episode36 思えば眩しきあの灯台は(参)

 マコの読み通り、というべきか。美雨はすぐにマコのことを引き入れた。確かに美雨は孤独にさいなまれ、かつての友人に救われたがっていたのだ。そして、タイラワイチに対しても、『仲間になってほしい』と懇願した。


 タイラはそれを、――――。


 誰の味方もしないことを、タイラはあまりにも頑なに決めていた。それは恐らく、マコにとっても想定外だっただろう。ここに来てタイラ、美雨、マコは決定的に道を違えた。

 そうして半狂乱となった美雨は、ほとんど脅迫に近い懇願をタイラに対して繰り返す。その過程で、美雨は。

 決して行ってはいけない、使ってはいけないものを切り札としてしまった。


 マコを、まるで人質に取ったかのようにタイラに伝えたのである。


 当然のようにタイラの怒りを買い、そして誤解を生んだ。その関係がもはや修復不可能であることを、マコですら察しただろう。事態は、最悪の方向へ舵を切り始める。




☮☮☮




 彼の腕に必死でしがみついて、「違う!」と麗美は叫んだ。タイラは静かに振り返り、「何が……違うんだ……?」と首をかしげた。その瞳はひどく静かだったが、明らかな怒りの色が見えた。

「違う、美雨はそういうつもりで言ったんじゃない」

「それならどういうつもりだ。マコがどうなってもいいのか、と言ったんだぞ。俺が仲間にならなきゃ、マコだって仲間と見なさない。だからどうなるかわからないぞ、と。あの女はマコを利用して、その上で俺のことも駒として扱うつもりだ」

 違う、ともう一度麗美は呟く。違わない、とタイラが冷たい目で言った。

 届かない、何一つとして。この男は腹を立てている。そして誰のことも信用しないこの男は、気に入らないものを全て潰して思い通りにさせること以外は考えていない。対話という選択肢は端からないのだ。

 そうだ、こういう男だった。由良やマコと出会う前は、こういう苛烈さを持っている男だった。恐らくそれは、美雨の方も同じだ。

 だから今のタイラと美雨を、会わせるわけにはいかない。

 タイラの腰に抱き着いて、麗美はその動きを止める。こんなことをしても意味がないことを、どこかでわかっていた。タイラワイチであれば、麗美のことなど振り払って進むことが可能だ。そうするだろうということも、麗美は知っていた。

「――――レミ」

 ゆっくりと、タイラが麗美の顔を上げさせる。目が合った。麗美は呆気にとられて、タイラを離してしまう。鳥肌が立つ思いだった。タイラは言った。感情のこもらない声で、

「どうして邪魔をする?」と。

 誰よりも長く、誰よりも近くで、彼を見てきた自負があった。それなのに、なぜだろう。こんな、知らない表情一つ見せられたくらいで。彼が何者なのか、わからなくなった。

 後ずさりする麗美を尻目に、タイラは何も言わずに歩いて行ってしまう。止められなかった。誰も救われないと知りながら、それを容認してしまった。なんて愚かで、なんて無力な。

 ただ世界が牙をむく、その激しい音を、この心は聞き取っていた。




☮☮☮




 海にまたがり、街と街を繋ぐ大橋が見える。通行止めをしながら、宝木はぼんやりとそれを眺めていた。幻覚だろうか、橋の欄干に女が腰かけているように見える。

「宝木! 集中しろ!」

「してます」

 言いながら、宝木は視線を戻した。隠す気のない死体がいくつか、そのままで置いてある。身元不明者として処理されるのだろうが、それは美雨という女の側付きだ。近頃、死体が上がったといえば大抵はアラキグループの息のかかった人間か、美雨についている人間かだ。まったく、命を命とも思っていないやり取りをする。

 霧の濃い、早朝だった。草むらの向こうに人の影が見えた。上司が目を離しているのをいいことに、宝木は死体を置いてその影に近づく。

「……タイラ?」

 近づくにつれその表情が見えた。何もない、それは空白を表したような表情だった。「タイラ!」と叫んだが立ち止まらない。彼の手は赤く濡れていた。その目は、海に架かる橋しか映していない。

