episode37 凡庸という得難い才能

 腕を三角巾で吊るすことさえやめた様子のタイラをぼんやり見て、ユメノは瞬きをする。麗美から聞いた、7年前の話を思い出していた。

 友人関係だったタイラと美雨。そして命を落とした他の2人。よく似ていた4人組。今ではあまりにも遠く、殺気を孕んだ視線を交わすかつての友人。


「ねえ、タイラ」


 呼びかけるつもりなどなかったのに、気づいたらその名を呼んでいる。タイラはカウンターに頬杖をついて、「ん?」と言いながらユメノを見た。何を言うつもりだったのか、つかの間忘れた。


「タイラって記憶力が鳥じゃん」

「それは悪口か? 鳥に失礼だろ、鳥に」


 いつも通りの、変わらぬ軽口を叩きながらシリアルなど食べている。今更に成長期でも迎えるつもりなのか、この男は近頃酒場でも朝食を摂る。それから出かけて、その先でも恐らく朝食を摂っている。以前は酒場では何も食べずに、起き抜けにどこかへ食事に行っていたというのに。足りなくなることなどあるのかと、正直ユメノは半信半疑だ。


「そんなタイラでもさ、」

「ああ」

「忘れられないことって、あるの? 普通なら忘れてるだろうけど、なんか今でもよく覚えてるなぁってこと」

「……ああ」


 あっさりと頷いて、タイラはシリアルの入っていた器を流し台へ置いた。食べるのが早い、とユメノはちょっと残念に思う。タイラが食べている間に話を終わらせたかった。

 あるよ、とタイラは呟く。

「どうせ忘れるだろうと高を括ってたことが、不思議なことに今でも時々頭に浮かぶ。忘れたつもりでいたことが、気づけば判断材料になっていたりする」

「ねえ、今、何を思い出してる?」


 ゆっくりと顔を上げたタイラが、ユメノを見た。見透かすような透明な瞳だ。感情は特に浮かんでいない。何を思い出していようとそうなのだろう。そこには記録を読み直すような煩わしさと疲労感が浮かんでおり、何を問うても同じことだろうと思った。きっと、ユメノの欲しかった答えは手に入らない。

 だからユメノは立ち上がって、背中を向ける。「今日は仕事か?」と尋ねられ、「ノゾムのお見舞い」と答えた。


 ノゾムの退院日が差し迫っていた。最近どこかふさぎがちだったユメノの、唯一楽しい話題だ。




☮☮☮




 1週間立たなかっただけでも、歩行が困難になるということが分かった。どうやら足が勝手に、歩かないなりの退化を始めてしまうらしい。地面に足をつけた時、何となく違和感があった。歩かなきゃ歩けなくなるんだな、とノゾムはぼんやり思った。

 しかしそれも最初だけだ。今はもう、病院内をあてもなく歩いている程度には回復したし、暇を持て余してもいた。売店もコンビニも行き飽きたし、談話室にあった漫画も気になるものは読み切った。根っからの引きこもり体質であるノゾムですらこうなのだから、入院などしないほうがいいと思う。絶対にそう思う。


 仕方ない、病室に戻ろうと欠伸交じりに歩いていると、ちょうどノゾムの隣の病室から「いだだだだ」と悲痛な声が聞こえた。新しく入院してきた患者かな、と覗いてみる。普段ならそんなことはしないのだが、それは恐らく、その声にどことなく聞き覚えがあったからだろう。

 覗いて、そしてノゾムはぽかんと口を開ける。


「……? ……、え。父さん?」


 涙目で寝転がっていた男がこちらに視線を移し、同様に呆けた様子で口を開けた。


「ノゾムぅ?」


 2人は、同じように目を丸くしてお互いを見ていた。

 決して、このタイミングで起こってほしくはない奇跡の再会であった。


「な、な……なんでこんなところに」

 動揺しながらそう問うと、父も動揺してどもりながら「父さん、ヘルニアで」と何とか答える。「ヘルニアぁ?」と思わずあわあわしながら聞き返してしまった。恥ずかしそうに、父が頭をかく。

「お、お前はどうして」

 問われれば答えるすべを知らない。正直に言えば心配以上に不審がられるだろう。ノゾムはしばらく考えた末に、絞り出したように小さな声で「盲腸」とだけ答えた。

 廊下を歩いていた看護師から、「入るなら入ってくださいね」と威圧されて何とか父の病室に入る。なんと言っていいものか、父のほうでも逡巡している様子だった。病院で再会しておきながら、「元気だった?」と声をかけるのもおかしい。

