episode21 春眠、だから夢を見たのだ(参)
タオルを首から下げ、タイラはベッドの上で胡坐をかく。時間差でシャワーを浴びたカツトシとユウキが、その様子を見て楽しそうに笑った。
「何よ、そのタンクトップ。それも売店で買ったわけ? ピッチピチでダサいんだけど」
煩そうに顔をしかめて、タイラは腕を組む。「誰のせいだと思っているんだ」と頭をかいた。
「あのな、お前たちのおかげで塩素臭くなった俺の服一式はコインランドリーで回ってんだよ。明日までに乾かなかったらお前たちをランドリーで回してやるからな」
「替えの服ないの?」
「替えなんてパンティーしか持ってきてねえよ。あとはかろうじて売店で買ったジャージぐらいだよ」
「おっさんが言う『パンティー』の響き、犯罪級にキモイわね」
ベッドをよじ登ってきたユウキが、タイラの腕を見てハッとする。それから思い切り、彼の二の腕あたりを叩いた。さすがに驚いて目を丸くしたタイラが、「えっ、なんで叩いたの」とユウキに問う。「いま、虫」とユウキは指をさす。カツトシものぞき込んでみた。
タイラの左腕には、火傷の跡がある。それは前にも見たことがあるが、確かによく見るとその下に青っぽい何かが見えた。ゴミのようにも見えるし、少し浮き上がっていて虫のようにも見える。カツトシはしばらく考えて、「……タトゥー?」と端的に尋ねた。タイラが目を細めて沈黙する。ごまかそうとしているのではなく、どうやら自分の中の記憶をたどっているようだった。
「――――ああ、そういやそうだったか?」
一応は思い当たるような記憶があったようだ。途端に興味を失くしたように、タイラは頬杖をついた。ぽつりと、呟く。
「ガキの頃に入れた刺青が、成長するにつれ広がっていって気持ちが悪かったもんでな。焼いたんだ」
「焼いたぁ?」
「煙草を吸ったついでに、ライターで焼いた」
「頭おかしいんじゃないの」
煙たげに手を振って見せて「ああ」だか「んー」だか判別のつかない返事を、タイラはした。それから、煙草のパッケージを取り出してトントンと叩く。煙草を1本、くわえただけで火をつけずにぼんやりと外を見ていた。月明かりが海に映っている。
それ以上、何も言わないままタイラは腕を組んでいた。
☮☮☮
焼き鳥を3本ほど食べて屋台で眠ってしまったノゾムは、真夜中にホテルの部屋で目を覚ました。疲れていたのだろうとは思ったが、出先で寝落ちてしまうとは我ながら恥ずかしくなる。
覚醒しきらない頭でぼんやりとした明かりを見た。それを遮る形で見える、平和一の背中も。ノゾムは、目をこすりながら起き上がった。タイラが静かに振り返る。
「起きたのか?」
特に声を潜めているようにも見えないが、その低い声は決して他の仲間たちを起こすものではなかった。ノゾムも黙ってうなづくだけにしておく。
「……そうか。飲み物でも買いに行くか?」
ノゾムはまたうなづいて、ベットのわきで靴を探した。部屋を出ていくタイラの背中を追い、慌てて立ち上がる。部屋を出た瞬間にノゾムは、タイラの腕をつかんだ。
「あの」
「ん?」
「寝ちゃい、ましたね……。すいません」
「水の中は思いのほか疲れるからな。お前だけじゃなくあいつらみんな疲れてすぐ寝たよ」
「先輩は……さすがというか疲れてないっすね」
「いや、俺も疲れた。今お前に何か挑まれたら、種目によっては負けるかもしれん」
ちょっと
そういうところが嫌いだ、とノゾムは思う。『こっちは本気なのに』という気持ちと、『こっちが本気になれば』と相反する気持ちが同時に去来した。どちらにせよ、彼の言葉を聞いていちいち安心している自分が一番嫌いだ。
そんなノゾムに背を向けて、タイラが歩いていく。その背中に一定の距離を開けて、ノゾムはついて歩いた。
1階まで降りて、タイラが自動販売機に小銭を投入する。
「コーラでいいのか」
「どうも」
