episode48 日が沈んだ後のヒマワリは、月を太陽と見違える
タイラが車を返しに行くと、本橋は少し落ち込んだ様子だった。
「子供を守ることと罪を問うことは相反しませんよね?」
「そんなことを悩んでいるのか。俺にその答えを出せるとでも? 子供を守ることも罪を問うことも、俺にはできないとわかっているだろう」
「あなたが大悪党だから?」
「大とついたら言い過ぎだ。小悪党で頼む」
あなたが小悪党だったら世の大半は聖人君子ですよ、と本橋が浮かない顔で呟く。タイラは「なんだその顔は。お前らしくもない」と笑い飛ばした。
「あの日――――アラキのじじいの帽子を撃ち抜いた日からお前は、いつだって迷いなく走ってたじゃねえか。なあ俺、お前のそういうとこ、買ってんだぜ。守りたいもんを守るために、罪を問うんだろう? いつ俺の罪を問うてくれるんだ、お巡りさん」
しばらくタイラの顔を見上げていた本橋が、眉をひそめて「励ましてます? おちょくっているように聞こえますけど」と言う。タイラはうなづいて、「おちょくってる」と答えた。本橋がタイラの足を踏む。
「守りたいものを守り抜くために罪を許さないようにはしています。今までも、これからもです。でもあなたを断罪すると、」
「すると?」
「私が私じゃいられなくなりそう。お願いだから、そうやって人のよさそうな顔でにこにこ笑わないでくれますか。嫌いになれたらなぁ……。好きですよ、タイラ。自分の信念を曲げるほどには。だって全部、あなたから始まったんだもん。仕方ないでしょ」
自分の顎を撫でながら、「悪人面、ね。善処するよ」とタイラは肩をすくめた。「絶対にわかってないでしょう」と言って本橋が車のドアを開ける。ああそうだ、と振り向いた。
「タイラ、もしかして章くんと何かやらかそうとしてます? やめてくださいね、仕事が増えます」
「俺はやらかそうと思ってないけどな。ぼっちゃんが勝手に考えてるだけだ」
「章くんが……」
本橋は目を伏せる。それから静かにタイラのことを伺い見て、「あの子のこと、あんまりいじめないであげてくださいね」とだけ言った。それから車に乗り込んで、「あれ、なんかミカンのにおいがする」と驚きの声をあげる。タイラは腕を組んで、「それはよかった」と苦笑した。
☮☮☮
頭を抱えながら何とか設問文を読み込んで、「うぅ……」と思わず唸る。ユメノは持っていた鉛筆を放り投げた。普段、勉強どころか本もあまり読まないユメノだ。問題文を読んでいても、目がすべるすべる。意味を理解することにまず時間が必要なレベルだった。
タイラの言う通り、都は本当に嬉々としてユメノに学校を紹介してくれた。すでに各校のパンフレット等を取り寄せていたのは想定外だったが、それがひとえに自分を思っての行動であることをユメノは嬉しく思った。こうまでしてくれて、まさか“行かない”などと言えまい。ユメノは奮起して、受験勉強を始めたのだ。
しかし、学校に行けば教師が教えてくれた学生時代とは違う。むしろなぜあの頃勉強をしなかったのか謎である。
ユメノは、学生時代に遊びまわっていた自分を恥じていた。
「無理……。先生に勉強も教えてもらお……」そう呟いたその時である。
酒場のドアが開き、出かけていたらしいタイラが戻ってきた。ユメノを見て、「お前……勉強してんのか……!」とどこか感動の面持ちで近づいてくる。
「何でそんなびっくりしてんのさ。ユメノちゃんだって勉強ぐらいすると思わん?」
「ユメノちゃんだけは勉強しないと思ってた」
「殴るよ」
よりによって、こんな勉強面ではさっぱり役に立たなそうな男が来てしまった。そう思ってふてくされていると、タイラはにまにましながら手元の問題集を覗き込んでくる。
「何がわからないんだ?」
「全部」
「例えばどれだよ」
「何がわからないかわからない。だって問題文読む気になんないんだもん」
噴き出したタイラが、ユメノのペンを勝手に借りて問題文に何かしるしをつけ始めた。「日本語だぞ。わからないはずがない」なんて言いながら。
「まず、指示語があるだろ。この『~~~しなさい』ってやつだ。お前が出さなきゃいけない答えがこれ。で、その文の前にちゃんと前提の説明、但し書きがある。文をすべてさらっと読むからわからなくなる。まず、何を求められているか。判断材料はどれか。但し書きはないか。これを分けて見ていかないと、絶対に間違える。慣れないんならいちいち文を色分けしてみろ。まあ、問題文が読めたら答えがわかるってもんでもないけどな」
