episode24 馬鹿はバケモノの空虚を見る

 頭をかいてへらへらと笑いながら、イマダは回転イスの上で膝を立てる。

「何だよぉ、だっておもしれーじゃん」

 カウンターに肘をついた麗美が、「私は本当のことしか言ってないから」と面白くもなさそうに言ってのけた。

 自分たちの家でもある酒場の中で、ユメノたちはイマダと麗美を囲んでいる。2人とも自分から来店したのだが、そこはそれ。「2人のせいでめんどくさいことになってるんだよ」と頬を膨らませたユメノを筆頭に、例の金髪――――東間のことで、口々に文句を言い始めた。

「べっつに、害になりそうな子じゃなかったじゃない。可愛くて、タイラ好みでしょ」

「そーだよ。つうか、情報ゼロでこんな街来るから質の悪い情報掴まされるんだっての」

 2人とも、まったく悪びれた様子はない。東間に、タイラワイチとは凶悪な殺人鬼であるというイメージを刷り込んだのは主にこの2人である。イマダは面白半分に、麗美は事実として。しかしそのおかげで、東間の中のイメージとタイラワイチ本人の間に激しい乖離が生まれてしまったらしく、東間はまんまとタイラをタイラと知らずに懐いてしまったのだ。

「大体、あのパツキンの兄ちゃんがタイラワイチに懐いたのは俺らのせいじゃなくねえか?」

「問題はそこじゃないの! こっちは、トーマくんがいるとめっちゃ気使うんだから! ひと言でも『タイラ』って呼びかけたら、もしかしたらバトルロワイヤルかもしれないじゃん」

「頼まれてもいないことでわざわざ気を回しすぎると、胃が痛くなっちまうぞ、おじょーさん」

 ムッとしたままカウンターに伏せるユメノを見て、麗美が淡泊に「そうよ」と呟いた。

「どうせあの男、バトルロワイヤルでも負けやしないんだし」

「タイラの心配なんかしてないよ。トーマくんが可哀想でしょ、きっといろんな意味で満身創痍になっちゃうよ」

「バカは一回痛い目みねーとわかんねえんだからしょうがない」

 そんな言い方をしなくても、と都が難色を示す。途端にイマダは彼女の肩を抱き、「悪かったよ、マイアンジェロ。そう難しい顔すんなって」などと笑った。前に立っていたカツトシが、すぐさま迷いなくフォークをイマダに向かって突き出す。本当に心底怯えた様子で、イマダは椅子から転がり落ちた。芋虫のようにどうにか椅子にしがみつきながら、「くっそう……タイラの仕込みかよ」と悪態をつく。「タイラなんかに仕込まれなくてもこれくらいできますぅ」とカツトシは片眼をつむってみせた。

 椅子に座りなおしたイマダが、どことなくしおらしい様子でため息をつく。

「はあ……しかし、多少のドッキリにはなるんじゃねえかと思ったんだがなぁ。タイラワイチの情けねえ顔も見れないなんて、話を盛ってやった甲斐もねえよ。つまんねー」

「あんた、ほんとにタイラのこと好きよね」

 イマダは横目で麗美を見て、「いやいやレミチャンには負けるよー」となぜか裏声で言い放った。カウンターの下で、麗美はイマダの足を思いきり蹴る。痛そうに悶絶しながらも、イマダは「またタイラの、虚を突かれたようなさ、なっさけない顔が見たいよなぁ」と少年のような顔をした。しばらく悦に入ってから、周囲との温度差でも感じたのかハッとする。

「そうか、あんたら、まだタイラと暮らしてたかだか4年ぐらいだもんな。あいつがトラックに轢かれた時は知らないか」

「まーた始まった。あんたちょっと黙ったら? 命は惜しいでしょ」

 それでも話す気満々のイマダを呆れてみながら、「じゃあ私が話すから」と麗美は肩をすくめた。

「ただの喧嘩よ。例にもれず、タイラの1人勝ちだった。まあ、私も関わってたからそこにいたんだけど、ほんとムカつくくらい圧勝だったわけよ。で、そこに騒ぎを聞きつけたパトが寄ってきてね。タイラも面倒ごとが嫌で逃げたわけ。そしたら、細い路地裏抜けた先で……ドーンと。トラックに、弾き飛ばされたの。乗ってたのは、さっきまで喧嘩してた連中の1人で、つまり喧嘩にルールはないだろってことでわざわざあいつのこと轢きに走ってきたってわけ」

