episode27 雷風雨センチメンタル

 雨が強く降っている。

 ひょこひょこと歩きながら、ユメノは腕を組んだ。定休日が平日というのも、なかなか勝手が悪いものだ。ユウキはもちろん学校、都もカツトシも仕事中であるし、曜日を気にしない組といったらタイラ、実結、ノゾムくらいだ。大体、誰かが実結と遊んでいるのだが、今日はそれがノゾムだったようだ。2人とも部屋にいない。こんな雨の中出かけなくても、と思ったがもしかしたら酒場には2人ともいるのかもしれない。それならユメノもそちらに顔を出せばいいのだが、天気のせいか知らない客と顔を合わせたくない気分だ。

 人恋しい? それなら、酒場へ行けばいい。

 気を遣わずにゆっくりしていたい? どうぞ自室へ。

 そんな自問自答を経て、ユメノはタイラの部屋の前に立っていた。不在かもしれないが、それはそれで別にいい。そのままタイラの部屋に居座って一眠りしてやる。

 タイラワイチの部屋には、ほとんど物がない。生活感も、ない。だからお気に入りだった。本人には言わないが、タイラの部屋で昼寝したことは何度もある。非日常的で、自分の存在を考えなくて済む。いい部屋だ。

 ノックもせずに、ユメノはドアを開けた。

「寝かせろー」

 冷蔵庫を開けながらこちらを見る、タイラと目が合う。「いたんだ」と失礼なことを言って、ユメノは瞬きをした。

「お前……部屋間違ってるぞ」

「間違ってないんだなぁ、それが」

 言いながらユメノは、冷蔵庫の中を覗き込んだ。「あ、桃缶だ。ちょうだい」「ダメ」「ケチだなー」と軽口をたたいて、ずけずけと奥まで進む。中央のベッドに腰を下ろして、「寝るから。起こさないでね」と睨んでおいた。やれやれ、という顔をしたタイラが、何か飲み物を手にしてベットの脇に腰を下ろす。どうやらユメノを追い出そうという気はないようだ。

 相変わらず、ほとんど生活感はない。ベッドだってまったく乱れがないし、何かインテリアを飾っているということもない。棚に高級たかそうな腕時計が置いてあるくらいだ。塵一つ、シミ一つない部屋。ユメノはここに来ると、いつも自分が生きているということを忘れそうになる。

 さて寝よう、と横になりかけたその時である。

 地響きのような音がして、光が空を裂いた。思わずユメノは飛び上がって、タイラに抱き着く。タイラは缶ジュースをこぼして、目を丸くした。

「……」

「……」

「雷だ……」

「そうだな」

 低い音とともに、また光が落ちる。「ぴえっ」と悲鳴を上げて速やかにタイラの膝上に移動した。手は、タイラの服をしっかりと掴んでいる。タイラは黙っていた。ユメノも静かに空を見つめる。音と光がほとんど同時だ。恐らく、近い。

「……止むといいね」

「そうだな」

 どこか仕方なさそうにユメノをそのままにして、タイラは缶ジュースを床に置いた。その代わり、手を伸ばして文庫本を手繰り寄せる。片手でページを開き、何も言わずに読み始めた。「何の本?」と姿勢を変えずに聞いてみる。

「ダックスフントがスケボーに乗って異世界にワープする話」

「何それ」

 コメディ? と尋ねれば、「そうかもしれん」と真面目な顔で返答があった。気になって、覗き込んでみる。到底コメディとは思えない文字列に、辟易として膝を抱えた。ペラペラと古い紙をめくり、タイラはユメノの頭に顎をのせる。