3色に色分けされた文を読んで、ユメノはようやく「あ~わかる。わかった。なんだよ、めっちゃ当たり前なこと聞かれてんじゃん」と少し拍子抜けして答えを書いた。タイラが腕を組みながら、「お前は要領は悪くないんだから、やればできるよ」と言う。
言われて数秒、ユメノはその意味を深読みしようとした。が、結局はストレートに赤面して、うつむいてしまう。
「……教えるの、結構上手いね」とだけ言ってみた。しばらく返事がなかったので顔を上げると、タイラは今まで見たことないような顔でユメノを見ていた。
「えっ、何その顔」
階段から降りてくる足音が聞こえて、タイラは立ち上がる。
「都先生と実結ちゃんとデートなんだ。勉強頑張れよ」
と言って、ユメノに背を向けた。
ユメノは戸惑いながらもその後ろ姿を見守る。
「……何だったんだろ、今の……ドヤ顔? 初めて見た……」
タイラと都母娘が出ていって、すれ違いのようにノゾムが部屋から降りてきた。ユメノは先ほどよりは軽やかに問題を解いていく。
ノゾムが隣に座った。
「ユメノちゃん、ほんとに学校行くんすか」
「行くかなぁ。ノンちゃんは?」
「オレ? っすか?」
「やりたいことないの?」
押し黙るノゾムを見て、ユメノはぽんと手を叩く。
「というか、勉強教えろよ! ノンちゃん、ネット配信で家庭教師みたいなことしてるでしょ」
「なぜそれを」
「部屋の前通るとユーチューバーみたいな声する」
「ユーチューバーだと思わなかったんすか」
「だって面白くないもん」
「傷つきました」
言いながらノゾムは、ユメノの問題集を見始めた。どうやら勉強は教えてくれるようだった。
☮☮☮
すごい、と都は思わず呟いて、その景色をずっと眺めていた。色とりどりの花畑と、その奥にはヒマワリ畑もある。季節はすっかり夏を迎えたようだった。
はしゃいだ実結が、一人で走っていってしまう。そのまま花畑に突っ込んでいった。
「実結! あんまり走って……お花を踏んじゃダメよ」
そう言いながら、都も追いかける。
花畑の中には、人が歩けるくらいのスペースがあった。その中で実結が、笑顔を輝かせながら振り向いた。
「きれい!」
立ち止まって、都は微笑む。「よかったわね」と呟き、後ろにいたタイラに目配せした。
「飲み物を買ってくるわね」
「俺が行くよ」
「……私は、あなたと実結のデートについてきた“ついで”だもの。実結と一緒にいてあげて」
そう言って都は、来た道を通って飲み物の自動販売機を探した。
そんな都の後姿を見送って、タイラは実結に近づいて行く。
「実結ちゃん、ママはジュース買ってくるってさ」と伝えると、実結はうなづいて、その場に座った。服が汚れるよ、と言いかけてタイラは苦笑する。その代わりにタイラも実結の隣に腰を下ろした。
「おはな、ぬいたらかわいそうかしら。おこられちゃう?」
「なーんと! ここの花は全部ミユちゃんのために買い占めたので、全部君のものです。君の好きなようにできます」
「ほんと?」
それくらいはしてやってもいいという気持ちでタイラはうなづく。「タイラ、ママにおこられない?」と聞かれたのでタイラは苦笑した。怒られるかもしれない。いや、怒られるだろう、絶対に。
実のところここに咲いている花は有料で摘めるものなのだが、それを言ってしまうと夢もへったくれもない。ママに怒られない程度にね、と言いながらタイラは近くの花を摘んで何か折り始めた。実結はそれを、興味深く見つめる。
出来あがった指輪を実結に渡して、「ちょっと大きいかな」とタイラは笑った。実結は目を輝かせてそれを指にはめて、「すごい! おしえて!」とせがむ。
作り方を教えてもらった実結が指輪を作り終えるころ、タイラは冠を作っていた。「すごぉい」と実結がまたはしゃぐ。
「それもつくれる?」
「作れるよ」
「タイラすごい。それ、だれにおしえてもらった? まほうつかい?」
「誰だったかな。魔法使いだったかもしれないね」
タイラの作った冠をまじまじと見てため息をついた後で、実結は自分で作った指輪を差し出した。「これ、あげる」と言われたタイラは、受け取りながら「いいのか?」と尋ねておく。
