episode25 揺らぎが生じることを想定していない存在強度について

 何か駄々をこねるような雰囲気の東間を蹴って離れようとしながら、タイラはため息をつく。東間はすっかり立ち直ったようで、先ほどまで縛られていたような手首を撫でつつけらけら笑っていた。

「オレ、気を付けて帰ります!」

「自己申告かよ」

 女に気をつけろよ、とタイラは言う。「笑ってるんですか」と不満そうに東間が言った。そんな東間をじろじろ見て、タイラは自分のジャケットに手を突っ込みながら吹き出す。「お前、女にモテねえんだろうが男にはモテそうだから気をつけろよ」と指で東間の額を弾いた。

 それから軽やかに東間から離れて、タイラはひらりと手を振って見せる。

「じゃあな、気をつけて帰れ」

「なんでオレ、女にモテないってわかるんですかあ! アニキぃ、教えてくださいよお!」

 ちょっと笑いながら前を向き、タイラはふと立ち止まった。どこか真面目そうな男が、眼鏡を押し上げてこちらに会釈している。タイラが瞬きをしている隙に、その横を東間が音を超えるかと思うような速さで駆け抜けていった。動きを止めているタイラを尻目に、東間がその眼鏡の男に何やら必死に喚いている。

「違うんだ、この人は違うんだよ、平和一とは……そのぅ、関係なくて」

 むしろ言わないほうがマシのような嘘をつこうとする東間に、タイラは笑いながら「いや俺がタイラワイチだよ」と口をはさんだ。「アニキは黙って!」と必死そうに東間が言う。どうやら、この眼鏡をかけた男が東間の依頼主で間違いなさそうだ。

「違うんだよ、そんなに悪い人じゃないんだこの人。いや、確かに悪い人なんだけど、殺すほどじゃないっていうか……殺すほど……めっちゃ難しい」

 眼鏡の男は、マイペースに小首をかしげる。初めて、口を開いた。

「東間くん、何を物騒なこと言っているの。“タイラワイチさん”、見つけてくれたんじゃないんですか?」

 きょとんとした東間の横をすり抜けて、男はタイラに手を差し出してくる。人好きのする丸顔だった。

「こんにちは、タイラワイチさん。はじめまして、タイラワイチと申します」

 しばらく腕を組んで自分の顎を撫でていたタイラだったが、どうやら思い当たった様子でその手を握り返す。

「ああ、兄弟。よく来たな、コーヒーは好きか?」

 男は明るく笑って、「ええもちろん」と答えた。




☮☮☮




 本名はヤンといいます、と男は言う。海の外から遥々この国にたどり着き、タイラワイチの名を買ったらしい。

「なんで俺の名前だったんだ」とコーヒーカップを口元に運びながらタイラは尋ねる。楊は、どこか照れくさそうに「いいお名前でしたので」と答えた。

「それに、免許証。あなた、写真を消さないで売りに出していたでしょう」

「そうだったか?」

「ほかにそういう免許証、なかったんですよ。僕は、できれば整形して違う人になりたかったので」

「なるほど」

 コーヒーを一口飲んで、楊は砂糖を少し多めに投入する。「でも結局、免許証の写真のほうを変えちゃいました、ごめんなさい」と真面目な顔で頭を下げた。「買ったのはあんたなんだから好きにすればいい」とタイラは答える。

「自分と同じ顔のやつがいても困る」

「……どうしましたか、ぼく、あなたと同じ顔をしたら。あなたになり替わろうとしたら」

「お勧めしないけどな。どうもこうもねえよ、あんたが平和一だ。そう名乗っている俺は偽物だ」

 コーヒーを混ぜる、楊の手が止まった。じっとタイラを見て、微笑む。

「ぼく、あなたは死んだものと思っていました。こんな風に免許証や印鑑、売りに出す人、大体死んだ人なので」

「そりゃ残念だったな。死んでいたほうが都合が良かったろ」

 甘くなったコーヒーに満足したのか、楊は一気に飲み干した。それから口元を拭って、「まるで自分じゃないみたいに話すんですね」と首をかしげる。頬杖をついたタイラが、目を細めて楊を見た。しばらく、2人とも黙っていた。

「楊さん、っていったか? なぜ今更、俺のことを探していたんだ」

「生きてるなら、いつか会いたいと思ってました」

 物好きだな、とタイラはちょっと笑う。楊がマイペースに自分のリュックを開けた。「これをお返ししたくて」と取り出したものは、どうやら革のアルバムのようだった。それを見て、タイラは目を細める。

「どうした? 思い出の写真集でも見せるつもりか」

「あなたの、ですね」

「俺の?」

 アルバムを開いてみて、「ああ」とタイラが合点のいった声をあげた。「こんなものを、学生時代の終わりにもらったかもしれないな」と。楊はにっこり笑って、「あなた、あんまり写ってないですね」と言いながらページをめくって見せた。