 宝木ももう一度橋を見た。先ほど幻覚だと思っていた女の姿が、少しはっきり見える。女は欄干に腰かけているのではなく、第三者によって欄干まで追い詰められているのだった。それがタイラの相棒であるマコという女だと思い当たり、すぐに宝木はタイラの背を追いかけた。

 宝木が追いついた時、すでに事は終わりかけていた。生きている者も死んでいる者も立ち上がらないそんな地獄の中で、タイラはマコに笑いかけている。


「帰ろう、マコ」


 しかし伸ばした手は、容赦なく拒絶された。「来ないで」とマコが首を横に振っている。それからマコは寂しそうな顔で笑い、橋の欄干の上に立った。

「何してんだ、危ねえよ」

 そう当惑するタイラを見下ろし、マコは目を細める。「ねえタイラ」と言った声は、不思議といつもより高く少女らしい響きだった。

「人を殴っちゃいけないんだよ」

 見るからにうろたえたタイラが、「早く降りろ」と叫ぶ。マコは降りない。ただ表情を変えず、「うそつき」と言った。

「どうしてこんなことにしちゃったの?」

 橋の上の惨状を指さして、マコは首をかしげる。タイラは言葉を詰まらせていた。苦痛に耐えかねたうめき声があたりで聞こえる。うめき声すら漏らさないやつは、死んでいる。どこか、宗教画の趣すら感じる地獄だ。

 なぜだろうか、彼女は潤んだ瞳でそれらを見て笑った。どこか清々しく笑った。


「あなたに助けられるくらいなら、死んだほうがましだ」


 風が吹く。決して強くない、髪を揺らす程度のそよ風だ。彼女はその風を待っていたかのように、ゆっくりと背中から倒れた。「泣くなよ、タイラ」と聞こえた気がする。音もなく海に吸い込まれていった。

 水飛沫は上がったのだろうか。なぜだかあまりにも静かで、確かにひとりの人間がそこで終わりを選んだのに、海はいつも通り穏やかだった。宝木は魅せられるようにそれを見つめて、瞬きをする。

 瞬間、タイラが踏み出して欄干を飛び越えようとした。迷っている暇はなかった。宝木は飛び出して、その足をつかむ。橋の上で一緒に転がる。

 しばらく揉み合いになったが、宝木を蹴り飛ばしたタイラが肩で息をしながら立ち上がった。

「なぜ止めた」

 なぜだろう、とうずくまりながら宝木は思う。

 宝木七尾は、平和一のことが嫌いだ。昔から何の変わりもなく、嫌いだ。機会があれば死んでほしいといつも思っている。だから、だ。

 何とか体を起こして、宝木は笑う。


「あの子が死を選んだのは君のせいなのに、あの子のために君が死を選ぼうとするのは許されないと思ったから」


 初め、タイラは理解できないという表情で佇み、それから酷い顔をしてその場に膝をついた。そのままうずくまり、苦痛の声をあげる。苦痛を苦痛とようやく理解できたような、そんな声だ。宝木は『こいつ、ちゃんと痛がることができたのか』と少し途方に暮れた。

 ほんの数秒だろうか、そうしていて――――やがてタイラが立ち上がった。どこにも怪我を負っていないのに、タイラは今にも死にそうな弱々しい声で「手を煩わせて、悪かった」とだけ、言った。




☮☮☮




 マコは、その後すぐに捜索がなされたものの、死体が打ち上げられることさえなかった。

 激化していく荒木会長と美雨の争いも、終わりは依然として見えない。しかしマコの死は、美雨の方にも多大なダメージを与えたに違いなかった。その頃から美雨の姿をまるで見なくなったのだ。

 タイラはタイラで、どこにいるのかもわからないまま姿を現さない。

 そんな状態が数日、数か月だろうか、続いた。争う者は次第に見境がなくなっていく。関係のない一般人までもが、巻き込まれるようになっていた。

 この街も、もうおしまいね。

 麗美は無力感に苛まれながら、そう呟く。なるべく一般人を避難させ、自分も荷造りをするべきかとも思えた。明日には、その次の日は。そう自分に言い聞かせて日々を生きた。そんなある日のことだ。


