episode38 それはもう(まだ)友人とすら言えない

 蝉がうるさく鳴いてるな、とタイラが言う。

「そうね」とカツトシは応えた。


「もう17時なのに明るいな」

「そうね」

「夏か……1年早いな」

「そうね」


 もちろん、話など聞いていない。カツトシにはおっさんの感傷に付き合ってやる義理などないのだ。恐らくタイラの方でも、この会話に意味など求めてはいないだろう。これはただ、面倒なことから目をそらすための茶番だ。面倒なこと、とは。


「たーいーら! きいてますかぁ!?」


 ランドセルをおろそうともせずにタイラを睨んでいる、この小学生男児にまつわるものである。

 学校から帰ってきたユウキは、そこにタイラの姿を認めるや否やすぐさまあるをした。つまりそのお願いが、面倒ごととして片付けられているのだが。

「タイラ! ダメならダメって言ってください! ぼく、ほかをあたります」

 プンスコ、と音でもしそうな膨れ面を見せ、ユウキはタイラの膝を叩く。頭をかいたタイラが「何だっけぇ?」と聞き直した。だから、と腰に手を当ててユウキは言う。


「ぼくにケンカのしかたを教えてください!」


 との、ことであった。

 煙草を口にくわえながら、「他をあたるって具体的にどこだよ」とタイラは尋ねる。ユウキはパッとカウンターの向こう側を見て、「アイちゃん!」と呼んだ。カツトシが苦笑しながら、「僕ってば平和主義だからぁ」と両手を振って見せる。「いまさらなんですか!」とユウキはご立腹だ。

「じゃあ、えーっと、ラムちゃん」

「はぁ……あいつ、小学生に勝てるかどうか怪しいんですけど」

「イブちゃんとおまわりさん」

「おまわりさんがケンカ教えてくれるわけねえだろ」


 丸椅子によじ登ったユウキが、カウンターに突っ伏して拗ねている。タイラは頬杖をついて、そんなユウキのつむじあたりを指でつついた。ユウキは知らないふりで、そっぽを向き続けている。


「どうした、誰と喧嘩なんかしたいんだ。俺がそいつのこと殴ってやろうか?」

「……イヤなやつがいるんです。でもぼくはそいつをこらしめたいんじゃなくて、そいつに勝ちたいだけだから。タイラがなぐったって意味がないです」


 依然として唇を尖らせたままだが、ユウキは顔をあげてそう言った。タイラが驚いたように口を開けて、瞬きしながらユウキを見る。

「勝ちたい? なら、どうして喧嘩なんかする」

 ユウキの腰かけている丸椅子を回転させ、タイラはユウキを自分の方へ向かせた。向き直ったユウキに、「いいか」と諭すように続ける。

「勉強、運動、人気や他にもたくさん、そいつに勝つ方法はある。いくらでもある。その中で、どうしてお前は喧嘩で勝ちたい」


 目をそらしたユウキが、何か小さな声で呟いた。「ん?」とタイラは聞き返す。控えめにタイラを睨んだユウキが言った。

「なにで勝っても、『ケンカならおれのほうが強い』ってそいつが言うから。だからぼくは、ケンカで勝ちたい」


 きょとんとしたタイラが、しかしすぐに吹き出して喉を鳴らす。それからユウキの頬を片手でつかんだ。「俺がお前と同じ歳だったら、お前のことが苦手だったろうなぁ」としみじみそんなことを言う。ユウキは何か話そうとして、「もごもご」と言葉にならない声を発した。

「あのなぁ、ユウキ。相手の土俵に立ってやる義理は一つもないんだぞ。『ケンカならおれのほうが強い』? だからなんだって話だろうが。そういうのをな、負け犬の遠吠えって言うんだ。その逃げ道すらふさぐのは、お前、相手が可哀想だよ」

 タイラの腕を掴んでようやく顔から離したユウキは、「それでもぼくは勝ちたい」と叫ぶ。しばらく黙って考えていた様子のタイラが、「いいぞ」と言った。

「そこまで言うならやってみろ。教えてやる」


 不意にユウキの肩や腕を軽くたたき始めたタイラが、「細いなぁ」と苦笑する。「相手はお前よりでかいのか」と尋ねられ、ユウキは大きくうなづいた。そうか、とタイラは腕を組む。それからユウキの目の前で両手を開いて見せて、タイラは「よく聞けよ」と穏やかな声で話し始めた。まるで天気の話でもするような、柔らかい表情だった。


