか」
「その態度は……馬鹿にしているのか、それとも馬鹿なのか?」
怒られているのかと思って当惑したが、タイラはただ訝しげにこちらを見ているだけだ。
「お前から感じられるのはユメノへの執着だけだ。それも、あいつをどうこうしてやろうとか……何ら明確な思いは感じられない。本当にお前はユメノを襲ったのか? 性欲なんて欠片もないような顔しやがって」
頬を強引に引っ張られ、しかし正真はされるがままにしておく。この正体不明の大人の気が済むように、黙っていた方が得策に思えた。
「……ユメノはお前と自分が“似ている”と言っていたが、どこが似ているんだ? 俺にはむしろ正反対に見えるが」
思わず正真は、タイラの手を掴んで止める。伏し目がちに、「あの子って」と呟いた。
「馬鹿、ですよね。昔から思ってましたけど」
ああ殺されるかもしれないな、と正真はぼんやり思う。目の前の人が中道夢野に好意的であることは間違いない。どんな皮肉も憎まれ口も許されないだろう、と思っていた。しかし予想に反し、タイラは正真の頬から手を離して続きを促すだけだった。
正真は半歩後ずさりして、タイラの目を見る。
「あの時、中道さんのことが嫌いでした。お節介でうるさくて、デリカシーがないでしょ。でも、いい子だなとは思ってました。何しても許してくれそうだなって。だからむしゃくしゃした時、中道さんを選びました。だってきっと抵抗しないだろうし、後々許してくれる人がいいなって思ってたんで。頭殴られましたけど、ブロックで」
最後だけ冗談っぽく笑いかけると、タイラは表情を変えずにただ腕を組んでいた。正真はその冷めた空気感には気づかないふりで、笑顔を作り続ける。
不意にタイラが「笑うなよ」と吐き捨てた。
「笑いたくないときに笑うな。笑うならせめて完璧にやれ」
固まって、正真は顔をこわばらせる。どこかで、過去のどこかで同じようなことを聞いた気がして。
肌寒い駅のホーム。回送電車を見送った。死にたいな、どこかに行きたいな、死にたいな。そんなことを思って、線路を覗いていた。
『ね、あのさ……笑わなくて、いいよ』
灰色の世界の中で、そのセーラー服の女の子だけが鮮やかに見えた。
ハッとして、正真は辺りを見渡す。もちろんそこは、駅のホームなどではない。脳裏にちらついたセーラー服の端っこも、どこかに消えてしまった。いつのまにか固く握りしめていた手のひらを、開いて代わりに服を掴んだ。
「あなたも中道さんと同じですよ。正しいことしか言わないじゃないですか。あんたたちが生きてて見つけた“正解”なんて知ったことじゃないですよ。僕とあんたの人生は違うんだから」
「なんだ……? いい顔するんだな。やっと薬が抜けたか、ジャンキーめ。故郷に帰ったらまず病院に行けよ」
どこか歪んだ笑い方をして、タイラがハンドルを抱え込むように前かがみになる。煽られているのだと正真はようやく気付いた。
「破滅したいのなら勝手にしていろ、俺たちの目が届かない場所でな。そうすりゃあ、今度こそ放っておいてやる。ただ、またまんまと俺たちの前で危機をさらしてみろ。何度でもしつこく助けてやるからな。お前の意思と関係なく。ざまあみやがれ、クソガキの分際でユメノを泣かせるからだぞ」
「……なに言ってるんですか」
「何度、中道夢野に情けをかけられるつもりなんだ?」
絶句する正真のことを嘲笑うように、タイラは正真の胸のあたりを突き飛ばして車のドアを閉める。エンジンのかかる音がした。
転んだ正真を、本橋が立ち上がらせる。「大丈夫ですか?」と端的に確認されたが、正真は何も返事をしなかった。
「まったくあの人は、こういう時ほんとーに大人げないですね」
走っていく車を見送って、本橋は自分でもヘルメットを装着する。それからバイクにまたがって、正真に後ろに乗るよう促した。
「あ、今『こいつ警官の癖に2ケツするんだ』って思いました? 特例ですからね、特例」
正真はため息まじりに、「落ちたら死にますか」とだけ尋ねてみる。返答は、「死ぬでしょうが、落ちたらの話ですよ」というものだった。
☮☮☮
自分の部屋から外を眺めてため息をつく。窓を開けると、湿気を多分に含んだ風がユメノの髪をもてあそんだ。あれからタイラは戻ってこないし、不安な気持ちは募るばかりだった。話がしたかった。無茶をされては困る。