ガコン、と缶ジュースが落ちる音がした。放られたコーラを受け取って、プルタブを起こす。炭酸の抜けるいい音がした。自分でも驚くほど喉が渇いていたらしく、冷たいコーラが美味かった。タイラはといえば、缶コーヒーをすすりながら壁に寄りかかっている。
しばらく、2人で飲み物を口に含むだけだった。辺りはしんと静かだ。恐らくこの時間に飲み物など要り様の人間は、近くの酒場に行くかホテルの中に入っているバーにでも行くのだろう。周りに人影は見えない。なんとなく気まずくて、ノゾムは缶から口を離してタイラに話しかけた。
「先輩は、こんな時間に何してたんすか」
後ろの壁に頭をくっつけながら、タイラが時計を見る。
「用があってな、もう少しだ」
「用?」
「昨日のナンパ男に、面白いことを聞いたと言ったろ」
そんなことを、言っていたかもしれない。気になったといえば気になったが、教えるつもりなどないのだろうと高をくくっていて詳細を聞いていなかった。
タイラはちょいちょいとノゾムを手招きし、いきなり肩を組む。
「あと30分で、トランクいっぱいにお薬を積んだ馬鹿がこのホテルに来る。それを買う馬鹿と会うためだ」
「は……?」
「ヤクの売人が来て、取引が始まるんだよ。な、面白いだろ」
「何にも、面白くはないです」
真面目な顔で言うノゾムをじっと見て、タイラは空き缶を潰した。そうだな、とだけ言って瞬きをする。ノゾムは恐る恐る、「仕事っすか?」と尋ねた。
「いや、私怨だ」
「私怨?」
「そうだ。別にヤクを売るやつがいたって買うやつがいたって、俺の暮らしに関係はない。でも邪魔しに行こうと思う。今日は気分がいいからな」
「あんたは気分がいいと、他人の仕事を邪魔したくなるんですか」
訳が分からずに、ノゾムは当惑する。それに、『私怨』という言葉に対する説明が全くない。なぜかタイラは鼻を鳴らして、潰した缶をダストボックスに投げ入れた。
「お前も行くか」とタイラが問う。ちょっとだけ考えて、「行きます」とノゾムは答えた。タイラが何も言わずにノゾムから離れ、歩く。階段を下りて行こうとするのを見て、ノゾムも大急ぎでコーラを飲み干し追いかけた。
階段は薄暗く、不自然なほどだ。真夜中とはいえ、エントランスに通ずる方の階段はずっと明るいのに。ノゾムの疑問を察したのか、「スタッフ専用の階段だ」とタイラは言った。
「いいんですか、バレて怒られません?」
「カメラがついてるから、バレてるだろうな。でも昨日、
やがて階段を下りきって、先のドアノブに手をかける。そこでようやく、タイラはノゾムを振り向いた。
「昨日、正しい手順で地下まで降りてきたお前なら知っているだろうが、エントランス正面の階段は地下に続いていない。あくまで1階から上へのぼるためのものだ。つまり、階段で地下におりるにはこのスタッフオンリーの階段しかない」
「はい」
「そんでもってエレベーターも、1階から上へ行くものと1階から地下にしかいかないものが分かれている。わざわざ乗り継がなければ、上の階から地下へはいけない仕様だ。つまり、上の階から地下へ降りる……もしくは地下から上の階へ一気にのぼる手段は、いよいよこのスタッフオンリーの階段だけってことだ」
「ああ……そう考えるとユメノちゃんってすごく」
「引きが強い。あいつはギャンブルを覚えたら怖いタイプだ」
それから一瞬だけ迷いを見せた後で、タイラはノゾムに笑いかける。「お前はここにいろ。いいか、ここに来てお前に声をかけるやつがいるかもしれないが……お前は『自分がやりました』と言えばいい」と噛み砕いて言われ、ノゾムは訝しげに首をかしげた。
「『自分はやってません』じゃなくて?」
「そうだ、従順なふりでもしていればいい。お前の役どころは、昨日のナンパ男の補欠だ。何も知らないふりをして『やります』『やりました』と口だけ言ってろ」
「ちなみに昨日のナンパ男はどうなったんですか」
「……上手くやれよ」
「ねえ」
しかしタイラはノゾムの追及を逃れ、ドアを開け放つ。一瞬、ライトの光にノゾムが目を細めた隙にタイラの姿は消えた。なんだかよくわからないが、ノゾムはタイラに言われた通り階段の脇で動きを待つ。やがて、また扉が開いた。
