episode26 その背中越しに見た星を、

 吸って、吐いて。吸って、また吐いて。

 呼吸をしている。ただそれだけが、ひどく苦しそうに見えた。かえろう、タイラ。そう呟いて、ユウキは手を伸ばす。痛いと言わない、苦しいと言わない。彼はただ、うつむいたまま喘いでいる。

『また、逃げるのか』

 それは目の前から聞こえたような気がしたし、すぐ後ろから聞こえたような気もした。その声はタイラのものだったような気もしたし、もっと他の誰かであったような気もした。

 ゆっくりと、タイラの背中が遠ざかっていく。

 また逃げるのか、と問われればユウキは当惑するほかない。そうだ、また逃げるのだ。自分の手に負えないこととして、だからその背中を見送って逃げるのだ。


 ――――そうしたらきっと、もう何も自分には残らない。


 いやだなぁ、とぼんやりユウキは思う。

(いやだなぁ、もう何にも、はなれてほしくないなぁ)

 追いかければ、いま追いかければ間に合うかもしれない。タイラ、と呼びかければ振り向くかもしれない。

 立ち上がったユウキには、立ち上がった時点で選択肢は一つしかなかった。その背中を、見えている限りただ追いかけることしか。

 あの日の母は、ユウキに『助けて』と言った。ユウキは助けなかった。母は死んだ。

 同じく父は、泣きながらユウキに『助けてくれ』と言った。できなかった。父も死んだ。

 2人の懐から恐々財布を抜き出して、腹を満たすために使った。それがいつ尽きるのかと考えては、泣き出しそうな笑い出しそうな気持ちになってどうしようもなかった。『助けて』を拾えなかった自分は、誰かに『助けて』と言うことさえできなかった。

 学校から帰ってきては2人が死んでいる部屋へただいまを言いに行った。そのたび心がなんだかしんと消えて、平気な自分がちょっと怖かった。


 ――――ねえタイラ、あなたが来た日のことをよく覚えている。あなたが2人の体を片付けてしまったと聞いて、ひどく安心した。けして、光が差してきたような気持ちではなかったけれど。もっと薄暗い安心だったかもしれないけれど、それだけでぼくは、夜ちょっとだけ眠れるようになったんだ。


 肩で息をしながら、ユウキはぼんやりと目の前にそびえるドアを見つめた。ナンバープレートは“303”見覚えのある錆びたドアに、ユウキは頭痛を覚える。呼吸を乱しながら、それでもノブに手をかけた。ドアを開ければ、記憶と寸分たがわないの住処が映る。玄関で、ユウキは静かにうずくまった。


 ――――もう、ゆるしてよ。ゆるしてよ。責めたりしてくれないくせに、ゆるしてもくれなくて、そんなのどうすればいいのかわからないよ。


 這うようにして、何とかユウキは前へ進む。向かうのは、きっとあの部屋だ。母と父が、いつまでも死んでいる部屋。わかっているんだ、やり残したことはそこにしかないから。

 学校から帰ってきては、2人が死んでいる部屋へただいまを言いに行った。最初は、「きっと夢だったんだ」と思いながら。それが「夢であってほしい」へ変わっていき、「夢になってよ」と泣いてすがった。段々と何だかわからなくなって、「今日は生きてるのかな」と笑いながら襖を開けたこともある。

 2人はきっと、今日も死んでいるんだろうな。あの日ユウキが助けない限り、つまり永遠に、ユウキの父と母は死んでいる。

 なんだろう、それ。ちっぽけな自分が、どうしようもないことだったのに。どうしようもないまんま、挽回するチャンスは二度と来なくて、2人は生き返ったりせずに弁解もさせてもらえず。そんなの、そんなの。

 ユウキは震えそうな緊張を飲み込んで、襖に手をかけた。こわい、と思う。ゆっくりと開いて、恐る恐る部屋を見た。そうしてユウキは、その場にへたり込んでしまった。力が抜けて、代わりに黒々とした絶望が広がるのを感じる。