 荒木会長が死んだ。タイラワイチに、殺された。


 青天の霹靂と言うべきだろうか。まさか、と麗美は思った。タイラが、何のためにそんなことを。しかしそれは動かしようのない事実であると、麗美はどこかで痛いほどにわかっていた。あの日、あの男を止められなかったあの日から、決まっていたようなことなのだ。

 街中、タイラを探して走った。この街のトップを殺した今、あの男は一番のお尋ね者だ。すでにアラキ一派に殺され、コンクリートで固められていてもおかしくはない。だから探した。あの男ともう一度会いたかった。

 タイラワイチを見つけた時、麗美は自分の思い違いを知った。タイラは髪の毛一本一本からも血を滴らせ、ぼんやりと歩いていた。自分が作り出した屍の山を時折踏みつけて、それすら気づかないまま前に進み続ける。


(まるで、死なない生き物だ)


 麗美はその様子を、ただ見ていた。美しさすら感じるその在り方に、見とれた。


(人間じゃないみたい。ああ、マコ。あなたが好きだった“人間”はいなくなっちゃったんだ)


 タイラは美雨のことも殺すつもりだった。だけれどそこに、彼自身の私怨が入っているとは思えなかった。


『喧嘩両成敗』

 すべてが終わったときに、タイラ自身がこぼした言葉だ。『どちらも排除しなければならないと思った。どちらが正しいかどちらが悪いのか、俺にはわからなかったから』と。それが、全てを潰して戦場を平地にしてみせた男の、誰にも理解されはしないそのだった。

 あるいは、美雨はそれを『八つ当たりもいいところだ』と評する。

 タイラは美雨のもとに乗り込み、確かに彼女を追い詰めた。そこまで行く過程でさすがに満身創痍となったタイラは、それでも美雨を押し倒してナイフを首に突きつけ、問うた。

「なぜ、マコを利用した」と。

 これに対しての返答が、それだ。「八つ当たりもいいところだわ、あの子が死んだのは私のせいじゃない」と、せせら笑いとともに美雨は言った。

 その場にいた人間の話を聞けば、その時のタイラワイチの表情たるや見ていられないほどだったという。怒りというよりは、痛みであったと。

 タイラは、ナイフを振り上げた。それは美雨の首のすぐ横に勢いよく降ろされ、アスファルトに弾かれたナイフの刃は飛んで行った。


「出て行ってくれ」


 懇願だった。美雨を殺すに至らなかったのは、かつての友人であった情なのか、それともまったく異なる思惑だったのか。それはタイラ本人にもわかってはいないだろう。

 美雨は、この街を、国を、後にした。


 残されたタイラワイチは、お祭り騒ぎの鎮圧に明け暮れていた。向かってくるものすべてを地に伏すことで、彼は責任を取ろうとしていた。生きること、戦うことでしか、彼は責任をとれないでいた。眠りもせず、少しずつ疲弊して、それでも彼は『誰かのため』とは決して口にしなかった。事実、誰のためでもなかったのだと思う。

 由良が死に、マコも死に、美雨ともあんな別れ方をした。タイラワイチは一人だった。それを誰よりもわかっていながら、麗美は一度も手を差し伸べることができなかった。

 やがて若松裕司が指揮を執り、街は少しずつだが規律らしいものを取り戻し始めた。平和一が戦う姿も見られなくなり、代わりに酒場でバカな話をしながらギャンブルでもしているタイラのことを見た。まるで、今までのすべてが空白だったかのように。

 それからタイラには、マコのことや由良、美雨のことを一度も聞けていない。怖くて、その返答が怖くて、聞けていない。あの4人が写った写真も、そのままにして保存してある。

 そう、それが7年前。平和一が、中道夢野や愛染勝利とすら出会っていなかった頃の出来事だ。

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