「お前!」とどこか興奮した声がノゾムに向けられる。ノゾムも緊張しながら、「はい」と返事をした。拍子抜けしたというか、声をかけてきたのはホテルのスタッフだった。
「代永の代理か!?」
「あ、はい。そっす」
例のナンパ男の名前だろうか、ノゾムはわからないままに何度かうなづく。「制服は」と責めるように尋ねられ、思わず「えっ」としどろもどろになった。
「あ、代永さん何も言ってなかったんですけど……制服、必要なんですか」
男は大きく舌打ちをして、その場で制服のジャケットとキャップを外してノゾムに投げる。「俺は替えがあるから」と言って睨んできた。スタッフの登録証らしきものまで投げつけてきて、「それは替えがないんだから、最低限しか使うな」と渋い顔で言う。
「いいか、それを着ておけよ。お前はただ荷物を運べばいいだけなんだから。余計なことはするな?」
「あ、はい。どうも」
それから男は一度外に出て、両手に大きめのトランクを引きずってまた戻ってくる。「手順はわかってるだろうな?」と念を押されて、ノゾムは「ああ……はい、えっと」と頭をかいた。男はトランクを丁寧に壁にもたれさせ、いらだたし気に「俺が客の荷物をお前に渡すから、お前はそこのトランクから小分けの袋を俺の言った数詰めて部屋へ運ぶだけだ」と簡単に説明する。
「というか、あとの2人はどうした?」
「あ、あとの2人? アレです、あの」
「カメラを処理してるのか?」
「あっ、はい。なんか、カメラを」
言われるがままに肯定し、ノゾムは何度もうなづいた。男はようやく満足したようで、暗い階段に背を向け出て行ってしまう。長めにため息をついて、ノゾムはとりあえず制服を羽織った。「説明が足りねーんだよあの人はぁ」と言いながら、男の置いて行ったトランクを押し開ける。そこには確かに、小分けにされたパックが大量に入っていた。「絶対にアレじゃん、もうやだよ」と泣き言をいってはみるが、逃げ出そうとは思わない。また長いため息をつくと、途中でドアが開いた。
「なにやってんだ!」
驚いて背筋を伸ばし、ノゾムは思わず「シミュレーションです!」と答える。先ほどの男がバッグを差し出していた。「208、5個だ」とそっけなく言われる。はあ、と困惑しながらノゾムはそれを受け取った。どこにでもあるような、婦人用のバッグだった。男はすぐに、広間に戻ってしまう。
このバッグにパックを5個入れて、208号室へ運べ。ということだろうか、手持ちの情報ではこれくらいしかわからない。やれやれとバッグを開けてみたが、しかしノゾムは思い直してそのバッグを階段の陰に隠した。あの男の言うことを聞いてやる義理はない。タイラは、『従順なふりをしろ』と言った。これは暗に、『実行はするな』と言っているのと同じだ。ノゾムは意を決して、扉を僅か開き隙間から様子を眺める。
暗い広間に、美しいライトが輝いていた。平和一の姿は見えない。客のうちの1人が、軽く手を挙げてスタッフを呼んだ。駆けつけたのは、あの、ノゾムにあれこれと命じてくる男だった。客が何か囁く。男はうなづいて、「お部屋にお運びします」と言って客から荷物を受け取った。それから迷いなくこちらに歩いてくる男を見て、ノゾムはすぐに後ずさって意味もなくその場で跳ね飛んでみる。
「……何してるんだ、お前」
「いや、まだかなぁって思って待ってたんす」
男は訝しげに見ながらも、先ほど受け取った荷物を差し出した。「20、212だ」と有無を言わさない口ぶりだ。
「あとの2人はどうした? まだカメラを見に行っているのか」
「そろそろ来ます」
「お前、ちゃんと荷物を運んでるんだろうな」
「あ、はい。“やりました”」
顔をしかめた男が、「いいか」とノゾムの方に寄る。先ほど隠したバッグが見えはしないかと少し冷や冷やした。
「
「わかりました」