 そこで首を吊って天井からぶら下がっていたのは、父でも母でもない。固く目を閉じた“平和一タイラワイチ”だった。




☮☮☮




 殻を中からこじ開けるように何とか目を開けて、ユウキは深呼吸をする。布団から顔を出し、手を出して、汗を拭った。時間がわからない。日は、もう高い。

 ひどい夢を見た、と思う。呼吸はいまだ鎮まらず、視界がぐるんぐるんと回っていた。頭が痛い。手が震えている。両手で顔を覆って、「いやだなぁ」とだけ声に出してみた。情けなく、みっともなく、自分の耳に届いた。

 布団から這い出し、部屋を出る。何時だろうかと、そればかり気になった。学校は休みだったが、みんな朝食を食べているころだろう。そうでなければならない、とも思った。

 そうでなければ耐えられない、とも。

 階段を下りて肩で息をする。なぜだろう、力が入らない。ユウキは下の階まで降りて、いつもの酒場を見渡した。仲間たちがこちらを見ている。時間を尋ねようと思った。朝食にはまにあいましたか、と。

「タイラは?」

 自分の口から出た言葉に、自分で驚く。どうしてそんなことを尋ねてしまったのか、と当惑していると、都がゆっくり近づいてくるのが見えた。

「ねえ、タイラは」

 尚もユウキはそう尋ねる。「――――なんで」と、呟いて縋るように手摺をつかんだ。

「ユウキ」

 不意に、都が目の前で膝をついた。ユウキの前髪をそっとかき上げて、何も言わずに額を合わせる。しばらくして、「熱があるわね」と都は言った。それをぼんやり聞きながら、ユウキは瞬きをする。

 そんなこと、どうでもいいのに。

 瞼が重くなって、確かに立っているはずなのに足元がおぼつかない。いきなり温かくなったと思ったら、都に抱えられていた。

「寝ちゃって大丈夫よ、大丈夫。タイラならすぐに来るから」

 そっか、すぐ来るんだ。

 身動きを取る気力もなく、ユウキはそのまま目を閉じた。




☮☮☮




 診療所のベッドにユウキを寝かせて、都は無意識にため息をつく。診察室の隣では、どうやらタイラと柊が話をしているらしい。隣の部屋といっても薄いカーテン1枚で隔たれているような作業室だ。基本的には丸聞こえだが、本人たちには声を抑えようという気がないらしい。

「夏風邪には早いけどなぁ。ストレスじゃねえの、ストレスじゃ」

「ストレスって何なわけ?」

 不満そうなタイラの声がよく聞こえた。都は思わず笑ってしまう。どうやらタイラは、ユウキの症状に原因と対策がないことがひどく不満なようだった。

「てめえはストレスなんかねえだろうけどな、あの子供はそこそこ繊細そうだから色々あるんじゃねえのか。俺に言うな、俺に」

「だってあんた医者だろ」

「いつもヤブだの何だの言うくせに、こんな時ばかり医者扱いするな」

 これ見よがしにため息をついて、柊は「てめえはあの子供が絡むと本当に面倒くせえな」と吐き捨てた。タイラが黙る。何か考えているようだった。

「ゆめをみました」

 自分の耳元で微かな声がして、都はハッとする。焦点の合わない目で、ユウキが天井を見ていた。その声はあまりに弱々しく、恐らくは隣の部屋までは聞こえなかっただろう。ユウキは震えるような声で、「ぼくのおとうさんがそうしたように、タイラもぼくをおいていくとおもう」と呟いた。