「まず、相手の足を狙え。片足でいい。その場になったら頭が真っ白になるだろうからどちらの足でも構わないが、まあ余裕があれば体重のかかっていないほうを狙え。とにかく、相手の片足を持ち上げる。まずはそこに全力をかけろ。相手のどちらかの足に抱きついて、持ち上げるだけだ。それができたら、前に押せ。相手が後ろ向きに転ぶまで押せ。相手の片足を持ったまま体当たりするだけだ。で、相手が転んだら馬乗りになって――――ボコボコに殴れ。両手で殴れ。わかったか?」


 必死についていこうとするユウキを見て、タイラは微かに笑みを漏らす。ゆっくりと腰を上げ、ユウキに手を差し出す。「練習するぞ」とタイラは言った。ユウキが、大きくうなづく。そうして2人、夕方の空の下に出て行ってしまった。

 途方に暮れた様子のカツトシが、「ユメノちゃん」と奥に座っていたユメノに声をかける。


「今、なんか聞いた?」

「全然。ぜんっぜん、何も聞こえなかった。犯罪者予備軍の誕生しそうな会話なんか何も聞こえなかった」


 2人は一瞬黙って、そして深いため息をついた。引っ越しなんかが必要な事態にはならないといいのだが。




☮☮☮




 カウンターでシリアルなど食べていたタイラの携帯電話が鳴った。タイラは電話に出る前に、早口で「カツトシ、俺に出す牛乳だけ古くない? 俺は残飯処理じゃないんだよ」とだけ言う。バレたか、と残念そうな顔をカツトシはした。


「もしもし」と応答して、タイラは「ああ……お世話になってます」と続ける。どうやら相手は、社会生活適合者のようだ。タイラもそれ相応の言葉づかいで返している。

「そうですか、はい、申し訳ないです、はい、大丈夫です、今から行きます」

 シリアルを混ぜながらそんなことを言っていた。電話を切ったタイラは、ぼんやりと頬杖をつき、かと思えばくつくつと喉を鳴らして笑う。「誰?」とカツトシが尋ねれば、「ユウキの担任だよ」と答えた。


「ユウキがクラスメイトと喧嘩したってさ」

「はぁ……笑い事じゃないでしょ」

「いやさ、『あの大人しいユウキくんが』とか言うもんだから。何にもわかっちゃいねえな。あいつは一番やばいタイプだろうが」

「あんたに育てられてるって時点でかなりやばいわよね」


 一瞬だけ辟易とした表情を見せて、タイラは立ち上がる。「行ってくる」と言いながら、気づけばもう外に出てしまっている。肩をすくめて、カツトシはその背中を見送った。


 学校の昇降口で靴を脱ぎ、来客用のサンダルを出す。いつ来ても、よくわからない設計の建物だ。そこそこ高名な建築家の“作品”らしいが、圧倒的に強度が足りないらしく建て直しの話も出ているらしい。子供たちの声が聞こえる。タイラはため息をついて、応接間を目指した。

 1階の職員室を通り過ぎ、校長室の隣に応接間はある。タイラはノックをして、部屋に入った。「ああ、友坂さん」と若い女教師が立ち上がって出迎える。そこにはユウキと、もう一人の子供と、その子供の母親らしき女がいた。ユウキともう一人の子供は、絆創膏や湿布を貼って同じような膨れ面を浮かべている。


 すると子供の母親がすっと立ち上がり、頭を下げた。「うちのカナタが、申し訳ありませんでした」と通る声で言う。タイラは拍子抜けして、思わず顔を引きつらせてしまった。

 手を出したのはユウキの方だろうと思い込んでいたので、文句の1つや2つ言われるものだと思っていたからだ。

「はぁ……いや、手を出したのはユウキでは」

 母親はふるふると首を横に振り、「元はと言えばカナタが、ユウキくんを……ユウキくんのご家族のことを何か良くないように言ったのが悪いので」ときっぱり言う。ほら、と母親がカナタというらしい子供の背を押して前に出した。「あんたも謝りなさい」と厳しく諭す。しかしカナタ少年は、悔しそうにうつむくだけだ。