 とりあえず父のベッドに近づき、「あー」と発声練習のようなものをしてみた。ひどく気まずい。


 その時だ。

 底抜けに明るい少女の声が、「なーんだここにいたんだ、ノゾム」と背後から響いた。やばい、とノゾムは内心で息をのむ。これはやばい。面倒なことになった。

「あれ、誰その人。知りあい?」

 ユメノはノゾムの背中から顔を出して、ノゾムの父を指さす。『その子は誰だ』という顔を父もする。ノゾムは天を仰ぎたくなったが、何とか踏みとどまって2人をそれぞれ紹介した。


「あー、ユメノちゃん……こっちはオレの父さん。で、父さん……この子はナカミチユメノちゃん。下宿先の、娘さん」


 ごまかせるか? ごまかされてくれ。

 そう念じながら過ぎた10秒。ユメノは胡散臭そうな顔でノゾムとノゾムの父を見ている。やがて父が口を開いた。


「ノゾム……お前、下宿しているのか。父さん、ちゃんと挨拶しないと」


 しくじった。そうだ、この人は馬鹿がつくほど真面目なんだった。




☮☮☮




「で、なんで俺のこと呼んだわけ」


 開口一番にそうのたまったタイラワイチの腕を、ユメノは引っ張って病室の隅に移動する。案外おとなしく、タイラはついてきた。

「タイラは下宿先の主人っていう設定」

「設定」

「あたしはそこの娘っていう設定」

「それだと、お前と俺が親子ということにならないか」

「マジ業腹」

「まじごうはら……」

 しょうがないでしょ、と言いながらユメノは携帯電話をタイラに見せる。父の目を盗んだノゾムからの鬼のようなメッセージで埋まっていた。

 どうやらノゾムは、ユメノたちとの関係を何とかごまかしたいらしかった。その気持ちもわからないわけではないし、とユメノは協力することにしたのだ。

 しかし依然としてタイラは腕を組み、非協力的な態度を崩さない。


「何だよ下宿先の主人って。あの酒場の主はカツトシとお前じゃなかったか」

「アイちゃんを呼んだら話がややこしくなるでしょ!」

「そこがいいんだよ、あいつは。あいつが登場したら、もうそれ以上何も問う気がなくなるだろうが。大体、俺だって素材の味を生かして話を進めたらややこしくなるよ」

「生かしてダメなら殺せ」


 辟易としながら肩をすくめたタイラに、ノゾムの父が「あのう」と声をかけた。振り向きざまに、「ちゃんとしてよね」という風にユメノはタイラを睨む。タイラは腕を組みながら、ため息をついた。

 来客用のパイプ椅子に腰かけて、ユメノとタイラは改めて会釈をする。ノゾムの父が、どこか緊張した面持ちで口を開いた。


「ノゾムの父の、之正と申します。息子がお世話になっているとは知らず、ご挨拶が遅くなってしまい申し訳ありません。それに、今日はわざわざ足を運んでいただいて……こんな格好でお恥ずかしい」

 ノゾムの父がユキマサという名前だと、ユメノは初めて知る。ユキマサはこれでもかと深々頭を下げた。頭をかきながら何か考えていた様子のタイラが、仕方なさそうに「いえ……」と話し出す。その声は、どこかいつもより柔らかい調子だった。


「こちらこそ大事なご子息をお預かりしておいて親御さんにご挨拶一つ差し上げませんで。平和一と申します。世話なんてとんでもない、ノゾムくんに色々とお手伝いいただいているのはこちらですから」


 歯の浮くような、と表現すべきだろうか。ユメノもノゾムも、信じられないもののようにタイラのことを見た。たぶん、鳥肌が立っていたと思う。

 ただ1人、安心した様子のユキマサがぽんぽんと世間話を投げかけた。タイラは目を細め、まるで決まりきった世辞などを返している。ユメノやノゾムから見れば、それはあまりに異様な空間だった。


 上機嫌なユキマサはタイラに「失礼ですが本業は」と問う。タイラが答える前に、何とかノゾムが「人材総合サービスっすよね」と割り込んだ。

「前、そう言ってましたもんね、先輩」

 タイラは笑って、「まあそうなるのかな」ととぼけた。へえ、とユキマサが感心したように言う。食いついてきそうだったので、ノゾムは何とか話をそらそうとした。

「まあまあ父さん、先輩も忙しいんだし、今日はこの辺で」


 そうなだめようとした時、「あっ、ノゾムくーん」と病室の外から呼びかけられてきょとんとする。ノゾムの担当看護師だ。「こんなところにいたんだね、リハビリの時間だぞ」と言いながらスタスタ歩いてきた。