「うーん、お前ちょっと鈍くさそうだな。わかった、あとの2人のうちのどっちでもいいから一緒に連れて行け。客の案内をしている体でうろつけば、スタッフも基本的に話しかけてこない。それで上手くいかないやつはいないだろうが……もしバレそうになったらすぐに謝れよ。俺も上手いこと言ってやるから」
本当だろうか。何かヘマをしたら簡単に切られそうだとも思うが。それはさておきこちらも実行に移す気はないので、とりあえず「了解です」とだけ言っておく。男が去った後で、ノゾムは階段に腰かけた。頭をかきながら、自分なりに状況を整理する。
もはやこの場所で薬の取引が行われていることは疑いようもないが、ノゾムの(実際は代永の)役割は一体何なのだろう。あのスタッフの姿をした男が売人なのだろうか。客があの男に荷物を渡すことによって取引は終了するようでもあったが、そう考えると取引というよりは即売会といった印象だ。つまり、売人たるスタッフの制服を着た男が、カジノの客を装った取引相手たちを取りまとめ、その荷物を部屋に届ける体で薬を運ぶ。ノゾムは(代永は)恐らく『運ぶ』というところだけの担当なのだろう。おそろしく遠回りの気もするが、メリットは何なのか。よくわからない。
頬杖をついてぼんやりしていると、にわかに外が騒がしくなる。恐る恐る、扉を開けてみた。思わず安心のため息をついて、ノゾムは「おっせーよ」と呟く。平和一が、制服の男ともう1人何者かを組み伏せていた。それから顔を上げて、「いやぁ、お騒がせして申し訳ない」と爽やかに笑ってみせる。しかしすぐに冷ややかな目をして、「金持ちの道楽はもっと面白おかしくあったほうがいいと思うぜ、薬なんかつまんねえもんじゃなくてさ」とだけ吐き捨てた。
「どうされましたか」
「……面倒だな。後で若松裕司が説明するだろう。ここは適当に見逃してくれ」
スタッフたちは当惑しながら、男を2人引きずっていくタイラを見ていた。タイラがスタッフ専用の階段の扉を開けた時でさえ、誰も何も言わない。疲れたように手をあげるタイラを見て、ノゾムもしっかりとうなづいた。
「お前もご苦労さん」
「その人たち、連れていくんすか」
「ああ。そのトランク、持ってきてくれるか」
思わずノゾムが嫌そうな顔をすると、タイラは可笑しそうに引きずっていた男たちを前に出す。さすがに人間を2人引きずっていく事はご勘弁願いたかったので、ノゾムは素直に大きめなトランクを両手で抱えた。苦笑したタイラが、男たちを立たせる。瞬間、スタッフの制服を着た男が逃げようとタイラの手を振りほどいた。すぐにタイラは男の頭に手を伸ばし、髪の毛をわしづかむ。男はそれを無理やり引き離し、タイラの胸ぐらをつかんで噛みつくようににらんだ。
「てめえ、何の恨みがあって……! 誰に頼まれてきた!」
「自惚れるな。お前に何の恨みもないし、お前の悪戯程度に金をかけるやつもいない。俺は気まぐれでお前らの邪魔をしに来ただけだ」
「はあ?」
「俺1人の気まぐれで潰されるお前らのママゴトも大概だな」
そこでノゾムは空咳をしてみせる。タイラが肩をすくめて、「俺と
「噛みつく相手を見誤るな。命は大切に、な」
まだ年若い男は――――ノゾムと同じ年頃だろうか、まだ幼さの残る男は、表情を強張らせてただゆっくりと腕を下ろす。やがてうつむいて、「許してください」とだけ、言った。
タイラは頭をかいて、どこか面倒そうに目を細める。
「しらけたな」
「飽きたんでしょ」
「ああ……どうしようかな、こいつら。とりあえずオーナーに差し出すか。一宿一飯の恩義でーすってことで」
誰の返事も求めていなかったようで、タイラは「よし」と自己完結した。それからまたスタッフの制服を着た男を振り向いて、「歩けるな?」と確認する。若い男は従順にうなづいた。もう1人の中年の男にも、タイラは「歩けるか」と尋ねる。中年のほうは、ただ震えているだけだった。仕方なくタイラが小太りの男を担ぎ上げ、若い男を先に行かせる。せっかく自由にされた青年も、特に逃げ出したりはせずにタイラの指示に従って歩いた。スタッフ専用の階段を、我が物顔で上がっていく。