「お前さ、部屋入るときノックぐらいしろよ。男の部屋だぞ」

「エロ本読んでるかもしれないから?」

「それぐらいならいいが、致しちゃってるかもしれないだろ」

 缶ジュースに口をつけながら、タイラが言った。致しちゃってる、とオウム返しして、ユメノは特に深い意味もなく尋ねてみる。

「タイラは、オナニーの延長でエッチするの?」

 見事に、タイラが飲み物を噴き出した。

 以前菊花とノゾムが話していたことを、ユメノもちゃんと聞いていたのだ。ノゾムがあまりにも必死だったから、聞こえないふりをしてやっただけだ。

 タイラは「あーあ、壁汚れちゃったよ」と切なげな表情で、自分の吹き出したネクターで色を変えた壁を見つめている。

「誰がそんなことを?」

「菊花ちゃん」

「あのじゃじゃ馬ちゃんったらさぁ……顔は造りもんかと思うぐらい綺麗なのに、言うことえげつねえもんなぁ」

「でも、それ言ったの菊花ちゃんじゃないよね」

 そんなことまで聞いたのか、という顔でタイラが頭をかいた。畳みかけるなら、今だろう。ユメノは目を輝かせて、「好きでもない人と、えっちするの?」と聞いてみる。何か考えながら、タイラが「お前、難しいこと聞くね」といつもよりもっと砕けた調子で言った。まるで同年代の異性と話しているような錯覚さえ起こさせる口調だった。

「それはイエスともノーとも言えない。大体、抱いたやつのことは好きだ。可愛くて仕方ねえからそこまで至ったんだ。まあ、時々はペナルティの意味もあるよ」

「ペナルティで抱くの? AV男優みたいだね」

「女の子がそんなこと言うんじゃありません」

 ユメノはタイラに寄りかかり、未だ止まない雨を見る。この男は、椅子としては非常に優秀だ。びくともしなかった。だけど、煙草のにおいはいただけない。あと、消毒液のにおい、揮発性の何かのにおい。よく燃えそうだな、と思った。

「ねえ、恋愛って何かな。恋と愛って書くんだけど、タイラにわかる?」

「どうせわからないだろうと思って聞くな。わかんねえよ」

 突然稲光が一際視界を焼いて、部屋は暗闇に包まれた。激しい音が聞こえる。停電だ。しばらく待っても電気がつかない。

 ユメノ、と呼ばれてハッとする。「そんなに爪立てられると困る」と言ったタイラは、言葉とは裏腹に楽しげな声だった。必死にしがみついていたモノが、生きた人間だったとわかって少しホッとする。しかも平和一だ。雷に打たれても死にそうにない男だ。

「あのね、タイラ」

「おう」

「あたし、ちょっと気になってる男の子がいたんだ。中学生の時かな」

「そうか……最近お前、ちょっと思春期が過ぎると思っていたが、その関係か?」

 思春期が過ぎるとはどういうことだ、なんだかめちゃくちゃ腹立つ。

 ポケットから煙草のパッケージを出したタイラが、「煙草吸っていい?」と聞いてきた。「ダメ」と答えたが、すでにタイラは煙草を咥えている。仕方なく、「いいよ」と言ってみた。ライターの火が、一瞬辺りを明るくする。煙草の火が2人の顔を照らした。タイラはすぐにそれを灰皿に置く。どうやら明かり取りのつもりだったようだ。まったく、ロマンチックとは無縁の男だと思った。臭い、と訴えれば、苦笑するタイラの顔がぼんやり見える。

「あたしとその男の子、結構仲良くて。自惚れとかじゃなく、向こうもあたしのこと好きなのかなって思ってた」

「まあ、お前は可愛いからな」

 時々、タイラはそういうことを臆面なく言う。恥ずかしくなってうつむくと、煙草の煙がゆっくり上っていくのが見えた。今度、火災報知機を取り付けるようカツトシに言ってみようかと思う。

 でも、とユメノは目を閉じる。絶対にタイラと目を合わせたくなかった。

「道の真ん中で押し倒されたの。最悪でしょ。服脱がされて、ほんっとに最悪。最悪以外の感想がないわ。あたし、びっくりして。びっくりして、」

 自然、タイラの服を掴む手に力が入った。

「殴っちゃったの、ブロックで。殺したかと思った」

 ほんの数秒沈黙があって、タイラが「なんだ、殺さなかったのか」と拍子抜けしたように言う。「冗談言ってるんじゃないんだよ」とユメノは目を閉じたままタイラの胸のあたりを叩く。

「怖かったんだから。押し倒されたのも、無理やり腕押さえられたのも怖かったし、思いっきり頭殴ったらたくさん血出てきちゃって、死んじゃったかと思って、怖くて怖くて、逃げちゃって。そしたら雨降ってきて、雷も鳴ってて、家に帰れなくて、こんな雨のなか怪我人置いてきちゃって。どこに逃げたんだっけな、体中痛くて寒かった。人生で一番不安で最悪だった。あたし、あんまり勉強もちゃんとしてなかったからさ、キスされたぐらいなのに、赤ちゃんできちゃったらどうしようって思ったし、あいつ死んじゃったらどうしようって思った」

