episode22 雨の美しさは残酷さと似て
「写真うつり最高に悪いわね、あいつ」
率直にそう言いながら、瀬戸麗美は写真をぽんと都に手渡した。受け取りながら「ありがとう」と都が微笑する。写真の現像を麗美に依頼したのはユメノだ。以前、(勝手に撮られた写真ではあるが)麗美に写真を現像してもらったのを覚えていたからである。ユメノといえば、都の手元の写真を見て「うわほんとだ」とはしゃいでいた。
「あんたたちねえ、麗美さまは写真屋じゃないんだからね。しかもタダだし」
「でもタイラが写ってるって言ったらやるって言ってくれたじゃん」
「……しっかりバックアップは取ったから。これで、あいつが指名手配になったとしても安心よ。写真付きで情報提供できるー」
思わず、都は苦笑する。素直じゃないというか、いっそ清々しく強がりだ。「これで情報提供になりますかね」とノゾムが腕を組む。カツトシも、「誰だかわからないわよ、これ」と眉をひそめた。
1枚目の写真は、都とカツトシの陰に隠れてしまってタイラの姿は全く見えない。2枚目では、やはり都とカツトシの肩を抱き寄せたタイラのピースサインが見えるだけだ。
「3枚目は顔が出てるよ」
「めっちゃ目つぶっちゃってるじゃないですか、あの人ちゃんと写真撮れたことないんじゃないの」
そんなわけないでしょ、と呆れ気味に麗美は言う。しかしハッとした様子で、「昔から写真うつりは悪かったわ、確かに」と呟いた。もちろん、仲間たちが食いつかないはずもなく。仕方なさそうに麗美は肩をすくめた。
「写真うつりっていうか、いっつもタイミングが悪いのよね。あ、今度卒業アルバム持ってきてあげましょうか? 平和一に関していえば、1つもカメラ目線でちゃんと撮れた写真なんかないから。そうね……アップルパイと美味しい紅茶があれば、手を打つけど?」
すぐさまカツトシが「任せて」と拳を握る。交渉成立である。
☮☮☮
缶ジュースを開けながら、「それで?」とタイラは横目で若松を見る。「それで、とは」なんてとぼけた様子で若松は目を細めた。
「プレゼントは受け取ってくれたんだろ」
「ああ、ああ。そうだね。ありがとう、助かった」
「それだけかぁ?」
「まさか興味があるのかい、君が、終わったことなんかに」
缶に口をつけ煽ってから、タイラが目を閉じる。「……すっとぼけるのもいい加減にしろよ、オーナー」と低い声で呟いた。うん? と若松はそれでも涼しい顔だ。
「終わった話と、あんたそんな意味のない嘘をつくのか」
「違うのかい? 君が何を言っているかわからないな」
「なら、あのおっさんは何だ。売人のおっさんは、あれからどうなったんだ」
少し前屈みになり、若松は笑いながらタイラの顔を覗き込む。目だけで、『どこまで知っている?』と問うた。自分の横に缶を置きながら、タイラが瞬きを返す。
「あのスタッフの小僧は、ただの仲介だろう。実際の売人はおっさんだ。売人と客の間を、スタッフ面した小僧が忙しく歩き回っていた。そんなことが、関係者じゃなけりゃできるもんか。あんた、どこまで関わってる」
「おっと、そう疑われるのは心外だ。私と君の仲だからここまでは許そう。しかし、それ以上の侮辱であれば聞けないな」
「……なるほど見解の相違がある、な。じゃあすり合わせをしようぜ」
肩をすくめ、若松は「いいだろう」と頷いた。それから手振りだけで、タイラの話を促す。
「……俺の話が必要か? 代永って男のことから言っておいたほうがいいのかね」
「ああ、あの困ったナンパ男くんだね? 彼にもかなり手を焼いていてね、スタッフにちょっかいをかけているうちはよかったんだが、まったくお客様にも迷惑がかかるようになったもので、何とかしようとは思っていたんだが。何せ彼もお得意様だったからねえ」
「あんたは客を選ぶものと思っていたが」