1階へ到達すると、タイラが「スタッフカウンターだ」と短く指示した。若い男は躊躇っていたが、「どうした」というタイラの心底不思議そうな声に背中を押されて歩き出す。近づいてくる一行に気付いたスタッフたちが(主に中年の男を担いだタイラに対して)訝しげな顔をした。
「どうなさいましたか、お客様」
タイラは、担いでいた男をその場で降ろす。それから、ノゾムに対しても『出せ』という手ぶりをした。慌てて、ノゾムは抱えていたトランクを置く。少しきょろきょろすると、まだタイラはノゾムを見ていた。わからない顔で見返していると、タイラは肩をすくめてから、ノゾムが首から下げていたスタッフ証を無理やりはぎ取る。
「若松裕司に伝えてくれ。宿泊代だ」
ぽかんとしているスタッフたちに、タイラは「いいから連絡するんだよ、『友坂様から宿泊代をお預かりしました』って。すぐに向こうで手を打つだろうから、それまでこいつらは逃がさないようにな」と簡単に指示を出す。反応の悪いスタッフに、「返事は」とタイラが眉をひそめた。なぜか連れてこられた若い男が「は、はい!」と返事をする。つられて、スタッフたちが何とか「はい……」と答えた。
あっさりと、タイラは踵を返す。ノゾムも慌ててその背中を追った。
「待ってくださいよ、ちょっと待って。自分、トイレ行きたいんすけど」
「行って来いよ」
「待っててくださいって! 一緒に部屋帰りましょ」
「嫌だよ」
「絶対待っててくださいよ? 絶対ですよ?」
言いながらノゾムは、走ってトイレへ向かう。呆れた表情のタイラが「嫌だっつってんだろうが」と言いながら、じっとそれを見ていた。
用を足し、呑気に手を洗いながらノゾムは鼻歌をうたう。
途中までは急いでいたのだ、途中までは。しかしすぐに、『どうせあの人は待っていない』と思ってしまってからどうにも急ぐことができなかった。こう、当てつけのようにゆっくりと手を洗っていれば、不貞腐れそうな気持ちも抑えられるというものだ。
ほんの少しドキドキしながら、絢爛なエントランスの正面に出る。案の定、平和一の姿は見えない。
やっぱり1人で帰ったのか、とため息をつく。と、女性のスタッフが1人声をかけてきた。
「お連れ様なら、外に行かれましたよ」
「外ぉ?」
「しばらくそちらに立たれていたのですが、どこかお辛そうでしたので声をかけたのです……。そうしたら、『何でもない』と外へ。余計なことをしましたでしょうか」
「いや! 全然! あの人が素直じゃないだけなんで。ありがとうございます、こんな時間までお仕事お疲れ様です」
少し早足で、ノゾムは扉を開けて外に出る。その瞬間、強く風が吹いて踏み出すのを躊躇した。
来た時には気にもしなかった、潮の香りが脳を支配する。扉を閉めて、ゆっくりと歩き出した。髪の毛1本1本に、まとわりつく風は湿っている。眼前に広がっている海は荒く、何度も波をこちらに送り出していた。それでもノゾムのもとには届かずに、淡い色で消えていく。
魅せられていた。海に来たのはいつぶりだろうか。否、こんなに綺麗な海はどこまで遡っても記憶にない。ゆっくりと、それでも確かな足取りで、ノゾムは近づいていく。
肩をつかまれて、ようやくハッとした。そこには、ただひたすら暗い海が波を立てているだけだった。
振り向くと、少し息を切らし気味のタイラがノゾムの肩をつかんでいる。
「お前は……危なっかしい、やつだな」
ノゾムはきょとんとして、すぐに顔をしかめた。
「あんたに言われたくねーっすよ」
「なんだとお前……つうかお前、トイレ長すぎんだよ。女子か? 出産か?」
「はー? はー!?」
言い返す言葉が上手く見つからず、ノゾムはただタイラを睨み付ける。しばらく、そのままタイラの目を見上げていると、彼は根負けしたように頭をかいて少しふらついた。そうして踵を返し、砂浜に足を取られながら歩いて行ってしまう。その様子がどこかゴーストじみていたので、ノゾムは不安げについていく。