 都は優しくユウキの髪をなでて、「どんな夢だったの」と尋ねる。

「おとうさんと同じ、タイラも首をつって死んじゃったんですよ。ぼくは、ぼく、また」

 とっさに、都はユウキの手を握った。ユウキがようやく都のほうを見る。大丈夫よ、と微笑んで見せた。

「タイラはそんなことしないわ。ちゃんとそこにいるから、大丈夫よ」

 ユウキが手を握り返してくる。思いのほか強く、しっかりと。都は少し安心して、シーツをかけ直した。ユウキが手を離したころ、都は立ち上がって隣の部屋へ向かう。カーテンを開けようとして、足を止めた。「どうすればいい、何をしてやるのがいい」というタイラの声が聞こえる。柊が苦笑して、「てめえの親にでも聞いてみろ」と答えた。

「いねえよ、親なんて」

「知ってるよ」

 そう会話を交わしたきり、2人は黙る。少しためらって、しかし都は毅然とカーテンを開けた。おお、と嬉しそうに柊が指をさす。

「そうだ、都女史にやってもらえ。看病なら俺より上手くやるから」

 肩をすくめて、都はユウキのいるほうを見た。「眠っているわ、落ち着いているみたい」と伝える。それを聞いた柊が、「帰れ帰れ。薬出してやったら、ここでできることなんてない」と何か追い払うような仕草をした。「それでも医者かよ」とタイラが嫌そうな顔をする。

 仕方なさそうに、タイラは部屋を出て行った。都は柊を見る。「タイラワイチとあの子供は、なんで出会っちまったのかね」と柊がぼんやりと言った。「――――いや、てめえら全員か」と言いながら苦笑する。都は首を横に振って、ユウキの元に戻った。


 タイラは診療所の外に出て、携帯電話を耳にあてる。いくらか待っていたが、相手が出ない。仕方なく諦めようとしたころ、いきなり相手の声が聞こえた。

『もしもし。名前とご用件を』

「ああ、久しぶりだな」

 相手は――――最上は、疲れたような声で『あなたですか』と呟く。何とかエンジンをかけ直したようで、『何の用です』と言い放った。

「あのさあ、あんた、子供の世話をするだろ」

『言葉遣いに気をつけなさい』

「日々ご多忙のことと存じますが、本日はご教授願いたいことがございまして、不肖わたくしめがお電話させていただきました」

『何です。言ってみなさい』

 自分で電話をかけておきながら多少ためらいがちに、タイラは言う。

「子供が熱を出したら、どうすりゃいいのかな」

 電話の向こうで、最上が沈黙した。しばらく何か考えているようだったが、いきなり盛大なため息をつく。

『確か以前もそのようなことを言っていましたが?』

「その時のあんたの答えは確かこうだ。“今まで大抵の子は放っておけば元気になりましたし、元気にならない子はうちでは手に負えないので”」

『覚えているのならなぜわざわざ電話をしてきたのです。それ以上の回答は今もありません』

「そうじゃない。そうじゃないんだよ、治療法を聞いてるんじゃないんだ。俺が聞きたいのは、さ。何ていうかな」

『……看病でもするつもりなのですか?』

 タイラが黙ったのを聞いて、最上は驚いたように『まさか』と呟いた。悪いのか、と途方に暮れるタイラに、『いいですかタイラワイチ』と最上がため息交じりに口を開く。

『あなたに言っておきたいことがあります。聞きなさい』

 携帯電話を耳から離し、タイラは面倒そうに小指を耳に突っ込んだ。60秒数えて、また電話を耳に充てる。

『それを併せて、いいですか』

「まだ喋ってたのかよ」

『あなたが聞いていないと思って、途中から般若心経を唱えていました』

「なんだと」

 いいですか、と最上が固い声で話し始めた。仕方なくタイラは携帯電話を耳に当てたまま、黙って聞くことにする。何度も同じやり取りをするほど暇ではない。

『さて、古今東西ヘビという生き物は』

「ごめん、聞いてるから落語みたいなやつ始めないでくれる?」

『聞いていたのですか。お前もそれなりに大人になったのですね』

 よくわからないがそう感心し、最上は空咳を1つした。はいはい、と促せば、今度こそ徹底したタイラへの説教が始まる。もう何度も聞いた話ばかりだ。それでもまだ――――それでもまだ自分のことを更生(矯正か)できると思っているのかと、タイラは辟易する。