強い風が吹いた次の瞬間、ユメノは思わず「あっ」と声をあげてしまった。停車した見知らぬ車の中から、タイラが出てくるところだった。
「タイラ!」
少し驚いたように、タイラがこちらを見上げる。
「待って。そこで待ってて。いま降りる」
大慌てで、ユメノは部屋を飛び出して階段を下りた。外に出ると、先ほど見た場所から恐らく1ミリも動かずにタイラが待っていた。
ユメノは肩で息をしながら、「どこに行ってたの?」と尋ねる。タイラは答えない。少し考えて、「どこに行くの?」とも尋ねてみた。
タイラは肩をすくめて、「林田正真のことは、イブがちゃんと送り届けるよ」と言う。
「本橋ちゃんが?」
「手伝ってくれてな。あいつの故郷に連れて行って……そうすればとりあえずは安全だろう。
そっか、と呟いてユメノは瞬きをした。そっか、とまた言って笑おうとする。最後に心の中で繰り返して、うつむいた。
(正真、家に帰るんだ)
よかったのか、悪かったのか、よくわからない。ユメノは、彼が学生時代に両親からどんな風に扱われていたか知っている。父親は無関心で、母親は過干渉の末に正真をよく殴った。彼はまた、そんな家に戻るのだろうか。
正真のことを助けてくれと言ったのはユメノで、少なくとも家に帰れば正真は美雨のような人間に食い物にされることはないのかもしれない。だからこれでいいのだろう。その後正真がどうするかなど、ユメノの知ったことではない。これはただの、自己満足なのだから。
不意に、うつむいていたユメノは強引に上を向かされた。タイラが、両手でユメノの頭を掴んでいる。
何が何だかわからないユメノに、「今度は何だ? どんな感情をなかったことにしようとしてる? お前が俺の前で言葉を飲み込むのは、俺に対して失礼だぞ!」と怒鳴った。
怒られた。タイラに。たぶん、初めて。
初めて会った時、どれだけ面倒なことに巻き込んでも怒ったりはしなかった。ユメノは知っていた。この人は怒らない人なのだ。少なくとも、声を荒げるほどには。
タイラはユメノの頬を軽くつねりながら、「次はねえぞって、言・っ・た・よ・な・あ?」と怖い顔をする。
「あれだけ言ってもまだわからないとはな。自分だけで実現できないことを無闇に諦めるな。それが何を使えば実現できるのかを考えろ。お前がいま気後れしていることは、俺がいてもできないことなのか?」
眩暈がするほどまぶしく思えて、ちょっと後ずさりしながらタイラの言ったことを何度も頭の中で繰り返してみた。胸をぎゅっとおさえて、目をつむる。
「……ズルいよそんなの。タイラがいてできないことなんて、ないじゃん」
そう、呟いた。
で? とタイラが腕を組む。ユメノは軽くうなづいて、「正真と話をしたい」と答えた。鼻を鳴らしたタイラが、「先に言えよそういうことは……。後ろに乗れ」と車を指す。
当惑しながらも言われるがままに車に乗ろうとすると、いきなり「あっ」とタイラがユメノの肩を掴んだ。
「悪い、車はダメだ。いま荷物がぎっちぎちに詰まっててお前の乗るスペースがない。やっぱりバイクでいいか?」
バイクの2人乗りは、正直怖い。「ひえっ……」と言って立ち止まっているユメノに、タイラは有無を言わさずヘルメットをかぶせた。
☮☮☮
サービスエリアに寄るなどして、思いのほかのんびりと本橋は走っている。正真の言えたことではないが、あまり危機感がないようだった。
「こんなにゆっくりしてて、追いつかれませんか?」
「ああ、いいんですいいんです。どうせ追手なんか、タイラが逆にハントしに行っちゃったんでしょうからぁ。鬼ごっこであの人が追われる側でいられるわけなくないですか? どっちが鬼だかわからせてやるぞ! って気概で行ってますよゼッタイ。車ぶつけたらパクろぉっと」
走りっぱなしはよくない、などと言ってアイスクリームを食べながら、本橋が休憩をしている。その隣で、正真は缶ジュースを飲んでいた。
「林田くんは今、いくつですか?」
「……18ですけど」
「若いなぁ」
子供のようにアイスをぺろぺろ舐めている女性に『若い』と言われても違和感が残る。正真の視線に気づいたのか、本橋は「アイス好きなんですけど、知覚過敏なんですよねぇ」と肩をすくめた。