いきなりタイラが立ち止まり、その場で屈んだ。ついに倒れるかとハラハラして近づけば、たんに何か瓶のようなものを拾っただけだった。よく見れば手にビニール袋のようなものを持っている。
「えっ、こんなところでゴミ拾いっすか?」
引いた。正直ドン引いた。なぜ平和一がこんなにも綺麗好きなのか理解ができない。自分が汚れても気にしている素振りは見せないが、汚れているものを見るのは嫌いらしい。そういうところが理解できなくて、だからそう――――気味が悪かった。
ちげえよ、とタイラはぽつり呟く。
「俺が放ったもんだから、拾いに戻ってきただけだ。お前が遅いからだぞ……」
言いながらタイラが腰を下ろした。ノゾムもその隣に座る。膝を抱えながら、タイラの持っていたビニール袋の中を覗いた。空になった栄養ドリンクの瓶が何本も入っていて、その中に小さめな注射器も見える。「栄養ドリンク飲み過ぎっすよ、しかもこんなカフェイン入ってるのばっか」と軽く注意してみた。
タイラは答えず、ただぼんやりと海を見ている。仕方ないので、「なんで先輩、タンクトップにスウェットなんすか」と問うた。少しだけ眉をひそめ、タイラが腕を組む。
「どうしてだったか……今、洗濯中なんだよなぁ俺の服」
「なるほど。プールに落ちたからだ、そうでしょ」
「ん? ああ、そうだな」
興味がなさそうなタイラは、煙草をくわえてライターをカチカチと鳴らした。なかなか火が点かずに手こずっていたが、やがてゆっくりと煙草の先から煙が上がっていく。『落ちた、ではなく“落とした”の間違いだろう』と言われるかと思っていたのに、拍子抜けというか少し残念だった。
海を見ながら膝を抱えて、ノゾムはため息をつく。
「あんまり、夜の海って来たことなかったな」
「俺と釣りに来なかったか?」
「それオレじゃないっすよ、たぶん」
「そうか? ……じゃあ、そうなんだろうな。今度行くか」
「えー、ほんとですかー?」
ノゾムが唇をとがらせて訝しげに見ると、タイラは少し笑った。風が吹いて、髪が揺れる。涼しそうな笑顔が陰になって見えなくなった。ノゾムも自分の髪を抑えて、「あの」と口を開く。
「なんでオレ、だったんですかね」
「何が」
「今日、連れてったのがオレだったのは、なんでですか。アイちゃんさんとか、ユウキじゃなくて」
「そんなの、お前が起きたからに決まってるだろ」
わかっていた。ノゾムであることに理由などないことくらい。それでも問いたかったのは、ノゾムがまだ子どもだからだろうか。わかっていた、ノゾムでなくてもよかったのだ。もっと言えば、誰かを連れていく必要もきっとなかったのだ。ノゾムが起きなければ、だれも起きなければ、平和一は1人で事を処理したに違いない。それでも――――
「それでも」と、タイラが口にしてノゾムは驚く。まるで、自分の心情が読まれたように思った。タイラは、続ける。「それでも、お前でよかった。ツイていたよ」と。
「ユウキじゃ、あのナンパ男の代理にはならなかったろう。カツトシはあそこで大人しく待っているタマじゃねえし。だから、お前でよかったよ」
一瞬虚を突かれ、ノゾムはすぐに自分の膝の間に顔をうずめた。ひどく恥ずかしくなって、「あー」と意味なく声を出す。「馬鹿にしてるでしょ」と何とか絞った声で言葉を投げると、「そう聞こえたのか?」とタイラは驚いたように言う。ノゾムはさらに恥ずかしくなって、「あーあーあー」と声でかき消した。
しばらく黙って、うつむいたままノゾムは拳を握る。
「なんで、待ってたんすか。オレのこと、トイレなんか待たないで部屋に戻ればよかったのに」
「お前が待ってろと言ったんだろうが」
「『嫌だ』ってあんた言ってたでしょ」
「考え直したんだよ、もしかしたらお前が1人で部屋に戻れねえのかもしれないからな」
馬鹿にしてるでしょ、ともう1度ノゾムは言った。
☮☮☮