「いや、もうリハビリいらないっすよ自分」

「リハビリがいらないことを確認するリハビリだよ。さあ行こうね」

 多少強引に連れられそうになり、ノゾムは思わずユメノとタイラの腕を掴む。ユメノは呆れた様子で一緒に立ち上がったが、タイラはなぜかその手を振りほどいてその場に残った。


「先輩」

「心配するな」


 口角を上げて、タイラはノゾムを横目で見る。「お前の親父だぞ」と彼は言った。意味がわからないまま、ノゾムは連れられる。ユメノも、不思議そうにそれらを見ていた。

 残されたタイラとユキマサは、しばらくそれを見送る。そうして先に口を開いたのは、ユキマサだった。


「息子が、何か無茶なことを言ったのでしょう」

 ふっと笑って、タイラは行儀悪く足を組む。「まったくだ、慣れないことはするもんじゃない」と言ってのけた。その様子に少し驚いて、しかしユキマサも堅かった表情を崩す。

「お互い、子供の前だと格好つけなきゃいけないから大変ですね」と、ユキマサは言った。「ん? そう見えたか?」とタイラも苦笑した。見えました、と悪戯っぽくユキマサは返す。驚いたような、それでいて面白い発見をしたかのようにタイラがユキマサを見た。


「あんた、結構いいキャラしてんな」

「そうですか? あの子には面白みのない父親と思われっぱなしですが」

「カッコつけすぎなんだよ、それは」

「やはりそうですか……」


 ううん、と難しい顔をしてユキマサは首をひねる。それからハッとして、「あの子はどこか病気なんですか? 盲腸なんかじゃないですよね」と不安そうに尋ねた。タイラは吹き出して、「盲腸? なぜそんな、意味のない嘘をあいつは」と屈託なく笑う。「やっぱり嘘なんですか!」とユキマサが嘆いた。


「まあ、でも、そう心配するもんでもないよ。ちょっとやんちゃした痕が残るぐらいだ」

「やんちゃ?」

 尚も不安な表情のユキマサは、「良くない友人とつるんでいるんじゃ」と口にする。一瞬だけ呆れた表情をしたタイラが、頬杖をついて「おとーさん」と呼びかけた。


「『良くない友人と』ってのはまあ否定できないところがあるけどな、そう悲観的になるなよ。あれは、社会で良しとされる道は踏み外せても、自分でこうでなければならないと思った道は外れることができないガキだ。

 ……あんたとよく似た、バカ真面目だよ」


 言葉に詰まった様子のユキマサが、曖昧な表情のまま頭を抱える。それから、嗚咽ともつかない低い声を出した。「私はダメな父親です」と絞り出すように言う。タイラはそれを、黙って聞いていた。

「妻が死んだとき、どうしても受け入れがたく、仕事に逃げてしまった。あの子が学校に行かなくなった時も、本気では向き合えなかった。ノゾムが一番に支えを欲していた時に、2回も逃げてしまった」


 くつくつと、タイラが喉を鳴らして笑う。「それで、仕事のし過ぎでヘルニアか? あんた、限度ってもんを知らねえ」と茶化した。ユキマサは驚いたように顔をあげて、照れたようにちょっと顔を赤くする。それからタイラが、何とも言えない表情でユキマサを見据えた。


「それはノゾムへの言葉だろう。俺に言ってどうする」


 思わず、ユキマサは息を詰まらせる。タイラが目を細めて続けた。

「そう思っているならいくらでも言ってやれ。ノゾムにとって家族はあんただけだ。あんたのいるところがあいつの家だ。連れ帰って謝り倒して、言葉で足りなかったら死ぬほど抱きしめてやればいい。他の誰にもできねえことだろうが。俺に言ってどうする、何もしねえぞ俺は」


 しばらく、ユキマサはぽかんとしてタイラを見ていた。「あなたは」とようやく掠れた声を出す。

「何者なんですか」

「ええ?」

「総合人材サービス、なんて嘘でしょう」

「あれはあながち嘘じゃないんだけど」


 真面目な顔をしたタイラが、しかし声だけは茶化した様子で「でも、まあ」と肩をすくめた。「俺の正体を知ったらあんたは、金輪際ノゾムとの接触を禁じざるを得ないだろうな」と。そっと息をのんだユキマサが、拳を握って無理に笑ってみせる。