「本当にごめんなさい。この子、口が悪くて。うちも母子家庭なものでちゃんと見られなくて、本当にごめんなさい」


 そう口早に母親は言って、深くため息をついた。話が見えてきたタイラは、カナタ少年の顔をのぞく。確かに生意気そうな顔をしていて、いくつも言い訳を考えるときの必死な目をしていた。喧嘩は、と瞬きをしてタイラが口を開く。

「どっちが悪いとか、そういう話じゃないですから。先に手を出したのはユウキで、それにも理由があって、カナタくんがユウキをからかったのにも、きっと理由があったんでしょ。それを踏まえた上で、お母さん、大事な息子さんに怪我をさせて申し訳なかった。許していただけないでしょうか」

 母親は慌てた様子で、「もちろん」と何度もうなづいた。「こちらこそ、ユウキくんにひどいことを言って、ケガをさせてしまって本当にごめんなさい」と頭を下げる。


 そうしてタイラは、ユウキを振り返った。「大人の話は終わりだ」と笑ってみせる。微かにうなづいたユウキが、静かに立ち上がってカナタ少年の前へ進んだ。

 しばらく、2人の少年は黙っている。唇をなめて、緊張した様子のユウキが口を開いた。


「――――いいなあ」


 そう、ユウキは言う。突拍子もない、しかし明瞭な声で、言う。目は真っ直ぐにカナタ少年のことを見ていた。


「いいなあ、いいお母さんだなあ」


 その場にいる誰もが、その少年の意図を探ろうと顔を見つめている。しかしユウキの表情には一切の翳りもなく、偽りやからかいの色もなく――――それは、ただ混じりけのない称賛だった。

 相手の持っているものを素直に称賛すること、恐らくそれが、ユウキにとっての仲直りの手だったのだ。

「ぼくにはお母さんはもういないから、いいなあって思うんだよ。カナタにはいいお母さんがいるんだなあって」


 だけど、とユウキは大きな目を閉じたり開いたりして小首をかしげる。

「ぼくにだって家族がいるよ。みんなが思っている『家族』とぜんぜんちがうかもしれないし、みんなはぼくたちのことを『家族』とはよばないかもしれないけど、ぼくにもちゃんと家族がいるよ。カナタのところにすごいお母さんがいるように、ぼくのところにもすごい家族がいるんだよ」

 しんと、静まり返った。カナタ少年が拳を握って、それから歯を食いしばりながらうなづく。「ごめん」と少年は言った。それから、「母さんのこと、ほめてくれてありがとう」と。


「ユウキの家族、すごいなあってオレわかってたんだけど、たくさんいるし、いいなあってオレも思ってたんだけど、いいなあって思ってたから、うらやましかったから、お前のこときらいだったんだ」

「……うん」

「でも、そうじゃなくて。おれ、お前と」

「……」

「友達になりたいなぁ……とか」

「それはイヤです」


 思わずというか、盛大に吹き出したタイラがむせた。「そこで断るか、お前」と腹を抱えて笑う。ユウキは当惑しきった顔で、「だってイヤなやつなんですよ」と訴えた。カナタ少年はひどくショックを受けた様子で、「ごめんって言ったのに」と嘆いている。少年の母親まで堪えられなくなったようで笑いだし、「先が長いわねえ、カナタ」とおおらかに言った。若い女教師が慌てて「仲良くしましょう、仲良く」となだめようとする。

 タイラが、ユウキを小突いた。「お前に友達がいないのは、お前にも非があるぞ」と可笑しそうな、それでも真面目な表情を取り繕うような顔で言う。ユウキはむすっとして、しかし「ごめん」と言いながら手を差し出した。恐る恐る、カナタ少年がその手を握る。


「好きなフルー〇ェは何味?」

「えっ。えと、マンゴー」

「ぼくはミックスベリーです。よろしく」


 そう言って、ユウキは大げさに腕を振った。タイラが指をさして「下手くそ」と笑っている。ここに小さな、あまりに小さな友情の芽は、どうやら弱々しくも顔を出したようだった。