朝日が差し込めば、目が覚める。そういう日が、どうしてこうも満ち足りた気にさせるのか。カツトシは体を起こして、目を細めて窓の外を見る。ベランダに立って、1人で煙草を吸っているタイラのことも。寝癖を直しながら、カツトシはベッドから降りる。ベランダに続く戸を開けて、当たり前のようにタイラの隣に立った。
「あんた、結局ベッドで寝なかったわね」
「寝たよぉ。VIPルームになぁー」
「何それ」
明け方の空はどこまでも白いのに、隣に立つ男の横顔は朝日に照らされてそこはかとなく
「夜、どっかに行ったでしょ。ノゾムと一緒だった?」
「なんだ……起きてたのか」
「ノゾムの足音が聞こえたわよ」
煙草をくわえながら、タイラは着ているジャケットの襟を正した。「丁寧な仕事だろ、預けた時より綺麗になってるよ俺の服」と肩をすくめる。そういえばタイラの格好は、昨日プールに落とされる前と同じになっていた。追加料金なのか、サービスなのか、確かにかなり綺麗にクリーニングされている。
煙草を口から離し、タイラはゆっくりと息を吐いた。カツトシがぼんやり見ていると、煙がふわりと円環状になって空へと昇っていく。思わず「輪っかだわ」と声を出してしまった。タイラは喉を鳴らして笑う。ハッとして、「禁煙は」と睨めば「はいはい」と流された。面白くなさそうな顔をしてカツトシは、また空を見る。眩しい朝日はその色を薄めさせて、柔らかな青色に吸収されようとしていた。季節はまだ春。早朝は肌寒く、カツトシも少しだけ体を縮こませる。
「……今日には帰るんでしょ?」
「あいつらが起きたら、そうだな。朝飯食って帰るだろうな」
「そう、早かったわね」
「いや長居したほうだろ」
そう――――なのかもしれない。この2泊3日、考えてみれば確かに長すぎたくらいだとカツトシは思い直す。「あんたにこういうこと言うのはなんか癪なんだけど」と前置きをしてから「楽しかった」とそっけなく言ってみた。そうか? とタイラは横目で見てくる。どこか釈然としない顔をするタイラが、首をかしげた。
「なら、なんでそんな顔をする。楽しいときは笑うもんだろ」
カツトシはハッとして、自分の顔を手で覆う。どんな顔をしていただろうか。少なくとも楽しそうな顔ではなかったのだろう、その自覚くらいは、あった。ただ静かに、「楽しかったのに、楽しくない」とだけ言ってみる。清々しく笑ったタイラが、「難儀だな」とコメントした。
「いつかは終わるものだから。そうでしょ。いつかは終わるものだし、身に余るものは、いつか余った分が良くないことに形を変えて戻ってくるんでしょ」
「関係ねえよ」
驚くほど簡単に、タイラは言う。懐から出した携帯灰皿に煙草を押し付けながら、目を伏せた。
「今の幸せと、いつかどっかの不幸。関係ねえもんだよ。『幸せすぎて浮かれていたらトラックに轢かれた』ってのは道理だ。だけどな、『今日は不幸ポイントが足りてないからそろそろトラックに轢かれる』なんてことがあるか? ……ないんだよ、そう上手くできてないんだ。お前の言う、『いいことがあったから悪いことがある』ってのは神のいない宗教だ。それを俺は否定しないが、生きづらくなるだけならやめておけ。お前自身がそう望まない限り、今日幸福だから明日不幸せにならなければならない、なんて制約はない」
携帯灰皿を懐にしまった後で、タイラはカツトシの額を思いきり指で弾く。痛みに悶えるカツトシを見下ろして、「……しんどい」と呟いた。「は?」とカツトシが睨めば、再度「幸せすぎてしんどい」とタイラは真顔で言う。
「なに、それ」
「お前の憂鬱なんて、そんな言葉で充分だよ。幸せなのにつらいんじゃない、幸せなことがつらいんだろ。贅沢だぞ、それはお前。ほら、言ってみろ」
「『幸せすぎて、しんどい』……幸せすぎてしんどい」
しばらく考えていたカツトシだったが、「ふふん」と言って笑った。どうやら、言葉の響きは気に入ったようだ。それから思い切り伸びをして、もうすっかり青くなった空を見る。
「あー、楽しかった!」