「じゃあ、聞かないでおきます。あの子に嫌われたくないですから」

 今度こそ、タイラは声をあげて笑った。

「なんでそう、父親って生き物はカッコつけなんだ?」

「……ヒーローにあこがれていた子供は、不思議なことに父親になるとまたヒーローになりたくなってしまうんですよ。なれないんですけどね。……わかりませんか」

「わからねえな。俺は父親じゃないからな」


 目を白黒させたユキマサが、「あの女の子の父親っていうのも嘘ですか」と初めて不満げな表情をする。そう怒るなよ、とタイラは目を細めた。それから不意に立ち上がり、上着の埃を払う。

「ノゾムは隣の病室だ。そろそろ退院だが、まあこれもいい機会だと思って話でもしたらどうだ」

 言いながらタイラは、振り返ることなくユキマサの病室を後にした。




☮☮☮




 病室を訪れたタイラを見て、ノゾムは無意識に頬を膨らませる。タイラはあっけらかんと笑いながら勝手に椅子に座った。


「父さんと何話してたんすか」

「別に。お前の親父さんいいやつだな」


 ノゾムは一層不機嫌に、まだ何か聞きたそうにしている。タイラは苦笑して、「ほんとに何も話してないって」と肩をすくめた。しばらく信じがたそうにしていたノゾムも、やがて力を抜いて「そうですか」とだけ呟く。何を話していたって、タイラが「何もない」と言ってしまえばそうなるだけなのだ。

 頭の下で腕を組みながら、ノゾムはタイラを横目で見やる。


 何なんだろう、この人は。


 1つ屋根の下で暮らし始めて2年くらいは経つだろうか。印象は何ら変わらず、謎な部分は謎なままで、それすらこちらが慣れてしまってそういうものだと思わされている。別に来歴などが知りたいわけではない。ただ、何か。例えば。


 ノゾムが負傷したと言った時に走って探し回ったらしいその理由などを、知りたいと思うだけなのだ。そこに何らかの理由があることを、期待しているだけなのだ。


(一応、心配してくれてんのかな。なんで?)


 そんなことを問いかけてみたところで、答えなんて。『仲間だから』だとか返ってきたらいい方で、恐らく『それがお前じゃなくても』と言い出すに決まっている。だから、口にしない。

 その代わり、ノゾムは


「あの時、オレがもっと……もうちょっとやばいっていうか、死にそうっていうか」


 もしオレが、死んでたらどうしてました?


 と、問いかけていた。それはまったくの、出来心というやつだった。

 しばらく、何も返事がない。不思議に思って体を起こすと、タイラは無表情よりももっと透明に近い表情をしてノゾムを見ていた。驚いて身を縮ませる。自分の発した問いが、何らかのタブーに触れたようだと気づいた。


「あの、せんぱい」

「……俺にそれを聞くのか?」


 あまりに平坦な声で、怒っているのかと不安になる。しかしタイラは、決して声を荒げたり眉根を寄せたりせず、ただ瞬きをしただけだった。

 ようやく、タイラは「わからないな」と答える。

「お前が俺に何を求めているのかわからない。俺は、変わらないよ。お前が死んだって何も。この世界で誰が死んでも、俺は俺のままだよ。当たり前だろ」


 残念な気持ちには、ならなかった。きっとそうなんだろうと思っていたし、そう答えてほしかったのかもしれないと思うほどだった。

『ノゾムが死んだら何かが変わるタイラワイチ』は80点で、『誰が死のうと何も変わらないタイラワイチ』が100点満点なのだ。

 ノゾムは納得して、「つまらないこと聞いてすみません」と笑う。タイラがじっと見て、静かに目を細めた。


「本当だぞ、ノゾム。二度と言うな」


 そう囁いた声が、なぜだかいつまでも耳を離れなかった。


 腕を組んだタイラが、唐突に「そういや」と話を変える。急カーブする車の乗客のような気持ちで、「はい?」とノゾムは応えた。

「事の顛末、お前には教えておこうか?」

「顛末、とは」

「長谷川がどうなったか、とか。カツトシと俺が殴り合った経緯とか。お前、気になんないの?」

「教えてくれるんすか! ぜっったい今回も説明なしだと思いましたけど。どしたんすか、めちゃくちゃ親切っすね?」

「いつも親切だろ。ゲームのチュートリアルぐらいの説明はしてるっつうの」

「だとしたらそのゲームは初見殺しすぎでしょ……」

 面倒になったのか、最後は聞こえないふりをしてタイラは話し始める。長谷川と宗教団体の繋がり、長谷川とカツトシの不思議な縁。そして


 話を聞いて、ノゾムはうつむいてじっと考えていた。タイラは笑って、「どうしたいかはお前が決めろ」とだけ、言う。


 どうしたいだろう、とノゾムはぼんやり考えた。かなり高い確率で、『どうもしたくない』のだろうとは思う。タイラはそれすら認めるだろう。『何もしたくないという希望も、尊重されるべき』と言うだろう。でも、それでも自分は。