「あの、お巡りさんは……僕みたいなのを助けたいと本当に思ってるんですか。僕、同級生の女の子のこと道で押し倒してキスして、あわよくば服も脱がせて乱暴するつもりだったんですよ」
「それについては、もう君が罰を受けているのだと思っていましたけど?」
「受けていません。未成年だったので、罪に応じた罰なんかありませんでした」
「言い方を変えます。君は、法律で定められた範囲内での相応の罰を受け入れたのだと思っていましたが?」
「あんなものでいいんですか」
「逆に言いますけど、誰が君の罪を決めて罰を与えると思っているんですか? 法律ですよ。それは絶対です。法律がそうと決めたのなら、君はそれ以下の罰もそれ以上の罰も望んではいけません」
アイスクリームを食べ終えた本橋は、手を軽く叩いて、ゴミを落とした。
「君の行為は、警官としても、中道夢野という女の子の友人としても、私は許したくないと思っています。だけど君を裁けるのは法律だけで、それはもう終わった話なんです。
いいですか、裁かれたからといって許されるわけではないし、許せない人が大勢いるから裁かれるべきというわけでもない。君のしたことは許されない。それでもこれ以上の罰は与えられない。そういうものです。罰は決して、免罪符ではないから」
缶ジュースを飲み終えて、正真は本橋を伺い見る。
「じゃあ、どうしたらいいんですか。お巡りさんは、犯罪者なんか更生できないし一生許されるべきじゃないって思いますか」
「一つ一つに食い違いがありますね。まず、『更生できない』とかそういう話をしましたか? 人はいつだって変われますよ。本人の気持ちと、環境次第です。
次に『一生許されるべきじゃないと思うか』ですが。林田くん、『許されるべきじゃない』と言うとそれは個人の思想でしょう。違います。許されないんです。第三者がどれだけ『許されてもいい』『許されるべきじゃない』と議論したところで、実際にはただ許されないというだけです。
間違いを犯した人間は最終的には弁明も謝罪も求められないんですよ。“もう二度と同じことをしません”と誓わされるだけです。それだけが本当に必要なことなので。もちろん、罪に相応しい罰を与えられていない場合は除きますが」
空き缶を潰しながら正真はうつむいた。逆さにすると、赤い滴がぽたぽたと地面にシミを作る。
自分の額から熱いものが流れて、それが雨で滲みながらアスファルトに染み込んでいくのを思い出した。
あの子はひどく怒るだろうと思っていたのに、いざとなったら泣いていた。声を殺して泣いていた。悪いことをしたら怒られるに決まっているのに、正真のしたことはただあの子を傷つけただけだった。逃げていくあの子の背中。怒りなど微塵もなかった。ただあの子は傷ついていた。
相応しい罰なんて、受けているはずもない。
「罰ってなんですかね。確かに僕には、友達なんて一人も残りませんでした。学校の先生も、生徒が不祥事を起こしてしまって大変そうで、明らかに態度が冷たくなりました。家族はみんな僕をいないものとして生活し始めて、食事も出されなくなりました。
でも、僕はそうなって初めて……楽だなぁって、思ったんですよ。僕のところには何も残らなくて、本当によかったなぁって。
僕、子供のころに母から『出てけ』って言われて、言われるがままに家出して、そしたら慌てて追いかけてきた母からすごく怒られたんです。ヒステリー持ちだったんですよ、何しても怒る人でした。だからずっと、僕はどんなに言われても家を追い出されてもそのまま逃げたくなっても、家にいました。
でも、そうやって家族が僕を無視するようになってから、『もう出ていってもいいんだ』って思えたんです。
楽だったなぁ、ほんと。たぶん僕、このまま家に帰ってもまた出ていきますよ。そういうのって、認められないのかな」
本橋はちらりと正真を見て、ヘルメットを被った。
「林田くん、逃げてもいいんですよ。親と本気で向き合えとか、逃げるなとか、本橋には言えません。私だって何度も逃げました。ただ、罪を犯してはいけません。警官として、言えることはそれだけです」
行きましょう、と本橋は正真にもヘルメットを手渡す。「もう少しでこのゲームは終わりです。その後は、君の好きなように」と。正真は黙って、うなづいた。