「指輪の交換なんかして。大人同士だったら結婚だったぞ」
「……こどもじゃ、けっこんにならないの?」
「おませさんだな」
ムッとした実結が、不機嫌そうに、それでもタイラに身を寄せて言った。
「ミユ、タイラのおよめさんになってあげる」と。
タイラは目を丸くして、それから笑う。
「そりゃあ、長生きしないとな」
不意に頭の上から、「実結? タイラ? どこにいるの?」と都の声がした。座り込んでいる2人のことが、見えないらしかった。
そんな都の姿を見ながら実結が、ぽつりと「でもミユ、ママのあとでもいいよ」と呟く。聞き直そうとするタイラを尻目に、実結はいきなり立ち上がった。
「ママー! かくれんぼしよー!」
と叫んで走り出そうとする。咄嗟に捕まえようとするタイラを見て、実結は「べーっ」と舌を出して見せた。呆気にとられるタイラに笑いかけて、「オニさんは十かぞえるんだよ」と言って走っていく。
走って追いかけようとするタイラの腕を、都が掴んだ。
「ヒマワリ畑の方に逃げられたら見えなくなる」と焦った様子のタイラを制して、都が「いーち!」と叫ぶ。
にーい、さーん、しーい……。
戸惑うタイラの隣で、都は数え続ける。
……きゅーう、じゅーう。
「もーう、いーいかーい」
そう叫んだ時、遠くから「もーう、いーいよーお」と返事があった。少しほっとした様子のタイラが、『どういうつもりなんだ』という顔で都を見る。『あなたこそどうしたの』という顔で見返した。焦れた様子のタイラが口を開く。
「見えなくなった」
「かくれんぼだもの」
そう言って、都は実結を探し始めた。しぶしぶという様子で、タイラも辺りを見渡す。ヒマワリ畑を分け入っていき、都は這うように進んだ。小さな実結を隠してしまうヒマワリ畑のなかで、それなら自分も小さくなった方が見つけやすいだろうと思ったのだが。
途中正面から鉢合わせたタイラに、「何してんの?」と端的に尋ねられた。四つん這いになっていた都は、素早く立ち上がって「何でも」と答える。
「服に泥がついてる」
「泥がついたくらいで何ですか。洗えば落ちます」
不意に吹き出したタイラも、その場で膝をついて這うような格好になった。「おっ。頭がいいな、よく見える」と嬉しそうに言う。
「おーい、プリンセス。アイスでも食べようぜ」とタイラが呼びかけた。
「涼しいところでジュースを飲みましょう、実結」と都も呼んでみる。
「……頑固だな。誰に似たんだ?」
「さあ……あの子のおじいちゃんは相当頑固だったように思うけど、隔世遺伝かしらね」
肩をすくめたタイラは、どんどん進んでいく。都もそれに並んで、ヒマワリの下を這っていった。
都たちが見つけた時、実結は小さくうずくまって身を隠していた。都は空咳をひとつして、実結の肩を叩く。「みーつけた」と言いながら。
振り向いた実結は安心したような、しかし勝気にも見える顔をしていた。頬に滴が光っている。汗にも見えたけれど、また一つ同じように大きな瞳から流れるのを見てそれが涙であると気づいた。
思わず、都は「泣いているの?」と尋ねる。実結は首を横に振った。
「ないてない。かんがえてただけ」
何を? と隣のタイラが優しく聞く。実結は小さな手で涙を拭って、「わからない」と答えた。
「わからない。なんていったらいい? みんなに、いいたいことたくさんあるのに」
ぎゅっとこぶしを握って、実結は顔を伏せる。
「みんなに『すきだよ』っていうのもちょっとちがくて、『たのしいよ』っていうのもちょっとちがうのよ。そうなんだけど、ちょっとちがうの。もっとちゃんとミユのきもち、みんなにおしえることばがあるとおもうのに、ミユはそれをしらないから。
ずっといっしょにいようね、っていってほしくない。いわないで、ずっといっしょにいてほしい。
なくのはかなしいときでしょう? ミユね、いま、なんにもかなしいことないのよ。だからね、いまね、たぶんね。
ミユ、さみしかったなっておもったの。みんなにあうまえ、ミユはさみしかったなって。だからね、ミユ、あのときのミユのかわりにないてるだけ」
そう一息で言って、実結は立ち上がった。「つぎはオニごっこだよ」と言いながら走っていく。当惑して動きを止めている都の手を、タイラが掴んだ。