 理想とする形に直すために、トンカチで歪な部分を叩いたところで。どうにもならないとは最上もわかっているだろう。そんなことで形を変えるほど、やわらかい素材ではできていない。

『お前が何を愛したとて』

 そう、最上は言った。『お前には何もないのだから。何も与えてはやれないのだから』と、きっぱり断言する。

「だから、何だ?」

『あまり期待させないようにしなさい、と言っているのですよ』

 期待、とオウム返しして、タイラは瞬きをした。そんな短い言葉が、浮かんでは消える。曖昧すぎて、実感を伴わない言葉だと思った。ようやく、「期待ってのはなんだろうな。俺にか? 誰が、何を期待するんだ」と尋ねてみる。想定通りというか、聞きなれた深いため息が聞こえた。

『では、あなたはあの子らの親代わりにでもなるつもりですか』

「ならない」

『ならない? なれない、の間違いでしょう。何にせよ、“NO”が前提の命題であるならば“YES”も選択肢にあるような素振りを見せるべきではないと言っているのですよ。それは詐欺師の手口です』

「詐欺師……?」

 同じようなことを、最近言われたような気がする。あれは誰に、いつ言われたのだったか。つい最近のことだというのに、上手く記憶として脳に定着していない。腕を組んで思案顔をするタイラは、やがて思いついたように膝を打つ。

「それはあれか。責任を取るつもりもないのに、女に“手料理が食いたい”とかのたまうのは結婚詐欺に近いって話か?」

 ガチャン、と大きな音を立てて通話は終了した。電話を一方的に切られたときの、無慈悲な機械音を聞きながらタイラは眉を顰める。「あのババア、切りやがった」と毒づけば、いきなり着信音が鳴った。応答すれば、すぐに『誰がババアですか』と最上の声がする。なぜわかったのかと、タイラは首をかしげた。

『いいですか、病院には連れて行ったのでしょうから。お前がするべきことは“栄養を摂らせること”“水分をとらせること”“睡眠をとらせること”“薬を飲ませること”だけです』

「あんたのそういうクソ真面目なところ大好き」

『……それと』

「それと?」

『悪い夢を見るようだったら、ただ手をつないでいてやりなさい。それだけで大丈夫です。昔から夢を見なかったお前にはわからないでしょうが』

 何か、祈るような沈黙があった。それは恐らく最上が、何かに懸けるように声を殺している空気だった。それこそ最上が何を“期待”しているのかタイラにはわからず、わからないから当惑した。

「それはアドバイス、か?」

『私は、』

 どこか言ったことに後悔するような響きで、最上は言葉を詰まらせる。『私は、お前を真人間にするなどということはもう諦めているのですよ。でも、そうですね』と、言って最上はため息をついた。それは、先ほどのこれ見よがしなものとは違う。仕方なさそうな、苦笑を伴ったため息だった。

『やってみなさい。それがただの“ごっこ遊び”だったとしても、手を抜かないのがお前だ。それは私も、わかっているから。私は決して、お前に期待などしていません。ただ、手加減を知らないお前に、彼らがどれだけ応えられるのか。それだけは、見守ろうと思いますから』

 返事を待つような一拍があり、やがて電話は切れた。タイラは物言わぬ機械をぼんやりと見て「ごっこ遊び、ね」と呟く。他人からどう見られようと知ったことではないが。

 それなら、『ままごと』と『本物』の違いはどこにある?