 まだ明るい夕方を、タイラに手を引かれてユウキは歩く。すりむいた膝が少し痛かった。「それで?」とにやにやしながらタイラがユウキを見下ろす。

「喧嘩はどうだった。勝ったか?」

 繋いでいないほうの手でピースサインを作って、ユウキは「勝ちました!」と報告した。そうか、とタイラはまた前を見る。


「転ばせたら、ちょっとかわいそうだったから、ボコボコになぐるのはやめておきました!」

「そうか。お前は偉いな」


 歩きながら、またタイラは「お前がそんなに怒るなんて、一体何を言われたんだ」と尋ねてくる。「べつに」とこれにはそう答えて、ユウキは首を横に振った。言ったところで、きっとタイラには『そんなこと』と一笑に付されて終わりだとユウキは何となくわかっていた。


“お前の家族って、だれが本物なの”


 本物か偽物かなんて。


“本物じゃないんなら、どうして一緒にいるの。ドラマかよ、それ、いつ終わるんだよ”


 そんなことは。

 ユウキが一番、知りたかった。


 立ち止まったユウキに合わせて、タイラも止まる。「どうした」と声をかけられて困った。どうしたんだろう、と自分自身に問いかけてみる。「ねえタイラ」と、まとまってもいないのに声だけが先に喉を震わせた。

「タイラはぼくを、施設に入れようとか思わないんですか」

「えっ、入りたいの?」

 慌てて、ユウキは首を横に振る。「今のところそんな予定はねえけど」と、当惑した顔でタイラは言った。ふうん、とうなづいておく。タイラがそう言うのなら、そうなのだろうけど。


 たとえば、ノゾムが入院していた理由をユウキは知らない。カツトシとタイラが怪我をしたその理由も知らない。少しずつ、少しずつ色んなことが変わっていったりする。そういう『少しずつ』が、時々とても怖くなった。いつだって、置いて行かれないように必死だ。だから、


「ねえタイラ」

「ん?」

「どうしてぼくを、うちにおいておくの」

「お前はインテリアか」

 何を考えているのか、何も考えていないのか、タイラはそんなことを鋭く突っ込んだ。ユウキは唇を尖らせて、「どうでもいいです、そんなの」と横を向く。だって、『置く』以外何と言っていいのか。


 タイラは顎に手をあてて、「お前は?」と尋ねてくる。

「お前は、どうしていつまでもあそこにいるんだ。もっと安全で、住みやすいところはあるかもしれないぞ。なんせ、悪戯で火炎瓶投げられたことがある酒場だからな。目が覚めたらいきなり炎の中ってこともなくはないし、そこまで責任とれるやつなんかあそこにはいない」

 横を向いたまま、考える。確かに、時々はタイラを正面切って殴りに来た人間だとか、タイラを暗殺しようとしている人たちだとかが乗り込んできて怖いけれど。だけど、そんな怖さよりタイラがいる安心感の方が勝っているし、どうでもいいことのように思えた。


 だから、これは、そういうことじゃなくて。


「ぼくが聞いたのに、答えないで質問してくるのはずるいです」

 口角をあげて、タイラは楽しそうに笑った。答える気が、恐らくない。諦めてユウキはため息をつく。『別にお前じゃなくてもいいんだ』と、言われないだけマシだった。それでもちょっとは不満そうにしておかなければ気が済まない。手をつないでいるのに身勝手に歩き始めたりして、それにタイラは黙ってついてくる。

 2歩、3歩進んで不意にタイラが口を開いた。


「俺はな、ユウキ。お前らのうち1人でも欠けて人生つまらなくなるのは怖いなぁって、そう思っているんだよ。前にも言わなかったか?」


 きょとんとして、ユウキは立ち止まってしまう。しかし今度は、タイラが勝手に歩いて行ってしまった。手を引かれて、ユウキもつんのめるように歩く。


「家族とか、そういう括りにこだわる気持ちは正直よくわからないし、俺はお前の家族になった覚えはないよ。それでも、お前がいなくなったら俺はつまらなく思うだろうな。お前が他に行きたいと言うなら俺にそれを止める資格はないが、俺がお前を他にやらない理由はただ一つだ。お前が好きだからだよ。それじゃあ、不満か?」