信号に捕まって停止しながら、「もう少しで君の住んでいた街です。ここからはさすがに待ち伏せの人がいるかもしれませんから、慎重に行きますよ」と本橋は言う。今までは慎重ではなかったらしい。
「ちなみにどこで降ろしてほしいですか?」
「……コンビニとかで」
「君がそういうのならば沿いましょう。本橋は話のわかるお巡りさんなので」
曰く話のわかるお巡りさんは運転しながら、「あれ……その前に一回Uターンしていいですか?」と呟いた。「君に用があるみたいですよぉ」と笑いながら。
☮☮☮
ふらふらとバイクから降りて膝をつきながら、ユメノは息を吐きだした。
「し、死ぬかと……」
まだ手は震えている。タイラの腰に手を回して必死にしがみついていた時、何かの拍子に手が離れたらどうしようかと思うと生きた心地がしなかった。今も、『あの時手が離れていたら』と思うとなかなか立ち上がれない。
「どうした。元気ねえな」
「お……お、お前ぇ……」
「お前だって、林田正真が家族らと引き合わせられてから突撃したくないだろ。ここで待ってれば通るんじゃねえかな、あいつら」
「えっ。何? 本橋ちゃんが先に走ってて、それを待ち伏せるためにどっかで追い越したってこと? 息をするように無茶するのやめてくんないかな」
「まあ、あいつらがこの道を通らなかったら突撃お宅訪問しかないが」
それは確かにあんまりしたくないなぁ、と思いながらユメノはようやく立ち上がる。
「暇だな。ヒッチハイクごっこするか」
「迷惑じゃんね」
「お前、ヒッチハイクしてみろよ。俺は一度も車を止められたことがないが、お前ならいけるかもしれん」
そんなことを言われ、ユメノは公道に寄っていって親指を立てて見せた。ビュンビュンと走っていく車の中で、白い高級そうな車がスピードを落とし始める。ユメノが振り返って「あの車、止まってくれそうだよ」と報告すると、タイラは顔をしかめて「迷惑だろ、やめろ」と言った。
「信じらんねーな、お前」
「やめろやめろ。腕を下ろせ。いい大人が『ヒッチハイクごっこしてました』なんて言えないだろ」
「タイラがやれって言った」
近くにいるタイラのことに気付いたのか、車は挙動不審な動きを見せながらもそのまま通り過ぎて行く。よかった、と思いながらそれを見送ると、タイラが「おっ」と嬉しそうな声で何か指さした。
「あれ、イブだな」
ぼんやりその2人乗りのバイクを見て、「あのバイク高そうだね」と呟く。それなりの速さで駆け抜けていった。
「ねえ、通り過ぎて行ったよ」
「目は合ったんだけどな」
バイクは50メートルほどそのまま走って、ゆっくりと近くのコンビニエンスストアに入る。どうやら本橋もこちらに気付いてはいたらしい。バイクから降りた2人が、こちらに歩いて来るのが見えた。
少しずつ、少しずつ、ユメノは緊張して逃げ出したくなった。
歩いてきた2人が、ちょうど真ん中あたりで止まる。どうやら正真が、ユメノの存在に気付いたようだった。本橋が何を言っても、動かないでこちらを見ている。
その表情に、久しぶりに見たその怯えたような顔に、ユメノは。
「……オルァァァァァ! はーやーしーだーしょーうーまーッ」
自分でも引くほどにムカついた。
☮☮☮
いきなりフルネームを呼ばれ、正真は肩を震わせる。ユメノの顔を見られなかった。
しかも、めちゃくちゃ、キレてる。
後ずさりをすると、「何逃げようとしとんじゃオルァ!」とまた怒鳴られた。怖すぎて固まる。隣の本橋を見るが、ただ苦笑いをしているだけだ。正真はうつむき気味に、ユメノを見る。ユメノは真っ直ぐに正真を見ていた。
「元気かよ」と言われ、小さくうなづく。ユメノはちょっと目線をそらして、それから「引き止めてごめんね」と早口で言ったりした。
あのさぁ正真、と声をかけられる。
「あたしさ、まあ正真にとってはどうでもいいだろうけどさ」
名前を呼ぶんだ。そんな風に君は、いつだって名前を呼ぶんだ。親すら呼ばなくなったような、名前を。
「幸せになるから。正真に関係なく、関係ない場所で、あたし勝手に幸せになっちゃうから」
どこで間違えたんだろう、と正真はずっと思っていた。