 血が繋がっていれば本物か。ただ、それだけか。下らないとは思わないが、「本当にそれだけか」と拍子抜けするような気にはなった。

 煙草を咥え、壁に背を預けてしゃがむ。新しく買ったライターで、丁寧に火をつけた。

「そうだな」

 煙を吐き出すでもなく、ぽつりとこぼす。口から漏れ出した灰色が、吸いこまれるように空へ消えていった。「ごっこ遊びに違いない、何も思い通りにはならない遊びだ」と、目を閉じる。しかしすぐに笑って、緩慢な動きで立ち上がった。


 たとえその小さな手を取ったのが、他人から見て他愛ないままごとだったとしても。それでも手を伸ばした挑戦者チャレンジャーに対し、手を抜けるはずもない。


 病室に戻ると、柊にひとしきり文句を言われた。早く連れて帰れとうるさい。肩をすくめて見せ、タイラは片膝をついて眠っているユウキの前髪を上げた。自分の額と少年の額を合わせ、体温を感じる。子供特有の温かさとは別の、確かに病熱のようだった。

 何か一生懸命に考えて、悩んで落ち込んで、熱まで出した子供を背負う。その小さな体は、いつか抱き上げた時よりも重みを増しているような気がした。無意識のようにタイラの首に回された腕は、存外に力強かった。




☮☮☮




 微かな揺れの中で、ユウキは目を覚ます。体を預けている大きな背中だけで、それがタイラのものだとわかった。なぜだろう、体がじんわりと温かかった。「あのね」と、後ろで都の声が聞こえた。ようやく、都が自分の背中を支えてくれていることに気づいた。

「あなたが死ぬ夢を見たんですって、ユウキ」

 驚いて、ユウキは思わず声をあげてしまうところだった。何とか声を押し殺し、目をつむって寝たふりをする。

「あなたが首を括って、それで」と言いづらそうに都は続けた。それに対しタイラが、なんでもなさそうに「俺はまだ死なないよ」と答える。

「少なくとも、首を括って死んだりしないよ」

 きっぱりと、言う。ユウキは少し泣きたくなった。タイラの肩を掴む手に、力が入らないように気を付ける。

 そうね、と都がうなづいたようだった。しばらく沈黙が続く。心地いい、穏やかさだった。

 ユウキは薄く目を開けて、夕日で赤く染まる空を見た。ふと、今はいない父や母のことを思い出す。一度もこうして3人で歩いたことはなかった。父に背負われたこともなければ、熱を出したとき母に背中をさすられた記憶もない。愛がなかったわけじゃない、と理解している。ただ、父も母もそんな余裕がなかっただけだ。自分らのことに精一杯で、ユウキのことを見られなかっただけだ。そうして、最後までユウキのことなんか考える隙もなく、自分の息子ではなくただそこにいる者として助けを求め――――死んでいった。

 ほしかったんだ、こんなものが。こんなものでよかったんだ。

「たとえばの話だけれど、タイラ」

 不意に都がそう切り出す。ん? とタイラは短く返した。

「私たちの出会いが、違ったものだったら」

「そんな仮定に何の意味もないことなんて、君にはわかるだろうに」

「そうね、でも、私は恥知らずだから言うのよ。許してね」

 都が立ち止まる。気づいたタイラも立ち止まり、ゆっくりと都が一歩進んでやはりユウキの背中に手をあてた。

「きっと他のどんな出会い方をしても、こうして一緒に歩けはしなかった。この子が熱を出して、あなたが負ぶって、それを見守ることができて……良かった、ってちょっと思ってしまうの。こうしてユウキの背中を支えるために、生きてきたような気がしちゃうのよ。みんなと他愛ない日常を紡ぐために、私の今まではあったって。盲目的に、そう思い込んでしまう時があるの」