 歩きながら、ユウキはその言葉を自分なりにかみ砕いた。何度かリピートして、そのたびにどういう意味だろうと首をかしげて、何とか意味らしきものを掴んで、ユウキは。

「ふまんです」と頬を膨らませた。それから、タイラと繋いだ手に、そっと力を込める。


「でも、タイラにしては80点です」

「その点数は良いのかね」




☮☮☮




 蝉が鳴き始めている。それはもう騒がしく、豪勢に鳴いている。天気はいい。雲ひとつない晴天だ。

 今日はノゾムの退院日だった。久しぶりに身なりを整えて、ノゾムは廊下に立っていた。午後には仲間たちが迎えに来る。それまでに、話を終わらせなければならない。

 病室のプレートをちらりと見て、深いため息をついた。


(普通、同じ病院に運ぶかよ……)


 そこには、かつてクラスメイトだった――――今ではひどく遠くなったあの青年の名前がある。

 ノゾムは咳払いを何度かして、本気でむせて、涙目になりながらようやくドアをノックした。数秒経って、「はい」と低い声が聞こえる。深呼吸をし、拳を握り締めてドアを開けた。

 最初、長谷川はノゾムのことを見てただ呆けた表情をしているだけだった。それがやがて喜びのようなものになり、すぐに怯えに変わる。「あー……」とノゾムは頭をかいて、少し投げやりにパイプ椅子に腰かけた。

「あの人から――――タイラワイチって人から伝言なんだけど」

 長谷川がタイラの名前を知っているのかよくわからなかったが、続ける。


「『売れるところがどこにもない。死ぬなら健康体で死ね』だってさ」


 正直に言って、ノゾムにもタイラの真意はわからない。長谷川を鼓舞するために言ったのかもしれないし、本当に長谷川の臓器の1つや2つ売るつもりである可能性も、あった。どちらにせよタイラは、長谷川という青年に『死ぬ価値がない』と言ったのだ。

 ひどくうろたえた長谷川は、何度も両手を広げたり閉じたりしてうつむいていた。ここまで来て、ノゾムも何か話そうという気がなくなる。この場面で適当な言葉など出てくるはずもなく、ただ沈黙だけが部屋の隅に降り積もっていった。


 こんな時、平和一だったならどうしただろうか。


 そう考えて、考えても答えは出ず、それでも『きっとここで沈黙は選ばない』とだけ決めつけてノゾムは口を開く。

「あのさ、シュンのことだけど」

 長谷川がびくりと肩を震わせた。目をそらしすぎてめまいがしてきたノゾムは、深呼吸をして長谷川をまっすぐ見る。

「お前は悪いけど、でもお前だけが悪いんじゃないよ。だから、あの時お前だけを責めたオレは間違ってたし、あの場に正しいやつなんて一人もいなかったよ」

 どこか凍り付いたような表情で、長谷川はノゾムを睨んだ。唇を噛んで、涙をこらえている。何だよそれ、とかすれた声が聞こえた。


「何だよ、今更。オレが悪いんじゃんかよ。オレが悪いってことにしようよ、もう。いいじゃん、疲れたよ」


 こらえきれなかった涙が、ぼろぼろとみっともなく落ちる。ノゾムはひどく衝撃を受けた。自分が、かつて正義だと思った幼稚さで、ここまで人を追い詰めるとは思わなかった。否、あの時はどこまで追い詰めても足りないと思っていたのだ。だけど今は、

「長谷川……」

 自分にそんな資格はなかったのだとはっきりわかる。


 茫然としながら泣く長谷川は、呼吸さえ忘れたように静かだった。答えがない問いの前で、それぞれまったく違う式を描きながら苦悩しているようだった。どちらにせよ答えはないのだからどうにもならないのに、『そっちの式なら答えが出るかもしれない』と覗き合っている。


 あのさ、と瞬きをしながらノゾムは呟いた。

「長谷川がたくさん考えて、悩んで、長谷川なりに答えを出して、でもそれが正解じゃなくて、それでもう疲れて考えたくないっていうのも、分かったから。だから最後にもう1回だけ、オレに付き合って答え合わせしてくれないかな」

 ぼんやりと顔を上げた長谷川が、焦点の定まらない目でノゾムを見る。うん、と確かにうなづいた。


「長谷川たちは、シュンをいじめた。誰もシュンを助けなかった。オレなんか、一番の友達だったのに助けなかった」

「うん」

「シュンが死んだのは、長谷川たちのせいだってオレはずっと思ってた。でも、本当にシュンが嫌になったのは、オレとか友達が他人事みたいに見てたからかもしれないと思って最近すごく辛かった」

