episode36 思えば眩しきあの灯台は(弐)

【7年前】

 もう親父もダメかもしれないな、と由良は言った。

「は?」

 聞いていた麗美は、あまりの発言にしばらくフリーズする。慌てて、「お前これ記事にすんなよ」と由良が釘を刺してくる。

「近頃めっきりやる気がなくてよぉ、かと思えばわからんところでキレるしな。ありゃあ、痴呆老人と一緒だ。むしろ痴呆老人そのものかもしれん」

 あんぐり口を開けて聞き入る麗美の顔を見て、由良は苦笑した。それだけだ。しばらくして、ようやく声が出た麗美は「あんた、白髪増えたわね」と呟く。由良が頭をかいて、「言うなよ、気にしてんだから」と拗ねた表情をした。

「跡継ぎはどうなってるの」

「おれじゃないことは確かだろうな」

「なんで」

「断ってるから。おれは時計屋やってんのが性に合ってる」

 呆れた顔で、麗美は「それじゃあ跡目争いが激化するだけでしょ」と突っ込む。由良が肩をすくめて、「若松さんに任せとけばいいんだよ、あの人は仕事ができることだけが取り柄なんだから」と失礼なことを言ってのけた。

 若松裕司は、数年前から荒木会長の右腕だった。会長の座を継ぐとすれば、長男である由良を差し置いてもこの人、と言われた男だ。しかし、

「あの人は独立したでしょ」

 そう、若松裕司は独立して会社を興した。アラキグループは落ち目と言い切り、見放したのだ。もちろんアラキ派からは、裏切り者と悪名高い。実際、どのような紆余曲折があったのかは定かでないが。

「じゃ、美雨のとこの家から出させるよ」

「……そういうことを、あんたが言うもんじゃないわよ」

 現在アラキグループと協力関係にある美雨の家。もちろん、そこから跡目をと差し出すのが現状ではかなり現実的だ。しかしそうなると、この街全てが海の向こうのよく知りもしないならず者に乗っ取られる可能性が多分にあった。だから、誰もが渋っている。『跡継ぎ』の話をすること自体、タブーのように扱われていた。

「あんたが継げば万事解決なのに」

「ドレミちゃんまでそんなこと言うの? おれはやりたいことしかできねーんだよ」

 ひとしきり嘆いて、しかしぽつりと由良は言う。「……でも、まあ、そうかもしんねーな」と。その殊勝な表情に驚いた麗美は、由良をまじまじと見た。

「親父は、章を後継ぎにしようとしてるよ」

「……は? 何言ってんのよ、アキラはまだ6歳でしょ」

「7つだ。親父は章が生まれたころから猫っ可愛がりしてよく連れ出してたりはしたけどな、最近じゃほとんど監禁に近い。美雨も子供を取られたと言って毎日泣くし、困ってんだよ、おれはさ」

 確かに、荒木会長は孫の章をひどく可愛がっていた。その可愛がり方は尋常ではなく、孫とそれ以外の者の接触を、ほとんど禁じた。由良の友人たるタイラやマコでさえ、ここ3年ほどは章にさっぱり会えていないとこぼしていたはずだ。

「おれが覚悟決めて済む話なら、美雨も章も守ってやりてえ」

 と、由良は言った。見たこともないような、真面目な顔をしていた。少し嫌な予感がして、「そうは言っても、あんたが暇な時計屋じゃなくなったら残念に思うやつがいるわよ」とだけ言っておく。由良が笑って、眩しそうに麗美を見た。それだけ、だった。




☮☮☮




 大きなリュックを背負いこんで、本橋は街の明かりを避けるように歩く。この頃貧乏学生をしていた本橋は、その日飲食店のアルバイトをして家に帰るところだった。もう深夜と呼ぶにふさわしい時間だったが、街は相変わらず明るく賑やかだ。ぼんやりと空を見上げると、陸橋の上に馴染みの顔が見えた。

「……タイラと、由良さんだ」

 その姿を見て(主にタイラの顔を見て)、疲れも吹き飛んだ本橋は陸橋の階段を一段飛ばしで駆け上がる。驚かそうと身をひそめれば、2人の声が聞こえてきた。

「お前、仕事は上手くいってんのか」と、由良がタイラに尋ねている。「いってるに決まってるだろ」なんてタイラは不敵に答えた。

 タイラが清掃業者を辞めて、自営業らしきものを始めたのは最近の話だ。あの、人の下につくことが絶望的に合わない男が、むしろよく5年近くもアルバイターができたものである。しかしこのたび作業着を脱ぎ捨て、名前すらない仕事を勝手に始めた。業務内容は一つだ、『何でもやる』――――それだけ。本当に何でもやる。依頼料は要相談。そんなふざけたことを、タイラはマコと共にやっている。

「お前こそ、最近痩せてきたんじゃないの。栄養足りてる?」と、タイラは由良を煽った。由良の苦笑する顔が本橋からも見える。

「おれの、親父がいるだろ」

「全人類に親父はいるよね」

「茶化すなよ、タイラ。お前にはいねーだろ」

「そうだったかもしれない」

 軽口をたたきあったその後で、不意に由良の表情が曇った。「眠れてないのか」とタイラが尋ねる。由良は目を閉じて、「章を取り戻さなくちゃならん」とひとりごちた。

「あれは、おれたちの子だ。そのためなら、今まで逃げてきたもんすべてと向き合って責任とるよ」

 また目を開けた由良は、見慣れた笑顔でいた。何も言わず、タイラが煙草をくわえる。由良は「お前もそろそろ禁煙しねーか」と小突いた。

 煙を吐いて、「ジジイに何て言うつもりだ。『俺が後を継ぐから安心しろ』とでも言うつもりか」とタイラは難しい顔をする。

「それしかないだろ。章を巻き込むわけにいかねー」

「……あのジジイは、お前を疑ってるぞ。自分で仕組んだお前たちの結婚を、今更疑いの目で見ている。お前と美雨が結託して、自分の組織を乗っ取るつもりなんだと思い込んでんだ。正気じゃない」