「私は、そうだ。こちらはサービスを提供し、あちらが対価を支払う。その点でビジネスというものは対等だからね。客が店を選ぶ自由があるように、店だって客を選ぶ自由がある。まあ、あのホテルは私の所有物だが放任気味でね。お恥ずかしながら、ナンパ男くん1人対処せずにいた」
しかし、と言いながら若松はこらえきれなくなったように笑った。「あの怖いもの知らずのナンパ師が、すっかり大人しくなってしまって。一体何をしたのかな、タイラ」と心底可笑しそうにタイラの腕を肘でつつく。「何って」とタイラは煩わしそうにそれをかわした。「教えてやろうか?」と言われて初めて、若松は真顔になる。「冗談じゃないか」なんて不満そうに言いながら。
「代永って男に聞いたのは3つだ。地下のカジノでドラッグの売買取引があること、その取引の手助けを頼まれたこと、自分がやる予定のこと。『面白そうだからやってやろうと思ったけど、あんたに譲る』と言われたんでな。まあ、殊勝にもぶち壊しに行ってやったんだよ」
「代永くんの役割を詳しく教えてくれるかな」
「簡単な話だよ、誰にでもできることだ。まず、あの非常階段横でスタッフの制服を着たまま待機をし、カジノ客の荷物を預かる。その荷物に、言われた通り薬を入れて言われた通りの部屋に運ぶだけだ」
しばらく腕を組んで考えていた様子の若松が、「なるほど」とだけ呟いてうなづいた。それから「この件、本当に恥ずかしい話だが、私たちにあずかり知らないところだった」と若松は言う。「本当かぁ?」とタイラが疑いの目を向けた。
「それなら、」
「それなら?」
「なぜ、最初に助力を求められたのが代永だった」
そう問われた若松は、顎に手を当てて少し笑う。目を細めて、「そこだよ、そうだ、そこなんだよ」と若松は何度もうなづいた。
「あのナンパ男くんには困っていたからね、スタッフの大半は彼の顔を知っていた。彼がスタッフの制服なんかを着て歩き回っていたら、それだけでスタッフたちは不審に思って声をかけただろう」
「ああ……スタッフ全員がグルじゃなけりゃな」
「それで、君は私のことを疑っているわけだ? そう指示をしたのは私だと。しかし考えてもみてほしい。スタッフ全員がそう仕向けたのであれば、それこそ代永くんなどは必要ないんだ。むしろあのホテルでやる意味も、あまりない」
「意味はあるだろ、最終的には代永って男に全て被らせて逃げることができる」
「なるほどなるほど。しかしそれにしたって、別に代永くんでなくてもいいはずだろう。彼はスタッフだけではない、お客様にまで手を出していたのだから、やはり制服姿で歩かせるのはリスクが高すぎる。そう思わないか」
頬杖をついたタイラが、瞬きをして「じゃあ、あんたもスタッフも、この件を知らなかったとしよう」とようやく認めた。若松は少し遠い目をして、「正確には、1人のスタッフ以外は、だけどもね」とつけ加える。
「君が捕まえた、例のスタッフだ」
「あのスタッフ姿をしたガキか?」
「あの青年の名前は堀口というんだが、彼も正真正銘あのホテルのスタッフだ。スタッフ姿のというよりは、スタッフの堀口くんだ」
「あれ、本物のスタッフだったのか。可愛いバカだったが」
ふふ、と笑った若松は「可愛いおバカさんだ、くわえて貧乏だ」と柔らかく肯定した。
「もちろんあの青年に、薬を用意するような人脈も金もない」
「それは俺も思ったよ」
「堀口くんの話をしよう。彼の今までの経歴や多難な人生を語るつもりはないが、とにかく彼は金に困っていた」
「のっけからかよ」
「うちのホテルも、決して安くはない賃金を出しているはずなんだけどねえ。まあ、そんな堀口くんのところに、美味しい話が舞い込んできたわけだ」
楽しそうに身振り手振りで、若松は話し始める。まとめると、こうだ。
『薬の売人に、「絶対に儲かる」と売人の仕事を紹介された』『しかし売人をやるには薬を一旦自分で買い取らなければならなかったが、そんな金はどこにもなかった』『そこで、自らの職場での即売会を提案された』『買ったその場で売りさばくのなら、代金はすべて売れてからで構わない』『上手くいくやり方なら一緒に考えてやると言われ、ほとんど任せた』とのことである。