「行こう。あの子は君が追いかけてくるのを待ってる」
「……そうね」
タイラに手を引かれて、都も走り出した。
しばらく走って、こらえきれず都は立ち止まる。遅れて、タイラも怪訝そうに止まった。そんな彼に引っ張られる形で数歩また歩いて、都はタイラと並ぶ。
「その……今言うべきことではないのかもしれないのだけど」
「うん?」
「この、手は……いつまで」
都の右手は、タイラの左手にしっかり掴まれていた。つまり先ほどから2人は、しっかり手を握っていたわけだ。
慌てた様子でタイラは手を離す。
「これはあれだ。あんたにまでどこか行かれたら困る、と思っただけだよ」
「……どういう意味しょうか?」
「あ、怒ってる? 別にあんたのことを迷子扱いなんかしてな……い、よ」
「いま少し間がありましたが?」
あー、と言いながら頭をかいて、タイラは「いいじゃねえか、後で。ミユちゃん追いかけなきゃいけないだろ」とごまかした。都はハッとして、「そうね、そうよね」と言いながら前方を確認する。
小さな後姿が一瞬だけこちらを振り向いて、悪戯っぽく笑った。
☮☮☮
丘をのぼり終えたところに、小さな売店が見える。よく見れば、実結はそこで何やら大きな犬と戯れているようだった。
立ち止まった都の横で、タイラは肩で息をする。
「正直……子供の体力、ナメてたよ。最近すぐ、息が上がってなぁ……歳かな。先生……先生?」
タイラの声も耳に入らない都は、いきなり駆け出して実結をハントした。そのまま足早に来た道を戻ろうとする。遊んでいると思ったのか、犬がそのままついてきた。
青い顔をして、迂回しながら都は犬を撒こうとする。
「先生……」
「どうしよう、タイラ。この犬、繋がれてないし追いかけてくるわ」
「そりゃ君が逃げるからだ……あのな、先生」
「追いつかれたら噛まれちゃうもの。どうしよう」
「とりあえず止まってくれる? 俺の周りをぐるぐるしないでほしいんだよな、目が回るから」
言いながらタイラは、都の肩を軽く抑えた。都は何とか立ち止まって、恐る恐る振り返る。案の定というか、犬は飛びついてきた。
「噛まないよ、この犬は。人懐こいやつじゃないか。俺がいても逃げない犬は初めてだぞ……よしよし、いい子だ」
大きな犬を抱き上げて、タイラは笑う。「いやぁ、動物にはなかなか好かれないもんだから。可愛いなぁ、こいつ」と言って犬の腹に顔をうずめた。
「飼おうか?」
「……」
「わかった、返してこよう」
タイラが地面に下ろすと、犬は勝手に走って小屋の方に帰っていった。首輪もしていたし、恐らく公園で飼われているのだろう。「ワンちゃん、いっちゃったぁ」と実結が残念そうに呟いた。
「しかし、あんたいい歳してまだあんなものが怖いのか」
「犬が怖いわけじゃありません。苦手なだけです」
「何が違うんだ?」
むすっとした都に、今度は実結が「ママ、ワンちゃんこわいの?」と尋ねる。都は言葉に詰まって、「……そう、ね」と答えた。娘に嘘を言えなかった。
「じゃあミユがママのことまもってあげるのにー」
「おっ、いいな。じゃあママのことを守ってるミユちゃんのことは、俺が守るよ」
実結とタイラは顔を見合わせて、悪戯の共犯のように笑う。先ほどの泣き顔など微塵も残っていないような実結の笑顔を見て、都もちょっと笑う。「そうね、2人がいれば大丈夫ね」と言いながら。
☮☮☮
すっかり疲れて寝てしまった実結を抱いて、タイラが「子供は充電切れが唐突だな」と呟いた。都は彼の顔を伺って、「ごめんなさい、重くない?」と聞く。ちょっと笑って、「俺を誰だと思ってるんだ」とタイラが言った。
「最近すぐ息が上がるとさっき言っていたわ」
「聞いてたのか……人が悪いな」
ゆっくりと歩きながら、タイラは実結の寝顔を見ている。
日が落ちる直前の空は、夏特有の深い紺色だった。重いような、軽いような、薄めた墨汁を少しずつ広げていく空だ。気の早い星が空の一番高いところに見えた。
「また、来ましょうね。夏の間に。今度はみんなを連れて」と都は言ってみる。タイラは何も答えなかった。
それが少し悲しくて、都はタイラの目を見る。彼は、何も言わずに立ち止まった。
「……タイラ?」