 どうやら顔を見合わせているらしいタイラと都は、3秒間そのまま黙っていた。ようやくタイラが、「ひどいエゴだな」とコメントする。都も「そうね」と同意した。

「あなたを巻き込んでおいて、こんなことを言うのは」

「勘違いすんなよ、どちらかというと巻き込んだのは俺だ」

 それから、タイラは目を細めて笑う。「でも、そうだな。俺もそう思うよ」と静かに告げた。「君も君の娘も、ユウキもあいつらも、そうなんだろうな。ちょっとでも笑えるように、今日も生きるんだろ。違いないよ」と。その表情を見ていた都が、「……初めて会った時、そういえばあなたは言っていたわ」と呟く。

「“自分の幸せのために、誰かの幸せのために動くことの、何が悪い”って。“人は幸せのために生きているし誰かを幸せにするために生きている”って、あなたそう言っていたわ」

「そんなこと言ったか?」

「言った。とても意外だったから、覚えているの。そんなのことを、言うものだとは思わなかったから」

 俺は、とだけ言って、何か躊躇するようにタイラは視線をさまよわせる。そんなタイラと目を合わせようと、都が背伸びをしてひょこひょことその視線を追いかけた。「俺は」ともう一度言ってタイラは空咳をする。

「そんなにおかしいかな? いつも、そう突拍子もないことを言っているつもりはないよ。俺だってさ、俺だって」

「ふふ、」

「君らが、あいつらが、笑って過ごせる今日であればいいと思ったりもするんだぜ。笑うなよ、なんで笑うんだよ。わかんねえよ」

 ふてくされたような顔のタイラは、「君と話していると調子が狂うな」とも言った。都は楽しそうに、声を出して笑っている。タイラの背中で、ユウキもちょっと笑う。ふと、都がユウキを見た。思わず顔を伏せて寝たふりをするが、もう遅い。

「起きたの、ユウキ」と都が声をかけてきた。「おう、ユウキ。何か食いたいもんあるか」とタイラまで尋ねてくる。ユウキはタイラの背中に顔をくっつけたまま、答えた。

「ハンバーグ」

「おいおい、もうちょっと消化にいいもん食えよ」

 タイラの肩を掴む手に、そっと力を込める。夕日はすっかり地平線に飲み込まれてしまって、辺りは薄暗い。

 ――――こんなものでよかったんだ。

 心のどこかで、父と母のことを許せていなかった。自分が助けられなかったから、と罪悪感を抱くのと同じくらいには、父と母を恨んでいた。

(おとうさん、おかあさん。こんなものでよかったんだよ。いっしょに、歩いたりするだけでよかったんだ。ぼくのほしいものなんて、そんなものだったのに)

 ついに2人は、それを知らないままで死んでしまった。それが、時々無性に恨めしい時がある。

「ぼくは、おとうさんとおかあさんのこと、ゆるせるかなぁ」

 独り言のように呟いた。それを、ごく自然にタイラが拾う。

「いいんじゃねえかな、別に許さなくても」

「でも、ぼく、できればゆるしてあげたいな」

「ん……なら、許せ。勝手に『許してやるぞ!』って宣言しろ。で、『こっちが許したんだからそっちも許せ!』って言え」

「かってに? だいじょうぶかなぁ」

「構うな。どうせこの世界は、死んだやつのためにできてない。生きてるお前がこれからも楽しく生きるために、たくさん勝手なことを言え。そもそもそれを受け止めんのが、親の役目だろ」

 そっか、と小さな声で言って、ユウキは隣を歩く都を見た。都は目を細めて、ユウキにうなづき返す。

 ぼくの仲間。ぼくの友だち。ぼくの大切な。ぼくの、家族。

(ねえ、おとうさん。おかあさん。ゆるしてくれるよね。それでいいよね。2人はぼくの本当の家族だけど、でもいまの家族も、にせものじゃないって。そう思っても、ゆるしてくれるよね?)

 夜が深くなるほど賑わいを増す街が、今日は少しだけ静かだった。うっすらと、星が瞬き始める。今はただ――――家路を歩く自分たちのこと、そして家で待っているみんなのことだけを、考えていようと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る