同じような孤独を抱えながら、自分よりずっと自由な女の子に焦がれていた。それは好意のようで嫌悪感のようで憧憬のようで欲望の糧のようだった。それが――――『自由』と思えていた彼女が、ひたすらに理解者を求めていたこと。そんなことに気付いたのが、もう取り返しのつかない場所にたどり着いてからだったこと。
「あたし、正真のこと許さないよ。あたしが頭殴って怪我させたことも許されなくていいと思ってるし。だからもう二度とは会わない。正真の知らないとこで勝手に幸せになるよ」
ようやく気付いた。正真ではダメだったのだ。あんなことをしでかさなければよかったのかと言えば、確かにそうなのだけれどそれでも正真ではダメだったのだ。
だって正真は、中道夢野が自分の手に余らない存在であることをいつでも望んでいた。
「正真のことなんかもう金輪際知らねえ!」
ああ、眩しいなぁと思う。
何も言い返せない自分と、そんな自分を待っていてはくれないあの子と。
それにたまらなく苛ついた。そうじゃないんだ、あの子を引き止めたり自分のところまで落として満足したかったわけじゃなかった。
追いつきたかったんだよ、君の横に並んでみたかった。
馬鹿みたいだ。また情けをかけられている。
「だから正真。あたしの知らないところで、勝手に幸せになってろよ。ばーか」
そう言って、ユメノは正真に背中を向けた。そのまま、胸を張って歩いて行く。
あの雨の中で、途切れ行く意識のなか走り去っていく彼女を見ていた。
行かないで。
待って、行かないで。
そう吐かれた自分の言葉が信じられなくて、呆然としていた。あの子のことを嫌いなのだと自分でも思い込んでいたから。
(待って、行かないで)
そんな言葉が飛び出さないように、自分の首を絞めた。嗚咽が漏れて、膝から崩れる。
“何度、中道夢野に情けをかけられるつもりなんだ?”
“林田くん、『許されるべきじゃない』と言うとそれは個人の思想でしょう。違います。許されないんです”
色々な言葉がぐるぐると頭の中で回って、頭がおかしくなりそうだった。
もう許されることではないのなら、せめてあの子の役に立てればとどこかで思っていた。だけどそんなことも、罰を受けたいと思っても、それが免罪符にならないのであれば。確かに、もうこの話は終わりなのだろう。決して許されることはなく、これ以上贖うすべもない。執着の果てに何もないと知ってしまった。否、『何もないことにしてくれた』のだ。これは彼女の情けによって。
だから、勝手に、幸せに――――お互い、
「なるよ」
泣きながら、また立ち上がる。もうすでにユメノの背は見えなくなっていた。
「もうこれ以上君の足を引っ張らないように」
きっとそれぐらいしか、できないんだろう。あの時君を傷つけて、全てを奪っておいて、それぐらいしか。
そっと肩を抱いた本橋が、「行きましょう」とささやいた。
「ここで縋らなかったことが、自分の足で立ち上がったことが、きっと君を支えてくれる時が来ます。今はまだ、わからなくても」
強めに涙を拭って、正真は小さくうなづいた。
☮☮☮
「気が済んだのか」とタイラに声をかけられて、ユメノは大きく首を縦に振る。タイラが喉を鳴らして笑った。
「ねえ、タイラ」
「うん?」
「あたし、勉強しよっかなぁ」
「そうか」
「あたしでも行ける学校とかあるのかな」
「そりゃあ……先生に聞くといい」
「都先生?」
「ああ。大喜びで教えてくれるぞ」
帰りもバイクだぞ、とタイラは言う。ユメノは笑って、「帰りはもうちょっとゆっくり?」と聞いてみる。肩をすくめたタイラが黙ってヘルメットを被った。
「ねえ、タイラ」ともう一度呼ぶ。うん? とまたタイラがヘルメット越しにこちらを見た。
「ありがとう」
笑ったタイラが、手招きをする。近づいていくユメノの頭に手を置いた。
「お安い御用だよ、お嬢様」
ここぞとばかりに髪をぐしゃぐしゃにされる。「まあ今回はほとんどイブがやったんだしなぁ」と言いながら、タイラはユメノにヘルメットを被せた。どんな顔をしているのか見たかったのに、タイラはそういう時絶対に表情を見せてはくれないのだった。
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