「いやあ、マジで見物だったぜアレは。あのタイラワイチの、驚愕の顔。まさかトラックなんか通れる道でもなかったからな。視界が開けた瞬間に、でけえトラックが自分だけを狙ってきてんだ。そりゃ、びっくりどころじゃねえよ。弾き飛ばされて仰向けに転がった後でさえ、意味の分からない顔で呆然としていた。……でもまあ、その次の瞬間には立ち上がって運転手を引きずり降ろそうとしてたけどな」

「全力で止めたっての。あいつ、血吐きながらトラックに穴あくほど蹴り飛ばして、こっちの言葉なんか全然聞こえてなかった」

「で、その時タイラが吐き捨てた言葉が」

 一瞬でその時の記憶がよみがえったのか、麗美までいきなり吹き出して笑う。それからイマダと麗美が、声をそろえて言った。

「『交通ルールは守れよ、危ないだろうが』」

 笑いすぎて息も絶え絶えという様子の2人が、「どこにキレてんのよ」「その理屈はおかしいだろ」と言い合う。ひいひいと肩を震わせながら、イマダは目をこすった。

「いやぁ、トラックに関しては俺が相手のやつらをけしかけたんだけどさ、あれは上手くいったよなぁ」

 そんなイマダを尻目に、麗美のほうはすでに表情をなくしていた。見ていた仲間たちも、顔をこわばらせて背筋を伸ばす。「へえ……?」と、低い声がよく通った。瞬間、反射的な動きでイマダが振り返り、そこにタイラの姿を認めるか否かという速さで自主的に床に正座をする。

「へ、へへ……タイラくんおかえりぃ。椅子、あっためておいたヨ」

「面白い話をしているな、ラムちゃんはいっつも面白いもんなぁ」

 冷や汗なのか脂汗なのか、イマダの髪が濡れて肌にくっつき始めた。上目遣いでタイラを見ながら、「もう時効だろ?」と懇願するような声で言う。

「いやいや、何のことかわからねえよ。俺はさ、ただ面白い話を俺にも聞かせてほしくてさ」

「ぜんっぜん、全然面白くないれす。大事なお友達が大怪我した話なんで」

「聞かせてくれよ、今度は俺だけに」

 言って、タイラはイマダを引きずっていこうとした。イマダは死に物狂いで抵抗し、最後まで「ドレミ! ドレミー!」と叫んでいた。2人の姿が店から消えて、麗美は目を細める。

来人くるひと……さして惜しくもないやつを亡くしたわ」

 ノゾムとユメノが、そっとイマダを思って合掌する。嬉しそうに、実結もその真似をして手を合わせた。

 さて、と立ち上がったのはユメノだ。「ちょっとコンビニ行ってくるけど」と言えば、いつもなら大抵「自分も」と言ってくる何人かがただ「行ってらっしゃい」とだけ言ってきた。どうやら今日は、誰も乗り気でないようだ。仕方なく1人で立ち上がり、ユメノは外へ出る。

 東間とばったり会ったのは、帰り道のことだった。いつもの人懐こそうな顔で、駆け寄ってくる。

「お嬢!」

「お嬢って……任侠の世界じゃないんだよ」

 それでも東間は、ひどく嬉しそうにユメノの横につき、「お嬢、お嬢」とずっと話しかけてきた。恐らく尻尾でも生えていれば、それは引きちぎれんばかりに振られていただろう。ユメノに対して特別こう親しみを持っているわけではなく、東間はタイラの仲間に対して敬意を抱いているようだった。よく、わからない。そこまで平和一の、何に惹かれているのだろう。その名前さえ知らないままに。