 正気じゃなくても、と由良は呟いた。「家族だ」と。それを聞いたタイラが、煙草を持つ手に少し力を込めたように見えた。表情を変えずに、由良が淡々と続ける。

「お前からすればくだらない話に聞こえるだろうし、到底お前には理解できないだろう。だけどな、タイラ。おれらはこれでも家族だ。家族が、“話せばわかる”と信じないでどうする」

 それから由良は、からっと笑って「なんつう顔してんだよ」とまたタイラを小突いた。

「お前も家族ぐらい、作ってみたらどうだ? ん?」

「うざってえ……」

 朗らかに笑って見せる由良に、タイラは辟易としている。そういう表情は珍しくて、本橋は写真でも撮ろうかと思ったがやめた。ただ、2人の成り行きを見守る。由良が唐突に、タイラの背中を強くたたいた。

「章のこと取り戻した暁には、お前たちとも遊ばせてやるからな。あいつ、めっちゃデカくなってるから。ビビッて漏らすんじゃねーぞ」

「漏らさねえよ、7才だろ、たかが知れてる」

「で、さぁ。頼みがあんだけど」

「頼み?」

 目を細めた由良が、言った。「お前、あいつのこといじめないでやってくれよ」と。困惑した様子のタイラが、「なんでわざわざダチのガキを苛めなきゃいけないんだよ」とため息交じりに言う。

「おれさぁ、ガキがやりたいことできるようにすんのが親だと思うからさぁ。お前にも協力してもらいたいんだよ」

「……なんだそれ」

「約束しろって、章がやりたいことするのに協力します、って」

「約束はしねえよ」

 なんでだよ、と由良はひどく不満そうな顔をした。タイラはタイラで、何か腑に落ちない表情をする。

「やりたいようにしかできないのが、俺たちだろ」

 そう、タイラは言った。うつむいた由良が、「ああ、そうだな」と呟く。その表情は、本橋からは全く見えなかった。




☮☮☮




 荒木由良が死んだのは、その日の夜のうちだったらしい。


 彼は彼の父親に、相互理解を求めた。つまり、アラキグループの将来の話と、彼の息子である荒木章の身柄についての話をしに行った。それ自体は円満に済み、恐らくそこで由良は妻の美雨に連絡をよこしている。『何とかなりそうだ、心配するな』と。その帰り道に、襲われている。彼は実の父親に、脅威ととられ殺されたのだ。

 その日のタイラと由良のやり取りを本橋から聞いていた麗美は、真っ先にタイラのもとを訪れた。あの男が黙っているはずがないと踏んだからである。しかしそんな麗美のことを、タイラは拍子抜けするほどに迎えた。何事もなかったかのように冗談などを言い、ただ最後に「お前も気をつけろよ」とだけ言われた。その横でマコが、不安そうにタイラと麗美の様子を見ていたのが印象的だった。


 黙っていなかったのはタイラではない、美雨だった。


 美雨は夫の死を嘆き、悲しみ、そのまま死ぬかと思うほど茫然自失になり――――ついに5日目の朝、復讐を決意したようだった。

 美雨には後ろ盾がある。自らの両親と、その手下たちだ。それらをフル稼働させ、街を潰しにかかっていた。由良が死んだことで多少は騒いでいた街も、それどころではなくなった。美雨には容赦がなかった。荒木会長を殺すためであれば手段を選ばない、と決意していた。

 街から人が消えていく。荒木会長と美雨の決戦を、誰もが恐れていた。特に、刺し違えてでもという覚悟を持った美雨のことを。


「あのさ、どう思う? ドレミちゃん」


 ある日訪ねてきたマコが、いきなりそんな曖昧なことを言った。「どう思うって、何よ」と麗美はひどく疲れて聞き返す。

「私、美雨ちゃんのこと止めようと思うんだけど」

 言葉が、出なかった。冗談でしょ、とだけ何とか掠れた声になる。

 美雨は今、一番危険な人物だ。我を忘れて攻撃することしか頭にない女だ。何を言ったところで、止めるどころか攻撃対象になるだけだ。そう説得しようとしたが、マコはあっさりと「大丈夫だ」なんて肩をすくめる。

「美雨ちゃんは寂しがり屋だから、一人でいることに耐えられなくなって私やタイラを味方につけようとする。そこで上手くやればいい」

「そんな簡単に」

 マコは、不思議な笑みを浮かべた。『あなたもわかってくれないんだね』という、どこか寂しそうな笑顔だった。背を向けて去っていきそうなマコの、その手を掴んで麗美は止める。

「あんたが!」と叫べば、マコは驚いたように小さな肩を震わせた。

「由良が死んで、あんたまでいなくなれば、タイラは……タイラワイチは、だめになる」

 マコは微かに笑って、そっと麗美の頬を指で拭う。「泣いてんのか?」と茶化された。それから麗美の腕を優しく取って、「あの男は、今のままでもダメだよ」と告げる。

「あのね、由良が死んでからあいつはダメなんだ。やっと人間になってきたと思ったのに、このままじゃ化け物に逆戻りなんだよ」

 そう、諭すように続ける。

「私は、あいつが人間だから好きだ。あいつが人間でいられる世界じゃなきゃ、いやだ」

 だから行く。そのためなら、何を投げ出してもいい。

 確かに、マコはそう言った。彼女が去って行ったあとで、麗美は呆然とただ、天を仰いでいた。

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