ゆるく頭を振って、タイラが都を見返す。じっと見つめ合う。その一瞬で、すっかり夜になってしまったような気がした。そうして都は思い出した。彼の目は、美しい夜の色をしている。
「
「不確定だから?」
「それもある」
それもある、ということは、それ以外にもあるということなのだろう。そこまではわかっても、肝心なところが何もわからない。都はじっと、彼の言葉を待った。
何か迷いながら、タイラは口を開く。
「明日の話をすれば、今日は確実に昨日になる。……
そう、呟いた。
驚いた都は、しばらく何のリアクションも取れずに彼を見る。「何かおかしなことを言ったか」とタイラは怪訝そうな顔だ。都は瞬きをして、思わず「“苦手”と“怖い”の違いは?」と問いかけていた。
何も答える気がないようで、タイラは前を向き直し歩き始めた。都も、慌てて歩みを再開させる。
「待って、タイラ。ユメちゃんのこと、ありがとう。あなたが、あの子と話してくれたんでしょう?」
「なぜ君が俺に礼なんか言うんだ」
「え……」
「母親ごっこは楽しいか?」
ちょっと眩暈を覚えながら、都はタイラの腕を掴んだ。
「楽しいわ。もちろんよ」
静けさの中に、実結の寝息だけが響く。目覚める気配など微塵もなく、実結は気持ちよさそうにタイラの腕の中で眠り続けていた。
都は目を伏せて、しかしタイラの腕は掴んだままで続ける。
「あなたは、私と出会わない方がよかったのかもしれない。だけどもう、『出会わなければよかった』と私は言えないわ。貰ったものが多すぎて、それらを手離すことは考えられないから」
彼がいなければ出会わなかった仲間たちがいて、都一人では娘に与えられなかったものがあって。どうしてあんな出会い方をしてしまったんだろうと思いながら、そう思いながらも――――きっと一からやり直しても、都はタイラとまた出会うことを選んでしまうだろう。それが彼の破滅につながろうとも。
だけど。
タイラの腕を掴む手に、力が入る。
だけど、彼にだけは破滅してほしくないと思っているのに。
そんなこと。そんな当たり前のことに気付いて、なぜこんなにも動揺しているのか。自分で自分のことがわからなくなったように思えて、都はただじっと足元を見つめる。
彼に破滅してほしくない。違う。
彼にだけは、破滅してほしくない。
これは、罪悪感があるから? 恩があるから? 人として好意を抱いているから?
静まり返った夜に気圧されたような形で、都は恐る恐るタイラを見た。彼は頭痛に耐える顔で、都を見返している。
「元より、そんなことを言わせるつもりはなかった。少しいじめたくなっただけだよ……つい、な。悪かった」
そんな彼に何か声をかけようとして、震える声で「あなたは、」と口に出した。そんな弱い意思が、虫の声にかき消されていく。
何を言っても身勝手の上塗りになるような気がして。それが怖くて言葉が見つからなかった。それでもいいから、彼に嫌われてもいいから、何かを伝えるべきだと知っていたのに。
歩いて行く。重さすら感じる夏の湿度を切り開くように。
「ユウキは夏休みに入ったな」
「……ええ、そうね」
「食費がかかるとカツトシが嘆く」
「給食が出ないから……」
他愛のない話をした。家路をたどりながら、いくつも話をした。それらが全て仲間たちの話であることに都は気づいていたが、あえてそこに触れたりはしなかった。
「先生、」
「ええ」
「こういう時は調子に乗らないで黙っているのが一番だとは思っていたんだけど、やっぱりはっきりしておきたくてさ」
「どうぞ」
「さっき言ってたことって、俺と出会えてよかったとか、そういう解釈でいいのかな?」
思わず目を丸くしながら、今更何を言っているのだろうという思いで「そ、そうです」と返す。それから、少し冷静になって考えて――――
都は、自分の顔が火照ってくるのを感じた。タイラはといえば、「そうか」と言っただけで目をそらす。
先ほどとはまったく異なる気まずさを感じながら歩いた。蝉の声と、自分の心臓の音と。どちらがうるさいか考えながら。そんな息の詰まるような帰り道、早く終わってほしかったはずなのに。視界の端に自分たちの住処が映った時に、都は。
少しだけ、ほんの少しだけ、残念に思った。
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