「こんなものを、わざわざ返しに?」

「そうですね……でも、あなたに会いたかったの、本当です。僕に新しい人生くれた人、生きていればいいなと思っていました」

 そうか、とタイラが呟く。アルバムを閉じながら、ぼんやりと呟く。

「顔を変えなかったあんたには、このアルバムは確かに不要だろうな」

 そう言って、少し困ったように革の表紙を指で撫でた。うっすらと積もる埃が、指の腹につく。「あなたにも?」と楊が尋ねた。「ん?」とタイラは顔をあげて聞き返す。

「あなたにも、不要なものですか」

 黙って思案するタイラをよそに、楊は「どうして、自分を証明する全部、売ってしまったんですか」と重ねて尋ねた。タイラはぼんやりと「金になったからだ」と答える。

 新しくココアを頼みながら、楊が肩肘をついた。

「お金に困っていたんですか」

「困っていた……こともあったな、金はあればあるほどいい。でも、そうだな」

 冷めたコーヒーを啜りながら、タイラは肩をすくめる。

「単に、面白かっただけかもしれない。俺の手元にあっても無価値なものが、売りに出せば金になるっていうのが」

 楊が、瞬きをしてタイラを見た。「無価値、ですか」と呟いてため息をつく。何やら考えていた様子だったが、やがて少し笑った。

「僕が、あなたに成り代わるなんてできないでしょうね。あなた、生きてるだけで自分を証明し続けてる。この街の人、あなたが生きてる限りあなたのこと、本物だってわかるでしょう」

「そんなのはさ、当たり前なんだよ。誰だって、唯一無二だろ」

「生きてる間、きっとそうなんだと思います。でも、死んだら何も残らないかもしれないんですよ。あなたが売り払ったもの、捨て去ったものには、死んでからもあなたの存在を証明し続ける“価値”のあるものだって、あったかもしれないんですよ」

 あなたの仲間に会いました、と楊は真面目な顔で言う。少しだけ、タイラが驚いたように目を丸くした。

「彼らがあなたのことを忘れたら、誰も何も、あなたの“かつて存在していたこと”を証明できないかもしれない。あなたは、生きていたこともなかったことにされるかもしれない」

 腕を組んで、じっと見ていたタイラが、不意に「それでいいんじゃないか?」と笑った。

「この世界はさ、死んだやつのためにはできてねえんだよ」と。

 虚を突かれたような表情の楊が、やがて困ったように笑いながらアルバムをリュックに戻す。どうやら、タイラにそれを返そうという気もなくなってしまったようだ。最後にぽつりと、「あなたの仲間は大変だな」とだけ、言った。




☮☮☮




 朝方のことだ。料理の仕込みをしていたカツトシは、ドアの向こうにタイラの姿を見た。昨夜、“タイラワイチだ”と名乗った男も一緒のようだ。ふらつく男を支えながら、タイラがドアを開けて入ってくる。

「あんた、それでも漁師かよ」

 タイラにそう笑われ、男が明瞭でない言葉を発した。恐らく「いますよ、下戸の漁師も」と答えたのだろう。カツトシは手を止めて、「誰なの?」と眉をひそめた。男とは昨夜会ってはいるが、結局何者なのかわかっていない。タイラは軽く手を上げて見せて、何も答えずに男を連れて階段を上がっていってしまう。カツトシは肩をすくめて、また野菜などを切り始めた。

 やがて、タイラが戻ってくる。

「早起きじゃねえか、カツトシ」

「こんな時間まで飲んでたわけ?」

「そうなるな」

 禁酒禁酒、とカツトシはぞんざいに言った。それを聞き流して、タイラは腕を組む。

「俺、改名しようかな」

「はあ?」

 また突拍子もないことを、とタイラを見るが、彼は存外真面目な顔で考え込んでいた。カツトシは呆れて手を止める。仕方なく、「候補は?」とまず聞いてみた。タイラはお手上げのポーズを取りながら、「さすがに『友坂優吾』を名乗ったらユウキが怒るよなぁ」と呟く。

「じゃあ、平和一ヘイワハジメにすればいいじゃない。わかりやすくていいと思うけど」

「……“ヘイワ”って呼ばれるのも“ハジメ”って呼ばれるのも嫌だな」

「何なのよ、わがまま言わないでくれる? 大体、何でいきなりそんなこと」

 カウンターにもたれかかりながら、タイラは上を指さした。恐らく、運んできた男を示しているのだろう。「あれ、タイラワイチなんだってさ」と何でもないことのようにタイラが言った。

「そんなこと、言ってたけど。どういう意味?」

「どういう意味も何もねえよ。俺が売った名前を、あの男が買ったんだ」

「……ああ。そういえば、売ったとか、あんた昔言ってたわね」

「で、な。売ったもんをいつまでも使ってるのはアレだろ。詐欺に近い」

 真剣にそんなことを言うタイラを、カツトシはまじまじと見る。どうした、とタイラは怪訝そうな顔だ。肩をすくめながら、「今さらそんなこと、と思って」と仕方なく言った。

「今さら?」

「だってあんた、元から詐欺師じゃないの」

「俺のどこがだよ」

「時々、言うでしょ。あんた、若い子たちに『俺はそう強くない』とか、からかって言うじゃない。あれ、可哀想よ。詐欺だわ」

 タイラがきょとんとして、口を開ける。何を言うでもなく、ただカツトシのことを見ていた。カツトシはこほんと1つ咳をしてみせて、片目をつむる。

「僕の故郷くににはね、“毒のある虫には誰も近づくまい、牙ある獣に警戒しない者はいまい。それを知ってさえいれば”って言葉があるのよ。もともと『知識は大事』って話だけど、そこから“毒を隠す虫”“牙を隠す獣”っていう言葉が、狡猾な人をさすようになって」