「……利用されてるじゃねえか」
「そうなんだ。堀口くんも、彼に助力を求められたという代永くんも、ころっと転がされただけだ」
「誰にだ? 捕まえておいてなんだが、正直に言ってあの売人のおっさんだってそこまでの判断力はなさそうだったぞ」
片手で空き缶を潰すタイラに、若松はどこか億劫そうに目を細めた。もう春も終わったんだね、なんて関係のないことを言ってため息を吐く。ごまかしているのではなく、若松なりの『閑話休題』といったところだろう。「この時期は忙しいんじゃないか」と、タイラも話を合わせて尋ねた。
湿気を多分に含んだ風が吹く。若松の言う通り、春という季節は終わりを迎えているようだ。これからは夏の予感をさせながら、すぐに梅雨が来る。
やがて、若松は口を開いた。
「タイラ、宗教というものをどう思うね」
煙草をくわえて火をつけるところだったタイラは、「はあ?」と聞き返す。いやなに、と若松は苦笑した。
「薬と宗教は似ているだろう。信仰は人を救うけれど、時折どうしようもなく人を堕落させるものだ。人を救わんと作られた薬も、時々は人を死なせるだろう」
「あのおっさん、死んだのか?」
「もともと薬をやっていたんだろう、移動中の車内で中毒死だった。まったく、立派な殉教だったとも」
今度こそ煙草に火をつけて、タイラはゆっくりと煙を吐き出す。またそんな安い煙草を、と若松が冷やかした。雨が降り出しそうな曇り空に溶けてゆく、煙草の煙と理由のない憂鬱。そんなものも、全て冷やかすような声色だった。
「想像してみようか」といきなり若松がまじめな顔をする。
「たとえば、君たちが何の関与もしなかったら、という話だ」
「イフの話か? あまり得意ではないな」
「まあ、そう言わないでくれ。予定通り代永くんが薬を運ぶ仕事を全うしていたとして。上手くいくとは到底考えられない。スタッフが声をかけ、恐らく事は露呈していただろう」
「あの口の軽さじゃそうだろうな」
「そうして、カジノで行われている取引のことをスタッフが知ったとする。であれば、スタッフたちはどうしたろうか」
「あんたに報告するんじゃないか? その取引をやめさせる前に、一応は」
「そうだ、報告をする。しかし、恐らく私にではない。あのホテルにだって
風が吹けば桶屋が儲かる、とタイラはぼんやりと聞きながら茶化した。別段気を悪くした様子もなく、若松は続ける。
「大幅な時間のロスだ。そうこうしているうちに、かの中年男性が中毒で泡を吹いて倒れたとする。善良なスタッフたちは、まあ救急車でも呼ぶだろう」
「さすがにそこで、指示待ちをする馬鹿はいねえか」
「人間として当前のことだ。そうして事は公になる……と。そうじゃなくても、どうにかあの中年男性――――ひいては彼に指示を出した何者かは、この件を公にしたかったようだ」
「あんたにとっては大打撃だな」
「……目的がそれであったのだろうからね」
「つまり取引自体、失敗することこそが成功であったと?」
若松は神妙にうなづき、そして親しげな目をタイラに向けた。しかしそうはならなかった、とどこか昔話でも読むように言う。
「結局、彼が泡を吹いたのは私の車の中だったわけだ。事は大きくなりすぎず、あの日ドラッグを買いに来た客まで含めて『突然の乱入者によって興がそがれただけ、双方被害者だった』という結論に落ち着いた」
「あれ、それ俺が一方的に加害者扱いされてませんかね」
「今更そんなことを気にする君ではあるまいと思って」
「思って、じゃねえよ」
呆れてため息をついたタイラに、若松は「いやすまない」と笑って見せた。「謝って済むなら警察いらない」と肩をすくめたタイラに対し、「宝木くんが来るぞ」と若松が脅す。タイラはタイラで、「やべっ」と言いながら周囲を見渡した。けらけらと、若松が笑う。
「それにしてもあんた、随分恨みを買ってるんだな」