「……うん」

「シュンが死んだ時点で、もう答えなんてどこにもない。『みんな悪かったね』ってひとしきり後悔して反省して悩んで悩んで辛くなってるしかない。そこに、罪の重さがどうとかは関係ない。それを決めるのはオレたちじゃない」


 返事がなかった。長谷川は押し黙って、それからうなづきだけを返した。ノゾムは自分の手のひらを見る。まだ何もつかめてはいない、情けない手のひらだ。ここからだ、と手を握ってみる。


「確かにシュンは死んでるから、誰も長谷川を許せない。オレのことだって、誰も許さない。でも、生きていかなきゃいけないだろ。オレたちは生きていかなきゃいけないだろ。どんだけ後悔して反省して悩んで辛くて立ち止まったって、ひとしきりそんな風にした後では必ず進まなきゃいけないだろ。シュンのことを、進めない言い訳にしてていいはずないだろ」


 しんと静まり返った病室には、蝉の声さえひどく遠かった。自分の言う全てのことが、きっと自分に返ってくる。もしかしたらノゾムは今、自分自身を諭しているのかもしれなかった。

 そうだ、言い訳はもう十分だ。


「だから、本当のことを受け入れようよ。人のせいにするんじゃなくて、卑屈になるんでもなくて。

 誰か1人が悪くて、そいつ1人を責めれば解決するような話じゃなかったんだってもうわかってるじゃんか。

 誰が許さないって、自分が許さないんじゃん。だから人のせいにするのが苦しくなるし、自分の卑屈に殺されそうになるんだって。わかってるからさ、そしたらもう、それ抱えて生きてくしかないんだよ。

 自分が許せる自分をどうにか見つけて、生きたいように生きるしかない。それがどうか、微々たるものでもいいから、他の誰かにとってもプラスでありますようにって無様に祈りながら生きてくしかないだろ」

「祈る?」

「そうだよ」


 祈るんだよ、ともう一度ノゾムは言う。「自分が生きたいように生きるのが、どうか誰かのプラスにつながりますようにって祈るんだ。どうせ、生きたいようにしか生きられないんだから」ときっぱり言い切った。何だよそれ、と初めて長谷川は笑う。泣きながら、笑う。


 それからぽつりと、「刺したの、ごめん」と長谷川が謝った。思わず、ノゾムは吹き出してしまう。「いいよ」と考えるより先に声が出た。


「めちゃくちゃ痛かったしあんな焦ったの初めてだったけど、まあいいよ。これだけはオレが許すから。なんか、長谷川の方が重傷だし。なかなかないよ、撃たれるとか」


 長谷川は肩をすくめて、「実は痛かったんだ」と秘密を告白するような響きで言う。当たり前だろ、とノゾムは肩を震わせて笑ってしまった。ひとしきり笑った後で、「そうだ」と1つ言い忘れていたことを思い出す。


「アイちゃんさんっていたじゃん」

「アイチャンサン?」

「アイゼンカツトシさん」

「……! カツトシさん、知ってんの?」

 あの人も仲間だから、とあっさり言ってノゾムは目を細める。

「ちゃんと無事だから安心して。タイラワイチに殴られたみたいだけど」

「なんで?」


 当惑しきった様子の長谷川を見て、ノゾムはちょっとにやにやしてしまった。『どうだ、わからないだろう』と謎の優越感を覚える。正直に言えばノゾムにもそこのところはよくわかっていないのだが。

 長谷川はしばらく思案顔をして、「タイラワイチさん? ってさ、神様なのかな」などと見当はずれ甚だしいことを言い出す。ノゾムはむせて、「はあ?」と聞き返した。

「なんか、生きることと戦うことを推奨する……神様の類なのかなと思って」


 生きることと戦うことを推奨する。


 なんだか虚を突かれた気分で、ノゾムはそう繰り返した。それは確かに、平和一の言動に対する説明としては合っているような気もする。だけど彼は、神様なんかじゃない。もしかしたら人外ではあるかもしれないが、決して神ではない。百歩譲って神様だとすれば、

「嫌なんですけど、そんな邪神……」

 世界を1日で壊しかねない、と思った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る