「……せんぱぁい」

「どうしたよ」

「死ぬかもしれないと思ったら、こんな人生でもちょっとは愛しいですね」

「センチメンタルかますの早くない?」

「あー、でもやだなぁ。こんな風に、人から恨み買って死ぬのはやだなぁ。それが自分にも落ち度があると思ったら尚更やだなぁ。老衰で死にたい」

「老衰も楽じゃないんじゃねえの」


 冗談めかして不安を吐き出して、それをまた冗談で打ち返してもらって。そうじゃなきゃ、こんなことは二度と聞けない。ノゾムは目をつむって、返答がなくてもいいやという気持ちで、質問をぶつけた。


「理想の死に方とか、あります?」


 死ぬのが怖い自分を、誰かと本気でぶつかって傷つくのが怖い自分を、『そんなこと』と言って笑い飛ばしてほしかった。

 彼に――――平和一に、死を語らせて、そうして。自分の恐れているものすべてがまるでくだらないことのように扱われることを望んでいた。だから、返答などどうでもよかった。いつものように軽やかに、笑ってみせてくれればよかった。


「人間は」


 目を伏せたタイラが、突拍子もなくそう口を開く。

 なぜだろう、その瞬間に、ノゾムはまるで同級生と話しているような錯覚さえおぼえた。古くからの友人に語り掛けるように、タイラが笑う。


「『いつか必ず死ぬ』『しかしそれは決して今ではない』ということを前提としなければ進めない生き物だ。そのどちらでも、欠けてしまえば進む意味を失くす。

 誰だってそうだ。

 その前提が揺らげば怖くもなるよ。お前、何をいつまでも卑屈になってるんだ。刺されりゃ痛いし、死ぬかもしれないと思えば怖いのは当たり前だろ。

 お前は今回、強がりすぎだぞ」


 その言葉を、何度も頭の中で反芻して、何度目かでやっと消化して、ノゾムはうつむいた。


 あーあ。見透かされた。全部見透かされて、諭された。

 あんたに言われたくない、と軽口を叩こうとして言葉に詰まる。握りしめた拳が、微かに震えた。

 本当は、ずっと怖かった。死ぬと思ったのが怖かった。

 否、どうだろう。正確に言えば『死ぬ』なんて明確に意識はできていなくて、とにかく『何か大変なことになる』という不安で頭がおかしくなりそうだった。そうして病院に運ばれて目を覚ました時、『死んでいたかもしれない』と思ったのが怖かった。何より自分に向けられた真っ直ぐな敵意が怖かった。他でもない自分に対して向けられた怯えや憎しみのないまぜになった敵意が。

 それはもしかしたら、かつて自分が長谷川に向けた感情そのものだったかもしれないのに。


 絞り出すように、問う。


「先輩も、そうですか」

「ああ、そうだな」


 そっか。この人もそうなんだから、自分がこんなに格好悪いのも仕方ないな。

 そんな風に苦笑して、ノゾムは目をつむった。1,2,3と数えて自分を許した。もっと早いうちにこうしてやればよかった。簡単な話だったのに。そうすればきっと自分や周囲を、情けないと断罪したりせずに済んだのだ。


 頭の後ろで手を組んだタイラが、「まあ、でも」ととぼけた様子で呟く。

「最近は極まってきちまって『明日必ず死ぬ』『でも明日まで絶対に死なない』と思い込まなきゃエンジンがかからなくなってきた。故障かな」

「たぶんそうっすよ」

「そうやって1日遊んでいるうちに死ねたらいいな。理想って言えば、それだ」


 それは、タイラワイチなりの“回答”だった。今日の彼はなぜだか大盤振る舞いだ。ノゾムは驚いて、「ほえー……」と呆けた声を出してしまう。苦笑したタイラが、『言わなきゃよかった』というような顔をしてノゾムの肩を軽く殴った。軽くとは言ったが、痛くなかったとは言わない。


「生きていこうぜ、明日が来るまで」とだけ、タイラは最後に悪戯っぽく言った。

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