「否定はしないが、しかし今回は私への嫌がらせではないだろうよ。これはもっと……もっと打算的な話だ」
「打算?」
「街1つ買いたがっていた人間がいるだろう」
途端に眉をひそめたタイラが、「あの女か? 由良の女房だった」と静かに問うた。
荒木由良。かつてアラキグループの2代目と担ぎ上げられておきながら権力を嫌い、実の父たるアラキ会長に消された男だ。荒木章の父である。荒木由良とその嫁は、ほとんど政略結婚であった。海の外で大事に大事に育てられた裏社会の箱入り娘は、荒木家に嫁ぎ、したいままに街を1つ買おうとしたのだ。そうして街中の反感を買い、大人しく
そうだとも違うともいわずに「彼女の理想はそれだった」とだけ若松は呟く。
「今もか?」
「それは私にもわからんよ」
「こんな街を、わざわざ故郷に帰っても狙ってるってのか」
「わからん。わからんけれども、ね」
そう言って若松は一瞬だけ目を閉じた。それからようやく口を開いて、「君たちがホテルに行っている間、私と章くんは例の宗教団体と接触を試みた」と簡単そうに言う。タイラが、腕を組みながら「タイタンだっけ?」と確認した。
「ピンインだ。あの組織には私たちもほとほと困っていてね。何せ、信仰と薬を武器にした宗教団体は広がるのが早い。そこで、一応はビジネスの話を持ちかけてみたのさ」
「ビジネス? 宗教家に?」
「まあ、結論だけ言うと話も聞いてもらえなかったよ。同じ神を信じる者の言うことしか聞かないんだそうだ」
少々驚いたように、「本気で宗教なんかを信じてるのか?」とタイラは尋ねる。私に聞いているのかい、と茶化すように若松は言った。タイラが肩をすくめて、先を促す。
「しかし、話を聞いていてわかったことがある。彼らの『神』の定義はひどく曖昧だ。あの団体には先導者がいるらしいが、その先導者の言う『神』を崇めている教徒もいれば、その先導者たる女性をそのまま『神』と呼んでいる教徒もいる」
「宗教にはありがちな話だ。……女?」
「そうだ、かの宗教団体の先導者は女だ。今回、話を聞いての収穫はそれくらいだね」
タイラは目を細め、煙草を空き缶の中で押しつぶした。
「それが、
「もともと彼女の所有物から派生したような小さな組織だ。彼女が指揮を執っていても何らおかしくはあるまい?」
「何のためにだ。何のために、こんな街に固執する」
「わからないのか? そうか、わからないのか」
ふふ、と笑った若松がからかいの表情を浮かべる。「愛だよ」とだけ言って、自分の襟を直した。
「アイ?」
「そうとも。全て仮定の話だが、それでも彼女のやることであれば合点がいく。かつて荒木グループに迎え入れられた彼女は、荒木由良の妻であった彼女は、そして章くんの母親たる彼女は、愛する者以外眼中にない。それ以外は、虫ケラ同然だ」
私も虫ケラだ、と楽しそうに言う若松に、「つまりホテルのこともあの女の指示したことだと思ってるのか?」とタイラは肩をすくめる。若松は動きを止め、どこか苦い顔をしながら返事を渋った。
「いや……あの駒の使い捨て方を見ると、そうであってほしくない気持ちはあるけれどね」
「あの女なら使い捨てるだろ、あのヒステリックさなら」
苦笑して、若松は黙る。それからそそくさとジャケットの埃を払いながら踵を返した。「もう行くのか」と声をかけたタイラに、一度だけ振り向く。
「タイラ、彼女の名前を憶えているかね」
「名前?」
「メイユイだ。美しい雨と書いて、
それがなんだ、という顔をしていたタイラが、ハッとして空を見た。ぽつぽつと、重い雲から大粒の雨が落ちてくる。
若松も、空を見上げていた。あっという間にバケツをひっくり返したような雨が、アスファルトを染め上げる。濡れるのを気にすることもなく、若松はゆるゆると頭を振った。いやまったく、と独り言のように呟く。
「雨の美しい季節になるね」と。
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