 あのさ、とユメノは俯き気味に口を開いた。

「トーマくんさ、タイラに勝てないと思うよ」

「えっ! お嬢、タイラワイチのこと知ってんのか」

「知ってる。強いよ。カミサマがさ、設定間違っちゃって、なんかバグってんだよアイツ。だから強い。アイツの強さは、バグ」

「バグ? 失敗ってことか?」

 不意に立ち止まったユメノの顔を、東間が覗き込む。ユメノはそっと俯いて、静かに瞼を閉じてみた。

 なんだろう、この感じ。最後の最後で計算の答えが合わず、もう式を見直すことも億劫で、ただもやもやと間違えた答えを見ているようだった。たとえば、と考えてみる。

 この言葉で平和一は傷つくだろうか。

 考えるまでもない。傷つかない。そう結論付けて、ようやくユメノは顔を上げることができる。

 平和一は傷つかない。「本当にお前は失礼なやつだな」なんてどうでもよさそうに言って、5分後には忘れているだろう。だから、

 だから?

 あの男はバグっている。故障などではなくて、元から設計ミスがある。どんなに上から塗装しても補強しても、埋まらない穴がある。

「お嬢? どうしたんだよ、お腹痛いか? なんでそんな、つらそうな顔してんだ」

 ユメノは頭を振って「なんでもないよ」と答えた。何でもないことだった。今までずっと、どこかでわかっていたことだ。今さら何も、期待することなどない。

 ため息まじりに微笑んで、ユメノは東間をぐっと押す。「またね、トーマくん。タイラのこと探すのやめたほうがいいよ」とだけ言って、家路を駆けた。東間の「気いつけてな」という声を聞きながら。

 酒場に戻ってきたユメノは、知らない男とカツトシが話しているのを見た。どこか席についているのであれば客かとも思ったが、どうやら個人的な用であるようだ。ユメノは何も言わずに近づき、話を聞いた。男性は、ひどく小さな写真をカウンターに出して、「この方を知りませんか」と尋ねている。ユメノが目を凝らすと、それは平和一の写真だった。思わず、ユメノが横から「知らないけど」と答えてしまう。男性が驚いたようにユメノを見て、「お店のご関係者の方ですか」と丁寧に聞かれた。

「あたし、ここに住んでるの。ね、知らないよね、アイちゃん」

「えぇ? ユメノちゃん、これ」

「知らないよ! おじさん、誰なの」

 カツトシのことすら遮って、ユメノは警戒心を丸出しに男性に詰め寄る。男性は苦笑しながら、「失礼。名乗るのが遅れました」と言いながら、会釈した。

「僕は、タイラワイチと申します。平和の平に平和の和、漢数字の一で……平和一です」

 ユメノとカツトシは腕を組み、彼の発言をゆっくりと咀嚼する。それから思わずという風に「はぁ?」と声をそろえた。




☮☮☮




 ラーメン屋の主人から声をかけられ、東間は快活に手を振り返す。上機嫌に街を歩いた。タイラと(東間本人は彼をそうとは知らないが)街を歩くほど、知人が多くなっていく。冷たい印象だったこの街のことも、今ではとても気に入っていた。

 歩いていると、途中で道にへたりこんだ女に気づく。この街ではそういったある種のパフォーマンスも珍しいものではないが、そんなことなど知らない東間は肝を冷やして女に近づいた。女はめそめそと泣いている。が、もう少しじっと見ればわかっただろう。女の頬に涙が伝っているような痕跡がないことに。

「オイ、姉ちゃん大丈夫か」

「……何よアンタ。ほっといてくれる?」

「そうはいかねえよ、女が泣いてたらハンカチぐらい差し出さなきゃなんねー。持ってねえけど」

 すると女はいきなりニコッと笑い、東間の首に抱き着いた。ふわりと、強い酒のにおいがする。「お兄さん優しいのね、助けてちょうだい、さみしいの」と甘ったれた声で言われ、東間は頭がくらくらするのを感じた。

「ちょ、離せよ」

「いやよ、いや。私のこと抱きしめてぇ。もう歩けないの、ホテル行こうよぉ」

 戸惑いながら、東間は「わかったから」と答える。それから女をそのまま姫抱きし、きょろきょろと辺りを見渡した。

「どこのホテルだよ、送ってってやる」

 きゃっきゃとはしゃいだ声を出す女を、言われるがままにホテルの部屋まで送る。記憶はそこで、途絶えた。




☮☮☮




 目が覚めた時、腹なのか腰なのか鈍痛がした。目の前には男が座っていて、こちらを睨み付けている。東間は、自分の腕が頭の上で縛られていることに気付いた。「おい若造」と、男が言う。