 不安で、怖くて、悲しかった。子どもみたいに泣きじゃくりながら走った。声をあげて泣いたのに、誰も見ていやしなかった。

「結局、あいつは死んでなかったんだけど。それから色々話を聞かれて、どっちが悪いかの話になって……ほら、あたしって元々イイコしてなかったから、誰も信じてくれなくてさ。親すら『どうせお前から誘ったんだろう』って言うぐらいでさ、なんか……別に親のことなんか今さら信じちゃいなかったけど、友達もさぁ、みんなさぁ……」

 不意に、タイラがユメノの頭に手を置いた。痛いくらいに、ぞんざいに。重くて、ユメノはその手を退かそうと必死になる。「そうか」とだけタイラは言った。「うん」とだけユメノも答えた。

 何だかもう嫌になっちゃった、と言うのは簡単だけれど。逃げたのだ、ユメノは。自分に背を向けた全てがつらくて、だからみんなの背中が見えないところまで逃げてきたのだ。この街に来た時、だからユメノはほとんどのことに諦めていた。人を信頼すること、信頼されること。愛してほしい、助けてほしいと泣きじゃくること。それら全てが、ひたすら無駄なことだと思っていた。

 この街で初めに出会ったのが、カツトシとタイラでよかったとちょっと思う。信じたい、信じてほしい、と願っているカツトシでよかった。その次に出会ったのが、そんなユメノとカツトシを、無視できない男でよかった。

 そうしてこの街で落ち着いて、しばらく経つ。やっぱり、どうしてもわからないことがあった。

 どうして、あんなことになったんだろう。

「今でも、覚えてるんだよ。あの子ね、あいつね……すごく、寂しいやつだったんだ。あたしのこと押し倒した時もね、泣きそうな顔して、なんだろうね、あれ。助けて、って顔だったのかな。そうだったらさ、あたし」

「ユメノ」

 短く呼びかけられて、ユメノは顔を上げる。すぐ上にタイラの顔があった。何も読み取れない、無表情だ。次が言えなかった。“あたし、助けられたかもしれない”という一言が。必要ない、と切り捨てられたようで。

 わかっているのに、そんなこと。誰に言ったって、そう言われるに決まってる。『そんな必要ないよ、あなたが被害者なんだから』と。でも違うのに。被害者とか、加害者とかの立場になりたくてなったわけじゃないのに。どうしてそう、型にはめられて黙っていなくちゃいけないんだろう。

 ゆっくりと、ユメノを抱いたままタイラが立ち上がる。「どこ行くの?」「この停電で、カツトシがパニックになって火事でも起こされたら困る」「そんなことないと思うよ」と軽口をたたきあって、しかしユメノはタイラに落とされないようしっかりしがみついた。灰皿に置きっぱなしだった煙草を押しつぶし、タイラは目を細める。

「しかしうちのお姫様にそんな不敬を働いたやつがいたとはな、びっくりだ」

「ね、びっくりでしょ。あたしも時々夢に見て、びっくりする」

「今度会ったら俺に言えよ」

 小便引っかけてやるから、とタイラは笑った。どこまで本気なのか、よくわからない。「いいよ、そんなの。いらない」とちょっと不貞腐れて言ってやれば、タイラは不思議そうに首をかしげた。

 ドアを開けて、廊下に出る。真っ暗だ。一晩は覚悟したほうがいいかもしれない。タイラには見えているのか、それとも感覚的な問題なのか、難なく階段を降り始めた。

 不意に、タイラが口を開く。

「お前、その男のことが今も好きなのか」

 息が詰まった。無意識にまた、タイラの背中に爪を立てる。「……だいっきらい」とだけ、なんとか言えた。

 雨は依然、強く降っている。窓を叩く音が恐ろしく近く聞こえた。雷は止んだろうか。代わりに風が、何か大切なものを壊すように、何か大切なものを壊されたかのように、吹きすさんでいた。泣いているようだった。

「お前は嘘が死ぬほど下手くそだな」と、タイラの声が聞こえる。仲間たちに会いたい、とユメノは思った。それだけは絶対に、嘘になることはないから。

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