「……狡猾、か。牙のある獣とは、何が何でも共存できないって感じだな」

「危険なものは、その性質も凶悪であるっていう前提が成り立つのよ、昔のことわざなんだから」

 少しムッとしながら、カツトシはタイラを指さした。あんたは、と言って一瞬だけ口にするのをためらう。「あんたの、時々見せるその平和ボケした顔は、毒を隠す虫だとか牙を隠す獣だとかと一緒なんだから。狡猾ってよりもっとタチの悪い詐欺なんだから」と早口で言った。

「今さら、『この名前を使う権利をあなたに売りましたけど、だからって自分は使わないとは言ってません』ぐらいのことで僕はびっくりしないけど。だって本当に売ってるんだし」

「……お前のそういう考え方って、昔からなのか? それとも荒木章に仕込まれたもんか?」

 どうだか、と答えようとしたが、聞いてきた当のタイラが興味のなさそうな顔をしたのでやめた。その代わり、料理の仕込みも上の空で考えてみる。

 昔、たとえばこの街に来る前の自分だったらどうだろう。『筋を通して名前を捨てるべき』と憤慨したろうか。これが、自分とは何の関係もない他人の話だったら? 今後その名前を呼ぶことのない他人だったら、もしかしたら無責任に『名前を変えるべき』と促したかもしれない。

 簡単な話だった。カツトシは、タイラワイチという男に何一つ変わってほしくなかっただけなのだ。

 あんたが良くても僕らが良くないのよ、と言おうとして、やめた。気恥ずかしさに、少しうつむく。「いいじゃない、あんた、そのままでも」とだけ呟いた。タイラは腕を組んで、それでも納得のいかない顔をしている。

「いや……名前を変えたらさぞ不便だろうと今考えたんだが、大して不便なことも思いつかなくてな。それなら別に、変えても」

「だから!」

 思わず、大きな声を出してしまってカツトシは拳を握る。慌てて鍋を火にかけて、ごまかすように「そのままでもいいでしょ、面倒くさい」と続けた。きょとんとしたようなタイラが、やがて喉を鳴らして笑う。そうか、とあっさり引き下がった。お前たちが面倒なら別にいいか、と。

「大体ね、あんたが名前を変えたところで、僕らがタイラって呼び続けてたら意味ないでしょ。言っとくけど、僕らはあんたの都合なんかで呼び方を変えたりしないからね」

「そうだな……お前ら、意味のわからんところで頑固だからな」

 片肘を立てて笑いながら、「誰も呼ばねえ名前なら簡単に変えられたんだが、お前らが呼ぶんじゃ仕方ねえな」と目を細める。カツトシは内心で「やっとわかったか」と鼻を鳴らしていた。が、不意にタイラが真顔になって顔を上げる。

「じゃあ、せめて下の名前だけでも変えとくか?」

 そういうことじゃない。

 危うく包丁を投げつけそうになりながら、カツトシは「バカなの?」と顔をしかめていた。




☮☮☮




 起き抜けに、「俺もタイラワイチを名乗っていて問題ないか」と尋ねたタイラに、楊はどこか嬉しそうに「もちろんです」と答える。それから一歩引いて、タイラの仲間たちに楊が目線を遣った。どこか『大変ですね』というようなそんな視線に、カツトシは肩をすくめて応える。目を細めた楊が、タイラに向き直った。

「平和一さん、昨日あなたが言ったこと、肯定します。あなたは唯一無二だし、僕も唯一無二だから、どちらも本物でいい」

「誰もが、な」

「あなたは、不思議な人ですね。あなたがいる限り、と思える」

 瞬きをして、タイラは「それがあんたに必要だったんなら」とだけ言う。楊にだけ聞こえたようで、しっかりと頷いた。それから「送っていくか?」とタイラが尋ねる。

「いえ……東間くんにも挨拶していきますので」

「あいつは連れて行かないのか」

「それは東間くんの自由に。もともとついて来てしまっただけなので……」

「なんで、あいつに俺の写真を見せなかったんだ?」

 驚いた顔をして、楊は首をかしげた。「だって東間くん、『タイラワイチならオレが知ってる』と言うので頼んだんですよ」と笑う。タイラは呆れて、「どうしようもないな、あいつは」とため息をついた。

 それじゃあ、と楊が手を上げる。

「もう、会うことはないでしょうが」

「ああ。元気でな」

 へらっと笑いながらタイラも手を振った。その陰で、控えめに仲間たちも手を振る。それを見て、こらえきれないように楊が笑った。

「お仲間を大切に」と柔らかく告げながら。


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