「なぜ俺の女に手を出した」

 ぽかんとして、東間は首を横に振った。「何もしてねえよ」と、回らない頭で呟く。と同時に、『これはもしかしたらかなりヤバい状況なのでは』とようやく思い始めていた。

「ふざけんな、こんないい女と一緒にいて何もなかっただぁ?」

「いや、ないから。ぜんっぜんないから。あんたの女だって知らなかったし、オレ、部屋に送っただけだし、」

 男が、いきなり壁を蹴りつける。「ぐちゃぐちゃ言ってんじゃねえぞこらカス」と喚いた。大して怖くはなかったが、東間は唾が飛んでこないよう少し身を竦める。

「ねえ、ミツルン。ほんとにその人と何もしてないから」

 そう言ったのは、男の後ろでマニキュア塗りながら様子を見ていた女だ。「ヤリ損ねた上に脅されるなんて可哀想だよ、やめてあげてよ」と無感動に言ってのけた。男が、もはや言葉の体もなしていないような荒い声で女に向かって何か喚く。それからすぐに東間へ向き直り、「死にたいのか、お前はよお」と血走った眼で言った。何をそこまで必死になっているのか、東間にはわからない。わからないが、とりあえず殺されるのは困る。

「いや……怒ってんなら謝るぜ? でもよ、ほんと何もなかったんだ。その姉ちゃんも言ってんだろ」

「馴れ馴れしい口きくんじゃねえぞオラ」

 いきなり男が、東間の股間に足を乗せた。「潰してやらあ」と男は言う。東間はさすがに慌てて、「それはおかしい。それは絶対におかしい。おかしい、それは」と必死に訴えた。

 何かまた男が喚いた時である。部屋のドアが蹴開けられ、若い男が入ってきた。

「満流さん! ヤバいっす、あいつが」

 次の瞬間には、その若い男は2メートル吹っ飛んでいた。

 アンニュイに頭をかきながら、違う男が入ってくる。黒い癖毛を揺らしながら、見る限り男は完全に丸腰だ。もちろん、東間はその男を知っていた。東間がこの短い期間、兄と慕った男である。

「タイラ、」と先ほどまで何か喚いていた男が、どこか当惑しながら呟いた。それから少し震えて、「わざわざなぜここに」と問う。タイラと呼ばれた男は、ニッと口の端を歪めた。

「よお、満流。懲りねえな、お前も」

「あんたに関係ないだろ」

「あるんだよ。その金髪のガキと縁があってな。お前が、女に手を出されたと激昂するのと同じ理由だ。だから一度は殴る」

 ひっ、と息をのむ男に、タイラは近づく。それから、少し離れたところで止まり、軽い調子で拳を握った。一瞬だ。着ていたジャケットを翻しながら、男の顔面に綺麗な右ストレートを入れる。肉と肉のぶつかる鈍い音がして、男が吹っ飛んだ。

 そこに、女が嬉しそうに駆け寄る。

「タイラぁ、来てくれたの? ね、久しぶりに遊ぼうよ」

 そんな女の頬を、タイラは平手で打った。バチン、とむなしい音が響く。少しよろめいた女に対し、「満足したか」とタイラが尋ねた。うん、と女は大人しくうなづく。真っ赤に腫らした頬を押さえた女は、まだ震えている様子の男を立たせて部屋を出て行った。その去り際に、初めて東間は彼女がひどく美人であると気づいた。絶対に手を出したいとは思わないけれど。