ゆっくりとタイラが背を向けて、その場に干されていた麦藁帽をカツトシの頭に無造作に被せた。「上出来だ」と薄く笑いながら。
☮☮☮
荷物をまとめてロビーに立ち、仲間たちはチェックアウトを済ませるタイラを待った。ユメノは物惜し気に外の海を見る。今日も穏やかに波を立てていた。そんなユメノに、若い女性のスタッフが声をかける。
「お写真、いかがですか」
「写真?」
そういえば、カメラを持ってきていたのだった。「ご家族も」とスタッフは微笑む。ユメノは少し顔を赤くして、断ろうとあたふたする。不意に、隣に立った都が「そうね」と呟いた。
「お願いできるかしら」
「もちろん」
驚いて見上げるユメノに、都は恥ずかしそうにしながらも「せっかくだから」と笑う。
それが、嬉しくて。なんだかひどく嬉しくて、ユメノはぎゅっと拳を握った。
ノゾムとカツトシが顔を見合わせて「写真ですって」「全員で撮るのかしら」と言い合っている。実結はなんだかわからない顔で、うんうんと何度もうなづいていた。タイラが、戻ってくる。
「写真を撮ってもらうことになったのだけど」
「ん? 写真なら俺が撮ってやるよ」
「あなたもうつるのよ」
「俺、写真にうつるのかな」
そんな軽口を叩くタイラに、「うつります」と都はきっぱり言った。ただ一人、ノゾムだけが難色を示している。どうやらただ照れくさいだけのようだが、カツトシに説得されても乗り気にはならない。ユウキが膨れ面で、「写真があればみんなにじまんできます」と後押しした。それでもノゾムは、ため息まじりに「先輩、写真なんて心のシャッターを切ればいい話ですよね」と諦め悪く言っている。
「どっちでもいいが」
「あんたがそんなんだから……」
「じゃあ、お前だけ後で加工してやるよ。修学旅行欠席したやつみたいに」
「うつります」
一行は早速外に出て、海を背に並んだ。今日は風もそう強くはない。カメラを構えたスタッフが、「もうちょっと寄ってくださーい」と叫ぶ。思い思いに距離を詰めながら待つと、「やっぱり入らないですね、もう少し近づけますかー? 恥ずかしがらずにー」とまた声をかけられた。仕方なく、背の低いユメノとノゾム、ユウキが少し前へ出る。
「いいですよー。もうちょっとですね」
「まだですかー?」
仲間たちが当惑していると、真ん中に立っていたタイラがいきなり両端のカツトシと都の肩をぐっと抱き寄せた。驚いた2人が慌てて中心に寄り、前に立っていたユメノたちに密着する。
「いいですよー! はい、チーズ!」
パシャ、と光が瞬いた。2度、3度、同じようにシャッターが押される。タイラがそっと仲間たちから離れた。スタッフのところへ歩いていき、「世話になったな」と言いながらカメラを回収する。
「では、またのお越しを」
「ありがとう。いいホテルだったよ、ってオーナーにも言っとく」
仲間たちも、口々に『お世話になりました』と言った。可愛いだろ、とタイラはスタッフに耳打ちする。スタッフは微笑とも苦笑とも取れる表情で、うなづいた。
車に乗り込んで、タイラはエンジンをかける。帰るか、と言った声は当たり前のように静かだ。
「とっても楽しかったわ」
「あーもう帰るんだ、残念」
「案外、外に出るのもいいもんっすよね」
「あんたは外に出なさすぎなのよ、そろそろニートも卒業しなさいよね」
「あれー、学校、いつからでしたっけ?」
「ミユ、またプールはいりたかった」
それぞれバラバラのことを言いながら、車に乗り込む。後部座席に座ったユメノが、後ろからタイラに「また来ようね」とせがんだ。タイラは何も言わずにゆっくりとハンドルを切る。
波音の間に聞こえてくる鼻歌は、いつものブルース。すっかり覚えた仲間たちが、海を見ながら口ずさんだ。なぜだかその曲を聴いてしまえば、あの街の住処も懐かしく感じられて。残念な気持ちもひと欠片、早く帰りたい気持ちもひと欠片。ゆっくりと、車は海沿いを走っていった。
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