 ため息をついたタイラが、ゆっくりと東間に近づいてくる。「待ってくれ」と東間は言った。タイラが立ち止まる。

「あんた、あんたの名前は」

「タイラワイチだ。そう言わなかったか?」

 あっさりと、タイラは言った。ぐっと拳を握り、東間はうなづく。まだ混乱していた。静かに、今まで聞いた『タイラワイチ』の噂話が頭をぐるぐる回る。

「何事にも容赦がなく、冷酷で、残虐で」

「ああ」

「敵と見なせば人を人と思わず、どこまでも自分本位で」

「そうだな」

「今まで何人殺してきたかわからない罪人が。人の形をした、バケモノだ……」

「幾分かは誇張が入っているが、まあ、概ねその通りだろうな」

 目を細めて、タイラは東間の横に膝をついた。それから東間の腕を縛っていたロープを解き、自由にした上で「どうした、俺を殺さないのか」とからかうように言う。東間は戸惑って、ただタイラを見た。

 お前の言ったことは全て正しいよ、とタイラは柔らかく言う。月の光を受けて、どこか白く見える目が、少しの間閉じられた。

「十になるころ、父親を殺した。母親に罪を押し付けてのうのうと生き、そのうち母親が刑務所で自殺した。話を聞きに来た記者を殺し、邪魔な奴も気に入らないやつも自分のために殺してきた。ああ……さっき誇張と言ったのは誤りだったな。何の脚色もなく、俺は言われた通りのものだ。罪人、そうだな……罪人ではあるが償う気もないよ。相手はみんな死んでるからな」

 真実かと問いたくなって、東間はしかしじっと黙り込む。何を問うてもの中にしか答えがない限り、彼の言うことだけが真実となってしまう。だからきっと無意味だ。東間にだってそれくらいはわかる。その代わり、「どうしてそれをオレに言うんです」と呟いた。「どうしてオレなんかに」と。タイラは不思議そうに首をかしげ、瞬きをする。

「思い出したからだ。歳になると考えるより先に口をついて困るな。立派な老害だ。ん、そうだな……どうしてこんなことを、今さら思い出したんだっけ?」

 ゆっくり、ゆっくりとタイラはうつむいた。まるで眠りにつくような仕草で、東間はそれをはらはらしながら見つめる。やがて「あぁ」と吐息交じりの笑みをもらし、タイラが顔を上げた。

「お前が似ていたからだ」

「誰に……?」

「ん……たぶん、俺が死なせた人間のうち誰かに。死なせた人間の何人かに、かな。いつだったか、お前を殺したことがあるような気がしていたんだ」


 よかった、とタイラは笑う。「お前を殺したんじゃなくて、お前みたいなやつを何人か殺したことがあるだけだったな」と。


 鳥肌が立つのを感じた。

 頭の中がエラーで満たされていく。身体が拒否をし始めている。理解が、できない。“自分”が何度も殺されたような気持ち悪さ、そして恐怖。「お前みたいなやつを何人か殺した」と話す平和一は、ひどく――――愛しげな顔をしていた。可愛くて仕方のない子を、後学のために旅に出したような口ぶりだった。その所業を東間はもはや疑ってはいなかったが、それすら、愛しているうちに、ただ全力をもってして向き合ううちに、死なせてしまっただけのような。

 理解ができない。もしできたとしても、理解などしたくない。化け物の気持ちがわかってしまえば、自分もバケモノになってしまう。

「……で、も。オレはあんたを」

 震える声で、東間は絞り出すように言った。

 そうだ。認めなければならないだろう、自分は。

「オレはあんたに勝てない。あんたはオレより頭が良くて、強い。でも、それでもオレはあんたに挑むよ」

 この人に挑んで、そしてあっけなく殺されたい。『あんたに化け物でいてほしいんだ』と、自分は最後に言うだろう。ゾッとした。今まで自分が平和一について話を聞いた誰もかれもが、恐らくそう願っていたのだ。『タイラワイチはバケモノだ』と話す人間が、そうであってほしいと、そうあることが当たり前なのだと考えていた。その在り方を、憎みながら望んでいる。呪いのようだと、思った。

「そう言ってくれるなよ、東間」

 目を細めたタイラが、囁く。「ぶつかると知りながら飛んでくる小鳥ガキの相手は、そろそろ飽きた。疲れるだけだ」と、うっすら微笑まで浮かべて言った。

「俺だって、飛びたいように飛んでるもんを見ていたいに決まってる。もう飛びたくないのならいくらでもとしてやるが、もう飛べない言い訳にもなってやるが、やっぱり疲れるもんは疲れるよ。それに、俺はお前の飛び方が結構好きなんだ。馬鹿正直に一直線で、きっと俺にぶつからなくても、いつか誰かにぶつかるだろう。そのときに墜ちるのがお前なのか、相手なのかはわからんが……なぁ東間、いま俺に挑めば確実にお前は勝てない。俺には理解ができないよ、無意味に過ぎる」

 東間はきょとんとして、タイラを見る。諭されているのだと気づき、再度驚いた。それは確かに、東間が出会ってからこれまで兄と慕った男の――――彼らしい聞きなれたきびしい説教であった。

『ああ、タイラワイチ? 案外いいやつだよ、面倒見がいいただのあんちゃんさ』

 東間が話を聞いた中で、そうだ、そんな声も聞かれたのだ。笑いを噛み殺すような顔で。

『でも人殺しだろ?』

『あはは……会えばわかる』

 到底受け入れられる意見ではなかったからか、すっかり忘れていた。勝手に情報の取捨選択をしていのは、結局のところ東間のほうだったのだろう。今になって、それら全てがすっかりわかってしまっていた。

 初めて会った時に、ラーメン屋に連れていかれたことを覚えている。店に入った瞬間、タイラは東間のことを店主に紹介した。新参だ、馬鹿だが悪い奴じゃなさそうだから、特別美味いラーメンを食わせてやってくれ、と。店主は東間をまじまじと見て、『随分厄介な兄貴分に目をかけられてるんだな』とからかうように言っていた。その時に食ったラーメンのうまかったこと。

 馬鹿と罵られて、生きてきた。お前といると損をする、人様に迷惑をかけるな、と眉を顰められて生きてきた。

 ――――馬鹿だな、お前は。

 汁を飛ばしながらラーメンを食べる東間を見て、タイラは言った。目を細めて、親しげに笑いながら。たとえそれが、人間すべてへの親しみだったのだとしても。

『連れてきてよかったよ。お前みたいなやつは、美味いもんを本当に美味そうに食うからな。鹿は生き辛かろうが、メシを美味く食えるやつが一番の勝ち組だったりするんだぜ』

 それでも東間は、あの全てを見透かすような目に憧れたのだ。彼自身にそのつもりがなくとも、彼の言葉に少なからず救われたりもしたのだ。もっと聞きたいと思った。こんなことを言える人間の、その強さに酔っていたかった。

 目を閉じて3秒、深呼吸をしてまた目を開ける。いま東間の目の前にいる平和一は、記憶の中の男と寸分たがわない。大丈夫だと思った。大丈夫だ、もう声が震えない。

「……兄貴」

 タイラの表情が変わった。白く見えていた瞳がすっと暗くなり、遠くに見える星のような光が宿る。

「俺はお前の兄貴じゃない。お前が殺すと息巻いていた平和一だ」

「何も違わないじゃないですか。オレの兄貴分はとち狂った人殺しだ。それが何だって言うんです。オレ、馬鹿だからわかんないんですよ。あんたのことが怖い。でもそれ以上にあんたが好きだ。飯おごってもらったから懐いたんですよ、それだけですよ。だって関係ないじゃないですか。オレ、あんたに殺されたわけじゃないし、誰か親とか殺されたわけでもねえし、正直オレにとってあんたは飯おごってもらっただけですよ。そんなの、懐くに決まってるじゃないですか、今さらズルいっすよ、オレ……」

 ぐっと拳を握って、タイラを睨んだ。「責任とって、次はいい肉食わせろよ! 寿司でもいいけど!」と、高らかに叫ぶ。ちょっと、怖かった。

 タイラは驚きと当惑の混じったような笑顔を張り付かせたまま、目線を落とす。うつむいて、ただ「言ってろ」とだけ呟いた。まるで白黒映画のシーンの継ぎ目で生まれた空白のような、表情と声だった。

 認識をずらしてまた合わせるような機械的な沈黙の後に、タイラは顔を上げてぞんざいに東間の頭をわしゃわしゃと押さえつけた。

「――――言ってろ、この馬鹿」

 なぜ許されたのか、東間にはわからない。わからないけれど、なんだかちょっとだけ、泣きそうになった。

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